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――俺が見てるの、誰だと思ってる。

凪は、赤いリボンを握ったまま、しばらく動けなかった。悠真の言葉が、胸の奥で何度も響いている。――俺が見てるの、誰だと思ってる。その意味を、考えようとする。でも。考えるほど、怖くなる。もし。もし違ったら。期待した瞬間に、全部崩れてしまう気がした。凪は、小さく首を振る。「……違うよ。」声が、少し震える。悠真の目が、わずかに細くなる。「何が。」凪は、視線を落とす。廊下の床に、夕方の光が伸びている。「悠真は。」言葉が、少しずつ形になる。「やさしいから。」「わたしが落ち込んでると思って、そう言ってるだけ。」そう言いながら、胸の奥が痛む。本当は。違う答えを聞きたい。でも。聞いたら、もう戻れない。凪は、そっと言う。「だから。」その言葉が、出かかる。――わたし、少し距離を。その瞬間。「凪。」悠真の声が、少し強くなる。凪は顔を上げる。悠真は、真剣な顔をしていた。「勝手に決めるな。」その言葉が、まっすぐ胸に届く。「俺の気持ち、聞いてからにしろよ。」廊下の空気が、静かに止まる。凪の心が、大きく揺れる。聞いてしまったら。この恋は、もう後戻りできなくなる。凪は、息を吸う。そして。ゆっくり口を開こうとする。そのとき。階段のほうから、明るい声が聞こえた。「悠真!」二人が、同時に振り向く。陽菜だった。友達と笑いながら、階段を上ってくる。夕方の光の中で、その笑顔は、やっぱり明るかった。凪の胸が、きゅっと締まる。さっきまでの言葉が、急に遠くなる。悠真は、一瞬だけ凪を見る。凪は、小さく笑う。そして。一歩、後ろに下がる。その動きは、とても小さかった。でも。凪の心の中では、何かが静かに決まりかけていた。
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……わたしさ。……でもね。

凪は、赤いリボンをぎゅっと握ったまま、顔を上げた。悠真は、逃げない。まっすぐこちらを見ている。夕方の光が、廊下に長くのびる。凪は、ゆっくり言葉を探す。「……わたしさ。」声が、少しだけ小さい。でも、止めない。「悠真といると、楽しいよ。」悠真の目が、少しやわらぐ。「でもね。」凪は、窓の外を見る。グラウンドは、もうほとんど人がいない。その向こうに、陽菜の笑顔が、まだ頭に残っている。「陽菜って、すごいよね。」悠真の眉が、少し動く。凪は続ける。「明るいし。」「誰とでも自然に話せるし。」「……ああいう人、好きになると思う。」言いながら、胸の奥が、きゅっと痛む。でも。ここで言わないと、きっと、ずっと言えない。凪は、小さく笑う。「だからさ。」言葉が、もうすぐ出る。――わたしは。その瞬間。悠真が、ふっと息を吐く。「凪。」その声は、さっきより低い。「それ。」凪は、顔を上げる。悠真は、少し困ったように笑う。「全部、凪が決めてるだけだろ。」その言葉に、凪の心が、大きく揺れる。「俺、そんなこと一回も言ってない。」廊下に、静かな空気が流れる。凪の胸が、強く鳴る。まさか。そんなこと、考えてもいなかった。悠真は、少しだけ近づく。そして、静かに言う。「凪。」その目は、まっすぐだった。「俺が見てるの、誰だと思ってる。」その言葉が、凪の胸に、静かに落ちる。そして、凪の心は、また大きく揺れ始める。
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心だけが、まだ教室に残っていた

廊下から、陽菜の声が響く。「ゆうまー、はやく!」明るい声。移動は、もう始まっている。凪は席の横で立ち尽くしていた。鞄は持っているのに、足が動かない。悠真は一度、廊下へ出かけた。でも。凪がまだ教室にいることに気づいて、足を止めた。陽菜の声が、少しだけ近づく。「ゆうま?」間が生まれる。その“間”が、痛い。悠真は、ゆっくり教室に戻る。ドアの影が、少し揺れる。「……凪。」低い声。凪は振り向かない。振り向いたら、決めなきゃいけない気がする。触れない距離で、立ち止まる。手は伸びない。「昨日のこと。」凪の指が、鞄を強く握る。「ちゃんとするって言ったけど。」その言葉は、まだ曖昧なまま。逃げない。でも、何から?「凪がいなくなるのは、嫌だ。」はっきりした告白じゃない。でも、十分に重い。凪は、やっと振り向く。目が合う。近い。でも、触れない。廊下に、足音。陽菜が少し顔をのぞかせる。「もう行こ?遅れちゃうよ。」変わらない笑顔。凪は、小さく息を吸う。「……ちゃんとして。」昨日と同じ言葉。でも意味は違う。“曖昧にしないで。”悠真は、わずかにうなずく。凪は先に歩き出す。悠真の横をすり抜ける。触れないまま。赤いリボンが、やわらかく揺れる。ほどけない。まだ、ほどけない。廊下に出る。三人で歩く。並んでいるのに、均等じゃない距離。移動は続いている。でも。心だけが、まだ教室に残っていた。
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女の子、とっかえひっかえしてるみたいに見えるよ

翌日の放課後。教室の空気が、どこかざらついていた。悠真が席を立った瞬間、女子のひとりが、ふいに言った。「ねえ、ちょっとさ。」教室の視線が、ゆっくり集まる。「どういうつもりなの?」笑ってはいなかった。「陽菜とも帰ってるよね? 凪とも帰ってるよね?」空気が固まる。「女の子、とっかえひっかえしてるみたいに見えるよ。」ざわ、と小さな波。男子が軽く茶化す。「ひがむなよ。」笑いが起こる。でも、悠真は笑わなかった。ただ、一瞬だけ目を伏せた。その顔を、凪は見た。傷ついた顔だった。弁解も、反論も、しない。「そんなつもりじゃない」その一言さえ、飲み込んだ。凪の胸が、強く締めつけられる。“わたしのせいかもしれない”その考えが、頭を離れない。好きでいることが、悠真を追い詰めるなら。一緒に帰った時間が、彼を責める材料になるなら。わたしは——いないほうが、いいのかな。窓の外では、夕焼けが沈みかけている。悠真は静かに教室を出た。凪は、立ち上がれなかった。好きなのに。好きだから。動けない。それがいちばん苦しい。教室に残った夕陽が、赤いリボンを、やわらかく照らしていた。まるで、ほどけそうな糸みたいに。
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好きな気持ちは、簡単に消えてくれない

放課後の教室は、まだ少しだけざわついていた。凪は机の中を整えながら、無意識に悠真の方を見てしまう。悠真は、窓際で男子と話していた。笑っている。楽しそうに。(……あんな顔、最近見てなかったかも)胸の奥が、ちくっと痛む。凪は視線を落とし、カバンの持ち手をぎゅっと握った。(今日は、一緒に帰らない方がいいかな)そんな考えが浮かんでは、消える。決められないまま、時間だけが過ぎていく。「凪」不意に名前を呼ばれて、心臓が跳ねた。振り返ると、悠真が立っていた。「先、帰る?」その問いかけは、やさしいのに、どこか他人行儀で。「……うん」凪は少し迷ってから、うなずいた。悠真は一瞬、何か言いたそうにしたけれど、結局、軽く笑った。「じゃあ、気をつけて」その笑顔が、今日いちばん胸に刺さった。凪は教室を出る。廊下を歩きながら、後ろを振り返りたくなる衝動を、必死に抑える。(私が離れた方が、楽なのかな)自分に言い聞かせるように、そう思おうとする。昇降口で靴を履き替え、外に出ると、冷たい空気が頬に触れた。夕方の空は、もうすっかり色を失いかけている。(今日は……ひとりだ)それだけのことなのに、足取りが重い。帰り道、ふと立ち止まる。以前、悠真と並んで歩いた場所。笑ったこと。何気ない会話。肩が触れそうになって、慌てたこと。全部、まだ近くにあるのに、もう戻れない気がしてしまう。「……ばかだな」小さくつぶやいて、凪は歩き出した。好きな気持ちは、簡単に消えてくれない。だからこそ、この距離が、こんなにも苦しい。夕暮れは、何も言わずに沈んでいく。凪の胸の中だけが、取り残されたままだった。
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ずっと飲み込んでいた言葉が、 今、ここで出てきた

家の前まで来て、凪はバッグから鍵を取り出した。そのとき。スマートフォンが、もう一度震える。今度は短く、はっきり。胸が一瞬、跳ねる。画面を見る。——悠真。さっきの優しい一行とは違う。ごめん。さっき言わなかったけど…今日、凪と一緒にいられて嬉しかった。凪の指が、止まる。夜の音が、すっと遠のく。——言わなかった、って。橋でも。カフェでも。駅前でも。ずっと飲み込んでいた言葉が、今、ここで出てきた。胸の奥が、熱くなる。嬉しい。でも、それ以上に——「どうして今?」という気持ちが混ざる。返事を書こうとして、止まる。また消す。画面に映る文字が揺れる。私も楽しかったそれだけじゃ足りない。ありがとうそれも違う。——本当は。“嬉しかった”って言われたことが、こんなにも嬉しい。しばらくして、凪はゆっくり打つ。……私も。だから、また行こう。送信。すぐには既読がつかない。夜は静かに戻る。でも凪は分かっていた。今日のこの一通で、もう「静かなまま」ではいられなくなったことを。恋は、はっきり一歩進んでしまった。
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これって、――夕方のせい?

風が、急に強く吹いた。凪の髪が揺れて、その一房が、悠真の肩に触れた。一瞬本当に、一瞬だけ。悠真の指が、手すりから離れそうになる。凪は、息を止めた。(今、もし――)でも、悠真は触れなかった。代わりに、少しだけ距離を詰めて、凪の前に立つ。逃げ道を塞ぐほどじゃない。でも、戻れないくらいの近さ。夕焼けの中で、悠真が、低く言う。「……なあ」それだけ。名前も、理由も、続きの言葉もない。なのに、凪の胸は、やけにうるさかった。吊り橋の上に立たされたみたいに、足元が、不確かになる。(これって、――夕方のせい?  それとも……)次の瞬間、悠真が一歩、近づく。もう一歩で、触れてしまう距離。凪は、逃げなかった。「……寒くない?」悠真の声は、思ったより近くから聞こえた。凪は、少し遅れて首を振る。「大丈夫」本当は、寒さじゃない別のもので、指先が冷えていた。夕方の光は、もう背中を押すというより、逃げ道をふさいでいるみたいだった。悠真が、視線を逸らす。その仕草に、凪の胸が、きゅっと縮む。(言うの?言わないの?)期待してはいけない、と何度も自分に言い聞かせてきたのに。沈黙が、耐えきれないほど長くなる。そのとき――遠くで、自転車のベルが鳴った。現実が、二人の間に割り込む。悠真は、一歩だけ下がる。それだけで、世界が少し遠くなる。「……もう暗くなるな」他愛ない一言。でも、凪は気づいていた。今、何かが始まりかけて、そして――止まったことに。吊り橋は、まだ渡りきっていない。揺れたまま、次の一歩を残したまま。それが、今の二人だった。
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“あんな奴”より、俺がおまえを守る

翌朝、教室の空気はいつもと違っていた。ざわついている。明らかに“誰かの話”をしている気配。凪が教室に足を踏み入れた瞬間、クラス中の視線が一斉に集まった。(……え?)ざわ…ざわ……「ねぇ、あれ、ほんと?」「凪ってさ、昨日、告白されたんだって」「相手、あの人気の三條くんらしいよ」「しかも凪が泣いてたの、 アイツのせいじゃなくて、 嬉し泣きだったとか?」(……ちが……)全部、違う。でも否定する言葉が、喉に詰まって出てこない。そこへ、当の本人――学校一の人気者 三條 輝(しょうじょう ひかる) が凪の前に現れる。「凪、昨日の話……ちゃんと返事、 聞かせてほしいんだ」クラス中が固まった。(昨日の話……? え、返事?)全員の視線が凪に突き刺さる。凪は混乱したまま、か細い声で言った。「ちょ、ちょっと待って…… 何の話……?」三條は一歩近づき、声を落とす。「人前じゃ言いにくいか。…… でも俺は本気だよ。 “あんな奴”より、俺がおまえを守る。 泣かせたりしない」その言葉に――教室の空気が一瞬で凍った。(あんな……奴……?)その瞬間、誰よりも先に動いたのは――悠真だった。「……三條」声は低く、冷たく、教室全体を静かに震わせた。全員が一斉に振り返る。悠真の表情は、いつもの柔らかさは欠片もなく、ただ一つの感情がにじみ出ていた。怒り。そして、凪を守ろうとする意志。三條は挑発するように笑った。「お前が泣かせたんだろ?  少なくとも、周りはそう思ってる」「勝手に決めつけるな」悠真の声が教室中に響く。凪は、胸がぎゅっと締めつけられた。(違う……悠真は悪くない…… 私が何も言えなかっただけ……)でも声が出ない。
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俺が見てるの、誰だと思ってる。

