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胸の奥には、 まだ、冬のような空気が残っていた

凪は、ノートを閉じたまま、しばらく机を見つめていた。理科室の窓から入る光が、顕微鏡の金属の部分を静かに光らせている。「凪、行かないの?」陽菜が振り返る。「うん……今行く。」凪は、少し遅れて立ち上がる。悠真は、窓際の流しから戻ってきたところだった。ビーカーの水滴を軽く振りながら言う。「廊下、混む前に出ようぜ。」三人で理科室を出る。廊下には、昼の光がまっすぐ伸びていた。誰もまだ話さない。靴音だけが、廊下に響く。陽菜が先に口を開く。「さっきの細胞、すごかったね。」「うん。」悠真がうなずく。「思ったよりはっきり見えた。」二人の会話は、普通だ。いつも通り。凪も、そこにいる。でも。凪は、少しだけ後ろを歩いていた。半歩。ほんの半歩。それだけなのに。前に並ぶ二人の背中が、少し遠く感じる。悠真が、ふと振り返る。「凪?」目が合う。凪は、あわてて少し歩幅を上げる。「うん、大丈夫。」悠真は少し安心したように、また前を向く。そのとき。陽菜が、くすっと笑う。「悠真ってさ。」「なに?」「凪のこと、よく見てるよね。」一瞬、空気が止まる。悠真が、少し困った顔をする。「別に、普通だろ。」「そうかな?」陽菜は、いたずらっぽく笑う。凪は、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が、強く揺れる。でも。次の瞬間、陽菜は、あっさり続ける。「凪、しっかりしてるもんね。  班のまとめ役って感じ。」その言葉は、やさしくて、正しい。だからこそ。凪の胸に、静かに落ちる。まとめ役。頼れる人。それは、悪い言葉じゃない。でも。凪は、ふと思う。“それだけなのかな。”廊下の突き当たりに、階段が見えてくる。昼休みのざわめきが、遠くから聞こえる。悠真が言う。
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安心って、静かなものなんだ

横断歩道を渡り終えると、夕方のざわめきが、少し遠のいた。信号の音。車の走り去る気配。全部が、二人の後ろに流れていく。凪は、歩きながら思う。——安心って、静かなものなんだ。何かが起きたわけじゃない。約束をしたわけでもない。でも、心の中にあった小さな棘が、いつの間にか抜けていた。「今日さ」悠真が、前を向いたまま言う。「無理しなくていいから」それだけ。説明も、理由もない。でも凪にはわかった。さっきの「怖かった」が、ちゃんと届いていたこと。「……うん」その返事は、少しだけ柔らかかった。並んだ足取り。同じ速さ。同じ影。触れなくても、迷子じゃない。凪は気づく。この関係は、大きな言葉で守られているわけじゃない。小さな気遣いと、黙って隣にいる選択で、静かに続いている。夕方の光は、二人の影を、さらに長く伸ばした。それは、離れていく影じゃない。これから先も、同じ方向に進む影だった。
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私…… どうしたらいいの……?

昼休みのチャイムが鳴り終わった頃。凪は、一瞬で空気が変わったのを感じた。ざわ…ざわざわ…教室の奥から、誰かが怒ったような声で言う。「おい、悠真。 お前、凪を泣かせたんだって?」その瞬間、凪の心臓が“ガン”と音を立てた。(え……?)どういうことかわからない。でも――その輪の中心に悠真の名前があると理解した途端、足がすくんだ。悠真は、凪の席から少し離れたところに立っていた。数人の男子に囲まれて、冷たい視線を向けられている。「昨日の放課後、廊下で泣いてたよな? 見たやつがいるんだよ」(……あれは…… 私が勝手に泣いただけなのに)胸がギュッと締めつけられる。「凪、言えよ。 アイツに何されたんだ?」そう言って凪の名前を呼ばれた瞬間、教室中の視線が一斉にこちらを向いた。(やめて……こっち見ないで……)あの日、自分の弱さが顔を出しただけ。悠真は悪くない。むしろ支えてくれた。――言わなきゃ。誤解だって、ちゃんと。だけど。喉を塞がれたように、声が出ない。(なんで……? 言いたいのに……言えない……!)胸の奥で、何かが叫んでいるのに。「悠真、黙ってないで何か言えよ!」「女泣かせて知らん顔かよ」男子たちの声がだんだん鋭くなる。悠真は静かに言った。「……違うよ」その声を聞いた瞬間、凪の心が大きく揺れた。苦しそうで、悔しそうで、でも誰も攻撃しないように、言葉を選んでいる。「凪を泣かせたのは…… 俺じゃない」本当のことなのに、誰も信じていない目をしていた。(お願い……誰か気づいて…… 悠真は……そんな人じゃない……)凪は立ち上がろうとした。でも膝が震えて、机に手をついた。――その音だけが、重く響いた。教室
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……逃げたいなら、逃げてもいいよ

放課後の図書室は、冬の夕方特有の静けさに包まれていた。窓の外は薄く曇り、空気の匂いまで冷たく感じる。凪は、今日こそ落ち着いて勉強しようと心に決めていた。……はずなのに。向かいに座る悠真がノートを開く音だけで、胸がじんわり熱くなる。(ここにいるだけで、 なんでこんなに意識しちゃうんだろう)悠真は凪を見ていないようで、ページをめくるたびに、ちらりと視線を向けてくる。そのたびに、凪はノートの文字が少し震えた。「……凪、さ」沈黙を破ったのは悠真だった。声はいつもより低くて、少しだけ迷いが混じっていた。「今日、凪……ずっと、俺の顔見ないよね」凪の手がぴたりと止まる。「み、見てるよ……?」「うそ。目、合ってない」図書室の静けさが、逆に心臓の音を大きくする。悠真は、凪の方へ少しだけ体を傾けた。「俺、見られたら…… 弱くなるって言ったじゃん」「……知ってるよ」「だからって、完全に避けられるのは…… それはそれで、なんか……きつい」凪は顔を上げられなかった。上げたらきっと、すぐにばれる。自分がどれだけ揺れているか。(……逃げてるんだ、私)昨日も、今日も。視線が合ったら、胸が苦しくなる。それが怖くて、避けてる。少し沈黙が落ちたあと、悠真が小さく息をついた。「……ねえ、凪」その声があまりに優しくて、凪はゆっくり顔をあげてしまった。視線がぶつかった。途端に、胸の奥がきゅっと痛くなる。(あ……だめ、こんなの……)でも、目をそらすより先に悠真がそっと囁くように言った。「そんな顔で見られたら…… 俺、本当に勘違いするよ?」凪は息を飲んだ。「な、なにを……?」悠真の肩が少しだけ震える。たぶん、自分でも抑えられ
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……ずるいよ、そういうこと言うの

