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『傘を二本、持ってきた理由』

雨の日は、好きじゃなかった。理由ははっきりしている。濡れるのが嫌とか、髪が乱れるとか、そんなことじゃない。――思い出してしまうからだ。中学の頃、仲が良かった子がいた。毎日一緒に帰って、他愛もないことで笑い合える、そういう存在だった。だけど、ある雨の日。その子は突然、転校してしまった。何も言わずに。帰り道、ひとりで傘をさして歩いた道が、今でも忘れられない。アスファルトに落ちる雨粒を見ながら、「傘なんて、もういらない」そう思ったのを、よく覚えている。それから私は、“言葉にならないもの” をノートに書くようになった。書いては破り、破ってはまた書いた。でも、一度だけ捨てられなかった手紙がある。“いつか、この想いを渡せたら” と思った。渡せないと分かっていながら。その手紙を、私はずっと持ち歩いている。だから――濡らしたくなかった。それが、傘を二本持ってきた理由。でも、昨日。あの人は、何も聞かなかった。理由も、事情も、詮索もしなかった。ただ、「……ありがとう」とだけ、言ってくれた。その声を聞いた瞬間、胸の奥に、あの頃とは違う雨が降った気がした。だから私は、帰り道にこう思った。――雨も悪くないかもしれない。今日は、少しだけ好きになれそうです。いつか、この手紙を渡せる日が来るなら――私はもう一度、雨の日を選ぼうと思う。泣いてもいいように。笑えるように。心を濡らしたのは、雨じゃない。抱えたままの手紙だった。
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“また明日”って言える今日が、 もしかしたら最後かもしれない―― そんな気がしたんだ。

ほんの数秒だったと思う。でも、永遠みたいに長く感じた。視線がぶつかって、時間が止まる。校舎の影も、吹き抜ける風の音も、ぜんぶ遠くへ引いていった。残ったのは、彼女の瞳に映る、僕だけの世界。「……なに?」彼女が小さく笑う。その声が風に溶けて、心臓の奥を撫でた。「いや……なんでもない」言葉にすると壊れてしまいそうで、ただ首を横に振ることしかできなかった。でもきっと、彼女はもう分かっていた。僕の中で、何かが始まってしまったことを。夕陽がゆっくり沈んでいく。空の色が金から橙、そして薄紅へと変わるたび、彼女の表情も少しずつやわらいでいった。「……ねぇ」「ん?」「この時間、終わらなければいいのにね」その言葉が、あの日の風よりもまっすぐに、胸を貫いた。言葉を交わさなくても、もう“好き”ってことだけは、ちゃんと伝わっていた。彼女が笑って、僕も笑った。たったそれだけのことなのに、胸の奥が、なぜかひどく痛かった。目の前の彼女は、いつもと同じように笑っていた。でも――その笑顔の奥に、ほんの少しだけ“寂しさの色”が混ざっていた。風が吹くたび、髪が揺れて、光がその瞳をかすめていく。そのたびに僕は、笑い返すことすらためらうほど、心が波のように揺れた。こんなに近くにいるのに、もう、触れられない気がした。「……どうしたの?」彼女が首をかしげて聞いた。その声がやさしすぎて、答えようとした言葉が、すぐ喉の奥で消えた。「いや……なんでもない」そう言った自分の声が、少し震えていた。本当は、わかっていた。“なんでもない” なんて嘘だった。あの笑顔の奥に、もう帰れない時間の匂いがした。“また明日”って言える今日が、もしかし
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ありがとうの続き、聞いてくれる?

