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まだ誰も気づいていない

校門の前。朝の光が、少しだけ強くなる。凪と悠真。ほんの少しの距離。その距離が、やけに遠く感じる。「……おはよう」さっき交わした言葉の余韻が、まだ残っている。次の言葉が、出ない。凪は、少しだけ指を握る。逃げないと決めたのに。やっぱり、少しだけ怖い。悠真が、ゆっくり口を開く。「昨日のことなんだけど」その声は、落ち着いていた。でも、どこかで、迷っている。凪は、うなずく。「……うん」短い返事。でも、ちゃんと聞く姿勢。悠真は、少しだけ息を吸う。「俺さ」少し間。視線を外さない。「ちゃんと見てるつもりだった」凪の心臓が、少しだけ強く鳴る。「でも」悠真の声が、少しだけ低くなる。「見てなかったかもしれない」その言葉に、凪は少しだけ目を見開く。予想していなかった言葉。悠真は、続ける。「昨日さ」少しだけ苦笑する。「陽菜にも言われたんだよ」一瞬だけ、空気が揺れる。「……ゆうまのおばかさんって」凪の心が、少しだけ揺れる。その言葉。どこか、引っかかる。でも、不思議と、やさしく響いた。悠真は、少しだけ目を細める。「たぶん、俺」少し間。「ちゃんと見てなかった」まっすぐな言葉。逃げていない。そのことが、伝わる。凪は、少しだけ息を止める。胸の奥が、静かに揺れる。(……あ)昨日、感じた違和感。それが、少しだけ形になる。悠真は、続ける。「だから」一歩、少しだけ近づく。距離が、ほんの少し縮まる。「ちゃんと知りたい」その言葉が、静かに落ちる。凪の視線が、揺れる。逃げたくなる。でも、逃げないと決めた。凪は、小さく息を吸う。「……わたしも」声が、少しだけ震える。震えが止まらない。「ちゃんと話したい」言えた。はじめて、ちゃんと
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ちゃんと見ろってことかよ……

夜の道は、少しだけ明るく感じた。街灯の光が、やわらかく続いている。二人の足音が、静かに重なる。凪は、少しだけ顔を上げていた。さっきまでとは違う視線。でも、まだ、どこかで迷っている。蓮が、ふと歩く速度を少しだけゆるめる。凪の歩幅に、自然に合わせる。そのさりげなさに、凪は気づく。何も言わないのに。ちゃんと見てくれている。そのことが、少しだけ嬉しい。「……さ。」凪が、小さく声を出す。蓮が、少しだけ顔を向ける。「うん?」凪は、少し迷う。でも、今なら、言える気がした。「さっきの……」言葉を探す。「ズレてるっていうの。」少しだけ視線を落とす。「なんか、わかる気がする。」蓮は、少しだけ笑う。「そっか。」それだけ。余計なことは言わない。その受け止め方が、やさしい。凪は、続ける。「ちゃんとしなきゃって思うほど」少し間。「うまくいかなくなる感じ。」今まで、はっきり言えなかったもの。蓮は、ゆっくりうなずく。「あるよね。」短い言葉。でも、ちゃんと届く。凪は、少しだけ安心する。そのとき、ふと、胸の奥に浮かぶもの。悠真。あの帰り道。あの言葉。「なんかあった?」同じ言葉だった。でも、違った。何が違ったのか。少しだけ考える。(あ……)気づいた。悠真は、優しかった。でも、“どうすればいいか”までは、見ていなかった。蓮は,理由はわからないのに“今の自分”を見てくれていた。その違いが、少しだけわかる。凪は、立ち止まりそうになる。でも、歩きながら、そっとつぶやく。「……ちゃんと見てくれる人って」少しだけ、声が小さくなる。「違うんだね。」蓮は、少しだけ驚いた顔をする。でも、すぐに、やわらかく笑う。「たまたまだよ。」軽く
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気づいてたのに、何もしてねえ

夕焼けは、もう少しだけ色を濃くしていた。帰り道。住宅街に入ると、さっきまでの足音が少しだけ響かなくなる。悠真は、凪の後ろ姿を思い出していた。あの距離。ほんの少しなのに、どうしてあんなに遠く感じたのか。(……なんでだよ)歩きながら、何度も考える。何かしたのか。何もしてないのか。わからない。ただ一つだけ、はっきりしている。「いつもと違う」それだけだった。隣で、陽菜が歩いている。少しだけ間をあけて。「ねえ。」陽菜が声をかける。悠真は顔を向ける。「さっきの、気づいてるよね。」悠真は、少しだけ黙る。誤魔化そうとして、やめた。「……ああ。」短く答える。陽菜は、少しだけ笑う。でもその笑顔は、いつもより静かだった。「凪さ。」少し間。「無理してるよ。」その言葉が、ゆっくり落ちてくる。悠真の中に。「……だよな。」自然に出た言葉だった。陽菜は、少しだけ安心したようにうなずく。「たぶんさ。」空を見上げる。夕焼けが、少しだけ淡くなってきている。「言えないんだと思う。」「……何を。」悠真が聞く。陽菜は、少しだけ考える。それから、やわらかく言った。「自分の気持ち。」その言葉に、悠真は何も言えなくなる。頭の中で、凪の顔が浮かぶ。笑っていた。でも。あの笑顔は、少しだけ違った。(気づいてたのに)胸の奥が、少しだけ痛くなる。(気づいてたのに、何もしてねえ)足が、止まりそうになる。でも、止まらない。陽菜が、ふっと横を見る。「悠真。」「ん?」「ちゃんと見てあげなよ。」まっすぐな声だった。「凪のこと。」悠真は、息を飲む。「……見てるよ。」すぐに出た言葉。でも。陽菜は首を少しだけ振る。「ううん。」やさしく。「見てる“つもり
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勝手に決めるな。俺の気持ち聞いてからにしろよ。

夕方の光が、廊下の床に長く伸びていた。窓から差し込むオレンジ色が、三人の影を静かに並べている。誰も、すぐには言葉を出さなかった。凪は、少しだけ目を伏せた。胸の奥が、落ち着かない。さっきの言葉が、まだ耳に残っている。「勝手に決めるな。 俺の気持ち聞いてからにしろよ。」その言葉を思い出すたび、胸がぎゅっとなる。でも。凪は、小さく息を吸った。そして、少し笑う。「……わたし、先に帰るね。」静かな声だった。でも。その声は、どこか遠かった。悠真の眉が、少しだけ動く。「もう帰るの?」凪はうなずいた。「うん。今日は、ちょっと疲れちゃった。」本当は違う。疲れているのは、体じゃない。心だ。でも。そんなこと、言えるはずがない。凪は、カバンの紐をぎゅっと握る。そして歩き出そうとした。そのときだった。「待てよ。」悠真の声。凪の足が止まる。振り向かない。振り向いたら、きっと顔に出てしまうから。少しだけ、沈黙。夕焼けの光が、さらに濃くなる。悠真は、ゆっくり言った。「また、勝手に決めてる。」凪の胸が、強く揺れる。でも。凪は、笑ったまま言う。「決めてないよ。」「……決めてる。」短い言葉。でも。その声は、まっすぐだった。その空気を、陽菜も感じていた。陽菜は、二人を交互に見る。いつもの空気じゃない。凪の笑顔。どこか、無理をしている。悠真の声。少しだけ、強い。陽菜は、ふっと小さく息をついた。そして、やわらかく言った。「なんかさ。」二人が、陽菜を見る。陽菜は少し笑う。「わたし、邪魔してる?」凪の心臓が跳ねる。「そんなことないよ!」凪は、すぐに言った。少し、早すぎるくらい。でも。陽菜は、わかってしまった。三人の間に流れる
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「うん、それでいいよ」