冬の冷たい空気が、校舎の廊下にゆっくりと入り込んでくる。チャイムが鳴る前のホームルーム教室は、いつもより静かだった。凪は席につきながら、窓の外の沈んだ空を見た。(なんだろ……   今日はずっと胸が落ち着かない)昨日の並木道での出来事。風でマフラーがめくれた瞬間、体勢を崩した凪を、悠真が本気で抱きとめたこと。その時の 手の強さ。息が触れそうな距離。そして、あの赤くなった耳。全部、まだ胸に残っていた。1限目。現代文。席は斜め後ろ。ちょうど振り返れば悠真が見える位置。……だから凪は、振り返らないように必死だった。(気づいたら見ちゃいそう……   いや、見たくない……   いや、見たい……)ノートの上に書いた文字が少し震える。そのとき。ふと、視線を感じた。(……え?)ゆっくり後ろを向くと――悠真がじっと、凪を見ていた。目が合った。凪の心臓が跳ねる。悠真はわずかに目を見開き、それから照れたように視線を逸らした。(なんで見てたの……?)胸がざわざわして、授業の内容が頭に入らない。休み時間。凪は教室の後ろでノートを整理していた。そこへ悠真が近づいてくる。「凪、今の……」凪は咄嗟に言ってしまった。「見てないよ!全然っ!」悠真は一瞬きょとんとし、そこからゆっくり笑った。「俺が見てたって話なんだけど」凪の顔が一気に熱くなる。「……っ、なんで……見てたの?」悠真は少しだけ真剣な表情になって言った。「今日の凪、   いつもより落ち着かなく見えたから」「お、落ち着いてるよ……」「うん。そう見えたらいいんだけどさ」悠真は指でノートの端を軽く触れ、目を逸らさずに続ける。「……本当は、  今日ずっと気になって
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凪……反則……

金曜日の朝。教室の窓から見える空は、冬の色に少しずつ近づいていた。冷たい風が流れているはずなのに、凪の胸の中にはほんのり温かいものが灯っていた。昨日、上手に話せたから。ちゃんと気持ちを交換できたから。(今日は……   もう少し踏み出せる気がする)自分でも驚くほど、心の奥が前へ進む準備をしていた。放課後の図書室は、静けさがいつもよりやわらかく感じられた。席に着いた凪は、深呼吸をひとつ。そこへ、扉が開く。悠真が、少し急ぎ足で入ってきた。頬が赤く、息がほんの少しだけ弾んでいる。「凪、待った?」「ううん、今来たところ」その言葉が自然に口から出たことに、凪は自分で驚いた。悠真は凪の前に座ると、珍しく、ちょっと言いにくそうな顔をした。「今日さ、   俺の方から……話したいこと、ある」「え……?」胸の奥が一気に高鳴る。悠真は、机の上で両手を軽く組み、まっすぐに凪を見た。「昨日、 凪が“嫌だった”って言ってくれたとき…… 俺、正直ちょっと嬉しかったんだ」凪の心臓が跳ねる。「だってさ。 誰かに嫉妬されるって…… 期待してもらえてるってことだろ?」頬が一気に熱くなる。(ずるい……そんな言い方……)悠真は照れくさそうに笑い、続けた。「でさ……実は俺も、 ちょっとだけ言いにくいこと、ある」凪は息をのんだ。“自分だけじゃなかった”その予感がして、胸の奥が甘くなる。「名前……呼んでみてほしい」「……え?」「“悠真”って。 凪に呼ばれたら…… 多分、結構やばい」凪は言葉を失った。(やばいって……何それ……)頬が熱い。胸も熱い。心の奥で何かがはじけたような感覚。悠真は軽く俯き、小さな声で付け足した。「俺、凪に
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すれ違うのはさ、ちゃんと心が動いてる証拠だよ

昼休みのチャイムが鳴った瞬間、凪の胸の奥がきゅっと縮んだ。(やだな……この感じ)自分でもうまく説明できない。昨日の“あの気持ち”がまだ胸の中に残っていて、どこか落ち着かない。図書室で向き合ったあの時間。悠真が後輩と話していたときの、胸の奥がざわついた瞬間。そして、“俺も、凪が気になってた”と静かに言ってくれた、あの言葉。全部ぜんぶ、まだ心のどこかで揺れている。放課後。凪は教室で荷物をまとめながら、無意識にスマホを気にしていた。(……今日も来るかな)そんな期待を抱いている自分が、少しだけ恥ずかしかった。「凪」名前を呼ばれ、びくっと振り返るとドアのところに悠真が立っていた。(来た……)胸の奥で跳ねた鼓動を誤魔化すように、凪は落ち着いた声を装った。「どうしたの?」「今日さ……話せる?」凪は一瞬だけ迷った。胸の中のざわざわを抱えたまま話したら、きっとうまく笑えない。でも――逃げたら、余計モヤモヤが残る気がした。「……話したい」そう言うと、悠真は静かに笑った。二人はいつもの図書室へ。窓の外では、曇り空の薄い光が揺れていた。すれ違う気配は、空の色にもよく似ている。席に着いた瞬間、凪は机の下でそっと手を握る。悠真が、言った。「今日は……凪の話、聞きたかった」凪は唇を噛んだ。何から話せばいいのかわからない。昨日の嫉妬も、胸のざわめきも、“後輩の子が気になる?”という自分の小さな不安も――どれも、口に出したら子どもみたいで。でも、悠真の視線は逃げずに待ってくれていた。(言うしかない……)凪は小さく息を吸った。「ねぇ悠真。 私……昨日のあれ、 ちょっとだけ……嫌だった」悠真は驚いた顔をした。「嫌…
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その距離が、 恋のはじまりをじっくり温めてくれる

翌日の放課後。凪は胸の奥がふわっと軽くなるのを感じた。(今日、また話せるかな……)図書室へ向かう廊下を歩く足取りが、自分でも驚くほどゆっくりになっていく。そのときだった。教室前の掲示板で、悠真が見知らぬ女の子と話しているのが見えた。長い黒髪。落ち着いた雰囲気。柔らかく笑って、何か差し出している。「これ……頼まれてたプリント。返すね」「ありがとう。助かった」悠真は自然に笑って受け取り、その柔らかさが凪の胸にチクリと刺さった。(……誰?)そんな疑問の前に、心の奥で別の声がささやいた。――ああ、こういう笑顔もするんだ。凪は立ち止まり、少し胸の奥がしんと冷える感覚を抱えたまま、気づかれないようにその場を通り過ぎた。遠まわりをして、たどりついた図書室。窓際の席に座っていたのは、やっぱり悠真だった。「凪、今日も来たんだ」「うん……」凪の返事はいつもより小さかった。悠真はすぐ気づいたようで、少し顔を覗き込む。「なんかあった?」(言えるわけないよ。あの子、誰?なんて)胸の奥で、言葉が喉につかえる。“本音を話したい”のに、“怖い”も同時にある。凪は目を伏せたまま、かすかに首を振った。「……なんでもないよ」悠真はしばらく凪の横顔を見つめていたが、それ以上追及しなかった。代わりに、緑茶の缶を机に並べた。「とりあえず、飲む?今日、風が冷たいし」そのさりげない優しさが、逆に胸を締めつけた。(やさしいな……でも、だから余計に言えないんだよ)頬に触れた風が少し冷たくて、凪は気づかないふりをして、缶を開けた。沈黙が、いつもより重く落ちる。ふたりで同じ景色を見ているのに、心の距離だけがほんの少しずつ離れていくよ
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人の感情ってさ、風みたいなもの