陽菜の足音が、廊下に軽く響く。凪は、まだ動けずにいた。悠真の言葉が、胸の奥で何度も揺れている。――俺が見てるの、誰だと思ってる。その意味を、考えないようにしていた。考えたら。きっと、期待してしまうから。凪は、小さく息を吐く。そのとき。「悠真?」陽菜の声が、すぐ後ろで止まる。凪は振り向く。陽菜は、少し驚いた顔をしていた。「どうしたの?」その声は、いつもと同じ明るさだった。でも。その明るさが、凪の胸を少しだけ苦しくする。悠真が答える。「いや。」少し言葉を探す。「ちょっと話してただけ。」陽菜は、凪を見る。その視線は、やさしかった。「凪、顔赤いよ?」思わず、凪は視線を落とす。「え?」自分でも気づかなかった。悠真が、少しだけ笑う。「ほらな。」凪は、慌ててリボンを触る。「ち、違うよ。」でも。胸は、まだ強く鳴っている。陽菜は、二人を見比べる。そして、少しだけ首をかしげる。「なんか。」小さく笑う。「わたし、邪魔だった?」その言葉に、凪の心が、また揺れる。違う。邪魔なんかじゃない。むしろ。凪は、そっと思う。――わたしが。その言葉が、また胸の奥で形になりかける。でも。そのとき。悠真が、はっきり言う。「違う。」廊下の空気が、少し止まる。悠真は、凪を見たまま言う。「まだ、話終わってない。」その一言で、凪の心は、また大きく揺れ始める。夕方の光が、三人の影を、長く廊下に伸ばしていた。
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――逃げるなよ。……逃げてないよ。

廊下の窓から、やわらかな夕方の光が差し込んでいた。凪は、まだ立ち止まったままだった。悠真の言葉が、胸の奥で何度も響く。――逃げるなよ。その一言が、思っていたよりずっと重い。逃げているつもりなんて、なかった。ただ。どう考えても。陽菜のほうが、いいと思っただけ。凪は、小さく息を吐く。「……逃げてないよ。」そう言ったけれど、自分でも、声が少し震えているのがわかった。悠真は、何も言わない。ただ、凪を見ている。その視線が、苦しい。やさしいから。まっすぐだから。凪は、ゆっくり言葉を探す。「悠真はさ。」少しだけ笑う。でも、その笑顔はうまく作れない。「陽菜といると、楽しそうだよ。」悠真の眉が、少し動く。「見ててわかる。」凪は、窓の外を見る。校庭は、もう少しずつ暗くなり始めている。「陽菜は明るいし。」「誰とでも自然に話せるし。」「……みんな、好きになると思う。」そこまで言って、凪は言葉を止める。本当は、ここから先を言うつもりだった。――だから。わたしは。でも。その瞬間。悠真が、静かに言う。「それで?」凪は、少し驚いて顔を上げる。悠真の目は、まっすぐだった。「それで、凪はどうしたいの。」その問いに、凪の胸が大きく揺れる。どうしたいの。そんなこと。本当は、ずっと前から決まっている。でも。それを言ってしまったら、全部終わってしまう気がした。夕方の光が、赤いリボンを、やわらかく照らしている。凪は、そのリボンをぎゅっと握る。そして、ゆっくり息を吸う。――言わなきゃ。その言葉が、もうすぐ、口からこぼれそうだった。
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――どう考えても、陽菜のほうが・・・

廊下の窓から、夕方の光が長く差し込んでいた。教室の床に、細い光の線がのびている。凪は、その光の中をゆっくり歩く。さっき更衣室で見た自分の顔が、まだ頭に残っている。普通。それだけ。でも。悠真は、そんな自分のことをどう思っているんだろう。ふと、後ろから声がする。「凪。」振り向く。悠真だった。窓の光を背にして立っている。凪は、少しだけ笑う。「どうしたの?」悠真は、少し困ったような顔をする。「さっきから、なんか変だろ。」その言葉に、胸がきゅっとする。やっぱり。気づいている。凪は、少し目をそらす。「そんなことないよ。」でも、声は少しだけ弱い。悠真は、少しだけ近づく。廊下の光が、二人の間に落ちる。「ある。」はっきり言う。「凪、今日ずっと変だ。」凪は、何も言えない。言ったら、全部こぼれてしまいそうだった。好き。でも。それ以上に、胸の奥にある言葉。――どう考えても。陽菜のほうが。その瞬間、階段のほうから、女子の声が聞こえる。陽菜だった。友達と話しながら笑っている。その笑顔が、廊下にふっと広がる。凪は、そちらを見てしまう。そして、悠真も、同じ方向を見る。ほんの一瞬。でも、その一瞬が、凪の心を大きく揺らす。胸の奥で、何かがゆっくり決まっていく。――やっぱり。わたしは、その言葉が、もうすぐ口から出そうになっていた。でも、その前に、悠真が、静かに言う。「凪。」凪は、顔を上げる。悠真の目は、まっすぐだった。「逃げるなよ。」その一言で、凪の心は、また大きく揺れ始める。
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またあの言葉が浮かぶ

階段の前で、陽菜が立ち止まる。「やば、着替え遅れる。」陽菜は笑う。「先行くね!」返事を待たずに、軽く手を振る。「またあとでー。」そう言って、駆けていく。階段を下りる足音が、すぐに遠くなる。廊下に残るのは、凪と、悠真。急に静かになる。窓からの光が、床に落ちている。凪は、視線を落とす。さっきまで三人だった空気が、急に、狭くなる。悠真が言う。「凪。」その声は、さっきより少し低い。凪は顔を上げる。「……なに?」悠真は少し迷う。言うか、言わないか。そんな顔。それから、少しだけ笑う。「今日、元気ない?」凪の胸が、強く鳴る。気づいてほしくない。でも。気づいてほしかった。「そんなことないよ。」凪は言う。でも、声が、ほんの少しだけ揺れる。悠真は、そのまま凪を見る。真っ直ぐ。「凪ってさ。」言葉が止まる。凪は、少しだけ息を止める。「……なんでもない。」悠真は、そう言って笑う。その笑い方は、少しだけ、寂しそうだった。凪の胸の奥で、またあの言葉が浮かぶ。どう考えても。でも。もし。ほんの少しだけでも――違ったら。階段の向こうから、体育の笛の音が聞こえる。凪は、ゆっくり歩き出す。悠真も、隣を歩く。さっきまで半歩あった距離が、今は、ほんの少しだけ近くなっていた。
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胸の奥には、 まだ、冬のような空気が残っていた

凪は、ノートを閉じたまま、しばらく机を見つめていた。理科室の窓から入る光が、顕微鏡の金属の部分を静かに光らせている。「凪、行かないの?」陽菜が振り返る。「うん……今行く。」凪は、少し遅れて立ち上がる。悠真は、窓際の流しから戻ってきたところだった。ビーカーの水滴を軽く振りながら言う。「廊下、混む前に出ようぜ。」三人で理科室を出る。廊下には、昼の光がまっすぐ伸びていた。誰もまだ話さない。靴音だけが、廊下に響く。陽菜が先に口を開く。「さっきの細胞、すごかったね。」「うん。」悠真がうなずく。「思ったよりはっきり見えた。」二人の会話は、普通だ。いつも通り。凪も、そこにいる。でも。凪は、少しだけ後ろを歩いていた。半歩。ほんの半歩。それだけなのに。前に並ぶ二人の背中が、少し遠く感じる。悠真が、ふと振り返る。「凪?」目が合う。凪は、あわてて少し歩幅を上げる。「うん、大丈夫。」悠真は少し安心したように、また前を向く。そのとき。陽菜が、くすっと笑う。「悠真ってさ。」「なに?」「凪のこと、よく見てるよね。」一瞬、空気が止まる。悠真が、少し困った顔をする。「別に、普通だろ。」「そうかな?」陽菜は、いたずらっぽく笑う。凪は、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が、強く揺れる。でも。次の瞬間、陽菜は、あっさり続ける。「凪、しっかりしてるもんね。  班のまとめ役って感じ。」その言葉は、やさしくて、正しい。だからこそ。凪の胸に、静かに落ちる。まとめ役。頼れる人。それは、悪い言葉じゃない。でも。凪は、ふと思う。“それだけなのかな。”廊下の突き当たりに、階段が見えてくる。昼休みのざわめきが、遠くから聞こえる。悠真が言う。
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どう考えても・・・

理科室の空気は、少しだけやわらいでいた。器具はほとんど片づき、机の上には、まだ温度の残った実験の気配だけがある。陽菜は、最後のスポイトを棚に戻す。「これで全部かな。」そう言って振り返ると、悠真がうなずく。「たぶん。」そのやり取りは、特別なものじゃない。でも、どこか自然で、すっと空気に溶ける。凪はノートを閉じる。紙の擦れる音が、やけに小さく聞こえる。悠真がふと、凪を見る。「凪、まとめ助かった。」短い言葉。やさしい声。凪は、少しだけ顔を上げる。「うん。」それだけ返す。もっと何か言えた気がする。でも、言葉はそこまでだった。陽菜が笑う。「ほんと、凪って字きれいだよね。」まっすぐな言葉。悪気なんて、ひとつもない。それが、いちばん胸に残る。理科室の窓から、昼の光が入る。まだ、明るい。なのに。凪の胸の奥では、ゆっくりと影が伸びていく。どう考えても。その言葉が、また浮かぶ。どう考えても――陽菜のほうが、悠真の隣に似合う。そんな考えをしてしまう自分が、少し嫌になる。悠真が、もう一度だけ凪を見る。何か言いかけて、でも、やめる。その一瞬を、凪は見逃さなかった。気づいてほしいのか。それとも、気づかれたくないのか。自分でもわからない。理科室の時計が、静かに秒を刻んでいる。同じ机。同じ時間。なのに。凪の心だけが、ほんの少しだけ、遠くへ行き始めていた。まだ、誰も気づかない距離。でも。その距離は、確かに、ここにある。
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言えない言葉のほうが、ずっと多い。

理科室の空気は、まだ静かだった。水道の音が、奥のほうで小さく響く。悠真が、流し台でビーカーを洗っている。蛇口の水が、ガラスに当たってやさしく跳ねる。陽菜は、スポイトを一本ずつ水で流している。「これ、乾かすところどこだっけ?」「そこ。」悠真が顎で指す。ほんの少しの会話。自然な距離。凪は、ノートを閉じる。ページの中には、細胞の図。きれいに書けている。でも。その“きれい”は、誰の記憶にも残らない気がした。陽菜は、試験管を棚に戻す。動きが軽い。迷いがない。理科室の空気に、すっと溶けている。「今日の実験、面白かったね。」悠真が言う。「うん。」陽菜が笑う。「顕微鏡って、ずっと見てられる。」その笑顔は、明るい。でも派手じゃない。ただ、自然。凪は思う。どう考えても。陽菜のほうが――その言葉が、胸の奥でまた形になる。悠真が、ふと凪を見る。「凪、どうだった?」声はやさしい。ちゃんと、聞いてくれている。「……うん。」凪はうなずく。「面白かった。」それは、本当。でも。言えない言葉のほうが、ずっと多い。三人は、同じ机にいる。同じ時間。同じ実験。それなのに。凪の胸の奥では、少しずつ、何かが静かに崩れていく。理科室の窓から、やわらかい光が入る。昼の光。でも凪の中では、まだ名前のない小さな“たそがれ”が、ゆっくりと始まっていた。
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“ちゃんとする”って、どうすることなんだろう。

理科室の前には、すでに列ができていた。陽菜が振り向く。「はやく、遅れちゃうよ?」凪は、歩き出す。悠真は、その一歩後ろ。三人で、理科室へ入る。実験台は四人一組。班は、固定のまま。——昨日と同じ。凪はほっとする。少なくとも、今日は“偶然”に裏切られない。でも。顕微鏡を準備する間、陽菜は自然に悠真の隣に立つ。自然すぎる距離。凪は、向かい側に立つ。触れない距離。先生の声が響く。「今日は細胞分裂を観察します。」光が落ちる。理科室は、少し暗くなる。顕微鏡の光だけが、机を照らす。陽菜が、嬉しそうに言う。「見えた!すごい。」悠真が、のぞき込む。肩が、少しだけ触れそうになる。凪は、目を伏せる。逃げない、って言ったのに。逃げられない距離が、ここにある。ふいに。悠真が、顔を上げる。凪を見る。ほんの一瞬。言葉はない。でも。“ちゃんとする”って、どうすることなんだろう。凪は、自分の顕微鏡をのぞく。ピントを合わせる。細胞が、ゆっくり分かれていく。ひとつが、ふたつに。きれいに、分かれていく。胸の奥が、少しだけ痛む。分かれるって、こういうこと?理科室の静けさの中で、赤いリボンが、わずかに揺れた。ほどけない。まだ。
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期待させないでほしい。でも、気づいてほしい。