今日は山へ行こう、と思った。理由はよくわからなかったけれど、心がすこしざわざわしていて、誰かに会うより、自然の中に身を置きたい、そんな気分だった。小さな登山道を、ぽつりぽつりと歩いていく。葉っぱが風にゆれて、カサカサと鳴る音が、やけに心地いい。──ねえ、私はどうしたらいいの?そんな問いが、ふと、心の奥から聞こえてきた。仕事も、人づきあいも、がんばってるつもり。だけど思うようにいかないことばかりで、「これじゃダメなのかな」って、自分を責めてばかりいた。そんなとき、一羽の鳥が目の前の枝に止まった。こちらを気にするでもなく、ただ空を見ている。ああ、この子は、今日が晴れでも、曇りでも、雨でも、きっと「それでいい」って思ってるんだろうな。わたしは、なにかを変えようとばかりしてた。相手を、環境を、自分自身を……でも、この森の木々も、風も、空も、誰も「変わって」なんて言ってこない。そっと立ち止まって、大きな木に手を添える。あたたかくも冷たくもない、ちょうどいい感触。「……ありがとう」声にならない声が、口の奥から出てきた。誰に、ってわけじゃない。でも、自然のすべてが、「うん、それでいいよ」って、見守ってくれている気がした。そういえば、前に読んだ本に、こんな言葉があった。『釈迦の教えは「感謝」だった』苦しみは、思いどおりにしたいと思うところから生まれる。受け容れることが、自分をいちばん楽にしてくれるんだって。それは、まるで自然みたいだ。思いどおりにしようとしない。ただ、いまを受け容れて、生きている。私も、少しだけそんなふうに生きられたらいいな。木々はなにも言わないけれど、風も光も、なにも返しては
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本当の気持ちと向き合う時間が、始まる。

校門の前。凪の言葉の余韻が、まだ残っている。「好きだよ」「でも、無理してた」その二つが、空気の中で重なっている。悠真は、少しだけ黙る。逃げない。でも、すぐにも答えない。その沈黙が、やさしい。凪は、少しだけ息を整える。言ってしまった。戻れないところまで。でも、後悔は、していない。悠真が、ゆっくり口を開く。「……ありがとう」その言葉に、凪は少しだけ驚く。責められると思っていた。でも、違った。悠真は、続ける。「ちゃんと言ってくれて」少しだけ笑う。でも、その笑顔は、どこか不器用だった。「俺、たぶん」少し間。「勝手に思ってた」凪の心が、少しだけ揺れる。「凪は、こうだって」「自分の中の凪。  それに、当てはめていた。」悠真は、視線を落とす。「ちゃんと見てるつもりで」少しだけ苦笑する。「見てなかった」その言葉に、凪の胸が、静かにほどける。責めていない。自分も、同じだったから。「……わたしも」「勝手に決めてた」小さく、こぼれる。「悠真の気持ち。ちゃんと聞く前に。 距離を取ろうとしていた。」二人の間に、静かな理解が生まれる。少しだけ。ほんの少しだけ。そのとき、陽菜が、ふっと息を吐く。「……よかった」ぽつりと、自然に出た言葉。凪と悠真が、同時に陽菜を見る。陽菜は、少しだけ肩をすくめる。「なんかさ」少し笑う。「ちゃんと話してる感じ、初めて見た」その言い方に、やわらかさがある。責めていない。ただ、二人を見ていた言葉。そして、ほんの少しだけ、いたずらっぽく笑って。「ゆうまのおばかさん」軽く言う。でも、その一言は、やさしかった。空気が、ふっと緩む。悠真が、少しだけ苦笑する。「……はいはい」どこか救われた顔
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昨日のことが、よみがえってくる。

朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。やわらかい光。どこか逃げられない明るさ。凪は、ゆっくりと目を開ける。一瞬だけ、ぼんやり。昨日のことが、よみがえってくる。蓮との帰り道。部屋での時間。悠真からのメッセージ。「……もう朝、・・・か。」小さくつぶやく。胸の奥がざわつく。怖いわけじゃない。でも、落ち着かない。布団の中で、少しだけ体を丸める。(ちゃんと、話そう・・・)昨日、そう決めたんだ。まだどう話すかは、決まっていない。スマホを手に取る。画面を開く。悠真とのやりとり。最後は、自分の「うん」。短い「うん」に全部詰まっている。「……行かなきゃ」小さく言って、体を起こす。制服に着替える。紺のブレザー。赤いリボン。いつもと同じはずなのに、今日は、少しだけ違う気がする。鏡の前に立つ。自分の顔を見る。(ちゃんと……見て)蓮の言葉が浮かぶ。“無理してること、あるんじゃない?”凪は、少しだけ深呼吸する。笑おうとして、やめる。無理に笑わない。そのままでいい。「……いってきます」小さく言って、家を出る。朝の空気は、少し冷たい。そして、どこか澄んでいる。通学路。見慣れた道。今日は、少しだけ遠く感じる。学校が近づく。心臓が、少しだけ速くなる。門が見える。そのとき、校門の前に人影。凪の足が、止まりかける。遠くからでもわかる。悠真。いつもの場所。今日は、待っているように見える。凪の心臓が、大きく震える。(もう……)逃げられない。でも、逃げたくない。一歩、踏み出す。もう一歩。距離が、少しずつ縮まる。悠真が、顔を上げる。目が合う。その瞬間、空気が少しだけ変わる。昨日までとは違う何か。静かな緊張。はりつめた空
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なぜか、少しだけ名残惜しい。

夜の道は、どこまでも続いているように見えた。街灯の光が、やわらかく並んでいる。二人の足音が、ゆっくりと重なる。さっきよりも、少しだけ近い距離。でも、まだ、はっきりとは触れない距離。凪は、ふと気づく。自分が、少しだけ話しやすくなっていることに。無理に言葉を選ばなくてもいい。沈黙も、怖くない。そのことが、不思議だった。「……ねえ。」凪が、小さく声を出す。蓮が、やさしく顔を向ける。「うん?」凪は、少しだけ考える。そのまま、言葉を出す。「蓮くんってさ。」少し間。「いつも、そんな感じなの?」蓮は、少しだけ笑う。「そんな感じって?」凪は、少しだけ視線をそらす。「なんか……」言葉を探す。「ちゃんと見てる感じ。」その言い方に、少しだけ照れが混じる。蓮は、一瞬だけ考える。それから、軽く肩をすくめる。「どうだろ。」「たまたまかも。」軽い言い方。でも、ごまかしているわけでもない。凪は、少しだけ首をかしげる。「たまたま、か。」その言葉を、ゆっくり受け止める。そのとき。ふと。凪の足が、少しだけ止まる。家の前の角。もう、すぐそこだった。「あ……」小さく声が出る。蓮も、足を止める。「ここ?」凪は、うなずく。「うん。」少しだけ、間。さっきまで自然に続いていた時間が、急に終わりに近づく。その感覚に、少しだけ戸惑う。凪は、少しだけ迷う。このまま「またね」でいいのか。それでいいはずなのに、なぜか、少しだけ名残惜しい。「……今日は、ありがとう。」凪が言う。蓮は、やわらかくうなずく。「うん。」それだけ。でも、その一言が、ちょうどいい。凪は、少しだけ笑う。さっきよりも、自然に。「……また、学校で。」少しだけ勇気を出して言
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その奥で、 まだ名前のついていない感情が、少しずつ形になり始めていた。

夜の空気は、少しだけ冷えていた。街灯の下を、二人で歩く。さっきよりも、距離はほんの少しだけ近い。でも、触れるほどではないそのくらいの距離。凪は、足元を見ながら歩いていた。さっきより、心は落ち着いている。でも、どこかで、まだ揺れている。蓮が、ふと空を見上げる。「今日は、ちょっと寒いね。」凪も、つられて上を見る。夜の空。星は、少しだけ見えていた。「……うん。」小さく答える。その声は、さっきよりやわらかい。少しの間。風が、静かに通り過ぎる。そのとき、凪が、ぽつりと言う。「さっきさ。」蓮が、少しだけ顔を向ける。「うん?」凪は、少しだけ迷う。言っていいのか。今なら、少しだけ言えそうだった。「……なんで、わかったの?」蓮は、一瞬だけ考える。それから、軽く肩をすくめる。「なんとなく。」それだけ。その“なんとなく”が、嘘じゃないことがわかる。「……顔?」凪が聞く。蓮は、少しだけ首を振る。「顔っていうより」少しの間。「空気かな。」凪は、少しだけ目を見開く。「空気……?」自分では気づかなかったもの。でも、言われてみれば、確かにそこにあった気がする。蓮は、続ける。「無理してる人ってさ」少しゆっくりとした声で。「なんか、少しだけズレてるんだよね。」凪は、言葉を失う。ズレてる。その言葉が、静かに胸に落ちる。「……ズレてるんだ。・・・」小さく、つぶやく。蓮は、うなずく。「うん。」「でも」少しだけ、やさしく笑う。「悪いことじゃないよ。」凪が見る。「ちゃんと頑張ってるってことだから。」その言葉に、少しだけ胸が軽くなる。否定されなかった。むしろ、認められた気がした。凪は、少しだけ笑う。「……そっか。」その笑顔は
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うまく言えない。でも、「……楽。」