翌日の放課後、柚は屋上にいた。夕方の風が制服の袖を揺らして、遠くのチャイムの音を運んでくる。空は昨日より少し曇っていて、淡い光が校舎の壁をやさしく染めていた。今日もまた、クラスでちょっとした出来事があった。友達同士の言い合い。自分には関係ないはずなのに、気づけばその空気の重さを全部吸い込んでしまっていた。「なんで、私がこんなに疲れてるんだろう……」自分でも分からない。ただ、誰かが怒られているとき、胸の奥に痛みが走る。まるで自分が責められているみたいに。「また考えすぎてる?」不意に声がして、顔を上げると新くんがいた。屋上の扉の影にもたれかかって、空を見ている。「……どうして分かるの?」「分かるよ。君、そういう顔してる」柚は苦笑した。「わたし、すぐ人の気持ちに飲まれちゃうんだ。 怒ってる人がいると、自分が悪いみたいに感じちゃうの」新くんはしばらく黙っていた。そして、風に前髪を揺らしながら静かに言った。「ねぇ柚。 人の感情ってさ、風みたいなものだと思うんだ」「風?」「うん。たとえば、誰かが怒ってるとき、その風が強く吹いてくる。 でもね、その風を“全部吸い込む”必要はないんだよ」柚は息を呑んだ。新くんの言葉が、胸の奥にゆっくりと沈んでいく。「僕たちは、自分の空気を守っていい。 優しい人ほど、相手の風まで自分の中に取り込んで苦しくなっちゃう。 でも、それは“相手の風”なんだ」柚はしばらく黙って空を見上げた。灰色と茜色がまじり合う夕空が、まるで心の模様みたいだった。「……境界線、ってやつだね」「そう。君は人の気持ちを感じ取る才能があるけど、 その才能は“風を見分ける力”にも使えるはずだよ」
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スポットライトの向こうで

体育館の床に立つと、足の裏から緊張が這い上がってくる。体操部に入ったのは、小さいころから跳び箱や鉄棒が好きだったから。特別に才能があったわけじゃない。ただ、毎日コツコツ練習を重ねてきただけ。でも、高二の夏。地区大会での演技が奇跡みたいに決まり、私は思いがけず全国大会への切符を手にした。「すごいじゃん!」「応援してるから!」そのときは、友だちも一緒に喜んでくれた。教室に笑い声が響き、LINEグループもお祝いのスタンプでいっぱいになった。胸が熱くなり、「もっと頑張らなきゃ」と思った。強化合宿が始まってから、時間の流れが急に速くなった。朝練、授業、放課後はすぐに体育館。夜は宿題を広げたまま、机に突っ伏して眠り込む。ある日、体育館に雑誌の取材が来た。「もっと笑顔で!」「もう少しあごを上げて」カメラマンにそう言われながらポーズを取る。慣れない撮影に戸惑った。記者からは発売予定日は告げられていた。それでも私は待ちきれず、練習帰りにコンビニへ立ち寄っては雑誌棚をのぞいてしまう。「まだだよね」そうわかっているのに、ページをめくっては閉じる。何度かそんなことを繰り返したある日、ついに自分の写真を見つけた。大きな見出しと共に載っている自分を見て、胸がどくんと鳴る。「本当に…載ってる」息をのむようにして立ち尽くした。翌日、学校では「見たよ!」と声をかけられた。「すごいじゃん!」「なんかアイドルみたいだね」誇らしくて、でもくすぐったくて、心の奥が熱くなった。後輩からも声をかけられる。「握手してください!」「一緒に写真いいですか?」恥ずかしくて「いやいや」と手を振りながらも、高揚感は止まらなかった。その
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じゃあ…… また呼んでもいい?

家に帰ってきた凪は、玄関で靴を脱ぎながら、さっき悠真が肩を支えてくれた温度を思い出していた。涙を見られたこと。弱さを見せてしまったこと。(……恥ずかしい)そう思うのに、胸の奥ではなぜか“安心”が溶け残っている。リビングの電気をつけても、その余韻は消えなかった。夜──。布団に入っても、眠れなかった。(悠真……  怒ってたわけじゃないよね……)思い返すほど、心がざわざわする。そのとき。スマホが小さく震えた。画面には——『帰ってから大丈夫?   ……無理してない?』悠真からのメッセージだった。胸がぎゅっとなる。返信を迷っていると、またメッセージが届いた。『今日のこと、 無理に話さなくていいよ。 でも……泣かせたくなかった』凪は思わず息をのんだ。(……泣かせたくなかった、って)指が震えながらも、凪は返す。『大丈夫。迷惑かけてごめん』数秒後、即レスが来た。『迷惑なんて思ったことない。 むしろ…… 頼ってくれて嬉しかった』その言葉は、今日いちばん凪の心を揺らした。胸の奥のなにかがぽたりと溶けて、涙がまたこぼれそうになる。(……どうして  そんな優しいこと言うの……)スマホを握ったまま、布団に顔を埋める。そのとき——『凪』名前だけのメッセージが届いた。え? と凪は固まる。(名前だけのメッセージなんて……  どういう意味?)ドキドキしていると、続けてもう一通。『ちゃんと呼びたくなった。 今日、 泣きそうな顔してた時も…… 名前で呼びたかった』凪は一瞬で目が熱くなる。言葉が返せない。胸がいっぱいで、指が動かない。送信画面を見つめていたら、またメッセージが届いた。『……嫌だった?』凪は慌てて返信す
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じゃあ……隠さなくていいようにするよ

放課後の図書室は、冬の光が静かに積もっていた。窓の外は夕暮れ。街のざわめきが少し遠く聞こえる。凪は勉強道具を広げながら、目の前に座る悠真をちらりとも見られなかった。(……今日の悠真、なんか変だ)視線を感じる。でも、向けられると心が落ち着かない。ページをめくるふりをしながら、凪はゆっくり深呼吸した。「……ねぇ、凪」その声は、いつもより低かった。「今日、ずっと目をそらしてるよね」手が止まった。「そ、そんなこと……」と言いながら、また目をそらしてしまう。悠真は、少し間を置いてから、凪の名前を呼ぶように静かに言った。「……見られるの、嫌?」その言い方があまりにも真っ直ぐで、凪は胸をつかまれたように息をのんだ。「……嫌じゃ、ないけど……」「じゃあ、なんで?」凪は俯いて、無意識に指先を揺らしていた。(言えないよ……。 だって……見られると)顔が熱くなる。胸が苦しくなる。何かが溢れそうになる。そんなの、簡単に言えるわけない。「……凪」ふいに、悠真が身を乗り出してきた。その距離は、逃げられないほど近い。凪の視線はページの文字に釘付けだったが、悠真は凪の横顔を、まるで読むように見つめていた。「ねぇ、凪。 俺を避けてるって思っていい?」「ち、違うよ!」凪は慌てて顔を上げた。その瞬間――悠真とまっすぐ目が合った。ドクン、と心臓が鳴る。悠真の目には怒りも呆れもなく、ただ、凪の答えを待つような“あたたかい焦り”があった。「じゃあ……なんで?」声が震えるくらいの静けさの中で、凪はようやく心の奥に触れた。「……目、合うと…… なんか、 全部伝わっちゃいそうだから……」悠真の目がわずかに見開かれ、すぐに柔らか
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二人の手は、まだ触れていない。でも、距離はもう、触れるより近かった