夕陽が、校舎の影を長く伸ばしていた。彼女は夕焼けに染まりながら、ふいに僕のほうを見た。「ねぇ……」風に乗って、声が届く。「ありがとうの続き、聞いてくれる?」僕はうなずこうとしたのに、喉が動かなかった。言葉のかわりに、ただ視線だけで答える。言葉なんて、もういらなかった。夕陽の色を映した彼女の瞳と、息を呑んだ僕の視線が、ただまっすぐ、互いを捉えていた。視線が絡んだだけで、胸が焼けそうだった。怖いくらいに鼓動がうるさくて、なのに、逃げようとは思わなかった。――伝わるんじゃない。 もう、とっくに溢れてる。彼女もまた、何も言わなかった。けれど、その瞳は確かに言っていた。「終わらせたくない。今、この瞬間を。」風が吹いた。二人の髪と制服を揺らしていく。だけど視線だけは、どこにも揺れなかった。言葉では触れられない距離。それでも、今なら――心だけは、触れられる気がした。彼女は少し笑って、それから――笑ったまま、泣き出しそうな横顔になった。夕陽のせいじゃなかった。その目は、ずっと前から泣き方を知っていた。「私ね、助けたかったんじゃないんだ。 あの日、本当に助けてほしかったのは……私のほうだったから」胸の奥で、何かがゆっくりほどけていく音がした。「だから、あの傘も……返さなくていいよ。 だって――」風が強くなり、言葉をさらっていく。「まだ、途中でしょ? 私たち」僕はようやく息を吸い込んだ。そして、たった一言だけ、彼女に向かって言った。「聞きたいよ。 ちゃんと――全部」彼女は涙をこぼさないまま、目を伏せて笑った。「……じゃあ、もう少しだけ。 ここにいてね」ありがとうって、終わりの言葉じゃなかった。本当
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でも今日は、少しだけ好きになれそうです

「……傘、ありがとう。返すよ」夕陽に染まった屋上で、それだけを言うのに、ずいぶん勇気がいった。本当は、もっと別の言葉を探していた。「助かった」とか、「ありがとう」とか。だけど、そのどれもが軽く感じて、使えなかった。傘を差し出す僕を見て、彼女は静かに首を横に振った。「今日じゃなくていいよ」「え……?」「まだ“ありがとう”の途中でしょ? あなたも」それは、笑っているのに、なぜか泣き出しそうな顔だった。僕は、何も言えなかった。受け取ってほしいわけじゃない。だけど、終わりにしてしまうのは怖かった。傘を返すことが、すべての区切りになる気がして。沈黙が、夕焼けの色の中にゆっくり沈んでいく。ふと、彼女が空を見上げながら言った。「ねぇ……雨の日って、嫌いだったんだ。 でも――」風が運んだその言葉は、とても小さかったけれど、「でも今日は、少しだけ好きになれそうです」そう、確かに聞こえた。胸が、きゅっとなった。理由なんて、まだわからなかった。でも、誰にも話していないことを、少しだけ見せてくれた気がした。……傘、返さなくていいのかもしれない。まだ、この時間を終わらせなくていいのかもしれない。あの日、僕は初めて知った。傘には、“雨を避ける以上の意味” があるって。
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なんで傘、二本も持ってたの?

翌朝、空は何事もなかったかのように晴れていた。校舎の窓には昨日の雨の跡が残り、乾ききらないまま光を反射している。返さなきゃ――借りた傘を胸に抱えながら、僕は昇降口へ向かった。まだ早い時間。彼女はきっと、もう来ていると思った。いつも、誰より早く教室に入る人だから。だが教室には、誰もいなかった。机の上に、濡れた形跡も、忘れ物も、何もない。僕は傘を机に置こうとしたが、――どうしてもできなかった。なぜだろう。ただの傘なのに。きっと返すだけのはずなのに。昼休み、意を決して屋上へ向かった。静かな風が吹き抜けている。フェンスにもたれ、彼女は空を見ていた。「……傘、ありがとう。返すよ」差し出した傘を見て、彼女は少しだけ首を横に振った。「今日じゃなくていいよ」「でも……昨日、助かったし」「違うの。 まだ“ありがとう”の途中ってだけ」その言葉が、胸の奥で不意に響いた。僕は聞きたくなった。「……昨日、さ。 なんで傘、二本も持ってたの?」彼女は目を細め、空の向こうを見つめた。「言っても、きっと笑われるよ」「笑わない」「……ほんとはね。 持って帰れない手紙を、濡らしたくなかっただけ」意味は、まだわからなかった。でも、聞いちゃいけないことだと直感した。だから僕は、ただこう言った。「そっか。 じゃあ、もう少しだけ借りててもいい?」風が止まった。彼女は驚いたように、そして少しだけ、嬉しそうに笑った。
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でも今日は、少しだけ好きになれそうです。

