放課後の図書室。
窓際の席には、夕陽を背にした凪と悠真。
いつものように、
二人のあいだには穏やかな沈黙が流れていた。
ページをめくる音と、外を走る自転車のベルの音。
沈黙は、安心のしるし。――
凪はそう思っていた。
けれど、その日は違った。
「ねぇ、聞いてもいい?」
凪が顔を上げたとき、
悠真の目が少し疲れて見えた。
「うん、どうしたの?」
「部活の後輩がさ、いろいろ相談してくるんだけど、
途中で泣かれたんだ」
「泣かれた?」
「うん。“わかってくれない”って。
俺、ちゃんと聞いてたつもりだったんだけどな」
凪は少しだけ笑う。
「それ、わかる気がする。
私も“わかってるよ”って言った瞬間、
相手の顔が曇ったことがある」
「なんでだろうな。ちゃんと聞いて、
共感したつもりでもさ」
「たぶん、“わかる”って言葉の中には、
“もうそれ以上話さなくてもいいよ”っていう
サインが入ってるんだと思う」
「え、そうなの?」
「うん。“わかる”って言うと、
相手の心のドアが一瞬閉まることがある。
ほんとは、“わからないけど、
そばにいる”でいいのかも」
悠真は顎に手をあてたまま、
しばらく黙っていた。
「……“わからない”って、なんか怖いな」
「うん、怖い。でも、嘘の“わかる”より、
ずっとあたたかい気がする」
窓の外では、
赤い夕陽が少しずつ薄くなっていく。
その光の色のように、会話も静かに沈みこんでいった。
数日後。
教室で、
凪は友達の真帆に呼び止められた。
「ねぇ、聞いてよ!また部活であの子がさ――」
凪は微笑んでうなずく。
けれど、心の中では息を整えていた。
(また、“聞く人”になる時間だ)
真帆の言葉が続く。
「先生、絶対私のこと嫌ってるんだよね」
「そう感じたんだ」
「感じた、じゃなくて、
絶対そうなの!態度が違うもん!」
凪は頷きながら、
心のどこかで“白黒思考”という言葉を思い出していた。
(全部が白か黒かじゃない。
グレーがあるって伝えたい。でも今は……)
「うん、そうなんだね」
その瞬間、真帆の眉がわずかに上がる。
「なんか、冷たいね」
凪の胸がざわつく。
――共感しすぎても疲れる。
けれど、距離を取ると冷たく見える。
心のバランスは、いつも揺れている。
放課後、凪はまた図書室の窓際にいた。
今日は先に悠真が来ていた。
机の上には、コーヒー牛乳が二本。
「どっちか好き?」
「……どっちでも」
「じゃあ甘い方」
紙パックを受け取る。
開ける音が重なって、
小さく笑いがこぼれる。
「ねぇ、悠真。
私ね、今日“冷たいね”って言われた」
「誰に?」
「友達に。
頷くだけじゃ足りなかったみたい」
悠真は少し考えてから、言った。
「“わかる”って言われて
冷たく感じる人もいるし、
“頷くだけ”で救われる人もいる。
相手がどっちかは、たぶんその日ごとに違う」
「……正解がないんだね」
「うん。だから、間違えてもいいんじゃない?」
「間違えても?」
「その人のために考えて悩んでる時点で、
もうちゃんと寄り添ってると思う」
凪はその言葉に、ゆっくりと息を吐いた。
(そうか。“正しく聴く”より、
“誠実に迷う”のほうが、人を支えるのかもしれない)
夕陽が沈み、図書室の窓に街灯の明かりが映る。
二人の影が机に重なる。
悠真が、小さく言った。
「俺、あの時後輩に“わからない”って
言えばよかったのかも。
“そんなに苦しいのか”ってだけ伝えれば、
泣かれなかったのかな」
「ううん、泣かれたからこそ、
悠真の言葉が届いたんだと思う」
「そうかな」
「うん。涙って、
“伝わった”のサインかもしれないよ」
悠真は小さく笑った。
「それ、覚えとく」
夜。
凪は日記に書く。
《今日の気づき》
・“わかる”は魔法じゃない。時々、扉を閉める言葉になる。
・“わからないけど、聴いてる”の方が、心は通じやすい。
・正しさより、誠実な迷いを。
ペンを置くと、スマホが震えた。
《今日、泣かれなかったよ。凪の言葉、効いたかも。—悠真》
凪は笑いながら返信を打つ。
《“わからない”を、ちゃんと伝えられた証拠だね》
送信ボタンを押すと、胸の奥でまたひとつ、音のない安心が灯った。
――“共感”とは、わかることではなく、
わからなさを一緒に抱えること。
そして、今日もその練習を、放課後の光の中で続けていく。