放課後の図書室。あの日の“悠真の嫉妬”が、まだ凪の胸に残っていた。(怒ってた…よね。 見たことない顔だった……)凪と話していた男子に向けられたあの視線。凪に手を伸ばしかけて、途中で引っ込めた指先。言葉よりずっと強い感情が、そこにはあった。それが怖くて、でも……胸の奥が少しだけ、嬉しかった。(どうして… こんな気持ちになるんだろ)ページをめくる手は、ゆっくり震えていた。そのとき。「……凪」聞き慣れた声が、そっと凪の世界に入ってきた。悠真が立っていた。いつもの穏やかな表情ではなく、少しだけ不器用で、迷っているような顔。「さっき……ごめん」凪の心が跳ねた。「え……」「怒ったんじゃなくて…… なんか…… 自分でもよくわかんないけど…… 見てたら、 胸の奥がギュッてなって……」悠真は言葉を探していた。「嫉妬、したの?」凪が言ってしまった。言ってから気づいて、顔が赤くなる。悠真は一瞬固まり、それから小さく息を吐いた。「……した。 自分でびっくりするくらい。 だって……   他のやつ見て笑ってるの、   見たくなかった」凪の心臓が強く鳴った。「迷惑だったよな。 ごめん。困らせたよな」凪はゆっくり首をふった。「……困ってないよ」「じゃあ……  嫌じゃなかった?」「……」凪はうつむいたまま、自分のスカートの端をそっとつまんだ。「嫌じゃなかったどころか…… ちょっと、嬉しかった」悠真が驚いたように目を見開く。凪は続けた。「……誰かを好きになるって…… こうやって、 自分じゃない ‘何か’ に 揺らされるんだね。 知らなかった」静かな空気が二人を包む。数秒の沈黙。悠真はゆっくり近づいて、凪の机に置か
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悠真が……そんな顔するなら

昼休み。教室のざわめきがいつもより少しだけ遠く感じた。凪は、クラスメイトの 蓮(れん) からプリントを渡されていた。蓮は明るくて誰とでも気さくに話せるタイプ。男女問わず人気がある。凪とも席が近く、数学の宿題の話で時々やり取りをする。「これ見た? 俺の解き方、 合ってるか見てほしい」「うん、ちょっと待ってね」蓮のノートを覗き込む凪。さほど深い意味はない。ただ、数学が得意な凪にとってはよくある話しだった。――けれど。後ろの席から、視線が刺さる。(……また見てる)振り返ると、悠真がジッとこちらを見ていた。表情はいつもと違う。どこか硬く、冷たく、そして少し不機嫌だった。凪は慌てて視線を外す。(え……なんで?)蓮は気づかず、明るい声で続ける。「凪ってさ、 教え方めっちゃうまいよね。 家庭教師できるレベルじゃん」「そんなことないよ……!」笑って返す凪。でも、その声はどこか落ち着かない。蓮のノートに視線を落としたまま、心はまったく別のほうへ向かっていた。(悠真……怒ってるのかな?)放課後。凪がカバンを閉じようとしたとき、後ろから低い声がした。「……さっきさ」振り返ると、悠真が立っていた。正面から見ると、彼の眼差しはもっと鋭かった。「蓮と……なんの話してたの」「え? あ、あれは宿題の――」「近かったよね。やけに」(……え、嫉妬?)凪の胸が一気に熱くなる。「ち、近くなんて……」「近かったよ。俺から見たら」悠真は一歩近づく。凪は思わず後ずさりし、机の角にぶつかった。逃げられない距離。「……別に。蓮のこと、 好きとかじゃないよね?」「ちょっ……な、 なんでそういう話に……!」悠真は凪の目をまっすぐ見
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……さっきの子、前からよく話しかけてたよな

月曜日の放課後。冬の空はいつもより早く暗くなっていた。凪は図書室へ向かう途中、昇降口の近くで後輩の男子に呼び止められた。「凪先輩、   この前のプリントのお礼、言いたくて…!」少し顔を赤くして、手に何か小さな包みを持っている。(……また?)この後輩は凪のことを“憧れ”だと言って、何度か話しかけてきていた。「これ、よかったら… 先輩、いつも優しくしてくれるから」凪は困り笑いをしながら受け取ろうとした。その瞬間――ガシャン、と靴箱の扉が乱暴に閉まる音。振り返ると、悠真が真っ直ぐにこちらを見ていた。表情は何も変わらないのに、その目だけがいつもより冷たく揺れている。凪の胸がザワッとした。「……図書室、行くんじゃなかったの?」悠真の声は、静かだった。でも――(怒ってる……?)後輩の男子は空気を読んだのか、「すみません!」と背中を丸めて逃げていった。凪と悠真、二人だけが残された。昇降口の外へ出ると、寒い風が吹き抜ける。「……さっきの子、 前からよく話しかけてたよな」悠真は俯いたまま言う。声の奥に少しだけ棘があった。凪は胸がぎゅっと締めつけられた。「別に……何でもないよ。後輩だし」「でも凪……ああいうの、   断れないタイプだろ」図星すぎて、凪は言葉を失った。悠真は続ける。「前にも言ってただろ。 “人の気持ちを拾いすぎる”って。 今日も、嬉しくなくても、   笑って受け取ろうとした」凪は俯いてしまう。(……なんで、そんなにわかるの)気づけば、凪はいつも誰かの機嫌や期待を優先して生きてきた。そのクセは、“過去”がつくった傷から始まっている。そして、その過去を誰にも話したことがない。悠真だけが、
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変わるのが怖いって、本気で誰かを想ってる証拠だよ

金曜日の帰り道。学校の裏門から続く並木道は、冬の気配をまとった風が通り抜けていた。歩幅は自然と揃っていて、凪と悠真の影は、時々重なっては離れ、また寄り添う。「今日は……ありがとう」凪がぽつりと呟くと、悠真はゆっくり首を振った。「俺の方こそ。 凪に名前呼ばれたの、ずっと反芻してた」「反芻って……牛みたい」凪が笑うと、悠真も照れたように笑った。「でも、本当に……やばかった。 呼ばれた瞬間、 心臓おかしくなったかと思った」(そんなふうに言われると、     またドキドキするよ……)風が二人の間をすり抜け、冬の匂いだけを残していく。ふと、凪の髪が風に揺れて、頬にふわりとかかった。悠真が自然に手を伸ばし、 軽く払い落とそうとした――その瞬間。指先が、ほんの一瞬だけ触れた。「……っ」触れたと言えるほどの強さでも、握ったと言えるほどの距離でもない。ただ、指先の温度が、胸の奥まで届いてしまう“瞬間”。悠真は、そのまま少し固まった。「ご、ごめん……!  今の、勝手に……!」「ち、違……びっくりしただけ……!」凪も顔が熱くなり、手をぎゅっと握りしめた。(触れたいなんて思ってなかった……  でも、触れられた瞬間……      嫌じゃなかった……)むしろ。心臓の高鳴りが止まらなかった。並木道の出口が見えてきたころ、悠真が息を整えながら話し始めた。「ねぇ凪。 俺、ひとつだけ言っていい?」「……なに?」夕暮れの光の中、悠真の横顔は少しだけ真剣だった。「俺、凪に触れるの……すごく怖い。 凪が嫌がったらどうしようとか、 嫌われるかもしれないとか……」凪は思わず立ち止まった。悠真も歩みを止め、こちらを向く。「で
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晴れた日の影みたいにやわらかかった