夜の道は、静かだった。街灯の光が、やわらかく足元を照らしている。二人で歩く帰り道。さっきまでの空気が、まだ少しだけ残っている。凪は、ふと横を見る。隣にいる男子。見たことはある。でも、ちゃんと話したことは、なかった。少しだけ迷って、口を開く。「……顔は、見るけど」少し間。「ちゃんと話すの、初めてだよね。」男子は、やわらかくうなずく。「うん。」それだけで、余計なことは言わない。その感じが、心地いい。凪は、少しだけ考える。「名前……」少し視線を上げる。「たしか、蓮くん……だったよね。」「うん。」「合ってる。」凪は、小さく息をつく。「よかった。」並んで歩く。夜の空気。さっきまでと同じ道なのに、少し違う。蓮が、静かに言う。「……なにかあった?」やさしい声。凪は、少しだけ間をおく。「……別に、なにもないよ。」小さく笑う。でも、その笑顔は、少しだけ無理をしている。蓮は、少しだけ首をかしげる。「……なんで?」凪が、少し驚いたように見る。蓮は、少しだけ視線を落とす。それから、ゆっくり言う。「なんか」少し間。「無理してること、あるんじゃない?」凪は、言葉を失う。胸の奥を、やさしく触れられた感じ。否定しようとして。でも、うまく言葉が出てこない。少しだけ沈黙。夜の静けさ。蓮は、急かさない。ただ、待っている。凪は、小さく息を吐く。「……ちょっとだけ。」ぽつりと、こぼれる。さっきよりも、少しだけ本音に近い声。蓮は、うなずくだけ。それ以上、聞かない。その距離が、やさしかった。並んで歩く。同じ帰り道。でも、空気が、少し違う。凪は思う。(なんだろう)さっきまで、あんなに苦しかったのに。今は、少しだけ楽だった。何
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私…… どうしたらいいの……?

昼休みのチャイムが鳴り終わった頃。凪は、一瞬で空気が変わったのを感じた。ざわ…ざわざわ…教室の奥から、誰かが怒ったような声で言う。「おい、悠真。 お前、凪を泣かせたんだって?」その瞬間、凪の心臓が“ガン”と音を立てた。(え……?)どういうことかわからない。でも――その輪の中心に悠真の名前があると理解した途端、足がすくんだ。悠真は、凪の席から少し離れたところに立っていた。数人の男子に囲まれて、冷たい視線を向けられている。「昨日の放課後、廊下で泣いてたよな? 見たやつがいるんだよ」(……あれは…… 私が勝手に泣いただけなのに)胸がギュッと締めつけられる。「凪、言えよ。 アイツに何されたんだ?」そう言って凪の名前を呼ばれた瞬間、教室中の視線が一斉にこちらを向いた。(やめて……こっち見ないで……)あの日、自分の弱さが顔を出しただけ。悠真は悪くない。むしろ支えてくれた。――言わなきゃ。誤解だって、ちゃんと。だけど。喉を塞がれたように、声が出ない。(なんで……? 言いたいのに……言えない……!)胸の奥で、何かが叫んでいるのに。「悠真、黙ってないで何か言えよ!」「女泣かせて知らん顔かよ」男子たちの声がだんだん鋭くなる。悠真は静かに言った。「……違うよ」その声を聞いた瞬間、凪の心が大きく揺れた。苦しそうで、悔しそうで、でも誰も攻撃しないように、言葉を選んでいる。「凪を泣かせたのは…… 俺じゃない」本当のことなのに、誰も信じていない目をしていた。(お願い……誰か気づいて…… 悠真は……そんな人じゃない……)凪は立ち上がろうとした。でも膝が震えて、机に手をついた。――その音だけが、重く響いた。教室
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……逃げたいなら、逃げてもいいよ

放課後の図書室は、冬の夕方特有の静けさに包まれていた。窓の外は薄く曇り、空気の匂いまで冷たく感じる。凪は、今日こそ落ち着いて勉強しようと心に決めていた。……はずなのに。向かいに座る悠真がノートを開く音だけで、胸がじんわり熱くなる。(ここにいるだけで、 なんでこんなに意識しちゃうんだろう)悠真は凪を見ていないようで、ページをめくるたびに、ちらりと視線を向けてくる。そのたびに、凪はノートの文字が少し震えた。「……凪、さ」沈黙を破ったのは悠真だった。声はいつもより低くて、少しだけ迷いが混じっていた。「今日、凪……ずっと、俺の顔見ないよね」凪の手がぴたりと止まる。「み、見てるよ……?」「うそ。目、合ってない」図書室の静けさが、逆に心臓の音を大きくする。悠真は、凪の方へ少しだけ体を傾けた。「俺、見られたら…… 弱くなるって言ったじゃん」「……知ってるよ」「だからって、完全に避けられるのは…… それはそれで、なんか……きつい」凪は顔を上げられなかった。上げたらきっと、すぐにばれる。自分がどれだけ揺れているか。(……逃げてるんだ、私)昨日も、今日も。視線が合ったら、胸が苦しくなる。それが怖くて、避けてる。少し沈黙が落ちたあと、悠真が小さく息をついた。「……ねえ、凪」その声があまりに優しくて、凪はゆっくり顔をあげてしまった。視線がぶつかった。途端に、胸の奥がきゅっと痛くなる。(あ……だめ、こんなの……)でも、目をそらすより先に悠真がそっと囁くように言った。「そんな顔で見られたら…… 俺、本当に勘違いするよ?」凪は息を飲んだ。「な、なにを……?」悠真の肩が少しだけ震える。たぶん、自分でも抑えられ
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……ずるいよ、そういうこと言うの

冬の冷たい空気が、校舎の廊下にゆっくりと入り込んでくる。チャイムが鳴る前のホームルーム教室は、いつもより静かだった。凪は席につきながら、窓の外の沈んだ空を見た。(なんだろ……   今日はずっと胸が落ち着かない)昨日の並木道での出来事。風でマフラーがめくれた瞬間、体勢を崩した凪を、悠真が本気で抱きとめたこと。その時の 手の強さ。息が触れそうな距離。そして、あの赤くなった耳。全部、まだ胸に残っていた。1限目。現代文。席は斜め後ろ。ちょうど振り返れば悠真が見える位置。……だから凪は、振り返らないように必死だった。(気づいたら見ちゃいそう……   いや、見たくない……   いや、見たい……)ノートの上に書いた文字が少し震える。そのとき。ふと、視線を感じた。(……え?)ゆっくり後ろを向くと――悠真がじっと、凪を見ていた。目が合った。凪の心臓が跳ねる。悠真はわずかに目を見開き、それから照れたように視線を逸らした。(なんで見てたの……?)胸がざわざわして、授業の内容が頭に入らない。休み時間。凪は教室の後ろでノートを整理していた。そこへ悠真が近づいてくる。「凪、今の……」凪は咄嗟に言ってしまった。「見てないよ!全然っ!」悠真は一瞬きょとんとし、そこからゆっくり笑った。「俺が見てたって話なんだけど」凪の顔が一気に熱くなる。「……っ、なんで……見てたの?」悠真は少しだけ真剣な表情になって言った。「今日の凪、   いつもより落ち着かなく見えたから」「お、落ち着いてるよ……」「うん。そう見えたらいいんだけどさ」悠真は指でノートの端を軽く触れ、目を逸らさずに続ける。「……本当は、  今日ずっと気になって
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凪……反則……