教室は、まだ笑い声の余韻を残していた。凪は自分の席に座ったまま、教科書を開いているふりをしていた。ページは、さっきから一度もめくられていない。奥で、悠真が笑う。その声だけが、やけに輪郭を持って耳に届く。こんなに遠かったっけ。距離は、教室の端と端。たったそれだけなのに。凪は、ペンを握り直した。指先に力が入る。目が合うときはある。廊下で、ふとした瞬間に。名前を呼ばれることも、増えた。でも。あの輪の中に、自分はいない。悠真が、誰かの肩を軽く叩く。自然な仕草。いつもの笑顔。その横顔を見ているだけで、胸の奥が少しずつ冷えていく。私、何を期待してるんだろう。好きになる前は、こんなことで苦しくならなかった。ただ同じクラスの男子。それだけだったのに。チャイムが鳴る。男子たちがばらけていく中、悠真がふとこちらを向いた。一瞬、目が合う。凪は、反射的に視線を落とした。呼ばれなかった。何も言われなかった。それだけなのに、何かを失ったような気持ちになる。帰り道。夕焼けはもう薄くて、空は灰色に近い。凪はひとりで歩く。足音が一定のリズムを刻む。スマホが震えた。画面には、悠真の名前。心臓が、跳ねる。『さっき元気なかった?』たったそれだけ。凪は立ち止まる。どうして。どうしてそんなこと、気づくの。苦しいままでいいと思っていたのに。期待させないでほしい。でも、気づいてほしい。矛盾が、胸の奥で絡まる。『べつに』短く打って、送信ボタンの上で指が止まる。ほんとは、違う。でも。長い文章を送る勇気はない。結局、そのまま送った。すぐに既読がつく。『そっか。ならいいけど』ならいいけど。その一言が、優しいのか、突き放しているのか分
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凪、最近ちょっと静かじゃない?

土曜日の教室は、どこか気が抜けている。授業は半分。空気も半分。凪は窓の外を見ていた。悠真は、少し離れた席で笑っている。陽菜の声も、混ざっている。それだけのこと。でも。胸の奥が、きゅっと狭くなる。「今日、帰る?」悠真の声。凪は、一瞬だけ目を伏せた。「……うん」並んで歩く。土曜の帰り道は、人が少ない。足音が、やけに響く。「昨日、ごめんね。」突然の言葉。凪の心臓が跳ねる。「寝落ちしてた。」軽く笑う悠真。悪気はない。わかってる。「ううん、大丈夫。」凪は、いつもの声を出す。でも。(大丈夫じゃなかった)その言葉は、喉の奥で消える。しばらく沈黙。夕方の空が、少しだけ曇る。「凪、最近ちょっと静かじゃない?」何気ない一言。でも、それが刺さる。“気づいてるんだ”でも。“わかってない”凪は、笑う。「そう?」それだけ。悠真は、それ以上踏み込まない。踏み込めない。踏み込む資格があるのか、わからないから。「じゃあ、また月曜。」月曜。たった二日なのに、遠い。「うん。」凪はうなずく。悠真は振り返らない。いつも通り。でも今日は、その背中が、少しだけ遠かった。帰り道。凪は、ポケットの中で拳を握る。“好き”が、こんなに静かに削れていくなんて。泣かない。叫ばない。でも、苦しい。空を見上げる。曇り空の向こうに、薄い光。“このまま、離れていくのかな。”初めて、その言葉が胸をよぎった。
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好きだから、 苦しい

凪は、部屋の灯りをつけないまま、スマホを握りしめていた。送った「私も」の文字が、画面の中で小さく光っている。既読は、まだつかない。(……寝ちゃったのかな)そう思った瞬間、胸の奥が、ひゅっと冷える。昨日も、今日も、「また話そう」と言ったのは悠真なのに。期待してしまう自分が、ばかみたいに思えてくる。時計の秒針が、静かに進む。部屋の中は、夕暮れから夜へと、ゆっくり色を変えていく。やがて——ピコン、と小さな通知音。心臓が跳ねる。『ごめん、さっき寝落ちしてた』その一文を見た瞬間、凪の呼吸が止まる。寝落ち。悪気はない。わかっている。でも。(私の「私も」は…… そのまま置いていかれたんだ)指先が、冷たくなる。続けて、もう一通。『最近ちょっと疲れててさ』言い訳ではない。正直な言葉。だからこそ、凪は何も責められない。「大丈夫だよ」そう打ちかけて、消す。本当は、「少しだけ寂しかった」そう言いたい。でも。重くなりたくない。迷惑になりたくない。凪は、深く息を吸う。『そっか。無理しないでね』それだけ送る。送信ボタンを押したあと、胸の奥に、じわっと熱が広がる。やさしい言葉を選んだのに、なぜか涙がにじむ。好きだから、優しくできる。でも。好きだから、苦しい。スマホを胸に抱き寄せて、凪は目を閉じる。暗い部屋の中、赤いリボンが、かすかに揺れた。この恋は、まだ終わっていない。けれど、凪の中で、何かが少しだけ、傷ついた夜だった。
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とても大切で、とてもこわい

空は、まだ薄くオレンジ色を残していた。でも、街灯がひとつ、またひとつと灯り始めている。凪と悠真は、言葉少なに並んで歩いていた。足音だけが、やけに大きく聞こえる。(さっきから……近い)肩が触れそうで、触れない距離。凪は意識しないふりをしながら、胸の高鳴りを抑えていた。「……今日さ」悠真が、前を向いたまま口を開く。その声だけで、凪の心臓が強く跳ねる。「陽菜に、ちょっと声かけられて」——その名前。一瞬、世界の音が遠のく。「放課後のこと、聞かれて」凪は歩く速さを変えないまま、静かに耳を澄ませた。(どういう意味で……?)聞きたい。でも、聞けない。悠真は少し考えるように間を置いてから、続けた。「……特に、深い意味はないから」その言葉に、ほっとした気持ちと、なぜか拭えない不安が同時に湧き上がる。(深い意味がない、って……)凪は小さく笑った。「そっか」それだけ。本当は、“どういう意味で?”“どんな顔で話したの?”“私のこと、話した?”聞きたいことは山ほどある。でも、どれも今のこの空気を壊しそうで。二人は、信号の前で立ち止まった。赤。車のライトが、ゆっくりと横切っていく。その光に照らされた悠真の横顔は、夕暮れと夜の境目みたいだった。(この人、何を考えてるんだろう)凪は、ふと怖くなる。自分だけが、先に不安になっている気がして。信号が青に変わる。歩き出す瞬間、悠真がふいに言った。「……凪はさ」名前を呼ばれて、胸がぎゅっと縮む。「俺と帰るの、嫌だった?」一瞬、言葉を失う。そんなふうに思っていたなんて。「ち、違うよ」凪は慌てて首を振る。「ただ……」その先が、言えない。期待してしまう自分が、怖かった。悠真
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恋は、やっぱり苦しい

帰り道、凪はマフラーに顔をうずめて歩いていた。吐く息が白く、すぐに夜に溶けていく。(今日は……私の番だったのに)そう思うたびに、胸の奥がひりっとする。悠真は少し前を歩いていた。並んでいるはずなのに、距離を感じる。「……寒いな」悠真が独り言みたいにつぶやく。凪は小さくうなずいた。「うん……寒いね」それだけ。本当は聞きたいことがたくさんあった。どうして約束の時間、少し遅れたのか。どうして、どこか上の空なのか。でも、どれも口にできない。(責めるみたいになるの、いやだな……)悠真は足を止めて、振り返った。「凪」呼ばれただけで、心臓が跳ねる。「今日はさ……」言いかけて、言葉が途切れる。その沈黙が、凪にはいちばんつらかった。「……ううん、大丈夫」凪は先に言ってしまう。「私、平気だから」平気じゃないのに。悠真は少し困った顔をした。「ごめん」その一言が、胸に落ちる。理由を聞きたい。でも、聞けない。凪はうつむいたまま、雪を踏みしめる。きゅっ、きゅっ、と小さな音。(この音だけ、覚えておこう)悠真と一緒に歩いた、この帰り道。何も起きなかったけど、何も起きなかったからこそ、忘れられない。別れ道で、悠真が立ち止まる。「……また、明日な」凪は顔を上げて、精一杯笑った。「うん。おやすみ」悠真の背中が遠ざかる。凪はしばらく、その場に立ち尽くしていた。(私、何を期待してたんだろう)胸の奥で、なにかが静かに崩れていく。でも、それでも。(それでも、好きなんだ)その気持ちだけは、雪みたいに消えてくれなかった。夜空を見上げると、細かい雪が、静かに舞い始めていた。凪はそっと目を閉じる。冷たい雪が、頬に触れる。恋は、やっぱ
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窓の外では、悠真と陽菜が並んで歩いていくのが見える

その夜、凪はなかなか眠れずにいた。天井を見つめながら、放課後の廊下での出来事を何度も思い返す。(明日は……悠真と陽菜ちゃん)自分の番は、その次。わかっているのに、胸の奥がじんわりと冷えていく。スマホを手に取るけれど、画面を開いては閉じるだけで、何も送れない。(応援するって言ったのに……)陽菜のまっすぐな瞳。迷いのない言葉。それに比べて、自分は・・・まだどこかで、逃げている気がした。翌日。授業中、凪は前の席の悠真の背中を見つめていた。シャープペンを動かす指。少しだけ緊張しているような肩。(今、何を考えてるんだろう……)休み時間になると、陽菜が迷いなく悠真のところへ行く。「放課後、忘れないでね」明るい声。悠真は少し照れたように、でもはっきりとうなずいた。「うん」その一瞬で、凪の胸がきゅっと締めつけられる。(約束したんだもんね……)誰も責められない。でも、苦しい。放課後。凪は教室に一人残っていた。窓の外では、悠真と陽菜が並んで歩いていくのが見える。楽しそうに話す陽菜。それを静かに聞く悠真。お似合いだ。そう思ってしまった自分が、いちばんつらかった。(私の知らない悠真……)胸の奥が、じわっと熱くなる。そのとき、悠真がふと立ち止まり、振り返った。一瞬だけ、視線が合う。驚いたような顔。そして、少しだけ困った笑顔。その表情に、凪の心臓が強く鳴る。(見ないで……でも、見てほしい)陽菜が何か言って、悠真はまた前を向く。二人の背中が、夕焼けの中に溶けていく。凪はそっと目を伏せた。(明日は……私の番)そう思うだけで、胸が苦しくて、でも少しだけ期待してしまう。この恋は、誰かが選ばれて、誰かが傷つく。それ
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私は待つだけの恋はしないよ

夕暮れの廊下に、沈黙が重く落ちていた。凪の胸はまだ、告白の余韻で震えている。(言っちゃった……)悠真の目をまっすぐ見て、想いを伝えてしまった。後悔はない。でも、怖かった。悠真はしばらく黙ったまま、二人を交互に見つめていた。「……急にこんなことになって、ごめん」小さくつぶやく。「でも、ちゃんと考えたい」陽菜が一歩近づく。「悠真くん」その声はやさしいけれど、真剣だった。「考える時間はあげる。でもね……」一瞬、言葉を選ぶように唇を噛む。「私は待つだけの恋はしないよ」凪の胸がぎゅっと締めつけられる。(陽菜ちゃん……強い)悠真は驚いたように目を見開いた。「陽菜……」「好きだからこそ、動くの」そう言って、少し照れた笑顔を見せる。「悠真くんと、もっと一緒にいたい」その宣言に、空気が一気に熱を帯びた。凪は思わず手を握りしめる。(負けたくない……)でも、どう動けばいいかわからない。悠真は苦しそうに眉を寄せた。「二人とも……」声が震えている。「俺は、誰かを選ぶってこんなに怖いって知らなかった」その正直さが、余計に胸を締めつける。陽菜は少しだけ黙り、それから静かに言った。「じゃあさ」凪と悠真を見る。「明日、放課後」凪の心臓が跳ねる。「悠真くん、私と二人で帰ろう」突然の誘い。悠真は固まる。凪の息が止まりそうになる。(え……)陽菜は凪に向かって続けた。「その次の日は、凪ちゃんと帰って」凪の目が大きく開く。「それで……悠真くんがどんな気持ちになるか、     自分で感じて決めて」大胆だけど、どこまでも正直な提案。悠真はしばらく考え込んでから、ゆっくりうなずいた。「……わかった」その一言に、凪の胸がドクンと
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誰も悪くないのに、誰かが必ず苦しくなる空気