土曜日の午後。湿り気を含んだ風が、校庭の端をゆっくり通り抜けていく。凪は部活後のプリント整理のために教室へ戻り、机の上の山を前に小さくため息をついた。ふと、廊下側の扉が開き、真帆が顔をのぞかせる。「凪……今日、時間ある?」その声は、どこか慎重だった。いつも勢いのある真帆が、こんな声を出すのは珍しい。「うん、あるよ」真帆は凪の机の前に立つと、しばらく指先をいじりながら言った。「この前さ、“全部ダメ”って言った時…… 凪、ほんとはイヤじゃなかった?」――ドキッ。(……気づいてたんだ)凪は言葉を探した。でも、正直に伝えようとすると、胸がざわつく。「イヤ、っていうか……   ちょっとだけ苦しくなったかな」凪がゆっくり言うと、真帆の表情が一瞬固まった。「そっか……ごめん」謝られると、凪の胸が反対に少し痛んだ。(謝ってほしいわけじゃなかったんだよ……)凪は慌てて続けた。「真帆が悪いんじゃないよ。   ただ、聞きながら自分が   いなくなっていくような感じがして…… それが怖かっただけ」真帆はしばらく黙った。その沈黙は、以前みたいに不安な沈黙じゃなく、“考えている沈黙”だった。「ねぇ凪。 私、いつも言いたいことを  一気に言っちゃうけど…… 凪がどんなふうに聞いてるかって、   あんまり考えてなかったかも」凪は驚いた。真帆がこんなふうに“自分の内側”を話すのは、初めてだったから。「ねぇ、これからさ…… お互い、しんどいときは言っていい?」「うん」「聞けない日は、聞けないって言ってほしい」「私も、そうする」二人は小さく笑った。その笑顔は、前よりも優しく、前よりも素直だった。(本音を言うって、壊
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私…… “いい子”じゃなくても、一緒にいてくれる?

週の真ん中、水曜日。いつもより早く起きたはずなのに、凪の胸の奥には重たい石のような沈みがあった。原因は、昨夜の家での出来事だ。夕飯のあと、母の何気ないひと言が刺さった。「凪って、なんか最近“いい子じゃない”よね」言われた瞬間、心の奥で小さな音がした。――パキッ、と何かが割れたような。(いい子、じゃないといけないの?)(優しくいないと、誰かをがっかりさせる?)それは、誰にも見せたくない傷だった。放課後。図書室の窓際に座ってみても、ページをめくる気になれない。光は柔らかいのに、心は重いまま。そこへ、そっと影が差した。「凪」悠真だった。「今日は…なんか違うね」凪は笑おうとした。でも、うまく笑えなかった。「……ちょっと、元気ないだけ」嘘ではない。でも本当でもない。悠真は何も言わず、鞄を椅子に置くと、すっと図書室を出ていった。(あ…嫌だったかな)(話せって思われた?   ちゃんと話さないと、心配かけちゃう?)不安が静かに胸に広がる。でも数分後、戻ってきた悠真の両手には――温かい缶ココアが二つあった。「これ」凪の前に、そっと置く。「話したくないときってさ」「……うん」「言葉より、   あったかいものの方が   役に立つんじゃないかな」悠真は目を合わせず、缶をコツンと机に置いた。凪の胸の奥で、何かがゆっくりほどける。「……話したくないの、わかったの?」「わかってないよ」即答だった。「でも、   “無理して話そうとしてる感じ”はわかった」凪は、たまらず俯いた。(どうして…そんなふうに見えるんだろう)缶を両手で包むように持つ。じわっと広がる温かさが、凪が押し込めていた感情をゆっくり溶かしていく。
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見透かされたくない、でも、わかってほしい

放課後の校舎に、夕暮れの色がゆっくり降りていく。窓の外の空はうすい橙色で、廊下の向こうから聞こえる部活の掛け声が、今日は少し遠い。音楽室の扉をそっと閉めると、空気はひんやりしていて、木の匂いがした。柚はピアノの椅子に腰をおろす。鍵盤に触れた指先が、わずかに震えているのが自分でもわかる。――あの一言、やっぱり痛かったな。友だちが休み時間に言った、何でもないような冗談。笑って「大丈夫」って返したのに、笑いのあとに残った沈黙が、胸の奥でまだチクチクしている。鍵盤をひとつだけ、そっと押す。低いドの音が、小さな波紋みたいに教室の隅まで広がって、消えた。「……ここにいると思った」扉がもう一度、やわらかく開いた。新が顔をのぞかせる。肩からずり落ちかけた通学カバンを直しながら、柚の隣に立つ。「無理して笑ってた?、さっき」その一言で、こらえていた涙が少しだけにじんだ。見透かされたくない、でも、わかってほしい。相反する気持ちが、胸の中で押し合いへし合いする。「……わたし、   たいしたことじゃないって思おうとしたの」「たいしたことじゃない、っていうのが、   たいしたことなんだと思う」新はそう言って、鍵盤の横に指を置く。弾かないで、ただ、そこに置いて、息を合わせるみたいに沈黙を共有した。「ねえ、柚」「うん」「……今の気持ち、言ってみて」新の声は、ピアノの余韻みたいに静かだった。柚は、少し俯いたまま、指先で鍵盤をなぞる。押した音は出なかったけれど、心の奥で、なにかが小さく鳴った気がした。「……さびしい」そう口にした瞬間、胸の奥の何かがほどけて、喉の奥に熱いものがせり上がる。新が横で、小さく頷く。その
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まだ“ありがとう”の途中でしょ?

「まだ“ありがとう”の途中でしょ? あなたも」そう言って微笑んだ彼女の顔は、不思議なくらい静かだった。泣いているわけじゃない。でも、目の奥では、何かが揺れている。波打つ水面を、必死に押しとどめている――そんな目だった。僕は何かを返さなきゃと思ったのに、言葉がどこにも見つからなかった。風が吹いた。彼女の髪と、僕の制服を揺らしていく。夕陽に染まる屋上で、僕らはたった一本の傘を挟んで立っていた。返せば、ここで終わる気がした。返さなければ、何かを期待してしまいそうだった。――どちらも、怖かった。沈黙のまま、僕は傘を握っていた手を、そっと降ろした。「……じゃあ、もう少しだけ」ただ、それだけを言った。彼女は驚いたように瞬きをして、それから、本当に小さく、今度こそ泣きそうな笑顔をした。「うん。……ありがとうの、続き、聞かせてね」その瞬間、胸の奥で何かが外れる音がした。言えなかった言葉たちが、心のどこかで息をしていた。ありがとう と言いたいのに。ごめん と言いたいのに。でも僕らは、どちらもまだ何も言っていなかった。――そうだ。ありがとうって、終わりの言葉じゃなかった。本当は“これから”の言葉だったんだ。次に会うとき、僕はもう少しだけ、素直になれるだろうか。傘は返さない。まだ、僕たちは途中だから。
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千点の約束