金曜日の朝。教室の窓から見える空は、冬の色に少しずつ近づいていた。冷たい風が流れているはずなのに、凪の胸の中にはほんのり温かいものが灯っていた。昨日、上手に話せたから。ちゃんと気持ちを交換できたから。(今日は……   もう少し踏み出せる気がする)自分でも驚くほど、心の奥が前へ進む準備をしていた。放課後の図書室は、静けさがいつもよりやわらかく感じられた。席に着いた凪は、深呼吸をひとつ。そこへ、扉が開く。悠真が、少し急ぎ足で入ってきた。頬が赤く、息がほんの少しだけ弾んでいる。「凪、待った?」「ううん、今来たところ」その言葉が自然に口から出たことに、凪は自分で驚いた。悠真は凪の前に座ると、珍しく、ちょっと言いにくそうな顔をした。「今日さ、   俺の方から……話したいこと、ある」「え……?」胸の奥が一気に高鳴る。悠真は、机の上で両手を軽く組み、まっすぐに凪を見た。「昨日、 凪が“嫌だった”って言ってくれたとき…… 俺、正直ちょっと嬉しかったんだ」凪の心臓が跳ねる。「だってさ。 誰かに嫉妬されるって…… 期待してもらえてるってことだろ?」頬が一気に熱くなる。(ずるい……そんな言い方……)悠真は照れくさそうに笑い、続けた。「でさ……実は俺も、 ちょっとだけ言いにくいこと、ある」凪は息をのんだ。“自分だけじゃなかった”その予感がして、胸の奥が甘くなる。「名前……呼んでみてほしい」「……え?」「“悠真”って。 凪に呼ばれたら…… 多分、結構やばい」凪は言葉を失った。(やばいって……何それ……)頬が熱い。胸も熱い。心の奥で何かがはじけたような感覚。悠真は軽く俯き、小さな声で付け足した。「俺、凪に
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すれ違うのはさ、ちゃんと心が動いてる証拠だよ

昼休みのチャイムが鳴った瞬間、凪の胸の奥がきゅっと縮んだ。(やだな……この感じ)自分でもうまく説明できない。昨日の“あの気持ち”がまだ胸の中に残っていて、どこか落ち着かない。図書室で向き合ったあの時間。悠真が後輩と話していたときの、胸の奥がざわついた瞬間。そして、“俺も、凪が気になってた”と静かに言ってくれた、あの言葉。全部ぜんぶ、まだ心のどこかで揺れている。放課後。凪は教室で荷物をまとめながら、無意識にスマホを気にしていた。(……今日も来るかな)そんな期待を抱いている自分が、少しだけ恥ずかしかった。「凪」名前を呼ばれ、びくっと振り返るとドアのところに悠真が立っていた。(来た……)胸の奥で跳ねた鼓動を誤魔化すように、凪は落ち着いた声を装った。「どうしたの?」「今日さ……話せる?」凪は一瞬だけ迷った。胸の中のざわざわを抱えたまま話したら、きっとうまく笑えない。でも――逃げたら、余計モヤモヤが残る気がした。「……話したい」そう言うと、悠真は静かに笑った。二人はいつもの図書室へ。窓の外では、曇り空の薄い光が揺れていた。すれ違う気配は、空の色にもよく似ている。席に着いた瞬間、凪は机の下でそっと手を握る。悠真が、言った。「今日は……凪の話、聞きたかった」凪は唇を噛んだ。何から話せばいいのかわからない。昨日の嫉妬も、胸のざわめきも、“後輩の子が気になる?”という自分の小さな不安も――どれも、口に出したら子どもみたいで。でも、悠真の視線は逃げずに待ってくれていた。(言うしかない……)凪は小さく息を吸った。「ねぇ悠真。 私……昨日のあれ、 ちょっとだけ……嫌だった」悠真は驚いた顔をした。「嫌…
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その距離が、 恋のはじまりをじっくり温めてくれる

翌日の放課後。凪は胸の奥がふわっと軽くなるのを感じた。(今日、また話せるかな……)図書室へ向かう廊下を歩く足取りが、自分でも驚くほどゆっくりになっていく。そのときだった。教室前の掲示板で、悠真が見知らぬ女の子と話しているのが見えた。長い黒髪。落ち着いた雰囲気。柔らかく笑って、何か差し出している。「これ……頼まれてたプリント。返すね」「ありがとう。助かった」悠真は自然に笑って受け取り、その柔らかさが凪の胸にチクリと刺さった。(……誰?)そんな疑問の前に、心の奥で別の声がささやいた。――ああ、こういう笑顔もするんだ。凪は立ち止まり、少し胸の奥がしんと冷える感覚を抱えたまま、気づかれないようにその場を通り過ぎた。遠まわりをして、たどりついた図書室。窓際の席に座っていたのは、やっぱり悠真だった。「凪、今日も来たんだ」「うん……」凪の返事はいつもより小さかった。悠真はすぐ気づいたようで、少し顔を覗き込む。「なんかあった?」(言えるわけないよ。あの子、誰?なんて)胸の奥で、言葉が喉につかえる。“本音を話したい”のに、“怖い”も同時にある。凪は目を伏せたまま、かすかに首を振った。「……なんでもないよ」悠真はしばらく凪の横顔を見つめていたが、それ以上追及しなかった。代わりに、緑茶の缶を机に並べた。「とりあえず、飲む?今日、風が冷たいし」そのさりげない優しさが、逆に胸を締めつけた。(やさしいな……でも、だから余計に言えないんだよ)頬に触れた風が少し冷たくて、凪は気づかないふりをして、缶を開けた。沈黙が、いつもより重く落ちる。ふたりで同じ景色を見ているのに、心の距離だけがほんの少しずつ離れていくよ
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勝ち負けのない頷き方を、人はどこで覚えるんだろう

終礼のチャイムが鳴ると、クラスのざわめきがほどける。凪(なぎ)は三人分の「ねぇ、ちょっといい?」を受け取った。文化祭の役割分担、部活のトラブル、家の愚痴。相槌、共感、少しの助言。いつもの手順。「凪に話すと落ち着くんだよね」その言葉は確かに嬉しいのに、胸の奥で小さな灯が酸素を欲しがる。廊下の角を曲がったところで、足が止まった。階段の踊り場、窓の四角い光。そこに凪は、荷物をそっと床に置いて、壁にもたれた。深く息を吸う――はずが、途中でひっかかる。涙が出るほどではないのに、喉の奥がきゅっと狭くなる。「……水、飲む?」不意に差し出されたペットボトル。顔を上げると、悠真(ゆうま)がいた。隣のクラス。いつも明るいタイプ。けれど今は声を小さくしていて、目だけが静かだ。「ありがと」ひと口飲む。冷たさが通る道筋を、からだが思い出していく。「それ、あげる」「え、でも」「もう一本ある。  さっき自販で二本押しちゃってさ」嘘っぽくない冗談の密度。凪は、肩の力が少し抜けるのを感じた。二人で踊り場の窓に寄る。外はうっすら金色、グラウンドの掛け声が遠い。沈黙。ふだんなら「ごめんね」「大丈夫」と気を利かせて口を満たすところを、凪は何もしなかった。それでも、沈黙は膨らまず、どこか柔らかい。「……聞いてほしい?」悠真がようやく口を開いた。問いは短く、押しつけがない。凪は少しだけ迷って、うなずく。「今日、ずっと“聞く人”だった。 上手く聞こう、って思いながら、 途中で自分がいなくなってくみたいで」「いなくなる、か」「うん。顔は笑ってるのに、胸のところだけが空洞。 みんなの言葉がそこに、 ざあって入ってきて、底がない
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好きって、 ただ想うだけじゃなくて、変わろうとすることでもあるんだ。

