この距離が、好きだ
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コラム
チャイムが鳴って、
教室は一気に日常へ戻った。
椅子を引く音。
ノートを閉じる音。
誰かの笑い声。
凪は、席に座ったまま、
しばらくペンを動かせずにいた。
——聞いていた。
自分は、確かに聞いていた。
悠真が、
「うん」とだけ答えた、その声。
余計な言葉を足さず、
否定も、強調もせず、
ただ事実を受け取った、あの一瞬。
凪は、
その背中を思い出す。
前に立つわけでもなく、
自分を隠すわけでもなく。
ただ、
そこに立っていた。
(……並んでる)
胸の奥で、
小さく何かがほどける。
凪は、
悠真が“守ってくれた”とは思わなかった。
代わりに感じたのは、
信じて任せてもいい、という感覚。
休み時間。
悠真が、
何事もなかったように振り返る。
「ノート、写す?」
その声は、
いつもと同じだった。
「……うん、お願い」
凪は、立ち上がって席を移る。
机を挟んだ距離。
少し近い。
でも、
触れない。
凪は、
ノートを覗き込みながら思う。
——この距離が、好きだ。
特別な言葉がなくても、
説明しなくても、
ちゃんと伝わる距離。
ふと、
悠真が小さく言う。
「さっきのことさ」
凪は、顔を上げる。
「気にしてたら、ごめん」
一瞬、
胸がきゅっとなる。
でも、
凪は首を振った。
「ううん」
「……安心した」
悠真は、少し驚いたように目を瞬かせる。
「安心?」
「うん」
凪は、
ちゃんと、言葉を選んでから続ける。
「何も言わなかったのに」
「ちゃんと、そこにいてくれたから」
悠真は、
少しだけ照れたように視線を逸らす。
「それなら、よかった」
それだけ。
それ以上は、言わない。
凪は、思う。
——聞いていた、という事実。
——見ていた、という事実。
それだけで、
恋は、少し前に進む。
名前は、まだいらない。
でも、
この関係が「大切だ」と
はっきりわかった朝だった。