試合終了のブザーが鳴った。スコアボードには無情な数字。最後のシュートを外したのは、俺だった。「なんであそこで外すんだよ!」仲間の声が背中を突き刺す。振り返れない。視界がにじみ、シューズの先だけがやけに鮮明だった。家に帰ると、玄関の灯りが冷たく感じた。「ただいま」かろうじて声を出すと、母の苛立った声が飛んできた。「遅い! ご飯冷めちゃうでしょ。 試合だって、どうせ負けたんでしょ?  だったら家くらいちゃんとしなさいよ」胸の奥が砕けた。母に悪気はないと分かっていても、その言葉は重すぎた。リビングでは弟がゲームをしながら笑った。「兄貴、また負けたの?」「うるさい!」と怒鳴った声が震えていた。涙が出そうで、二階に駆け上がった。翌日の教室。黒板の前では友達が楽しそうに話していた。けれど、その輪に俺の名前はなかった。「昨日のミス、見た?」「うん、最後のシュート外したんだろ」ひそひそ声が耳の奥にへばりつく。ノートを開いても、文字は霞んで見えない。昼休み、机を寄せ合う輪の外で、俺はひとり弁当をつついた。箸の音だけがカチリと響く。笑い声が遠ざかっていく。影が机の上に落ちて、俺だけを真っ暗闇に沈めていくようだった。放課後。校門を出た道は、夕日で赤く染まっていた。友達の集団を横目に、俺は俯いたまま歩いた。足音がやけに大きく、孤独を強調していた。「……なんで俺ばっかり」声に出した瞬間、喉が震え、涙が止まらなかった。居場所なんて、どこにもない。家にも、学校にも、自分の中にも。そのときだった。「ねえ、大丈夫?」振り返ると、逆光の中に真奈が立っていた。小さなノートを開き、そこには大きな字が書かれていた。『辛
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この距離が、好きだ

チャイムが鳴って、教室は一気に日常へ戻った。椅子を引く音。ノートを閉じる音。誰かの笑い声。凪は、席に座ったまま、しばらくペンを動かせずにいた。——聞いていた。自分は、確かに聞いていた。悠真が、「うん」とだけ答えた、その声。余計な言葉を足さず、否定も、強調もせず、ただ事実を受け取った、あの一瞬。凪は、その背中を思い出す。前に立つわけでもなく、自分を隠すわけでもなく。ただ、そこに立っていた。(……並んでる)胸の奥で、小さく何かがほどける。凪は、悠真が“守ってくれた”とは思わなかった。代わりに感じたのは、信じて任せてもいい、という感覚。休み時間。悠真が、何事もなかったように振り返る。「ノート、写す?」その声は、いつもと同じだった。「……うん、お願い」凪は、立ち上がって席を移る。机を挟んだ距離。少し近い。でも、触れない。凪は、ノートを覗き込みながら思う。——この距離が、好きだ。特別な言葉がなくても、説明しなくても、ちゃんと伝わる距離。ふと、悠真が小さく言う。「さっきのことさ」凪は、顔を上げる。「気にしてたら、ごめん」一瞬、胸がきゅっとなる。でも、凪は首を振った。「ううん」「……安心した」悠真は、少し驚いたように目を瞬かせる。「安心?」「うん」凪は、ちゃんと、言葉を選んでから続ける。「何も言わなかったのに」「ちゃんと、そこにいてくれたから」悠真は、少しだけ照れたように視線を逸らす。「それなら、よかった」それだけ。それ以上は、言わない。凪は、思う。——聞いていた、という事実。——見ていた、という事実。それだけで、恋は、少し前に進む。名前は、まだいらない。でも、この関係が「大切だ」とはっきり
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噂で人を傷つけるの、楽しい?

教室の空気が、少しだけ変だった。誰かが見ている。誰かが、話すのをやめる。凪が席についた、その一瞬だけ。——来る。理由はわからないのに、凪の胸はそう告げていた。「ねえ」背後から、女子の声。振り向く前に、教室の視線が一斉に集まるのがわかった。その中心に、自分が立たされている感覚。「三條くんに告白されたんでしょ?」静かな声だった。でも、その一言は、教室の空気を切り裂くには十分すぎた。「なんで、よりによってあの子なの?」別の女子が笑う。笑っているのに、目は笑っていない。「悠真のことも泣かせたらしいじゃん」「可哀想なのは、どっちなの?」凪の頭が、真っ白になる。違う。そんなつもりじゃない。何も、してない。言葉は、喉の奥で凍りついた。「……黙ってるってことは、図星?」誰かが、そう言った。その瞬間だった。椅子が音を立てて引かれる。悠真が立ち上がる。「それ以上、言うな」低い声だった。怒鳴っていないのに、教室が静まり返る。「凪は、何も悪くない」「本人が何も言ってないのに?」「守ってるつもり?」女子の声は、挑発的だった。悠真は、一歩前に出る。「泣いた理由も」「学校に来れなかった理由も」「全部、俺が知ってる」凪は、はっと顔を上げた。知られたくなかった。でも——守られている、と思ってしまった。「噂で人を傷つけるの、楽しい?」その一言で、空気が凍る。先生が入ってくるまで、誰も動けなかった。凪は、気づく。もう、この事件は二人だけの問題じゃない。クラス全体が、この関係を“裁こう”としている。——逃げ場は、もうない。それでも。悠真の背中が、凪の視界から消えなかった。怖い。でも。一人で立たされていない、その事実だ
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俺は、凪の隣にいる

翌朝。凪は、目覚ましが鳴る前に目を覚ました。カーテンの隙間から差し込む光は、昨日と同じなのに、胸の奥にある重さだけが、まだ残っている。学校に行かない。そう決めたはずなのに、「行かない」という選択肢が、こんなにも心をざわつかせるなんて思わなかった。スマホを手に取る。通知はない。——当然だよね。誰も、私がいなくても困らない。そう思った瞬間、昨日の夕焼けの中で、悠真が言った言葉がよみがえる。「凪がここにいてくれるなら、  それでいい」胸が、ぎゅっと締めつけられた。昼過ぎ。玄関のチャイムが鳴った。驚いてドアを開けると、そこにいたのは悠真だった。制服のブレザー姿のまま、少し息を切らしている。「……来た」凪の声は、自分でも驚くほど震えていた。「勝手に来てごめん」悠真はそう言って、視線を落とす。「でも、ひとりにしたくなかった」凪は何も言えず、ただ首を横に振った。近所の公園まで、二人は並んで歩いた。会話は少ないのに、不思議と沈黙が怖くない。ベンチに座ると、凪はぽつりと言った。「……私、学校に行く資格ないのかな」その言葉に、悠真の表情が変わった。「そんなこと、誰が決めた?」静かだけど、強い声だった。「噂とか、告白とか、嫉妬とか」「全部、凪が悪いみたいに言われてるけど」悠真は、はっきり言った。「凪は、何も間違ってない」凪の目から、涙がこぼれ落ちる。「でも……居場所が、なくなった気がして」悠真は、少し間を置いてから言った。「じゃあ、作ろう」「凪の居場所」凪が顔を上げると、悠真はまっすぐこちらを見ていた。「学校でも、学校の外でも」「俺は、凪の隣にいる」その言葉は、慰めじゃなかった。覚悟だった。凪は、初
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この人になら……触れられても、怖くない