夕焼けがゆっくりと夜の色に変わりはじめていた。廊下には、三人の足音だけが響いている。誰も口を開かない。さっきの「正々堂々勝負しよ?」という陽菜の言葉が、凪の胸の中で何度も繰り返されていた。(勝負……)そんなふうに思ったことなんて、なかった。ただ静かに、悠真のそばにいられればそれでよかったのに。悠真がふいに立ち止まる。「……二人とも」凪と陽菜が同時に顔を上げる。「俺、誰かを傷つけたいわけじゃない」真剣な声。「でも……気持ちをごまかすのも嫌だ」凪の心臓が大きく跳ねる。陽菜も息をのむ。悠真は少しだけ視線を落とし、それから凪を見る。「凪といると、落ち着くんだ」その一言に、胸がいっぱいになる。でもすぐに、悠真は陽菜の方を見る。「陽菜のまっすぐさも、すごく大切に思ってる」陽菜の唇が、わずかに震えた。「悠真くん……」沈黙。誰も悪くないのに、誰かが必ず苦しくなる空気。凪は勇気を振り絞って口を開いた。「悠真……」声が小さく震える。「わたし、悠真のこと……」言いかけて、言葉が詰まる。怖かった。ここで言ってしまったら、もう今までには戻れなくなる気がして。その瞬間、陽菜が一歩前に出た。「凪ちゃん」やさしい声。「無理しなくていいよ。でもね……」少し照れたように笑って続ける。「私、悠真くんのこと、本気で好きだから」まっすぐな宣言。胸がぎゅっと締めつけられる。悠真は驚いたように目を見開いた。「陽菜……」「だから遠慮しないよ」陽菜はそう言って凪を見る。「凪ちゃんも、遠慮しないで」その言葉が、凪の心を強く揺らした。(遠慮しないで……)ずっと遠慮してきた。想いを胸にしまい込んで、静かにそばにいるだけで満足していた
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昨日止まった時間が、また動き出そうとしていた

悠真は、凪の机の横に立ったまま、ほんの一瞬だけ迷うように視線を落とした。そして、静かに口を開く。「……昨日」その一言に、凪の指先がピクリと動く。周囲にはクラスメイトの話し声。なのに、二人の間だけ音が遠い。「ありがとう」それだけ。短い言葉なのに、胸の奥にまっすぐ届く。凪はゆっくり頷いた。「うん……」一瞬、沈黙。そのとき――「おーい悠真!」後ろから友達の声が飛ぶ。悠真は振り返り、軽く手を上げる。「すぐ行く」そして、もう一度凪を見る。少しだけ近づいて、声を落とす。「放課後、昨日の橋で待ってる」凪の心臓が一気に跳ねる。——昨日の続き。——逃げられない続き。「……わかった」その返事を聞いて、悠真は安心したように小さく笑った。その笑顔が、凪の胸をぎゅっと締めつける。悠真が去ったあとも、凪はしばらく動けなかった。周りのざわめきが戻ってきても、心だけは夕焼けの橋に飛んでいた。——今度こそ、何かが変わる。そんな予感が、はっきりとあった。恋は、静かに始まるものだと思っていた。でも本当は、静かに、そして確実に一歩ずつ踏み込んでくるものだった。放課後のチャイムが鳴った瞬間、凪の胸が小さく跳ねた。教室が一気にざわつく。椅子を引く音。笑い声。部活へ向かう足音。その中で、凪は席を立ちながら、無意識に探していた。——悠真。窓の外に見える夕焼けが、もう昨日と同じ色に染まり始めている。すると、向こうから悠真が現れた。紺のブレザーに紺のズボン。無地の紺ネクタイ。いつも通りの姿なのに、今日はなぜか特別に見える。悠真は凪の前で立ち止まり、少しだけ視線を落とす。「……行こ」それだけ。なのに、凪は胸がいっぱいになる。二人は
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次は、どんな顔で会うんだろう

改札を抜けたあと、凪は一度だけ振り返りそうになって、やめた。もう、見なくても分かっている。悠真は、あの場所に立ったまま、少し遅れて歩き出すはずだから。ホームへ向かう階段を下りながら、胸の奥が、静かに忙しい。——楽しかった。——また、会う。言葉にすると簡単なのに、現実になると、こんなにも余韻が残る。電車が来るまでの数分。スマホを取り出しても、画面は見ない。代わりに、さっきの視線を思い出す。触れなかった距離。でも、確かに縮まっていた距離。悠真は、「また誘ってもいい?」と聞いた。凪は、「待ってる」と答えた。約束じゃない。でも、逃げ道のない言葉。電車が入ってくる音がして、凪はやっと前を向く。——次は、どんな顔で会うんだろう。学校かもしれない。放課後かもしれない。また、あの店かもしれない。確かなのはひとつだけ。今日で、この関係は「何もなかった昨日」には戻れなくなった。電車がホームに滑り込んできて、風が一瞬、凪の髪を揺らした。乗り込む人の流れに身を任せながら、凪はドアの近くに立つ。ガラスに映った自分の顔は、少し前より、やわらいで見えた。——待ってる。さっき言ったその言葉が、胸の奥で、まだ温かい。電車が走り出す。街の灯りが、線になって流れていく。凪はつり革につかまりながら、今日一日の場面を、静かにたどる。橋の上。教室。カフェのテーブル。駅前の別れ。どれも派手じゃない。でも、どれも確かに、「選んだ時間」だった。スマホが、軽く震える。通知ではない。ただ、ポケットの中で動いただけ。それでも凪は、ほんの少しだけ息を止めてから、また自然に呼吸を戻した。——次は、きっと。そう思えることが、もう答えみたい
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……緊張してる?

カップに口をつけたのは、ほぼ同時だった。湯気の向こうで、二人の動きが少しだけ重なる。凪は、一口飲んでから視線を落とす。思っていたより、甘かった。「……おいしいね」自分から言ったことに、少し驚く。沈黙を壊すつもりはなかったのに、声が、勝手に出た。「うん」悠真は短く答えて、それから少し間を置く。「……緊張してる?」その問いは、責めるでも、探るでもなく、ただ確かめるみたいだった。凪は、一瞬だけ迷ってから、小さく笑う。「……してるかも」正直に言った瞬間、胸の奥が少し軽くなる。悠真は、ほんのわずかに息を吐いた。「俺も」それだけ。理由も、説明もない。でもその一言で、テーブルの上の空気が、少しだけやわらいだ。窓の外では、夕方の色が、ゆっくりと夜に近づいている。凪は思う。派手なことは起きていない。でも今、「同じ時間を選んでいる」という事実だけが、確かにここにある。——これは、始まってる。そう思ってしまった自分を、もう否定しなくていい気がした。カップを置く音が、ほとんど同時に重なった。湯気が薄くなって、二人の間にあった緊張も、少しだけ形を変える。「……ここ、静かだね」凪の声は、思っていたより落ち着いていた。言葉にしてみると、不思議と怖さが薄れる。「うん。騒がしいの、あんまり得意じゃないから」悠真はそう言って、窓の外を見る。夜の色が、ゆっくり街に降りてきている。凪は、その横顔を見てから、視線を戻した。橋の上でも、教室でも、いつも“途中”で止まっていた時間が、今はちゃんと流れている気がした。「……また、来てもいい?」言い終わってから、胸が遅れて跳ねる。“また”と言った自分に気づいて。悠真は少しだけ驚
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私…… どうしたらいいの……?

昼休みのチャイムが鳴り終わった頃。凪は、一瞬で空気が変わったのを感じた。ざわ…ざわざわ…教室の奥から、誰かが怒ったような声で言う。「おい、悠真。 お前、凪を泣かせたんだって?」その瞬間、凪の心臓が“ガン”と音を立てた。(え……?)どういうことかわからない。でも――その輪の中心に悠真の名前があると理解した途端、足がすくんだ。悠真は、凪の席から少し離れたところに立っていた。数人の男子に囲まれて、冷たい視線を向けられている。「昨日の放課後、廊下で泣いてたよな? 見たやつがいるんだよ」(……あれは…… 私が勝手に泣いただけなのに)胸がギュッと締めつけられる。「凪、言えよ。 アイツに何されたんだ?」そう言って凪の名前を呼ばれた瞬間、教室中の視線が一斉にこちらを向いた。(やめて……こっち見ないで……)あの日、自分の弱さが顔を出しただけ。悠真は悪くない。むしろ支えてくれた。――言わなきゃ。誤解だって、ちゃんと。だけど。喉を塞がれたように、声が出ない。(なんで……? 言いたいのに……言えない……!)胸の奥で、何かが叫んでいるのに。「悠真、黙ってないで何か言えよ!」「女泣かせて知らん顔かよ」男子たちの声がだんだん鋭くなる。悠真は静かに言った。「……違うよ」その声を聞いた瞬間、凪の心が大きく揺れた。苦しそうで、悔しそうで、でも誰も攻撃しないように、言葉を選んでいる。「凪を泣かせたのは…… 俺じゃない」本当のことなのに、誰も信じていない目をしていた。(お願い……誰か気づいて…… 悠真は……そんな人じゃない……)凪は立ち上がろうとした。でも膝が震えて、机に手をついた。――その音だけが、重く響いた。教室
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……逃げたいなら、逃げてもいいよ

放課後の図書室は、冬の夕方特有の静けさに包まれていた。窓の外は薄く曇り、空気の匂いまで冷たく感じる。凪は、今日こそ落ち着いて勉強しようと心に決めていた。……はずなのに。向かいに座る悠真がノートを開く音だけで、胸がじんわり熱くなる。(ここにいるだけで、 なんでこんなに意識しちゃうんだろう)悠真は凪を見ていないようで、ページをめくるたびに、ちらりと視線を向けてくる。そのたびに、凪はノートの文字が少し震えた。「……凪、さ」沈黙を破ったのは悠真だった。声はいつもより低くて、少しだけ迷いが混じっていた。「今日、凪……ずっと、俺の顔見ないよね」凪の手がぴたりと止まる。「み、見てるよ……?」「うそ。目、合ってない」図書室の静けさが、逆に心臓の音を大きくする。悠真は、凪の方へ少しだけ体を傾けた。「俺、見られたら…… 弱くなるって言ったじゃん」「……知ってるよ」「だからって、完全に避けられるのは…… それはそれで、なんか……きつい」凪は顔を上げられなかった。上げたらきっと、すぐにばれる。自分がどれだけ揺れているか。(……逃げてるんだ、私)昨日も、今日も。視線が合ったら、胸が苦しくなる。それが怖くて、避けてる。少し沈黙が落ちたあと、悠真が小さく息をついた。「……ねえ、凪」その声があまりに優しくて、凪はゆっくり顔をあげてしまった。視線がぶつかった。途端に、胸の奥がきゅっと痛くなる。(あ……だめ、こんなの……)でも、目をそらすより先に悠真がそっと囁くように言った。「そんな顔で見られたら…… 俺、本当に勘違いするよ?」凪は息を飲んだ。「な、なにを……?」悠真の肩が少しだけ震える。たぶん、自分でも抑えられ
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……ずるいよ、そういうこと言うの

冬の冷たい空気が、校舎の廊下にゆっくりと入り込んでくる。チャイムが鳴る前のホームルーム教室は、いつもより静かだった。凪は席につきながら、窓の外の沈んだ空を見た。(なんだろ……   今日はずっと胸が落ち着かない)昨日の並木道での出来事。風でマフラーがめくれた瞬間、体勢を崩した凪を、悠真が本気で抱きとめたこと。その時の 手の強さ。息が触れそうな距離。そして、あの赤くなった耳。全部、まだ胸に残っていた。1限目。現代文。席は斜め後ろ。ちょうど振り返れば悠真が見える位置。……だから凪は、振り返らないように必死だった。(気づいたら見ちゃいそう……   いや、見たくない……   いや、見たい……)ノートの上に書いた文字が少し震える。そのとき。ふと、視線を感じた。(……え?)ゆっくり後ろを向くと――悠真がじっと、凪を見ていた。目が合った。凪の心臓が跳ねる。悠真はわずかに目を見開き、それから照れたように視線を逸らした。(なんで見てたの……?)胸がざわざわして、授業の内容が頭に入らない。休み時間。凪は教室の後ろでノートを整理していた。そこへ悠真が近づいてくる。「凪、今の……」凪は咄嗟に言ってしまった。「見てないよ!全然っ!」悠真は一瞬きょとんとし、そこからゆっくり笑った。「俺が見てたって話なんだけど」凪の顔が一気に熱くなる。「……っ、なんで……見てたの?」悠真は少しだけ真剣な表情になって言った。「今日の凪、   いつもより落ち着かなく見えたから」「お、落ち着いてるよ……」「うん。そう見えたらいいんだけどさ」悠真は指でノートの端を軽く触れ、目を逸らさずに続ける。「……本当は、  今日ずっと気になって
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凪……反則……

