「まだ“ありがとう”の途中でしょ? あなたも」
そう言って微笑んだ彼女の顔は、
不思議なくらい静かだった。
泣いているわけじゃない。
でも、目の奥では、何かが揺れている。
波打つ水面を、必死に押しとどめている――そんな目だった。
僕は何かを返さなきゃと思ったのに、
言葉がどこにも見つからなかった。
風が吹いた。
彼女の髪と、僕の制服を揺らしていく。
夕陽に染まる屋上で、
僕らはたった一本の傘を挟んで立っていた。
返せば、ここで終わる気がした。
返さなければ、何かを期待してしまいそうだった。
――どちらも、怖かった。
沈黙のまま、僕は傘を握っていた手を、そっと降ろした。
「……じゃあ、もう少しだけ」
ただ、それだけを言った。
彼女は驚いたように瞬きをして、
それから、本当に小さく、今度こそ泣きそうな笑顔をした。
「うん。……ありがとうの、続き、聞かせてね」
その瞬間、胸の奥で何かが外れる音がした。
言えなかった言葉たちが、心のどこかで息をしていた。
ありがとう と言いたいのに。
ごめん と言いたいのに。
でも僕らは、どちらもまだ何も言っていなかった。
――そうだ。
ありがとうって、終わりの言葉じゃなかった。
本当は“これから”の言葉だったんだ。
次に会うとき、
僕はもう少しだけ、素直になれるだろうか。
傘は返さない。
まだ、僕たちは途中だから。