放課後の図書室。静かなページの音だけが、薄い冬光の中に漂っていた。凪は本を開いたまま、視線を下げていた。読み進めているようで、文字はほとんど入っていない。(……今日、悠真、気づいてたな)数学の時間。凪が一瞬、肩を強く震わせたこと。クラスメイトが後ろで大きな声を出した瞬間、反射的に凪が身をすくめたこと。悠真だけが、そのわずかな表情の変化に気づいた。そして今。本棚の陰にいる悠真の視線が、ずっと凪の横顔に寄り添っているのがわかる。「凪」そっと名前が呼ばれた。凪は顔を上げると、悠真が席をひとつ近づけていた。「今日さ……何かあった?」凪は胸の奥がきゅっと縮む音を感じた。「……何もないよ」「嘘だろ」柔らかい声なのに、逃げ道がない。悠真の言葉は、優しいのにまっすぐで、凪の奥に隠していたものをそっと照らしてしまう。「お前さ、大きい声がすると……   息止めてるみたいになる」凪の手が震えた。悠真はその震えに気づかないふりをしながら、ゆっくり続きを言った。「もし……   誰かに何か言われてるなら、   言ってほしい」「違う……の」凪はかすれた声で言う。「誰かに言われてるとかじゃない。   ただ…… 中学のとき…… 少しだけ…… 怖いことがあって」言葉にした瞬間、胸が締め付けられた。長い間しまい続けていた場所が、自分でも驚くほど痛んだ。悠真は、驚いたように目を瞬いたあと、ゆっくりと凪の前に手を置いた。触れない距離で。「話したくなかったら、 無理しなくていい。 でも…… 凪が一人で抱えてたなら、 俺は知りたい」凪の喉が熱くなる。(言わなくていい。 でも……言ってほしいって、 こんなふうに言われたの初め
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「でも、逃げながらでもいいから、俺のそばにいて」

放課後の図書室は、窓から差し込む夕陽でゆっくりと金色に染まり始めていた。机の上には開いたままの参考書。けれど、ページはほとんど進まない。凪は、さっきの出来事をまだうまく飲み込めずにいた。(どうして……あんな風に見つめてくるの?)悠真の嫉妬。あの瞬間ににじんだ感情。嬉しいのに、怖い。怖いのに、離れたくない。胸の奥が、自分でもよくわからない色で揺れていた。向かいに座った悠真は、じっと黙って凪を見ていた。怒っているわけでもない。責めているわけでもない。ただ――“知ろうとしている”。凪の心の中を。「……さっきは悪かった」突然、悠真が口を開いた。「嫉妬したみたいに見えて、 嫌な思いさせたよな」凪は首を振る。「……嫌じゃなかったよ」その一言に、悠真の視線が少し柔らかくなる。「でも、ああいうの…… びっくりするでしょ?」凪は、視線を机に落とした。「……するよ。でも、」小さく息を飲んで、勇気を振り絞る。「誰かに…… “気にされる”ことに、  まだ慣れてないだけ」悠真は静かに凪を見つめた。「……過去のこと、  まだ話せない?」凪の指がピクッと震えた。昨日、悠真の嫉妬の影で、凪は一瞬“触れてほしくない記憶”を抱えていることを悟られてしまった。凪はゆっくりと息を吐く。「話すのが怖いの。 聞かれたら……  嫌われる気がして」「凪、俺は――」悠真は語気を少し強くして言った。「凪を嫌いになる理由なんてない」凪の胸に、じわっと温かさが広がった。けれど、その温かさが同時に痛みも呼んでしまう。「……悠真は優しいよ。 でも、優しい人ほど……  いつかいなくなるんだよ」その言葉は、凪の過去から零れ落ちたものだった。
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怒ってない。ただ…… 怖かったんだ

放課後の空は、いつもより低く感じた。淡い夕焼けが校舎に反射して、まるで世界全体が静かに息を潜めているようだった。凪は図書室へ向かう途中、小さく深呼吸した。今日は悠真と話すことが、少しだけ怖かった。(だって……昨日のあれ……)“あの男、だれ?”“なんで笑ってたの?”悠真の嫉妬が、あんなにも真っ直ぐ出るとは思わなかった。苛立つ声でも、怒鳴り声でもなかった。ただ、心の奥から漏れ出たみたいに震えた声。あれを聞いた瞬間――胸の奥が、変な音を立てた。好きとか、そういう言葉じゃ説明できない、もっと複雑な痛み。図書室の扉を開けると、悠真はすでに座っていた。机の上のノートは開いているのに、ページはまったく進んでいない。凪の姿に気づいて、悠真は小さく息を吸った。「……来てくれたんだ」凪は頷いたが、視線は合わせられなかった。悠真はゆっくり立ち上がると、机の角を軽く握りしめ、言葉を探すように口を開いた。「昨日のこと……悪かった」「……別に。怒っていいよ、   嫉妬って……そういうものだし」「怒ってない。ただ……   怖かったんだ」凪は顔を上げた。「こわ……かった?」悠真は喉の奥で言葉を押し出すように言った。「凪が他の誰かと笑ってるの見て…… 俺、初めて“奪われるかも”って   思った」胸の奥まで、まっすぐ刺さった。凪は思わず机の端を掴んだ。少し震えた指先に、悠真の視線が落ちる。「……でも、   凪に嫌われる方がもっと怖い」静かな図書室に、素直すぎる声が響いた。凪は唇をぎゅっと結び、目を伏せた。「悠真が……   そんなふうに思ってるなんて   知らなかった」「言えなかった。 言ったら、   凪が離れる気
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……じゃあ。目そらさないでよ

放課後の帰り道。冬の空はまだ明るいのに、胸の奥だけが妙に薄暗かった。(悠真……今日、 ずっとよそよそしかった)数学の時間も。昼休みも。図書室に来たときも。まるで、私と目を合わせないようにしているみたいだった。――それが苦しかった。ほんの少し前まで、視線が合うたびにあたたかくなっていたのに。(私、何かした……?)勇気を出して口を開いた。「ねえ、今日……  なんか変じゃない?」「変じゃないよ」悠真は笑おうとした。けれど、その笑顔は目元に届いていない。“嘘だ” とすぐにわかるくらいに。「じゃあ、なんで目そらすの?」凪が問い詰めるように言うと、悠真は歩みを止めた。風がふたりの間を抜ける。夕陽が少し刺さる。やがて――悠真は小さな声で言った。「……さっきの、谷口のこと」「え?」「……楽しそうに話してたろ」(谷口くん……?)今日、ノートを貸しただけの、隣のクラスの男の子。「別に…… 普通に話しただけだよ?」「それは、わかってるけど」悠真の言葉は途中で途切れ、視線は地面に落ちた。その横顔が、想像以上に苦しそうだった。胸がチクリと痛んだ。(……嫉妬、してくれたんだ)そう思った瞬間、胸に広がるあたたかさと同時に――怖さもこみ上げた。もし、期待して、もし、これが勘違いだったら。息を整えて尋ねた。「悠真は……  どうしてイヤだったの?」しばらく沈黙が続いた。けれど。悠真は逃げなかった。凪の目をまっすぐ見て、絞り出すように言った。「……嫉妬したんだよ。 自分でも、  びっくりするくらい」凪の呼吸が止まる。悠真は続けた。「谷口が凪を見てたの、 わかったから。 あいつの顔……  見たことない顔してた」凪の胸
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……凪、それ言うの反則

