土曜日の午後。
湿り気を含んだ風が、
校庭の端をゆっくり通り抜けていく。
凪は部活後のプリント整理のために教室へ戻り、
机の上の山を前に小さくため息をついた。
ふと、廊下側の扉が開き、真帆が顔をのぞかせる。
「凪……今日、時間ある?」
その声は、どこか慎重だった。
いつも勢いのある真帆が、
こんな声を出すのは珍しい。
「うん、あるよ」
真帆は凪の机の前に立つと、
しばらく指先をいじりながら言った。
「この前さ、“全部ダメ”って言った時……
凪、ほんとはイヤじゃなかった?」
――ドキッ。
(……気づいてたんだ)
凪は言葉を探した。
でも、正直に伝えようとすると、
胸がざわつく。
「イヤ、っていうか……
ちょっとだけ苦しくなったかな」
凪がゆっくり言うと、真帆の表情が一瞬固まった。
「そっか……ごめん」
謝られると、
凪の胸が反対に少し痛んだ。
(謝ってほしいわけじゃなかったんだよ……)
凪は慌てて続けた。
「真帆が悪いんじゃないよ。
ただ、聞きながら自分が
いなくなっていくような感じがして……
それが怖かっただけ」
真帆はしばらく黙った。
その沈黙は、
以前みたいに不安な沈黙じゃなく、
“考えている沈黙”だった。
「ねぇ凪。
私、いつも言いたいことを
一気に言っちゃうけど……
凪がどんなふうに聞いてるかって、
あんまり考えてなかったかも」
凪は驚いた。
真帆がこんなふうに“自分の内側”を話すのは、
初めてだったから。
「ねぇ、これからさ……
お互い、しんどいときは言っていい?」
「うん」
「聞けない日は、聞けないって言ってほしい」
「私も、そうする」
二人は小さく笑った。
その笑顔は、前よりも優しく、前よりも素直だった。
(本音を言うって、壊れるんじゃなくて……
むしろ、つながりを強くするんだ)
凪はそう思った。
その帰り道。
校門を出ると、悠真がフェンスにもたれていた。
練習帰りらしく、髪が湿っている。
「おつかれ」
「凪も」
ふたりは並んで歩き始めた。
影が夕陽の色に溶けていく。
「さっき真帆と話してた?」
「うん。ちゃんと本音で話せた」
「すごいな」
悠真は素直にそう言った。
凪はふいに尋ねた。
「ねぇ、悠真はさ。
どうしていつも、私が話す前に“待つ”の?」
悠真は歩くペースを少し落とした。
「んー……それはね、順番があると思ってるから」
「順番?」
「うん。
心って、開く順番が違うんだよ。
“先に言える人”と、“後でしか言えない人”がいる。
凪はたぶん、“後で言いたいタイプ”」
凪は立ち止まりそうになるほど、胸にすっと入った。
「……そうかもしれない」
「だから焦らせない。
凪が言う気になった時に、
言えるようにしておく。それだけ」
それだけ――
悠真の声は、
晴れた日の影みたいにやわらかかった。
凪は不意に笑いがこぼれた。
「なんか、悠真って大人みたいだね」
「いや、全然。
俺も順番めちゃくちゃ間違えるときあるよ。
でも……
凪の“言えるタイミング”は、大事にしたいだけ」
胸の中で、何かが静かに跳ねた。
(ああ、こういう言い方をする人なんだ……
だから安心するんだ)
道の途中、揺れる木の葉が影を落とし、
二人の影は時々くっついたり離れたりする。
凪は、ふと思い立って言った。
「ねぇ悠真」
「ん」
「次の月曜日……
図書室、最初に私の話聞いてくれない?」
悠真は驚いた顔で凪を見る。
すぐに、ゆっくり笑う。
「もちろん。
“凪が開けたい順番”で聞くよ」
その返事だけで、
凪の心にそっと一枚、
新しいページが開く音がした。
――心をひらく順番は、人それぞれ。
そして、ゆっくり開く心には、
ゆっくり寄り添う人が必要なんだ。
そのことを、凪は今日、またひとつ覚えた。