次の日、僕は少し早く登校した。なんとなく――あの子に「ありがとう」を伝えたくて。だけど、教室に彼女の姿はなかった。机の上には、一枚の紙だけが置かれていた。「体調不良のため欠席します」それだけの、淡々とした文字。昨日の雨が嘘みたいに晴れた空を、僕はただ、ぼんやりと眺めていた。放課後。下駄箱の前で、僕は立ち止まった。あの日、彼女が残した言葉。「……手紙、書けたら返して」――どうして、あんなことを言ったんだろう。そう思った瞬間だった。下駄箱の脇、小さな掲示板の影に、折りたたまれた白い紙が落ちているのに気づいた。何気なく拾うと、宛名が書かれていた。「山本 拓(やまもと たく) くんへ」――僕の名前だった。手紙はごく短く、たった三行だけ。『昨日、助けてくれてありがとう。 本当は、ずっと雨が嫌いでした。 でも今日は、少しだけ好きになれそうです。』差出人の名前はなかった。だけど、わかった。きっと、あの子だ。その日。僕は初めて、手紙を書くために机に向かった。『傘、ありがとう。 本当は、僕も雨が苦手だった。 “傘を貸してください” って、 あの日、言えたらよかったのにな。』書き終えた便箋を、制服の内ポケットに忍ばせた。出すつもりは、まだなかった。でも、いつか渡そうと思った。――「雨の日を、好きになった日」として。心が濡れていたのは、雨のせいじゃない。傘を差せなかった、自分のせいだ。
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傘を差し出したあの日、まだ名前も知らなかった

放課後のチャイムが鳴るころ、校庭にはもう、人の姿はなかった。雨が降る。ザーッという雨音だけが、世界を占領していた。僕は教室に取り残されたまま、カバンを肩にかけたが――どうしても、一歩が出なかった。理由は簡単だ。傘を忘れたのだ。窓の外を見つめながら、ため息をひとつ。濡れて帰るしかない、と覚悟したときだった。「――これ、使う?」振り返ると、見たことのある女子が立っていた。同じクラスだが、一度も話したことはない。「私、カサ二本あるから」冗談みたいな言葉だった。なんで二本も? と聞く前に、彼女は一歩、近づいてきた。「……本当は、持って帰れない手紙があってさ。 荷物が濡れたら困るから、保険で二本持ってきたの」その意味はわからなかった。でも、簡単に聞いてはいけない理由がある――そう思った。誰にも言えないことを抱えてるのは、自分だけじゃないんだ。そう思ったら、不思議と、雨の音がやわらかく聞こえた。「ありがとう」そう言うと、彼女は少し照れた声で返した。「返さなくていいよ。……手紙、書けたら返して」あの日、僕は知らなかった。この傘を渡してくれた彼女が、のちに“泣き笑いできる親友”になることを。そして、彼女の言った「手紙」の意味を知るのは、ずっとずっと先――桜の咲く、別れの日だった。人は、傘じゃなく 心を貸してくれるときがある。
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飛ばしてみろよ。夢も、こんくらいでいいんだよ

 卒業式の朝、体育館にはまだ人の気配がまばらで、 冷えた空気だけが静かに漂っていた。 三月の光はやわらかいのに、 胸の奥はどこか落ち着かずざわついていた。 「陽太、来ないのかな……」 そうつぶやくと、自分でも驚くほど声が小さく震えていた。 佐伯陽太――二年の春、誰とも話せなかった僕に、 最初に「弁当、交換しねえ?」と笑いかけてきたやつ。  授業中に居眠りして先生に怒られたのに、 「夢の続き見てた」と平然と言うような、不器用で、まっすぐなやつ。 あいつがいなければ、僕は高校を途中で辞めていたかもしれない。 放課後の空き教室。   進路調査票を前に、どうしても「将来の夢」が書けなかった僕は、   俯いて机をにらんでいた。    書けない理由も、言葉にならなかった。   夢なんて、思い浮かべるだけで「笑われそうだ」と怖かったからだ。 そんな僕の 進路調査票を、陽太はふいに丸めて紙飛行機にした。 「飛ばしてみろよ。夢も、こんくらいでいいんだよ」 僕は泣きながら、それを窓から投げた。 紙飛行機は、夕焼けの風にあおられ、校舎の向こうに消えていった。 だが三年の秋だった。   突然、陽太は学校に来なくなった。    詳しい事情は誰も知らなかった。   家庭のことらしい、とだけ聞いた。 僕は怖くて、会いに行けなかった。 「いつでも連絡してこいよ」 その言葉すら、送れなかった。 そして卒業式。 結局、陽太は来なかった。 閉会後、教室に戻ると、   担任の桐原先生がひとりで窓辺に立っていた。   先生は僕にだけ、小さな封筒を渡した。 「佐伯から預かっている。お前に渡してくれってさ。」 僕は息をのん
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