翌朝、空は何事もなかったかのように晴れていた。
校舎の窓には昨日の雨の跡が残り、
乾ききらないまま光を反射している。
返さなきゃ――
借りた傘を胸に抱えながら、僕は昇降口へ向かった。
まだ早い時間。
彼女はきっと、もう来ていると思った。
いつも、誰より早く教室に入る人だから。
だが教室には、誰もいなかった。
机の上に、濡れた形跡も、忘れ物も、何もない。
僕は傘を机に置こうとしたが、
――どうしてもできなかった。
なぜだろう。
ただの傘なのに。
きっと返すだけのはずなのに。
昼休み、意を決して屋上へ向かった。
静かな風が吹き抜けている。
フェンスにもたれ、彼女は空を見ていた。
「……傘、ありがとう。返すよ」
差し出した傘を見て、彼女は少しだけ首を横に振った。
「今日じゃなくていいよ」
「でも……昨日、助かったし」
「違うの。
まだ“ありがとう”の途中ってだけ」
その言葉が、胸の奥で不意に響いた。
僕は聞きたくなった。
「……昨日、さ。
なんで傘、二本も持ってたの?」
彼女は目を細め、空の向こうを見つめた。
「言っても、きっと笑われるよ」
「笑わない」
「……ほんとはね。
持って帰れない手紙を、濡らしたくなかっただけ」
意味は、まだわからなかった。
でも、聞いちゃいけないことだと直感した。
だから僕は、ただこう言った。
「そっか。
じゃあ、もう少しだけ借りててもいい?」
風が止まった。
彼女は驚いたように、
そして少しだけ、嬉しそうに笑った。