金曜日の朝。教室の窓から見える空は、冬の色に少しずつ近づいていた。冷たい風が流れているはずなのに、凪の胸の中にはほんのり温かいものが灯っていた。昨日、上手に話せたから。ちゃんと気持ちを交換できたから。(今日は……   もう少し踏み出せる気がする)自分でも驚くほど、心の奥が前へ進む準備をしていた。放課後の図書室は、静けさがいつもよりやわらかく感じられた。席に着いた凪は、深呼吸をひとつ。そこへ、扉が開く。悠真が、少し急ぎ足で入ってきた。頬が赤く、息がほんの少しだけ弾んでいる。「凪、待った?」「ううん、今来たところ」その言葉が自然に口から出たことに、凪は自分で驚いた。悠真は凪の前に座ると、珍しく、ちょっと言いにくそうな顔をした。「今日さ、   俺の方から……話したいこと、ある」「え……?」胸の奥が一気に高鳴る。悠真は、机の上で両手を軽く組み、まっすぐに凪を見た。「昨日、 凪が“嫌だった”って言ってくれたとき…… 俺、正直ちょっと嬉しかったんだ」凪の心臓が跳ねる。「だってさ。 誰かに嫉妬されるって…… 期待してもらえてるってことだろ?」頬が一気に熱くなる。(ずるい……そんな言い方……)悠真は照れくさそうに笑い、続けた。「でさ……実は俺も、 ちょっとだけ言いにくいこと、ある」凪は息をのんだ。“自分だけじゃなかった”その予感がして、胸の奥が甘くなる。「名前……呼んでみてほしい」「……え?」「“悠真”って。 凪に呼ばれたら…… 多分、結構やばい」凪は言葉を失った。(やばいって……何それ……)頬が熱い。胸も熱い。心の奥で何かがはじけたような感覚。悠真は軽く俯き、小さな声で付け足した。「俺、凪に
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すれ違うのはさ、ちゃんと心が動いてる証拠だよ

昼休みのチャイムが鳴った瞬間、凪の胸の奥がきゅっと縮んだ。(やだな……この感じ)自分でもうまく説明できない。昨日の“あの気持ち”がまだ胸の中に残っていて、どこか落ち着かない。図書室で向き合ったあの時間。悠真が後輩と話していたときの、胸の奥がざわついた瞬間。そして、“俺も、凪が気になってた”と静かに言ってくれた、あの言葉。全部ぜんぶ、まだ心のどこかで揺れている。放課後。凪は教室で荷物をまとめながら、無意識にスマホを気にしていた。(……今日も来るかな)そんな期待を抱いている自分が、少しだけ恥ずかしかった。「凪」名前を呼ばれ、びくっと振り返るとドアのところに悠真が立っていた。(来た……)胸の奥で跳ねた鼓動を誤魔化すように、凪は落ち着いた声を装った。「どうしたの?」「今日さ……話せる?」凪は一瞬だけ迷った。胸の中のざわざわを抱えたまま話したら、きっとうまく笑えない。でも――逃げたら、余計モヤモヤが残る気がした。「……話したい」そう言うと、悠真は静かに笑った。二人はいつもの図書室へ。窓の外では、曇り空の薄い光が揺れていた。すれ違う気配は、空の色にもよく似ている。席に着いた瞬間、凪は机の下でそっと手を握る。悠真が、言った。「今日は……凪の話、聞きたかった」凪は唇を噛んだ。何から話せばいいのかわからない。昨日の嫉妬も、胸のざわめきも、“後輩の子が気になる?”という自分の小さな不安も――どれも、口に出したら子どもみたいで。でも、悠真の視線は逃げずに待ってくれていた。(言うしかない……)凪は小さく息を吸った。「ねぇ悠真。 私……昨日のあれ、 ちょっとだけ……嫌だった」悠真は驚いた顔をした。「嫌…
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その距離が、 恋のはじまりをじっくり温めてくれる

翌日の放課後。凪は胸の奥がふわっと軽くなるのを感じた。(今日、また話せるかな……)図書室へ向かう廊下を歩く足取りが、自分でも驚くほどゆっくりになっていく。そのときだった。教室前の掲示板で、悠真が見知らぬ女の子と話しているのが見えた。長い黒髪。落ち着いた雰囲気。柔らかく笑って、何か差し出している。「これ……頼まれてたプリント。返すね」「ありがとう。助かった」悠真は自然に笑って受け取り、その柔らかさが凪の胸にチクリと刺さった。(……誰?)そんな疑問の前に、心の奥で別の声がささやいた。――ああ、こういう笑顔もするんだ。凪は立ち止まり、少し胸の奥がしんと冷える感覚を抱えたまま、気づかれないようにその場を通り過ぎた。遠まわりをして、たどりついた図書室。窓際の席に座っていたのは、やっぱり悠真だった。「凪、今日も来たんだ」「うん……」凪の返事はいつもより小さかった。悠真はすぐ気づいたようで、少し顔を覗き込む。「なんかあった?」(言えるわけないよ。あの子、誰?なんて)胸の奥で、言葉が喉につかえる。“本音を話したい”のに、“怖い”も同時にある。凪は目を伏せたまま、かすかに首を振った。「……なんでもないよ」悠真はしばらく凪の横顔を見つめていたが、それ以上追及しなかった。代わりに、緑茶の缶を机に並べた。「とりあえず、飲む?今日、風が冷たいし」そのさりげない優しさが、逆に胸を締めつけた。(やさしいな……でも、だから余計に言えないんだよ)頬に触れた風が少し冷たくて、凪は気づかないふりをして、缶を開けた。沈黙が、いつもより重く落ちる。ふたりで同じ景色を見ているのに、心の距離だけがほんの少しずつ離れていくよ
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勝ち負けのない頷き方を、人はどこで覚えるんだろう

終礼のチャイムが鳴ると、クラスのざわめきがほどける。凪(なぎ)は三人分の「ねぇ、ちょっといい?」を受け取った。文化祭の役割分担、部活のトラブル、家の愚痴。相槌、共感、少しの助言。いつもの手順。「凪に話すと落ち着くんだよね」その言葉は確かに嬉しいのに、胸の奥で小さな灯が酸素を欲しがる。廊下の角を曲がったところで、足が止まった。階段の踊り場、窓の四角い光。そこに凪は、荷物をそっと床に置いて、壁にもたれた。深く息を吸う――はずが、途中でひっかかる。涙が出るほどではないのに、喉の奥がきゅっと狭くなる。「……水、飲む?」不意に差し出されたペットボトル。顔を上げると、悠真(ゆうま)がいた。隣のクラス。いつも明るいタイプ。けれど今は声を小さくしていて、目だけが静かだ。「ありがと」ひと口飲む。冷たさが通る道筋を、からだが思い出していく。「それ、あげる」「え、でも」「もう一本ある。  さっき自販で二本押しちゃってさ」嘘っぽくない冗談の密度。凪は、肩の力が少し抜けるのを感じた。二人で踊り場の窓に寄る。外はうっすら金色、グラウンドの掛け声が遠い。沈黙。ふだんなら「ごめんね」「大丈夫」と気を利かせて口を満たすところを、凪は何もしなかった。それでも、沈黙は膨らまず、どこか柔らかい。「……聞いてほしい?」悠真がようやく口を開いた。問いは短く、押しつけがない。凪は少しだけ迷って、うなずく。「今日、ずっと“聞く人”だった。 上手く聞こう、って思いながら、 途中で自分がいなくなってくみたいで」「いなくなる、か」「うん。顔は笑ってるのに、胸のところだけが空洞。 みんなの言葉がそこに、 ざあって入ってきて、底がない
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ああいう人が、悠真の隣にいたら、きっと・・・

体育の笛が、短く鳴る。女子が、ゆっくり動き始める。凪も、その列の中に入る。でも。胸の奥では、まださっきの光景が残っている。陽菜の笑顔。悠真の、やわらいだ表情。たったそれだけのことなのに。どうしてこんなに、胸が重くなるんだろう。女子の列が整う。先生が言う。「今日は軽くランニングからね。」グラウンドを、一周。みんなが走り出す。凪も走る。風が、頬を通り過ぎる。少しだけ、楽になる。でも。頭の中は、静かに同じことを繰り返している。――どう考えても。陽菜のほうが、似合う。走りながら、凪は前を見る。少し前を、陽菜が走っている。背中が軽い。足取りも、自然で。途中で振り返って、友達に笑いかける。その笑顔に、周りの空気がふっと明るくなる。凪は、思う。やっぱり。ああいう人が、悠真の隣にいたら、きっと。自然なんだろうな。体育が終わる。女子の更衣室は、少し騒がしい。凪は、ゆっくり制服に着替える。赤いリボンを結びながら、ふと、手が止まる。鏡の中の自分を見る。普通。ただ、それだけ。誰かを明るくするような笑顔も、自然に空気をやわらげる力も、きっと、ない。胸の奥で、その言葉がまた浮かぶ。――やっぱり。凪は、そっと目を閉じる。好きだから。好きだからこそ。その考えは、少しずつ形になっていく。放課後。廊下の窓から、夕方の光が入る。凪は、まだ知らない。この決意が、悠真の心を、大きく揺らすことになるなんて。そして。この恋が、ここから、静かに、大きく動き始めることを。
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どう考えても・・・

校庭には、春の風が流れていた。女子の列が、グラウンドの端に集まり始めている。凪は、フェンスのそばで足を止める。少し離れたところで、悠真も男子のほうへ歩こうとしていた。そのとき。凪の視線が、ふとグラウンドの向こうに向く。陽菜が、女子の友達と話している。何か言って、くすっと笑う。その笑顔につられて、周りの子たちも笑っている。凪は思う。やっぱり、明るい。無理をしている感じがない。ただそこにいるだけで、空気がやわらかくなる。そのとき。陽菜の視線が、ふっとこちらに向いた。悠真と目が合う。ほんの一瞬。陽菜は、小さく手を振る。呼ばない。ただ、それだけ。でも。悠真の表情が、少しだけやわらぐ。凪は、それを見てしまう。胸の奥が、きゅっとする。どうしてだろう。嫌なわけじゃない。むしろ、二人とも、いい人だと思う。でも。それでも。――どう考えても。その言葉が、また胸に浮かぶ。陽菜のほうが、明るくて、自然で、悠真の隣に似合う。凪は、そっと目をそらす。風が、制服のスカートを揺らす。体育の笛が鳴る。女子の列が動き始める。凪は、ゆっくり歩き出す。でも。胸の奥では、さっきよりもはっきりと、ひとつの考えが形になり始めていた。――やっぱり。わたしが、離れたほうがいい。まだ誰にも言わない。でも。その決意は、凪の心の中で、静かに、確かに、芽を出していた。
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この気持ちは、もう消えない気がした

校庭の風が、やわらかく吹いていた。グラウンドでは、もう体育の準備が始まっている。女子のグループの中で、陽菜が笑っているのが見えた。その笑い声は、ここまで届くような気がした。太陽の下で、陽菜はやっぱり明るかった。凪はフェンスのそばで立ち止まる。悠真も、少し遅れて足を止めた。「凪。」悠真の声。凪は顔を上げる。悠真は、少しだけ心配そうに見ている。「ほんとに大丈夫?」その言葉が、胸に落ちる。凪は、ほんの少しだけ笑う。「うん。」でも。その笑顔の奥で、もう一つの声が、静かに響いていた。――やっぱり。どう考えても。陽菜のほうが、似合う。あんなふうに笑える人が、悠真の隣には、きっといい。凪は、グラウンドを見る。陽菜が友達と走り出す。髪が風に揺れる。みんなの視線が自然に集まる。凪は思う。ああいう太陽みたいな人を、人は好きになるんだろうなって。凪は、そっと息を吸う。胸の奥で、静かに言葉が形になる。わたしが、引けばいい。まだ誰にも言わない。でも。この気持ちは、もう消えない気がした。悠真は、まだ気づいていない。凪の心の中で、小さな決意が、ゆっくり芽を出していることに。体育の笛が鳴る。グラウンドに声が広がる。凪は、ゆっくり歩き出す。その背中は、さっきより少しだけ、静かだった。
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どう考えても・・・

階段を下りると、校庭から春の風が流れ込んできた。体育の授業の声が、遠くで聞こえる。陽菜はもう、先にグラウンドへ向かっているはずだった。凪と悠真は、まだ体育館の前を歩いている。少しだけ、静かな道。悠真が言う。「さっきさ。」凪は顔を上げる。「理科のとき。」言葉が少しだけ止まる。「元気なかった?」凪の胸が、少しだけ強く鳴る。気づいてほしくなかった。でも。気づいてほしかった。そんな気持ちが、胸の奥で混ざる。「……そんなことないよ。」凪は言う。でも。その声は、ほんの少しだけ小さい。悠真は、少しだけ眉を寄せる。「そっか。」それ以上は、聞かない。それが、悠真のやさしさだった。でも。凪の胸の奥では、別の言葉が、ゆっくり形になっていく。どう考えても――陽菜のほうが、明るくて、かわいくて、悠真の隣に似合う。自分より、ずっと。凪は、グラウンドを見る。陽菜が、クラスの女子と笑っている。風に髪が揺れる。その姿は、遠くからでも目立つ。太陽みたいだと思った。自分とは、違う。凪は、胸の奥で静かに思う。――やっぱり。その言葉が、心の中に落ちてくる。好きだから。好きだからこそ。邪魔になりたくない。悠真の時間を、曇らせたくない。凪は、小さく息を吸う。そして、誰にも聞こえないくらいの声で思う。――わたしが、引けばいい。まだ、言わない。でも。その決意は、凪の胸の奥で、静かに、確かに、形になり始めていた。悠真は、まだ気づかない。凪が、少しずつ、離れようとしていることに。
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好きでいることが、少しだけ、苦しくなる。

