……凪、それ言うの反則
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コラム
図書室の扉を開けると、
いつもの冬の光が静かに差し込んでいた。
凪は胸の奥の高鳴りを落ち着けるように
深呼吸をひとつしてから、
窓際の席に向かった。
(見られると、弱い……)
自分で言った言葉が頭の中で何度も反芻され、
頬がまだじんわり熱い。
ほどなくして扉が静かに開き、
悠真が姿を現した。
目が合った瞬間――
また胸の奥で跳ねるような音がした。
「来てたんだ」
「……うん」
悠真は席につくと、
いつもより少しだけ距離を近く座った。
ほんの数センチ。
でも、
その数センチが心臓の位置を揺らす。
「今日の授業のときさ――」
悠真が切り出す。
凪はピクリと肩を揺らした。
「そんなに見てなくてもよかったのにって、
思ってる?」
「……ちょっと」
「じゃあ……」
悠真は意地悪に笑うかと思いきや、
驚くほど真剣な目をして言った。
「俺が見ても困らない方法、
ひとつあるけど」
凪は息を飲んだ。
「何……?」
「見られたくないなら、
凪も見ればいいんだよ」
「……は?むり」
即答した凪に、
悠真はくすっと笑った。
「じゃあ今日は、
見たいだけ見ていいよ」
「な、なんでそうなるの?」
「凪が僕のこと見たときの顔、
好きだから」
(……ずるい。ほんとにずるい)
心のどこかがふわりと甘く溶けていく。
ページをめくる音だけが響く図書室。
二人の影が机の上で少し重なる。
ふいに――
凪のペンがころん、と転がった。
「……あ」
ペンは机の端から床へ落ち、
悠真がそれを拾おうと同時に
凪も身をかがめた。
指先が――
触れそうになって止まる。
(……っ)
肩が触れそうで触れない。
指先も触れそうで触れない。
その距離は、
呼吸ひとつで埋まるような近さだった。
「凪……」
小さな声。
耳の奥まで届く距離。
凪は慌てて手を引こうとした。
その瞬間。
悠真の指が、
ほんの一瞬だけ触れた。
「ご、ごめん……!」
「い、今のは……!」
二人とも、同時に赤くなる。
触れたのは一秒にも満たない。
でもその一秒が、
全身にじわじわ広がる。
(触れた……また……)
凪の心臓が、
もう隠せないほど大きく鳴っている。
沈黙が落ちる。
でも、
その沈黙は不思議と苦しくなかった。
むしろ――
お互いの呼吸が
ほんの少し揃っていくような心地。
悠真が、静かに言った。
「……ねぇ凪」
「なに?」
「さっきさ。
ペン拾うとき……
逃げなかったよね」
「っ……」
「昨日も今日も、
凪は触れられても逃げなかった。
それだけで……
十分すぎるくらい嬉しい」
凪は胸が痛いほど熱くなる。
「……逃げなかったんじゃなくて、
逃げられなかっただけ……かも」
「じゃあ」
悠真は目を細めて、優しく言った。
「逃げなくていいよ。
俺、無理に触れないから」
その言葉は、優しさなのに
不思議と胸の奥がじんと疼いた。
(……触れない、
って言われると、なんか……)
寂しい。
そう思ってしまった自分に驚く。
凪はうつむいたまま、
小さくつぶやいた。
「……別に。
触れたくないわけじゃないけど」
悠真の動きが止まった。
その静けさに耐えきれず、
凪は顔を上げた。
悠真は信じられないものを
見るように目を見開き――
ゆっくりと微笑んだ。
「……凪、それ言うの反則」
凪は耳まで真っ赤になった。
図書室を出ると、
外の空は淡い紫の
夕焼けに変わっていた。
二人の影は並びながら、
まるで触れているかのように
揺れていた。
――触れそうで触れない距離。
でも、触れたいと思う気持ちが、
確かにそこにあった。
凪は思った。
(いつか……
この距離、怖くなくなるのかな)
そしてその“いつか”が、
もうすぐそこにある気がしていた。