校門の前。さっきまでの張りつめた空気が、少しだけやわらいでいる。でも、完全にほどけたわけじゃない。その“途中”の感じ。凪は、まだ悠真を見ている。さっき言った言葉。「好き」「でも、無理してた」その両方が、まだ胸に残っている。悠真が、静かに言う。「……ありがとうって言ったけどさ」少し間。「それだけじゃ、終わりたくない」凪の心臓が、少しだけ強く鳴る。逃げない言葉。「無理してたの、やめてほしいって言ったけど」悠真は、少しだけ息を吸う。「俺も、変わる」まっすぐな言葉。凪の目が、少しだけ揺れる。「ちゃんと見る」短いけど強い思い。「凪が、どんなときに無理してるのか」少し間。「ちゃんと、わかるようになりたい」その言葉が、静かに届く。凪の胸が、じんわりあたたかくなる。(……そんなこと)思ってもみなかった。好きって、ただ想うだけじゃなくて、変わろうとすることでもあるんだ。凪は、小さく息を吐く。少しだけ、笑う。「……ずるい」ぽつりと。悠真が、少しだけ首をかしげる。「なにが?」凪は、少しだけ視線をそらす。でも。また、戻す。「そういうこと、ちゃんと言うとこ」少し照れたように。でも、正直に。悠真は、少しだけ笑う。「言わないと、伝わらないってわかったから」その言葉に、凪の胸がまた揺れる。昨日までとは、違う。確実に、何かが変わっている。そのとき。陽菜が、ふっと笑う。「なんかさ」軽く肩をすくめる。「いい感じじゃん」さらっと言う。でも。その言葉には、ちゃんと意味がある。凪は、少しだけ戸惑う。「……いい感じって」陽菜は、にこっと笑う。「ちゃんと話してる感じ」それだけ。余計なことは言わない。でも。その言葉で、空気が少
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無理、してる。今も。

部屋の中は、静かだった。スマホの光だけが、凪の顔を照らしている。「さっき、ごめん。」その一文を、何度も読み返す。短いのに。重い。(どういう意味……)指が、少しだけ震える。怒ってるわけじゃない。責めてるわけでもない。ただ。まっすぐ、こっちを見てる感じ。(ずるいよ……)小さく、つぶやく。あんな言い方をされたあとに。こんなふうに来られると。無視なんて、できない。凪は、ゆっくりと体を起こす。ベッドの上。スマホを両手で持つ。画面の文字を、見つめる。(どうしよう)頭の中で、いくつも言葉が浮かぶ。「気にしてないよ」「大丈夫」「こちらこそ」どれも、しっくりこない。どれも、少しだけ嘘になる気がする。指が、止まる。そのとき。ふと、さっきの帰り道が浮かぶ。蓮の声。「無理してること、あるんじゃない?」凪は、少しだけ目を閉じる。(……そうだ)無理、してる。今も。ちゃんとした返事をしようとして、正しく返そうとして、また、同じことをしている。(わたし……)ゆっくりと、息を吐く。それから、画面を見て、指を動かす。少しずつ、迷いながら。でも、止まらずに――「さっきは、ごめん」一度、止まる。消そうか、迷う。でも、消さない。そのまま続ける。「ちゃんと話さなきゃって思ってたのに」また、止まる。胸が、少しだけ苦しくなる。それでも、指は、動く。――「うまくできなかった」そこまで打って、手が止まる。画面を見つめる。これが、本音。でも、まだ、全部じゃない。凪は、少しだけ迷う。そして、もう一度、指を動かす。――「もう少しだけ、時間ほしい」送る。小さく、息を吐く。画面を閉じる。ベッドに、ゆっくりと倒れる。天井を見つめる。さっきよ
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好き、なのか? 安心、なのか?

部屋の灯りは、やわらかいままだった。時計の針が、静かに進んでいる。凪は、ベッドに横になったまま、天井を見ていた。さっきの言葉。自分で言った言葉。「……すきかも。」小さく、もう一度つぶやく。その響きに、自分で少しだけ驚く。(ほんとに……?)胸に手を当てる。どくん、と心臓が鳴る。でも、それは、強く跳ねる感じじゃない。やわらかく、あたたかい感じ。(これ……)少しだけ目を閉じる。思い出すのは、蓮の横顔。やさしい距離。無理をしなくていい空気。(……安心、してた)その言葉が、すっと落ちる。好き、なのか。安心、なのか。まだ、はっきりしない。でも、そのどちらも、そこにある気がした。「……でも。」小さく、つぶやく。悠真の顔が浮かぶ。あの帰り道。あの言葉。「勝手に決めるな。」胸が、少しだけ締めつけられる。(あのとき……)ちゃんと聞こうとしてくれていた。逃げようとしていたのは、自分だったのかもしれない。(わたし……)少しだけ、息を吸う。(ちゃんと、向き合ってない)そのことに、気づく。悠真の気持ち。自分の気持ち。どっちも、曖昧なままにしている。「……だめだよね。」ぽつりと、こぼれる。ベッドの上で、少しだけ体を丸める。(ちゃんとしなきゃって思うと、苦しくなるのに)それでも、逃げたままじゃ、いけない気がする。蓮といると、楽だった。でも、それだけで決めていいのかは、わからない。(わたし……)天井を見つめる。白い光が、少しだけにじむ。「……どうしたいんだろう。」答えは、まだ出ない。でも、ひとつだけ、わかることがある。さっきよりも。昨日よりも。自分の気持ちが、少しだけ見えてきている。そのとき、スマホが、小さく震
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じゃあ……隠さなくていいようにするよ

放課後の図書室は、冬の光が静かに積もっていた。窓の外は夕暮れ。街のざわめきが少し遠く聞こえる。凪は勉強道具を広げながら、目の前に座る悠真をちらりとも見られなかった。(……今日の悠真、なんか変だ)視線を感じる。でも、向けられると心が落ち着かない。ページをめくるふりをしながら、凪はゆっくり深呼吸した。「……ねぇ、凪」その声は、いつもより低かった。「今日、ずっと目をそらしてるよね」手が止まった。「そ、そんなこと……」と言いながら、また目をそらしてしまう。悠真は、少し間を置いてから、凪の名前を呼ぶように静かに言った。「……見られるの、嫌?」その言い方があまりにも真っ直ぐで、凪は胸をつかまれたように息をのんだ。「……嫌じゃ、ないけど……」「じゃあ、なんで?」凪は俯いて、無意識に指先を揺らしていた。(言えないよ……。 だって……見られると)顔が熱くなる。胸が苦しくなる。何かが溢れそうになる。そんなの、簡単に言えるわけない。「……凪」ふいに、悠真が身を乗り出してきた。その距離は、逃げられないほど近い。凪の視線はページの文字に釘付けだったが、悠真は凪の横顔を、まるで読むように見つめていた。「ねぇ、凪。 俺を避けてるって思っていい?」「ち、違うよ!」凪は慌てて顔を上げた。その瞬間――悠真とまっすぐ目が合った。ドクン、と心臓が鳴る。悠真の目には怒りも呆れもなく、ただ、凪の答えを待つような“あたたかい焦り”があった。「じゃあ……なんで?」声が震えるくらいの静けさの中で、凪はようやく心の奥に触れた。「……目、合うと…… なんか、 全部伝わっちゃいそうだから……」悠真の目がわずかに見開かれ、すぐに柔らか
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二人の手は、まだ触れていない。でも、距離はもう、触れるより近かった

放課後の図書室。あの日の“悠真の嫉妬”が、まだ凪の胸に残っていた。(怒ってた…よね。 見たことない顔だった……)凪と話していた男子に向けられたあの視線。凪に手を伸ばしかけて、途中で引っ込めた指先。言葉よりずっと強い感情が、そこにはあった。それが怖くて、でも……胸の奥が少しだけ、嬉しかった。(どうして… こんな気持ちになるんだろ)ページをめくる手は、ゆっくり震えていた。そのとき。「……凪」聞き慣れた声が、そっと凪の世界に入ってきた。悠真が立っていた。いつもの穏やかな表情ではなく、少しだけ不器用で、迷っているような顔。「さっき……ごめん」凪の心が跳ねた。「え……」「怒ったんじゃなくて…… なんか…… 自分でもよくわかんないけど…… 見てたら、 胸の奥がギュッてなって……」悠真は言葉を探していた。「嫉妬、したの?」凪が言ってしまった。言ってから気づいて、顔が赤くなる。悠真は一瞬固まり、それから小さく息を吐いた。「……した。 自分でびっくりするくらい。 だって……   他のやつ見て笑ってるの、   見たくなかった」凪の心臓が強く鳴った。「迷惑だったよな。 ごめん。困らせたよな」凪はゆっくり首をふった。「……困ってないよ」「じゃあ……  嫌じゃなかった?」「……」凪はうつむいたまま、自分のスカートの端をそっとつまんだ。「嫌じゃなかったどころか…… ちょっと、嬉しかった」悠真が驚いたように目を見開く。凪は続けた。「……誰かを好きになるって…… こうやって、 自分じゃない ‘何か’ に 揺らされるんだね。 知らなかった」静かな空気が二人を包む。数秒の沈黙。悠真はゆっくり近づいて、凪の机に置か
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……さっきの子、前からよく話しかけてたよな