先生の声が遠くで響いている。「観察できた班から、考察を書いていってください。」ペンが紙の上を走る音。凪は、静かに書く。字は整っている。乱れない。感情と違って。「ここ、どう書く?」陽菜が悠真に小さく尋ねる。「えっと……」悠真が考える。「分裂の段階で、核が――」ふたりの声は、低く、近い。凪は、書きながら聞いてしまう。聞かなくていいのに。陽菜は、うなずきながらメモをとる。「なるほどね。じゃあ、こうかな。」さらりとまとめる。自然に。凪は思う。わたしは、まとめる前に、迷う。言葉を選びすぎる。空気を気にしすぎる。陽菜は、まっすぐ。悠真は、そのまっすぐさを見ている。その目は、やさしい。凪は、胸の奥が少しだけ冷えるのを感じる。どうして。どうして、比べるんだろう。比べたくないのに。「凪、ここどう思う?」ふいに、悠真の声。顔を上げる。視線が、ちゃんと向いている。「え……」言葉が、一瞬遅れる。「いいと思う。」それだけ。もっと何か言えたはずなのに。陽菜が笑う。「凪、ほんと冷静だよね。」褒めている。ちゃんと。でも。凪の胸は、なぜか少し痛む。冷静。それは、明るくない、ということ。場を変えない、ということ。実験は、まだ終わらない。光は変わらない。三人は同じ机にいる。でも。凪の中で、“どう考えても”が、また一枚重なる。好きでいることが、少しだけ、苦しくなる。
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でも、それが一番ずるい気がする

悠真の指が、空をつかんだまま止まっている。触れなかった。触れなかったことが、何よりも重い。凪は、一歩下がったまま、視線を逸らさない。「……ごめん。」また、同じ言葉。謝られるたびに、胸が少しずつ削れていく。「俺、ちゃんとするって言ったけどさ。」悠真は、苦く笑う。「ちゃんとって、誰かを傷つけないことだよな。」凪の喉が、ひりつく。陽菜の笑顔が浮かぶ。明るくて、まっすぐで、何も悪くない子。凪も、何も悪くない。悠真も。それなのに。「俺、凪といると、楽なんだ。」その言葉は、刃だった。やさしい刃。「でも、それが一番ずるい気がする。」教室の空気が、静かに沈む。凪は、やっと笑った。ほんの少しだけ。「楽、って……いいことじゃないの?」声が震えないように、ゆっくり言う。悠真は、首を振る。「誰かが傷つくなら、楽って言っちゃだめだろ。」凪の胸が、ぎゅっと締まる。やっぱり。選ばなきゃいけないんだ。選ばれるか、選ばれないか。その間にいる時間は、長くは続かない。廊下の向こうで、また陽菜の声。今度は少し、不安そうな響き。「ゆうま……?」悠真は目を閉じる。一瞬。そして、凪を見る。「待ってて、って言ったら……」言葉が、途切れる。凪は、首を振った。「言わないで。」それを言われたら、動けなくなる。「ちゃんと、して。」やさしく、でも逃げない声。悠真の瞳が揺れる。やっと、指が下がる。距離が、戻る。でも。目だけは、離れない。「……わかった。」低い声。その“わかった”が、何を意味するのかは、まだわからない。凪は先に歩き出す。背中に、視線を感じる。振り返らない。振り返ったら、きっと、全部、壊れる。赤いリボンが、そっと揺れる。ほど
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ちゃんと、って……何だろうな。

悠真の指が、ほんの一瞬だけ動いた。凪の胸元——赤いリボンに、触れそうで、触れない距離。教室には、まだ誰も戻っていない。廊下のざわめきだけが遠い。凪は、視線を逸らさなかった。逸らしたら、終わる気がした。「……ごめん。」悠真の声は低く、かすれていた。何に対しての謝罪なのか、凪にはわからない。昨日のこと。陽菜のこと。それとも、自分の曖昧さに?「俺、ちゃんとするって言ったけどさ。」目が揺れる。悠真は、凪を見る。逃げない目。「ちゃんと、って……何だろうな。」その言葉は、独り言みたいだった。凪の胸が、ぎゅっと締まる。“わたしがいなければ”その考えが、また浮かぶ。でも。悠真の目は、昨日と同じだった。探している目。凪を。「凪はさ。」名前を呼ばれる。それだけで、心臓が跳ねる。「……行くなよ。」また、同じ言葉。今度は、はっきり。凪の指先が震える。好きだから。好きだから、逃げたい。好きだから、離れられない。「わたしは……」声が出ない。赤いリボンが、微かに揺れる。窓から入る光が、やわらかく触れる。そのとき。廊下から、陽菜の声。「ゆうまー?まだー?」空気が、戻る。悠真は目を閉じる。ほんの一瞬。そして、凪を見る。今度は、迷いが混じっている。選ばなければいけないことを、わかっている目。凪は、笑った。ほんの、少しだけ。「行って。」言葉は軽い。でも、胸の奥は、重い。悠真は、動かない。動けない。その沈黙が、いちばん甘くて、いちばん苦しい。次に動いたのは——凪だった。一歩、下がる。距離が、戻る。でも。悠真の指は、まだ、空を掴んでいた。
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私、今、どんな顔してるんだろう?

放課後の教室は、いつもより少しだけ騒がしかった。凪は廊下の窓際に立って、何も考えていないふりをしていた。本当は、教室の奥のほうを見ている。悠真が笑っていた。男子に肩を叩かれて、少し困った顔をして、それでも笑っていた。その笑い方を、凪は知っている。あの顔、私の前ではあまりしないのに。胸の奥が、じわっと重くなる。別に、特別なことじゃない。男子と笑っているだけだ。普通だ。それなのに。凪は視線を外した。見なければよかった、と思いながら、見てしまった自分を責める。廊下を歩く足音がやけに大きく響く。誰も気づいていないのに、自分だけが取り残された気がした。「私、今、どんな顔してるんだろう?」家に帰っても、電気はつけなかった。制服のまま、ベッドの横に座り込む。赤いリボンだけが、暗がりの中でかすかに形を持っている。悠真が、好きだ。それはもう、どうしようもない。でも。あの笑い声を思い出すと、自分の場所がどこにもないような気がする。近づいたはずなのに。話す回数も増えたのに。目も、ちゃんと合うようになったのに。触れない距離。触れないほうが、壊れない距離。凪は膝を抱えた。「……ばか」小さく呟いて、すぐに後悔する。悠真は何も悪くない。ただ、普通に笑っていただけ。苦しいのは、勝手に期待してしまう自分のせいだ。窓の外で、風が鳴った。空気は冷えてきている。凪はゆっくり目を閉じる。もし明日、悠真がまた笑っていたら。私は、ちゃんと教室に入れるだろうか。それとも、また廊下に立ったまま、見ないふりをするのだろうか。答えは出ないまま、夜だけが深くなっていった。まだ、苦しいままでいい。そう思ってしまう自分が、いちばん、厄介
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……凪といる時間、当たり前みたいになってた。

月曜の帰り道。曇り空の下、二人の足音だけが並んでいる。少し近い。昨日より、半歩だけ。でも、触れない。凪は、自分の手をぎゅっと握った。触れたいわけじゃない。……少しだけ、触れたい。でも、いま触れたら、何かが変わってしまいそうで。「凪さ。」悠真が、前を向いたまま言う。「この前さ、寂しかったって言っただろ。」心臓が跳ねる。凪は、うなずく。「俺、ちゃんと考えた。」その言葉が、静かに落ちる。曇り空の下なのに、胸の奥だけ、少し明るくなる。「俺はさ……」そこで、言葉が止まる。風が吹く。赤いリボンが揺れる。「……凪といる時間、当たり前みたいになってた。」凪は、息を止める。「当たり前じゃないのに。」その一言が、やさしく、でも確かに響く。触れない。でも、距離が近い。沈黙が、さっきより温かい。「俺、ちゃんと向き合うから。」何に、とは言わない。でも、わかる。凪の胸が、じわっと熱くなる。まだ、約束じゃない。まだ、確信じゃない。でも。期待が、芽を出す。「じゃあ、また明日。」その「明日」が、前より少しだけ、楽しみになる。悠真が振り返る。ほんの一瞬だけ、目が合う。その視線に、“選ばれたい”という願いが、滲む。凪は、小さく笑う。不安は消えていない。陽菜の存在も、消えていない。それでも。この恋は、まだ終わらない。むしろ——ここからかもしれない。
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……ちょっとだけ、寂しかった。

月曜の朝。教室のざわめきが、少しだけ遠く聞こえる。凪は、自分の席に座ったまま、悠真の姿を視界の端で探していた。いる。いつもと同じ場所。いつもと同じ横顔。それだけで、少しだけ胸が温かくなる。(やっぱり、好きなんだ)苦しいのに。不安なのに。それでも、好きは消えない。休み時間。悠真が、凪の机の前に立った。「おはよ。」短い声。でも、目がまっすぐだった。凪の心臓が、ひとつ跳ねる。「……おはよ。」一瞬だけ、視線が絡む。その瞬間、昨日までの距離が、少しだけ縮む。悠真が、ぽつりとつぶやく。「昨日、なんか変だったよ。」凪は、息を止める。言葉にするのは、怖い。でも。逃げ続けたら、本当に遠くなってしまう気がして。「……ちょっとだけ、寂しかった。」小さな声。ほとんど、風に消えそうな声。でも、悠真には届いた。少し驚いた顔をして、それから、やわらかく笑う。「そっか。」それだけ。言い訳も、否定も、しない。「ごめん。」その一言が、胸に落ちる。凪は、泣きそうになる。泣かないけど。“ちゃんと、届いた”それがうれしい。昼休み。陽菜が、無邪気に笑っている。その声は、相変わらず明るい。でも、今日は少し違う。凪は、逃げなかった。悠真の隣に立つことも、目を合わせることも、やめなかった。好きでいることを、隠さなかった。それだけで、少しだけ、強くなれた気がした。放課後。帰り道。二人の距離は、昨日より近い。触れない。でも、近い。「凪。」「なに?」「俺さ、ちゃんと考える。」何を、とは言わない。でも、わかる。凪は、小さくうなずく。空は、まだ曇っている。でも。その向こうに、薄い光が見えた気がした。甘い。でも、まだ不安。それが、この恋。
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好きでいるだけなのに。どうして、こんなに苦しいんだろう

日曜の夜。凪は、ベッドに横になったまま、天井を見つめていた。昨日、並んで歩いた帰り道。距離は、たぶん変わっていなかった。でも。心の中では、確実に何かがずれていた。「最近ちょっと静かじゃない?」あの一言が、まだ残っている。気づいてる。でも、わかってない。それがいちばん苦しい。スマホの画面を開く。悠真とのトーク。昨日の「また月曜な」で止まっている。送ろうと思えば、送れる。「今なにしてる?」「明日さ」「おやすみ」でも。送ったら、何かが壊れそうで。“好き”が、軽く扱われてしまいそうで。凪は、画面を閉じる。同じ時間。悠真は、何度か凪のトーク画面を開いていた。何か言うべきか。いや、別に変なことは起きていない。ただ、“昨日の帰り道の沈黙”それが、妙に引っかかっている。でも。言葉にするほどの理由が、ない。だから、何も送らない。沈黙が、二人のあいだに横たわる。喧嘩もしていない。傷つける言葉もない。それなのに。距離だけが、ゆっくり広がっていく。凪は、目を閉じる。“もし、わたしがいなくなったら”悠真は、気づくだろうか。それとも。そのまま、日常は続いていくのだろうか。胸の奥が、ひりっとする。好きでいるだけなのに。どうして、こんなに苦しいんだろう。夜が、静かに更けていく。月曜が、近づいてくる。何も起きていない。でも。何かが、確実に変わり始めている。凪は、その予感だけを抱いて、眠れないまま目を閉じた。
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好きでいることが、 こんなに苦しいなんて。

