「……傘、ありがとう。返すよ」
夕陽に染まった屋上で、それだけを言うのに、ずいぶん勇気がいった。
本当は、もっと別の言葉を探していた。
「助かった」とか、「ありがとう」とか。
だけど、そのどれもが軽く感じて、使えなかった。
傘を差し出す僕を見て、彼女は静かに首を横に振った。
「今日じゃなくていいよ」
「え……?」
「まだ“ありがとう”の途中でしょ? あなたも」
それは、笑っているのに、なぜか泣き出しそうな顔だった。
僕は、何も言えなかった。
受け取ってほしいわけじゃない。
だけど、終わりにしてしまうのは怖かった。
傘を返すことが、すべての区切りになる気がして。
沈黙が、夕焼けの色の中にゆっくり沈んでいく。
ふと、彼女が空を見上げながら言った。
「ねぇ……雨の日って、嫌いだったんだ。
でも――」
風が運んだその言葉は、とても小さかったけれど、
「でも今日は、少しだけ好きになれそうです」
そう、確かに聞こえた。
胸が、きゅっとなった。
理由なんて、まだわからなかった。
でも、誰にも話していないことを、少しだけ見せてくれた気がした。
……傘、返さなくていいのかもしれない。
まだ、この時間を終わらせなくていいのかもしれない。
あの日、僕は初めて知った。
傘には、“雨を避ける以上の意味” があるって。