図書室の扉を開けると、いつもの冬の光が静かに差し込んでいた。凪は胸の奥の高鳴りを落ち着けるように深呼吸をひとつしてから、窓際の席に向かった。(見られると、弱い……)自分で言った言葉が頭の中で何度も反芻され、頬がまだじんわり熱い。ほどなくして扉が静かに開き、悠真が姿を現した。目が合った瞬間――また胸の奥で跳ねるような音がした。「来てたんだ」「……うん」悠真は席につくと、いつもより少しだけ距離を近く座った。ほんの数センチ。でも、その数センチが心臓の位置を揺らす。「今日の授業のときさ――」悠真が切り出す。凪はピクリと肩を揺らした。「そんなに見てなくてもよかったのにって、 思ってる?」「……ちょっと」「じゃあ……」悠真は意地悪に笑うかと思いきや、驚くほど真剣な目をして言った。「俺が見ても困らない方法、 ひとつあるけど」凪は息を飲んだ。「何……?」「見られたくないなら、 凪も見ればいいんだよ」「……は?むり」即答した凪に、悠真はくすっと笑った。「じゃあ今日は、 見たいだけ見ていいよ」「な、なんでそうなるの?」「凪が僕のこと見たときの顔、 好きだから」(……ずるい。ほんとにずるい)心のどこかがふわりと甘く溶けていく。ページをめくる音だけが響く図書室。二人の影が机の上で少し重なる。ふいに――凪のペンがころん、と転がった。「……あ」ペンは机の端から床へ落ち、悠真がそれを拾おうと同時に凪も身をかがめた。指先が――触れそうになって止まる。(……っ)肩が触れそうで触れない。指先も触れそうで触れない。その距離は、呼吸ひとつで埋まるような近さだった。「凪……」小さな声。耳の奥まで届く距離。凪は慌てて手を
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うん。いつでも

月曜日の朝。校門に向かう道には、冬の匂いがしっかり混じりはじめていた。低い空、白い息、少し乾いた風。凪は手袋を忘れたことを軽く後悔しながら、ポケットの中で指をこすり合わせた。(今日……また話せるかな)あの日、指先が触れたこと。変わるのが「怖い」と言い合ったこと。名前を呼び合ったこと。ひとつひとつが胸の奥に残り、朝になっても消えずに残っていた。校門の前。「凪!」聞き慣れた声に顔を上げると、悠真がマフラーの隙間から白い息を吐きながら走ってくる。「おはよ」「……おはよ」凪の声は自然に柔らかくなった。「寒いね。大丈夫?」「うん。ちょっと手、冷たいけど」「……手袋、忘れた?」図星すぎて、凪は目をそらした。「……うん」悠真は笑いながら言った。「そっか。じゃあ――」その瞬間だった。ゴォォッ――と冬の強い風が吹き抜け、凪のマフラーの端がふわりとめくり上がった。「あ――」反射的に押さえようとした凪の身体が傾き、足元の砂利に軽くつまずいた。ぐらり――「凪!」悠真が腕を伸ばし、凪の肩と腰に手を添えて支えた。ふたりの距離は、一瞬で“息が触れる距離”へ。凪は驚いて顔を上げた。悠真は心配そうな顔で、でもその瞳はどこか動揺していて。「……だ、大丈夫?」「う、うん……!」声が震えたのは、風のせいではなかった。悠真の手は、すぐには離れなかった。むしろ、支える指先がそっと力を緩めるのをためらっているように感じた。凪の心臓は、きっと見えるほど跳ねている。(近い……こんなに……)風が止み、静けさが戻った頃。悠真はゆっくり凪から手を離した。「ごめん……つい……」「ううん……助かった……ありがとう」悠真はその場で数歩後ろ
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本音を言えるようになってきたのが……怖い

月曜日の放課後。いつもの図書室の窓際には、まだ誰もいない。凪は机にノートを置き、深呼吸した。(今日は……“話す側”になりたいって、   自分で言ったんだよね)胸が少しざわつく。でも、それは嫌なざわつきじゃなく、ほんの少しだけ勇気が体温を持ちはじめたような感覚だった。そこへ、軽い足音。悠真が扉から入ってきて、凪を見つけると柔らかく笑った。「来てたんだ。……   じゃあ、今日は俺が聞く日だね」凪はこくんと頷いた。悠真はいつもの席に横向きで座り、“準備OK”の合図のように、缶の緑茶を机に置く。「じゃあ……凪の順番で、どうぞ」その言い方は、押しつけも気遣いも混ざらない、“ただ待ってる”という姿勢そのものだった。凪は胸の奥の扉をそっとノックするように、息を吸った。「……あのね、私、最近ちょっと怖いの」悠真の目が、すっと凪へと向く。「何が?」「本音を言えるようになってきたのが……怖い」「え?」凪は続ける。「本音を言ったら、嫌われる気がしてたの。 ずっと“いい子”でいなきゃいけない   と思ってきたから。 でも最近……   悠真には、力を抜いて話しちゃう」悠真は少し驚いた顔をし、照れくさいように後頭部をかいた。「それって……怖いことなの?」「うん。   “こんな自分を見せてもいいんだ”    って思うほど、逆に怖くなる。 ……もし途中で期待を裏切ったらって」悠真の視線が一瞬だけ揺れる。凪はそれを見逃さなかった。(あ、何か響いたんだ……)数秒の沈黙。その沈黙は、今までとは違う色をしていた。重くもなく、冷たくもない。ただ、ふたりの間にひとつ新しい空気が降りてきたような――そんな沈黙。悠真は、少し
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“全部”って言葉は、苦しい時のSOSなんだよ

梅雨が明ける前の、湿った午後。空気は薄い水色で包まれ、窓の外は薄曇り。風はほとんどなく、ただ静かだった。放課後の教室で、凪はプリントをまとめていた。そこに真帆が、勢いよく机に手をつく。「ねぇ、聞いて!今日もう最悪だった!」凪は顔を上げた。(まただ……でも今日はまだ心に余裕がある)「どうしたの?」すると真帆は一気に言葉を溢れさせた。「部活でもう嫌われてる!   先生にも無視された! しかも家でも話聞いてもらえないし、   もう全部ダメ!」全部。また“全部”だ。凪はそっと呼吸を整えながら聞き続ける。「私なんかいない方がいいんだって、   ほんとに…全部うまくいかない!」(全部じゃない)そう言いかけて、凪は口を閉じた。“全部うまくいかない”“全部ダメ”真帆が苦しいとき、彼女は世界を白か黒かで分けてしまう癖があった。でも今日は、凪の中に不思議な余裕があった。雨の日の帰り道、悠真の沈黙がくれた安心は、まだ胸に残っている。凪は真帆に向かって、小さく微笑んだ。「……今日は、  何が“いちばん”つらかった?」真帆は目を瞬かせた。「え?いちばん?」「うん。“全部”じゃなくて、   “いちばん”を教えてほしい」その問いに、真帆はしばらく黙ってから、ゆっくり座った。「……先生に冷たくされたのが、   いちばんつらかったかも」「そっか。ありがとう、教えてくれて」凪は心の中で小さくガッツポーズをした。白黒で縛られていた真帆の世界に、ひとつ色が戻った気がした。「あと……部活のあの子にも、   ちょっと嫌な顔されて」「それは“二つ目”?」「あ、うん。二つ目かも」真帆は少し照れたように笑った。(よかった……白
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