勝ち負けのない頷き方を、人はどこで覚えるんだろう
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コラム
終礼のチャイムが鳴ると、
クラスのざわめきがほどける。
凪(なぎ)は
三人分の「ねぇ、ちょっといい?」を受け取った。
文化祭の役割分担、
部活のトラブル、
家の愚痴。
相槌、共感、少しの助言。
いつもの手順。
「凪に話すと落ち着くんだよね」
その言葉は確かに嬉しいのに、
胸の奥で小さな灯が酸素を欲しがる。
廊下の角を曲がったところで、
足が止まった。
階段の踊り場、窓の四角い光。
そこに凪は、
荷物をそっと床に置いて、壁にもたれた。
深く息を吸う――
はずが、途中でひっかかる。
涙が出るほどではないのに、
喉の奥がきゅっと狭くなる。
「……水、飲む?」
不意に差し出されたペットボトル。
顔を上げると、悠真(ゆうま)がいた。
隣のクラス。
いつも明るいタイプ。
けれど今は声を小さくしていて、
目だけが静かだ。
「ありがと」
ひと口飲む。
冷たさが通る道筋を、
からだが思い出していく。
「それ、あげる」
「え、でも」
「もう一本ある。
さっき自販で二本押しちゃってさ」
嘘っぽくない冗談の密度。
凪は、肩の力が少し抜けるのを感じた。
二人で踊り場の窓に寄る。
外はうっすら金色、
グラウンドの掛け声が遠い。
沈黙。
ふだんなら
「ごめんね」
「大丈夫」と気を利かせて
口を満たすところを、凪は何もしなかった。
それでも、沈黙は膨らまず、どこか柔らかい。
「……聞いてほしい?」
悠真がようやく口を開いた。
問いは短く、押しつけがない。
凪は少しだけ迷って、うなずく。
「今日、ずっと“聞く人”だった。
上手く聞こう、って思いながら、
途中で自分がいなくなってくみたいで」
「いなくなる、か」
「うん。顔は笑ってるのに、胸のところだけが空洞。
みんなの言葉がそこに、
ざあって入ってきて、底がないみたいな感じ」
「うん」
「解決してあげたいわけじゃないのに、
何か言わなきゃ、って。
言えば言うほど、
相手の顔色を見てる自分に気づいて、
また苦しくなる」
「……わかる気がする」
悠真は手すりに肘を置いた。
続けて何か言うかと思ったけれど、言わない。
代わりに、制服のポケットから
細い靴ひもを取り出した。
「これ、さっき切れた予備。見てて」
靴ひもを軽く結んで、ぎゅうっと締める。
「きついね」
「うん。こうすると走れない。
足の感覚なくなる」
次に、結び目を少し戻す。
「このくらいだと?」
「歩ける。息もしやすい」
「たぶん、さ。さっきの“いなくなる感じ”って、
心のひもがきつすぎる状態に似てるのかも」
比喩は簡単で、でも刺さらない優しさがあった。
凪は少し笑って、
それからふっと息を吐いた。
「ほどくの、下手なんだ、私」
「俺も。前は、
すぐ“解決”でぎゅっと結んでた。
アドバイスとか、正しさとか。
でもさ、ある時、
それが相手の足を止めてるのに気づいて。
だから最近は、とりあえず隣にいるって決めてる」
「隣にいる、だけ?」
「うん。話を急がない。
沈黙が来たら、沈黙のままにする。
それでもう一回、
相手が自分の言葉で話すのを待つ。
……待てない時もあるけど」
「待つの、こわくない?」
「こわい」
即答だった。
「でも、俺は“正しいこと”より
“近くにいること”の方が価値ある
かもしれないって考えてるんだ。
だから一回、こわい方を選んでみる」
凪の喉の奥のひっかかりが、
少しずつ形を失う。
(“近くにいる”に価値がある)
その言葉は、
今日いちにちの自分をゆるやかに肯定してくれる。
「ねぇ、もしさ」
凪は、窓の外を見ながら言った。
「愚痴がずっと続いて、
私まで重くなってくるとき、
どうしたらいいと思う?」
「俺なら、正直に言うかも。
『俺も少し苦しくなってきた。別の話、少しだけしない?』って。
それで離れられるなら、
関係ごと壊す必要はないと思う」
「離れる、か」
「距離は冷たさじゃないよ。
息継ぎだと思ってる。
ずっと潜ってると、誰でも苦しくなるでしょ」
凪はペットボトルを握り直した。
手の中の冷たさが、輪郭をくっきりさせる。
「息継ぎ、か。……それ、使ってみる」
「うん。もしうまくいかなかったら、
またここで靴ひも結び直そ」
軽い笑いが、踊り場の空気を少し持ち上げる。
そこへ風が入って、二人の前髪を同じ方向へ揺らした。
「ありがとう」
凪は、ようやく正面を向いて言った。
「何か“言われた”気はしないのに、落ち着いた」
「よかった」
悠真は、それ以上、勝ち誇ったりしない。
ただ頷く。
勝ち負けのない頷き方を、
人はどこで覚えるんだろう。
階段を降りる前、凪は立ち止まった。
「ねえ、悠真」
「ん」
「“話していて楽しい人”って、
話が面白い人のことじゃないんだね」
「うん?」
「黙ってても、
心が温かくなる人のことだと思う」
悠真は少し目を細めた。
「じゃあ、今日の俺、
ちょっとは楽しい人だった?」
「うん。かなり」
照れくさくて、笑いに逃げる。
二人は別の方向に降りていく。
足音が遠ざかるほど、
胸の奥が静まっていくのがわかった。
帰宅して、机に向かう。
凪はノートを開いて、
今日のページに小さく書く。
――“聴く”は、相手の靴ひもを結び直さないこと。
――“寄り添う”は、同じ階段に座って、同じ風を受けること。
――“距離”は、息継ぎ。離れることは、見捨てることじゃない。
書き終えると、スマホの画面に一件のメッセージが。
《今度、図書室の窓のとこ、また座ろう。—悠真》
凪は返信を打つ。
《今日の水、ありがとう。うん。沈黙の練習もしよう。—凪》
送信ボタンを押した瞬間、
胸の中で小さな灯に新しい酸素が入った気がした。
窓の外、夜のはじめの風。
明日もきっといろんな声を聞く。
でも、いなくならない方法を、少し覚えた。
――“声のない優しさ”は、ちゃんと届く。