月曜日の放課後。冬の空はいつもより早く暗くなっていた。凪は図書室へ向かう途中、昇降口の近くで後輩の男子に呼び止められた。「凪先輩、   この前のプリントのお礼、言いたくて…!」少し顔を赤くして、手に何か小さな包みを持っている。(……また?)この後輩は凪のことを“憧れ”だと言って、何度か話しかけてきていた。「これ、よかったら… 先輩、いつも優しくしてくれるから」凪は困り笑いをしながら受け取ろうとした。その瞬間――ガシャン、と靴箱の扉が乱暴に閉まる音。振り返ると、悠真が真っ直ぐにこちらを見ていた。表情は何も変わらないのに、その目だけがいつもより冷たく揺れている。凪の胸がザワッとした。「……図書室、行くんじゃなかったの?」悠真の声は、静かだった。でも――(怒ってる……?)後輩の男子は空気を読んだのか、「すみません!」と背中を丸めて逃げていった。凪と悠真、二人だけが残された。昇降口の外へ出ると、寒い風が吹き抜ける。「……さっきの子、 前からよく話しかけてたよな」悠真は俯いたまま言う。声の奥に少しだけ棘があった。凪は胸がぎゅっと締めつけられた。「別に……何でもないよ。後輩だし」「でも凪……ああいうの、   断れないタイプだろ」図星すぎて、凪は言葉を失った。悠真は続ける。「前にも言ってただろ。 “人の気持ちを拾いすぎる”って。 今日も、嬉しくなくても、   笑って受け取ろうとした」凪は俯いてしまう。(……なんで、そんなにわかるの)気づけば、凪はいつも誰かの機嫌や期待を優先して生きてきた。そのクセは、“過去”がつくった傷から始まっている。そして、その過去を誰にも話したことがない。悠真だけが、
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変わるのが怖いって、本気で誰かを想ってる証拠だよ

金曜日の帰り道。学校の裏門から続く並木道は、冬の気配をまとった風が通り抜けていた。歩幅は自然と揃っていて、凪と悠真の影は、時々重なっては離れ、また寄り添う。「今日は……ありがとう」凪がぽつりと呟くと、悠真はゆっくり首を振った。「俺の方こそ。 凪に名前呼ばれたの、ずっと反芻してた」「反芻って……牛みたい」凪が笑うと、悠真も照れたように笑った。「でも、本当に……やばかった。 呼ばれた瞬間、 心臓おかしくなったかと思った」(そんなふうに言われると、     またドキドキするよ……)風が二人の間をすり抜け、冬の匂いだけを残していく。ふと、凪の髪が風に揺れて、頬にふわりとかかった。悠真が自然に手を伸ばし、 軽く払い落とそうとした――その瞬間。指先が、ほんの一瞬だけ触れた。「……っ」触れたと言えるほどの強さでも、握ったと言えるほどの距離でもない。ただ、指先の温度が、胸の奥まで届いてしまう“瞬間”。悠真は、そのまま少し固まった。「ご、ごめん……!  今の、勝手に……!」「ち、違……びっくりしただけ……!」凪も顔が熱くなり、手をぎゅっと握りしめた。(触れたいなんて思ってなかった……  でも、触れられた瞬間……      嫌じゃなかった……)むしろ。心臓の高鳴りが止まらなかった。並木道の出口が見えてきたころ、悠真が息を整えながら話し始めた。「ねぇ凪。 俺、ひとつだけ言っていい?」「……なに?」夕暮れの光の中、悠真の横顔は少しだけ真剣だった。「俺、凪に触れるの……すごく怖い。 凪が嫌がったらどうしようとか、 嫌われるかもしれないとか……」凪は思わず立ち止まった。悠真も歩みを止め、こちらを向く。「で
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晴れた日の影みたいにやわらかかった

土曜日の午後。湿り気を含んだ風が、校庭の端をゆっくり通り抜けていく。凪は部活後のプリント整理のために教室へ戻り、机の上の山を前に小さくため息をついた。ふと、廊下側の扉が開き、真帆が顔をのぞかせる。「凪……今日、時間ある?」その声は、どこか慎重だった。いつも勢いのある真帆が、こんな声を出すのは珍しい。「うん、あるよ」真帆は凪の机の前に立つと、しばらく指先をいじりながら言った。「この前さ、“全部ダメ”って言った時…… 凪、ほんとはイヤじゃなかった?」――ドキッ。(……気づいてたんだ)凪は言葉を探した。でも、正直に伝えようとすると、胸がざわつく。「イヤ、っていうか……   ちょっとだけ苦しくなったかな」凪がゆっくり言うと、真帆の表情が一瞬固まった。「そっか……ごめん」謝られると、凪の胸が反対に少し痛んだ。(謝ってほしいわけじゃなかったんだよ……)凪は慌てて続けた。「真帆が悪いんじゃないよ。   ただ、聞きながら自分が   いなくなっていくような感じがして…… それが怖かっただけ」真帆はしばらく黙った。その沈黙は、以前みたいに不安な沈黙じゃなく、“考えている沈黙”だった。「ねぇ凪。 私、いつも言いたいことを  一気に言っちゃうけど…… 凪がどんなふうに聞いてるかって、   あんまり考えてなかったかも」凪は驚いた。真帆がこんなふうに“自分の内側”を話すのは、初めてだったから。「ねぇ、これからさ…… お互い、しんどいときは言っていい?」「うん」「聞けない日は、聞けないって言ってほしい」「私も、そうする」二人は小さく笑った。その笑顔は、前よりも優しく、前よりも素直だった。(本音を言うって、壊
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私…… “いい子”じゃなくても、一緒にいてくれる?

週の真ん中、水曜日。いつもより早く起きたはずなのに、凪の胸の奥には重たい石のような沈みがあった。原因は、昨夜の家での出来事だ。夕飯のあと、母の何気ないひと言が刺さった。「凪って、なんか最近“いい子じゃない”よね」言われた瞬間、心の奥で小さな音がした。――パキッ、と何かが割れたような。(いい子、じゃないといけないの?)(優しくいないと、誰かをがっかりさせる?)それは、誰にも見せたくない傷だった。放課後。図書室の窓際に座ってみても、ページをめくる気になれない。光は柔らかいのに、心は重いまま。そこへ、そっと影が差した。「凪」悠真だった。「今日は…なんか違うね」凪は笑おうとした。でも、うまく笑えなかった。「……ちょっと、元気ないだけ」嘘ではない。でも本当でもない。悠真は何も言わず、鞄を椅子に置くと、すっと図書室を出ていった。(あ…嫌だったかな)(話せって思われた?   ちゃんと話さないと、心配かけちゃう?)不安が静かに胸に広がる。でも数分後、戻ってきた悠真の両手には――温かい缶ココアが二つあった。「これ」凪の前に、そっと置く。「話したくないときってさ」「……うん」「言葉より、   あったかいものの方が   役に立つんじゃないかな」悠真は目を合わせず、缶をコツンと机に置いた。凪の胸の奥で、何かがゆっくりほどける。「……話したくないの、わかったの?」「わかってないよ」即答だった。「でも、   “無理して話そうとしてる感じ”はわかった」凪は、たまらず俯いた。(どうして…そんなふうに見えるんだろう)缶を両手で包むように持つ。じわっと広がる温かさが、凪が押し込めていた感情をゆっくり溶かしていく。
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……それ、やっと言えたんだね