帰り道の冷たい空気が、まだ頬に残っている。凪は部屋の明かりをつけずに、ベッドの端に腰を下ろした。制服の紺色が、夕焼けの余韻みたいにまだ目の奥に残っている。(なんで、あんなに笑ってたんだろう)責めたいわけじゃない。でも、窓際で笑う悠真の横顔が、何度も浮かんでは消えない。スマホが、机の上に置いてある。通知は、ない。画面を開く。履歴。最後のやり取りは、昨日の「また話そう」。その言葉だけが、やけに優しくて、やけに遠い。(私が、期待しすぎてるだけ?)ベッドに横になり、天井を見つめる。静かな部屋。さっきまでざわついていた心が、今は重く沈んでいる。好きでいることが、こんなに苦しいなんて。スマホが震えた。心臓が、跳ねる。急いで画面を見る。「悠真」指先が、少し震える。メッセージは短い。『今日、ごめん。ちゃんと話せてないよな』凪の胸が、ぎゅっと締まる。(気づいてたんだ……)続けて、もう一通。『凪と帰る時間、俺は好きだよ』その一文に、涙が、にじむ。うれしい。でも、(じゃあ、どうしてあんなに遠く感じたの)返信しようとして、指が止まる。「好き」という言葉はない。でも、「好き」がある。その曖昧さが、また胸を揺らす。画面を見つめたまま、凪は深く息を吸う。“重くなりたくない”“迷惑になりたくない”“でも、離れたくない”気持ちが、ぐるぐると回る。しばらくして、凪は短く打ち込んだ。『私も』それだけ。送信ボタンを押した瞬間、胸の奥が、少しだけ軽くなる。だけど同時に、この恋はまだ、まっすぐではないことも、わかっている。画面が暗くなる。部屋の中は、静か。でも、凪の心だけは、今日も止まらずに揺れていた。
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好きでいるだけで、こんなに苦しいんだ

校舎を出ると、空はもうほとんど夜に近づいていた。街灯の明かりが、まだ頼りなく足元を照らしている。凪と悠真は、並んで歩いていた。けれど、どこか昨日より距離がある。「……寒くなってきたね」悠真が、前を向いたまま言う。「うん」凪は短く答えた。それ以上、言葉が続かない。(昨日より、話してないかも)そう気づいた瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。沈黙が長くなるほど、何か言わなきゃいけない気がして、でも何を言えばいいのかわからない。信号待ちで立ち止まったとき、悠真がポケットに手を入れた。スマホが震える。凪は、見てはいけないと思いながらも、視線を逸らせなかった。悠真は画面をちらっと見て、すぐに伏せる。(……誰からだろう)その一瞬が、凪の心を大きく揺らす。「……ごめん」悠真が、少し気まずそうに言った。「急ぎじゃないから」凪は反射的に首を振る。「ううん。大丈夫」本当は、全然大丈夫じゃない。でも、“聞かない”ことを選んでしまう。信号が青に変わり、二人は再び歩き出す。(私が聞いたら、重いよね)そんな考えが、凪の中で何度も回る。別れ道が近づくにつれて、胸の奥がざわざわしてくる。(このまま、何も言わずに終わるのかな)そう思ったとき、悠真が足を止めた。「……凪」名前を呼ばれて、心臓が跳ねる。「最近さ」悠真は少し言いよどむ。「ちゃんと話せてない気がして」その言葉に、凪の胸が熱くなる。気づいてたんだ。「……私も」凪は小さく答えた。でも、その先が続かない。“どうして”も“なにが”も言葉にできない。悠真は、何か言おうとして、結局、言葉を飲み込んだ。「……また、話そう」その約束が、希望なのか、先延ばしなのか。凪には、まだ判
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この帰り道が、また思い出になるのか

翌朝、凪は少し早めに教室へ入った。まだ人の少ない教室は、いつもより広く感じる。席に座って、何気なくスマホを机の上に置く。……何も来ていない。(わかってたのに)そう思った瞬間、胸の奥がひゅっと冷える。「おはよう」背後から声がして、凪は肩を揺らした。振り返ると、悠真が立っている。いつもと同じ声。いつもと同じ表情。なのに、私の心だけが追いつかない。「お、おはよう」ぎこちない声になってしまう。悠真は少し迷うように凪を見てから、前の席に座った。(何か、言うかな)そう思って待ってしまう自分が、つらい。でも、悠真は何も言わなかった。チャイムが鳴り、授業が始まる。黒板を見ているはずなのに、文字が頭に入ってこない。(昨日のこと、忘れてるのかな)その考えが浮かんで、すぐに打ち消す。(そんなわけない……よね)休み時間。陽菜が悠真のところへ行く。「悠真くん、今日の放課後さ——」その声が、凪の耳に刺さる。悠真は少し驚いた顔をしてから、「うん」と短く答えた。その一瞬で、凪の心臓が大きく鳴る。(……放課後)昨日、凪がひとりで帰った時間。胸がぎゅっと締めつけられる。凪は立ち上がり、逃げるように教室を出た。廊下の窓から、白い雪が舞っているのが見える。(また、雪……)昨日の夜、ひとりで歩いた帰り道がよみがえる。楽しかったはずの記憶も、今はただ、胸を痛くするだけ。放課後。凪は昇降口で靴を履き替えながら、無意識に外を見ていた。悠真の姿を探してしまう自分に、小さくため息をつく。(今日は……期待しない)そう決めたはずなのに。そのとき、後ろから声がした。「凪」悠真だった。心臓が、強く跳ねる。「一緒に……帰れる?」その一言で
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でも、心は言うことを聞かない

朝の教室は、いつもより静かに感じた。凪は席に着きながら、無意識に前の席を見てしまう。悠真の背中。昨日と同じはずなのに、どこか遠く見える。(気にしすぎ……だよね)そう思おうとするほど、胸の奥がざわつく。チャイムが鳴る直前、悠真が振り返った。一瞬、目が合う。凪の心臓が跳ねる。でも——悠真は、少し迷うような表情をしてから、何も言わずに前を向いてしまった。(……あ)ほんの一瞬の出来事なのに、胸がきゅっと縮む。休み時間。陽菜が悠真のところへ行くのが、視界に入る。「悠真くん、昨日寒くなかった?」明るい声。悠真は少し驚いたあと、笑った。「まあ、ちょっと」その笑顔に、凪の指先が冷たくなる。(私の知らない会話……)黒板を見つめながら、凪は深く息を吸った。(大丈夫。大丈夫……)でも、心は言うことを聞かない。放課後。今日は、凪は一人で帰る日だった。校門を出ると、空気がひんやりとしていて、昨日よりも寒く感じる。歩きながら、ふと足を止めてしまう。——ここ。昨日、悠真と別れた場所。(また、立ち止まってる……)自分でも苦笑いしてしまう。何かあったわけじゃない。誰かに傷つけられたわけでもない。それなのに。(どうして、こんなに苦しいんだろう)スマホを取り出す。メッセージは、何も来ていない。送る理由も、ない。凪はそっと画面を消した。空を見上げると、小さな雪が、ちらちらと舞い始めていた。(あの日みたい……)まだ、楽しかった記憶の方が新しいのに、それがもう遠いものみたいに感じてしまう。「……戻れないのかな」小さくこぼれた言葉は、雪に吸い込まれて消えた。凪は歩き出す。足元で、雪が静かに音を立てる。その音だけが、今の自分
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ねえ悠真くん、今度テスト終わったら一緒に帰らない?

夕焼けが沈み、教室には薄いオレンジ色の影が伸びていた。三人で並んだ机の上には、開いたノートと消しゴム。静かな時間のはずなのに、凪の心臓だけがやけに大きく鳴っている。「ここさ、この公式使うんだよ」悠真がそう言ってペン先を動かす。「へぇ〜!さすが悠真くん!」陽菜は目を輝かせて身を乗り出した。その拍子に、陽菜の肩が悠真の腕に軽く触れる。ほんの一瞬。でも、凪にははっきり見えた。悠真が少しだけ驚いて、でも離れなかったこと。胸が、ぎゅっと締めつけられる。(近い……)陽菜は気にした様子もなく、楽しそうに笑う。「悠真くんと勉強すると分かりやすいんだよね。    凪ちゃんもそう思わない?」突然振られて、凪はびくっとした。「え……う、うん」声が少し震えてしまう。悠真が心配そうに凪を見る。「大丈夫?」「うん、大丈夫だよ」そう言いながら、目をそらした。本当は全然大丈夫じゃない。陽菜はくるっと悠真の方を向いた。「ねえ悠真くん、   今度テスト終わったら一緒に帰らない?」凪の心臓が止まりそうになる。教室の空気が一瞬固まった。悠真は少し驚いた顔をして、それから困ったように笑った。「えっと……」その沈黙が、やけに長く感じる。凪は息をひそめて答えを待った。陽菜の瞳はまっすぐで、真剣だった。「私ね、悠真くんともっと話したいんだ」素直な気持ち。逃げ場のない空気。悠真はゆっくりと口を開く。「……ごめん」凪の胸が跳ねる。「約束があるんだ」「約束?」陽菜が聞き返す。悠真はちらっと凪を見る。「凪と、一緒に帰るって決めてる」その言葉に、凪の目が大きく見開かれた。陽菜は一瞬驚いたあと、少しだけ寂しそうに笑った。「そっか……そり
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この時間が続くほど……きっと苦しくなる

夕焼けの光が、教室の床をゆっくりと染めていく。窓際の席で、凪はノートを閉じたまま、外を見つめていた。背後から聞こえる、明るい声。「悠真くん、この問題さ……    ちょっと教えてほしいんだけど」振り向かなくてもわかる。その声の主は、クラスの人気者——陽菜(ひな)だった。悠真は少し困ったように笑いながら、それでも丁寧に椅子を引いた。「うん、どこ?」その声は、いつもと同じ。誰に対しても変わらない、誠実で優しい声。それが、凪には苦しかった。鉛筆が紙の上を走る音。二人の距離が、ほんの少し近づく。凪の胸が、きゅっと締めつけられる。(悠真は、悪くない)わかっている。悠真は誰かを選ぼうとしているわけじゃない。ただ、優しいだけ。陽菜は楽しそうに悠真の顔を見上げた。「悠真くんってさ、本当に優しいよね」「……そんなことないよ」「あるよ。クラスのみんなそう思ってるもん」照れたように視線をそらす悠真。その仕草ひとつで、凪の心は揺れた。(わたしは……どうしたらいいんだろう)声をかけたい。そばに行きたい。いつものように笑いたい。でも、足が動かない。この距離が壊れてしまいそうで。悠真が、遠くへ行ってしまいそうで。そのとき——悠真がふと、こちらを振り返った。夕焼けの中で、凪と目が合う。「……凪」小さく呼ばれた名前。それだけで、胸が熱くなる。陽菜も気づいて振り返り、にこっと笑った。「凪ちゃんも一緒に勉強しよ?」その笑顔は本当にやさしくて、嫌なところなんてひとつもない。だからこそ、凪は断れなかった。その瞬間、悠真がそっと凪の方へ近づく。「無理しなくていいよ」低く、穏やかな声。「凪が嫌なら、今日はやめよう」凪は驚いて
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恋は、誰も悪くなくても、 苦しくなるものなんだと知った

昼休みの教室は、いつもよりにぎやかだった。悠真の席のまわりに、自然と人が集まっている。その中心にいるのは、さっきから何度も見かける、あの女の子。明るい笑顔で、誰の話にもちゃんと頷いて、場の空気をふわっと明るくする。「悠真くんってさ、ほんと優しいよね」その言葉に、周りの子たちも笑う。「わかる〜」「困ってるとすぐ助けてくれるもんね」悠真は少し照れたように、「そんなことないよ」と首を振る。その様子が、なんだか微笑ましくて。凪は遠くの席から、その光景を見ていた。胸が、ちくりと痛む。——あの子、いい子だ。かわいいし、明るいし、悠真の良さをちゃんとわかっている。誰かを悪く言うこともなく、ただ純粋に悠真を慕っている感じが伝わってくる。だからこそ。凪の心は、余計に揺れた。——私より、あの子のほうが似合ってる。——悠真も、きっと楽しいよね。そのとき、女の子がふとこちらに気づいて、凪ににっこり笑いかけた。敵意なんて、まったくない笑顔。むしろ、「一緒に話そうよ」とでも言いたそうな、やさしい表情。凪は思わず、小さく会釈を返す。胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。——いい子すぎる。だから、奪いたくない。でも、失いたくもない。放課後。悠真は凪の隣を歩きながら、少し考え込んだように言った。「今日さ……」凪は心臓が跳ねる。「クラスの子たち、騒がしくてごめん」「迷惑じゃなかった?」凪は首を振る。「ううん……」迷惑なんかじゃない。ただ、少しだけ怖かっただけ。悠真は続ける。「あの子、明るくていい子だよな」その言葉が、凪の胸に静かに落ちる。——やっぱり、悠真もそう思ってる。「みんなに好かれるの、わかる」凪は無理に笑う。
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安心と、物足りなさと、期待が一気に押し寄せる

夕焼けに染まった橋の上に、二人の影がゆっくり伸びていく。風が吹いて、凪の髪がまた揺れた。昨日と同じ。でも今日は、止まらない。悠真は立ち止まり、凪のほうを向く。近い。息がかかるほど近い。「……昨日」その声が少しだけ震えていることに、凪は気づいてしまった。「言いかけたこと、あるだろ」胸がぎゅっと締めつけられる。「聞こえてた?」悠真は小さく頷く。「途中で止めたの、ずっと気になってた」沈黙。車の音が遠くを通り過ぎる。夕焼けの色が、二人を包む。悠真は視線を逸らしながら、ゆっくり言った。「俺さ……凪といると」一瞬、言葉が詰まる。「普通じゃいられなくなる」凪の心臓が大きく跳ねる。「静かにしてても、楽しくて」「離れると、気になって」「昨日も、帰ってからずっと」そこで止まる。凪の胸が苦しくなる。——続きは?——言って。——言ってほしい。でも悠真は、その先を飲み込んだ。代わりに、そっと言う。「……急がせたくない」その優しさが、凪の心を揺さぶる。安心と、物足りなさと、期待が一気に押し寄せる。「凪が嫌じゃなかったら」「こうして、少しずつでいいから」凪は、ぎゅっと拳を握る。——少しずつなんて。——もう十分、好きなのに。でも言葉にはできなくて、ただ頷いた。「……うん」その返事を聞いて、悠真はほっとしたように笑った。その笑顔が、凪の胸を締めつける。恋はもう始まっている。なのに、まだ名前をつけてもらえない。だからこそ、こんなにも苦しくて、甘い。橋の上で止まった夕焼けは、ゆっくり夜へと変わっていく。二人の関係も、静かに、でも確実に進んでいた。
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なのに、昨日までとは違う重さ

朝の光が、カーテンの隙間から差し込んだ。凪は目を開けて、一瞬だけ昨夜のことが夢だった気がして、すぐにスマートフォンを探す。画面をつけると、一番上に残っているメッセージ。「また明日」胸が、ふわっと軽くなる。——夢じゃなかった。布団から起き上がり、制服に着替えながら、鏡に映る自分を見る。いつもと同じ顔。なのに、目だけが少し違う。期待している目。学校へ向かう道は、昨日より少しだけ明るく見えた。教室に入ると、ざわざわとした朝の空気。凪は自分の席へ向かいながら、無意識に探してしまう。——悠真。いた。窓側の席で、いつも通りノートを広げている。その瞬間、悠真が顔を上げた。目が合う。ほんの一秒。なのに、昨日までとは違う重さ。逸らしたのは、ほぼ同時だった。心臓の音がうるさい。席に座っても、視線が気になって仕方ない。すると、机の上に影が落ちた。「……おはよう」悠真の声。凪はゆっくり顔を上げる。近い。昨日より、近い。「お、おはよう」短い挨拶。それだけなのに、空気が甘い。「昨日さ……」言いかけて、悠真が止まる。周りにはクラスメイト。少し気まずそうに、それでも笑う。「放課後、ちょっと話せる?」凪の胸が跳ねる。昨日の続き。今度は、逃げ場のない続き。「……うん」その返事を聞いて、悠真は安心したように小さく息を吐いた。そして自分の席へ戻っていく。凪はしばらく動けなかった。——なにを話すの?——また、近づくの?でも不安より、楽しみの方が大きかった。恋はもう、静かなだけじゃない。ちゃんと動き出していた。
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もう、逃げられない

スマートフォンを胸に抱いたまま、凪はベッドにごろんと横になる。天井を見つめると、さっきまで普通だった部屋が、少しだけ違って見えた。嬉しかった。たった一言。それだけなのに、心の奥がずっと温かい。画面をもう一度開く。新しい通知は、まだ来ていない。なのに、来そうな気がしてしまう。その予感だけで、胸がきゅっとなる。「……ばか」小さく呟いて、枕に顔を埋める。橋の上で近づいた距離。カフェで向かい合った時間。駅前で交わした約束みたいな言葉。全部が、ちゃんとつながっている気がした。スマートフォンが、また震える。今度は短く、軽く。画面に浮かんだのは――おやすみ。また明日。その一行に、凪の心臓が一気に跳ねる。ゆっくり、指を動かす。おやすみ。また明日ね。送信。既読がつくのは、ほんの一瞬だった。凪は思わず笑ってしまう。もう、逃げられない。でもそれが、嫌じゃなかった。布団をかぶって目を閉じる。夜は静か。なのに胸だけが騒がしい。恋は、音を立てずに始まるものだと思っていた。でも本当は、こんなふうに――静かに、でも確実に、心を占領していくものなんだ。凪はそのまま、小さな幸せを抱えたまま眠りについた。明日が来るのが、少しだけ楽しみで。
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昨日と同じはずなのに、少しだけ、目の奥が違う

街灯の下を通り過ぎるたび、影が少し伸びて、また元に戻る。凪は歩きながら、スマートフォンを握った指先に、まだ残っている温度を感じていた。——見なかった。——返さなかった。それは、逃げじゃない。今は、そう言い切れる。立ち止まって、小さく息を吐く。静かな住宅街。誰かの家の窓に、明かりが灯っている。当たり前の夜が、当たり前に続いている。凪は、もう一度だけ空を見上げる。雲の切れ間に、星がひとつ。——明日、会う。それだけで、胸の奥が、少しだけ引き締まった。今日の夜に、無理に言葉を足さなくてよかった。そう思える自分が、ほんの少し、頼もしい。スマートフォンをバッグにしまい、歩き出す。“待ってる”と言ったのは、相手を縛るためじゃない。自分が、次の時間を選ぶためだった。玄関の前で立ち止まり、凪は深呼吸をひとつ。夜は、ここで終わる。でも、物語は終わらない。静かに、でも確かに、次の朝へとつながっている。凪はドアを開けて、いつもより少しだけ、やわらかな気持ちで、家に入った。布団に入って、電気を消しても、すぐには眠れなかった。凪は天井を見つめながら、呼吸のリズムを整える。スマートフォンは、バッグの中に入れたまま。取り出さない、と決めた。——今日は、ここまで。それが、自分を大事にする選択だった気がする。目を閉じると、カフェの窓際の席が浮かぶ。湯気。夕方の光。向かいに座る、悠真の横顔。言葉は少なかった。でも、足りなかったわけじゃない。凪は、「また来たい」と言えた自分を思い出す。あの一言で、時間はちゃんと前に進んだ。カーテンの隙間から、夜の街灯の光が差し込んでいる。その明かりが、少しずつ遠のいていく感覚。やがて
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これは、もう「ただの寄り道」じゃない

席に着いてから、少しだけ時間が空いた。メニューはテーブルの端に置かれたまま、二人とも、まだ手を伸ばしていない。店内には、低めの癒しの音楽。カップの、遠くで聞こえる話し声。凪は、メニューを開くふりをして、文字を追う。けれど、内容はほとんど頭に入ってこなかった。——向かい、か。真正面に座った悠真は、視線を落としたまま、少しだけ姿勢を正している。橋の上とも、教室とも違う距離。逃げ場のない距離。「……何、飲む?」悠真が先に口を開いた。思ったよりも、穏やかな声。「えっと……」凪は迷ってから、一番無難そうな名前を指さす。「これ」「じゃあ、俺もそれにする」同じもの。それだけで、胸の奥が小さく鳴る。店員を呼ぶとき、悠真の手が一瞬だけ宙で止まった。ためらいと、決意が混ざった動き。注文を終えると、また沈黙が戻ってくる。でも、さっきまでの沈黙とは少し違った。逃げるための静けさじゃない。「……来てくれて、ありがとう」悠真の声は低く、目はまだ合わない。凪は、少しだけ驚いてから、小さく首を振る。「ううん。私も……来たかったから」言い切ったあとで、心臓が遅れて跳ねた。——言った。悠真は、ほんの一瞬だけ顔を上げる。目が合う。すぐに逸れる。それでも、その一瞬で、何かが確かに伝わった気がした。運ばれてきたカップから、湯気が立ち上る。夕方の光と、温かい飲み物と、言葉にしきれなかった気持ち。凪はカップに手を伸ばしながら思う。——これは、もう「ただの寄り道」じゃない。物語は、ちゃんと次のページに進んでいた。
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言うの?言わないの?

自転車のベル音が、思ったより遠くで鳴った。それでも、二人の間に落ちた沈黙は、簡単には消えなかった。凪は、橋の欄干の向こうを見つめたまま、息を整える。さっき、ほんの一瞬だけ。悠真が何かを言おうとした気配が、まだ胸の奥に残っている。——言わなかった。それだけなのに、心が追いつかない。「……寒くなってきたな」悠真の声は低くて、いつも通りだった。まるで、何も起きなかったみたいに。凪は小さくうなずく。その動きが、自分でも驚くほど慎重だった。二人は並んで歩き出す。靴底が橋を叩く音が、一定の間隔で続く。距離はさっきと変わらない。近いまま、触れないまま。凪は思う。もしあのとき、ベルが鳴らなかったら。もし、悠真が一歩下がらなかったら。——それでも、たぶん。言葉は、出なかった気がする。悠真は横目で凪を見る。ほんの一瞬だけ。そして、また前を向く。守るみたいに。逃げるみたいに。橋を渡り切ったところで、夕焼けが少しだけ色を変えた。オレンジが、ゆっくりと薄くなる。何事もなかったように、日常は戻ってくる。でも、確かに何かが残った。言葉にならなかった感情だけが、二人の間を、まだ行き来していた。
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凪を傷つけるやつは……俺が許さない

チャイムが鳴り終わるよりも早く、教室の空気がざわついた。「ねぇ聞いた? 三條くんが――」「信じられないんだけど。なんであの子?」全員の視線が凪に刺さる。胸がぎゅっと縮まる感覚。机の奥で指が震えた。(どうしよう……どうすれば……)三條輝が凪に告白したという噂は、たった半日で学校中に広がってしまった。廊下から戻ると、女子たちが三條の席を囲んでいた。その中心に、クラスの中心グループの一人――冷たい眼差しをした 神谷 玲奈(かみや れな) が立っていた。「三條くん、答えてよ。 なんでよりによって“あの子”なの?」彼女の視線が鋭く凪を斬る。凪は身体がこわばるのを感じた。三條は少し眉を寄せ、落ち着いた声で返した。「……誰を好きになっても、俺の自由だろ」玲奈の顔つきが歪む。「でもさ、あの子って……地味だし、影うすいし。 三條くんと並ぶなんて無理があるでしょ?」凪の心が痛む。(言わないで……そんなの……)教室の空気がさらに張りつめていく。玲奈は凪を一瞥し、吐き捨てるように言った。「ちょっと優しくされたからって 勘違いするんじゃないわよ。 似合ってないんだよ。 ねぇ、わかってる?」言葉が刺さる。呼吸が苦しくなる。逃げたい。でも足が動かない。その瞬間――「……お前、何言ってんだ」低く、でも確かに震えた声が教室の入口からした。悠真だった。顔は怒りで赤くなり、拳が強く握られている。「凪が何したっていうんだよ」玲奈が挑発するように笑う。「へぇ。庇うってことは、もしかして……」言いかけた言葉を、悠真が鋭い声で断ち切った。「凪を傷つけるやつは……俺が許さない」空気が凍りついた。凪は息を呑む。(そんな……言い
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じゃあ…… また呼んでもいい?

家に帰ってきた凪は、玄関で靴を脱ぎながら、さっき悠真が肩を支えてくれた温度を思い出していた。涙を見られたこと。弱さを見せてしまったこと。(……恥ずかしい)そう思うのに、胸の奥ではなぜか“安心”が溶け残っている。リビングの電気をつけても、その余韻は消えなかった。夜──。布団に入っても、眠れなかった。(悠真……  怒ってたわけじゃないよね……)思い返すほど、心がざわざわする。そのとき。スマホが小さく震えた。画面には——『帰ってから大丈夫?   ……無理してない?』悠真からのメッセージだった。胸がぎゅっとなる。返信を迷っていると、またメッセージが届いた。『今日のこと、 無理に話さなくていいよ。 でも……泣かせたくなかった』凪は思わず息をのんだ。(……泣かせたくなかった、って)指が震えながらも、凪は返す。『大丈夫。迷惑かけてごめん』数秒後、即レスが来た。『迷惑なんて思ったことない。 むしろ…… 頼ってくれて嬉しかった』その言葉は、今日いちばん凪の心を揺らした。胸の奥のなにかがぽたりと溶けて、涙がまたこぼれそうになる。(……どうして  そんな優しいこと言うの……)スマホを握ったまま、布団に顔を埋める。そのとき——『凪』名前だけのメッセージが届いた。え? と凪は固まる。(名前だけのメッセージなんて……  どういう意味?)ドキドキしていると、続けてもう一通。『ちゃんと呼びたくなった。 今日、 泣きそうな顔してた時も…… 名前で呼びたかった』凪は一瞬で目が熱くなる。言葉が返せない。胸がいっぱいで、指が動かない。送信画面を見つめていたら、またメッセージが届いた。『……嫌だった?』凪は慌てて返信す
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