放課後の空は、朝からの曇りをそのまま深くしたみたいに、重く垂れ込めていた。校舎の屋根に落ちる雨音が、リズムではなく“重さ”を刻んでいる。凪は傘を持っていなかった。昇降口の前で、友達の真帆に声をかけられる。「ねぇ聞いてよ、また今日もさ――」雨は強くなる。真帆の言葉も強くなる。凪の心の呼吸だけが、段々弱くなっていく。(今日に限っては…… ごめん、誰かの話を聞く余裕がない)そう思いながらも、言えない。“聞く人”の役割を手放すことが、まだ怖い。「ごめん、私……今日は帰らなきゃ」勇気を出したつもりだった。真帆は、数秒の沈黙のあと、ほんの少し笑って言った。「そっか。じゃあまた明日ね!」軽い声なのに、凪の胸の奥では、どこか鋭い音がした。(本当に“また明日ね”でいいのかな……)そんな不安だけを残して、真帆は雨に消えた。凪は昇降口を出られずにその場に立ち尽くしていた。雨が壁を強く叩き、心臓の音を消していく。「凪?」振り返ると、悠真が立っていた。手には深い紺色の折りたたみ傘。「傘、持ってないよね」「……うん」悠真は、何も言わず傘を開いた。凪の頭上に、静かな影が広がる。「行こ」ただその一言。余計な気遣いを含まない、不思議に呼吸が整う声。二人は並んで、校舎横の小道へ出た。雨粒が傘に当たる音が、会話の代わりに空気を満たしていく。土の匂いが濡れた風と混ざって、足元の水たまりが揺れた。しばらく歩いたところで、悠真が口を開いた。「今日、元気ないよね」凪は少しうつむいた。悠真の声は優しい。でも、今はそれにどう向き合っていいかわからない。「……うん、ちょっとだけ」「話す?」その言い方は、押すでもなく、引くでもない
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わからなさを一緒に抱える

放課後の図書室。窓際の席には、夕陽を背にした凪と悠真。いつものように、二人のあいだには穏やかな沈黙が流れていた。ページをめくる音と、外を走る自転車のベルの音。沈黙は、安心のしるし。――凪はそう思っていた。けれど、その日は違った。「ねぇ、聞いてもいい?」凪が顔を上げたとき、悠真の目が少し疲れて見えた。「うん、どうしたの?」「部活の後輩がさ、いろいろ相談してくるんだけど、 途中で泣かれたんだ」「泣かれた?」「うん。“わかってくれない”って。 俺、ちゃんと聞いてたつもりだったんだけどな」凪は少しだけ笑う。「それ、わかる気がする。 私も“わかってるよ”って言った瞬間、 相手の顔が曇ったことがある」「なんでだろうな。ちゃんと聞いて、 共感したつもりでもさ」「たぶん、“わかる”って言葉の中には、 “もうそれ以上話さなくてもいいよ”っていう サインが入ってるんだと思う」「え、そうなの?」「うん。“わかる”って言うと、 相手の心のドアが一瞬閉まることがある。 ほんとは、“わからないけど、 そばにいる”でいいのかも」悠真は顎に手をあてたまま、しばらく黙っていた。「……“わからない”って、なんか怖いな」「うん、怖い。でも、嘘の“わかる”より、 ずっとあたたかい気がする」窓の外では、赤い夕陽が少しずつ薄くなっていく。その光の色のように、会話も静かに沈みこんでいった。数日後。教室で、凪は友達の真帆に呼び止められた。「ねぇ、聞いてよ!また部活であの子がさ――」凪は微笑んでうなずく。けれど、心の中では息を整えていた。(また、“聞く人”になる時間だ)真帆の言葉が続く。「先生、絶対私のこと嫌ってるんだよね」「
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この人になら……触れられても、怖くない

放課後の図書室。静かなページの音だけが、薄い冬光の中に漂っていた。凪は本を開いたまま、視線を下げていた。読み進めているようで、文字はほとんど入っていない。(……今日、悠真、気づいてたな)数学の時間。凪が一瞬、肩を強く震わせたこと。クラスメイトが後ろで大きな声を出した瞬間、反射的に凪が身をすくめたこと。悠真だけが、そのわずかな表情の変化に気づいた。そして今。本棚の陰にいる悠真の視線が、ずっと凪の横顔に寄り添っているのがわかる。「凪」そっと名前が呼ばれた。凪は顔を上げると、悠真が席をひとつ近づけていた。「今日さ……何かあった?」凪は胸の奥がきゅっと縮む音を感じた。「……何もないよ」「嘘だろ」柔らかい声なのに、逃げ道がない。悠真の言葉は、優しいのにまっすぐで、凪の奥に隠していたものをそっと照らしてしまう。「お前さ、大きい声がすると……   息止めてるみたいになる」凪の手が震えた。悠真はその震えに気づかないふりをしながら、ゆっくり続きを言った。「もし……   誰かに何か言われてるなら、   言ってほしい」「違う……の」凪はかすれた声で言う。「誰かに言われてるとかじゃない。   ただ…… 中学のとき…… 少しだけ…… 怖いことがあって」言葉にした瞬間、胸が締め付けられた。長い間しまい続けていた場所が、自分でも驚くほど痛んだ。悠真は、驚いたように目を瞬いたあと、ゆっくりと凪の前に手を置いた。触れない距離で。「話したくなかったら、 無理しなくていい。 でも…… 凪が一人で抱えてたなら、 俺は知りたい」凪の喉が熱くなる。(言わなくていい。 でも……言ってほしいって、 こんなふうに言われたの初め
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「でも、逃げながらでもいいから、俺のそばにいて」

放課後の図書室は、窓から差し込む夕陽でゆっくりと金色に染まり始めていた。机の上には開いたままの参考書。けれど、ページはほとんど進まない。凪は、さっきの出来事をまだうまく飲み込めずにいた。(どうして……あんな風に見つめてくるの?)悠真の嫉妬。あの瞬間ににじんだ感情。嬉しいのに、怖い。怖いのに、離れたくない。胸の奥が、自分でもよくわからない色で揺れていた。向かいに座った悠真は、じっと黙って凪を見ていた。怒っているわけでもない。責めているわけでもない。ただ――“知ろうとしている”。凪の心の中を。「……さっきは悪かった」突然、悠真が口を開いた。「嫉妬したみたいに見えて、 嫌な思いさせたよな」凪は首を振る。「……嫌じゃなかったよ」その一言に、悠真の視線が少し柔らかくなる。「でも、ああいうの…… びっくりするでしょ?」凪は、視線を机に落とした。「……するよ。でも、」小さく息を飲んで、勇気を振り絞る。「誰かに…… “気にされる”ことに、  まだ慣れてないだけ」悠真は静かに凪を見つめた。「……過去のこと、  まだ話せない?」凪の指がピクッと震えた。昨日、悠真の嫉妬の影で、凪は一瞬“触れてほしくない記憶”を抱えていることを悟られてしまった。凪はゆっくりと息を吐く。「話すのが怖いの。 聞かれたら……  嫌われる気がして」「凪、俺は――」悠真は語気を少し強くして言った。「凪を嫌いになる理由なんてない」凪の胸に、じわっと温かさが広がった。けれど、その温かさが同時に痛みも呼んでしまう。「……悠真は優しいよ。 でも、優しい人ほど……  いつかいなくなるんだよ」その言葉は、凪の過去から零れ落ちたものだった。
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怒ってない。ただ…… 怖かったんだ

放課後の空は、いつもより低く感じた。淡い夕焼けが校舎に反射して、まるで世界全体が静かに息を潜めているようだった。凪は図書室へ向かう途中、小さく深呼吸した。今日は悠真と話すことが、少しだけ怖かった。(だって……昨日のあれ……)“あの男、だれ?”“なんで笑ってたの?”悠真の嫉妬が、あんなにも真っ直ぐ出るとは思わなかった。苛立つ声でも、怒鳴り声でもなかった。ただ、心の奥から漏れ出たみたいに震えた声。あれを聞いた瞬間――胸の奥が、変な音を立てた。好きとか、そういう言葉じゃ説明できない、もっと複雑な痛み。図書室の扉を開けると、悠真はすでに座っていた。机の上のノートは開いているのに、ページはまったく進んでいない。凪の姿に気づいて、悠真は小さく息を吸った。「……来てくれたんだ」凪は頷いたが、視線は合わせられなかった。悠真はゆっくり立ち上がると、机の角を軽く握りしめ、言葉を探すように口を開いた。「昨日のこと……悪かった」「……別に。怒っていいよ、   嫉妬って……そういうものだし」「怒ってない。ただ……   怖かったんだ」凪は顔を上げた。「こわ……かった?」悠真は喉の奥で言葉を押し出すように言った。「凪が他の誰かと笑ってるの見て…… 俺、初めて“奪われるかも”って   思った」胸の奥まで、まっすぐ刺さった。凪は思わず机の端を掴んだ。少し震えた指先に、悠真の視線が落ちる。「……でも、   凪に嫌われる方がもっと怖い」静かな図書室に、素直すぎる声が響いた。凪は唇をぎゅっと結び、目を伏せた。「悠真が……   そんなふうに思ってるなんて   知らなかった」「言えなかった。 言ったら、   凪が離れる気
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……じゃあ。目そらさないでよ

放課後の帰り道。冬の空はまだ明るいのに、胸の奥だけが妙に薄暗かった。(悠真……今日、 ずっとよそよそしかった)数学の時間も。昼休みも。図書室に来たときも。まるで、私と目を合わせないようにしているみたいだった。――それが苦しかった。ほんの少し前まで、視線が合うたびにあたたかくなっていたのに。(私、何かした……?)勇気を出して口を開いた。「ねえ、今日……  なんか変じゃない?」「変じゃないよ」悠真は笑おうとした。けれど、その笑顔は目元に届いていない。“嘘だ” とすぐにわかるくらいに。「じゃあ、なんで目そらすの?」凪が問い詰めるように言うと、悠真は歩みを止めた。風がふたりの間を抜ける。夕陽が少し刺さる。やがて――悠真は小さな声で言った。「……さっきの、谷口のこと」「え?」「……楽しそうに話してたろ」(谷口くん……?)今日、ノートを貸しただけの、隣のクラスの男の子。「別に…… 普通に話しただけだよ?」「それは、わかってるけど」悠真の言葉は途中で途切れ、視線は地面に落ちた。その横顔が、想像以上に苦しそうだった。胸がチクリと痛んだ。(……嫉妬、してくれたんだ)そう思った瞬間、胸に広がるあたたかさと同時に――怖さもこみ上げた。もし、期待して、もし、これが勘違いだったら。息を整えて尋ねた。「悠真は……  どうしてイヤだったの?」しばらく沈黙が続いた。けれど。悠真は逃げなかった。凪の目をまっすぐ見て、絞り出すように言った。「……嫉妬したんだよ。 自分でも、  びっくりするくらい」凪の呼吸が止まる。悠真は続けた。「谷口が凪を見てたの、 わかったから。 あいつの顔……  見たことない顔してた」凪の胸
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本音を言えるようになってきたのが……怖い

月曜日の放課後。いつもの図書室の窓際には、まだ誰もいない。凪は机にノートを置き、深呼吸した。(今日は……“話す側”になりたいって、   自分で言ったんだよね)胸が少しざわつく。でも、それは嫌なざわつきじゃなく、ほんの少しだけ勇気が体温を持ちはじめたような感覚だった。そこへ、軽い足音。悠真が扉から入ってきて、凪を見つけると柔らかく笑った。「来てたんだ。……   じゃあ、今日は俺が聞く日だね」凪はこくんと頷いた。悠真はいつもの席に横向きで座り、“準備OK”の合図のように、缶の緑茶を机に置く。「じゃあ……凪の順番で、どうぞ」その言い方は、押しつけも気遣いも混ざらない、“ただ待ってる”という姿勢そのものだった。凪は胸の奥の扉をそっとノックするように、息を吸った。「……あのね、私、最近ちょっと怖いの」悠真の目が、すっと凪へと向く。「何が?」「本音を言えるようになってきたのが……怖い」「え?」凪は続ける。「本音を言ったら、嫌われる気がしてたの。 ずっと“いい子”でいなきゃいけない   と思ってきたから。 でも最近……   悠真には、力を抜いて話しちゃう」悠真は少し驚いた顔をし、照れくさいように後頭部をかいた。「それって……怖いことなの?」「うん。   “こんな自分を見せてもいいんだ”    って思うほど、逆に怖くなる。 ……もし途中で期待を裏切ったらって」悠真の視線が一瞬だけ揺れる。凪はそれを見逃さなかった。(あ、何か響いたんだ……)数秒の沈黙。その沈黙は、今までとは違う色をしていた。重くもなく、冷たくもない。ただ、ふたりの間にひとつ新しい空気が降りてきたような――そんな沈黙。悠真は、少し
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“全部”って言葉は、苦しい時のSOSなんだよ

梅雨が明ける前の、湿った午後。空気は薄い水色で包まれ、窓の外は薄曇り。風はほとんどなく、ただ静かだった。放課後の教室で、凪はプリントをまとめていた。そこに真帆が、勢いよく机に手をつく。「ねぇ、聞いて!今日もう最悪だった!」凪は顔を上げた。(まただ……でも今日はまだ心に余裕がある)「どうしたの?」すると真帆は一気に言葉を溢れさせた。「部活でもう嫌われてる!   先生にも無視された! しかも家でも話聞いてもらえないし、   もう全部ダメ!」全部。また“全部”だ。凪はそっと呼吸を整えながら聞き続ける。「私なんかいない方がいいんだって、   ほんとに…全部うまくいかない!」(全部じゃない)そう言いかけて、凪は口を閉じた。“全部うまくいかない”“全部ダメ”真帆が苦しいとき、彼女は世界を白か黒かで分けてしまう癖があった。でも今日は、凪の中に不思議な余裕があった。雨の日の帰り道、悠真の沈黙がくれた安心は、まだ胸に残っている。凪は真帆に向かって、小さく微笑んだ。「……今日は、  何が“いちばん”つらかった?」真帆は目を瞬かせた。「え?いちばん?」「うん。“全部”じゃなくて、   “いちばん”を教えてほしい」その問いに、真帆はしばらく黙ってから、ゆっくり座った。「……先生に冷たくされたのが、   いちばんつらかったかも」「そっか。ありがとう、教えてくれて」凪は心の中で小さくガッツポーズをした。白黒で縛られていた真帆の世界に、ひとつ色が戻った気がした。「あと……部活のあの子にも、   ちょっと嫌な顔されて」「それは“二つ目”?」「あ、うん。二つ目かも」真帆は少し照れたように笑った。(よかった……白
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沈黙に潜む影

会議室に重たい空気が広がっていた。「ご意見ありますか?」という問いかけに、誰も手を挙げない。視線は下を向き、紙をめくる音だけが妙に響く。ただの沈黙が、時間とともに「責められているような空気」へと変わっていく。家庭でも同じだ。夕食の席で、箸の音ばかりが響く。言いたいことはあるのに、誰も口に出せない。温かいはずの食卓に、ひやりとした影が落ちる。学校でもそう。先生が「分かる人?」と声をかけても、誰も手を挙げない。分からないわけじゃない。ただ声を出すのが怖い。その沈黙が、かえって互いを遠ざけていく。……そのときだ。見えない番人が、薄暗い隅で笑った。「いいぞ、そのまま誰も話すな。 沈黙は最高の餌場だ。 言葉がないほど、不安は勝手に膨らんでいく。 “何を考えているのか分からない”──その想像こそ、人の心を壊す」囁きは空気に溶けて、沈黙をさらに重くしていく。誰も何も言わない。その「何も」が、人を縛りつけていく。……しかし、その時だった。「……ありがとう」かすかな声が空気を切り裂いた。誰の声かは分からない。でもその一言は、沈黙に小さな灯りをともした。重苦しい空気が揺らぎ、ふっと柔らかくなる。沈黙はときに不安を育てる。けれど、一つの言葉があれば、沈黙はやさしい静けさへと変わるのかもしれない。不安の番人は一瞬だけ、笑みを止めた。そしてその場には、確かに人の温かさが残されていた。
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