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……逃げたいなら、逃げてもいいよ

放課後の図書室は、冬の夕方特有の静けさに包まれていた。窓の外は薄く曇り、空気の匂いまで冷たく感じる。凪は、今日こそ落ち着いて勉強しようと心に決めていた。……はずなのに。向かいに座る悠真がノートを開く音だけで、胸がじんわり熱くなる。(ここにいるだけで、 なんでこんなに意識しちゃうんだろう)悠真は凪を見ていないようで、ページをめくるたびに、ちらりと視線を向けてくる。そのたびに、凪はノートの文字が少し震えた。「……凪、さ」沈黙を破ったのは悠真だった。声はいつもより低くて、少しだけ迷いが混じっていた。「今日、凪……ずっと、俺の顔見ないよね」凪の手がぴたりと止まる。「み、見てるよ……?」「うそ。目、合ってない」図書室の静けさが、逆に心臓の音を大きくする。悠真は、凪の方へ少しだけ体を傾けた。「俺、見られたら…… 弱くなるって言ったじゃん」「……知ってるよ」「だからって、完全に避けられるのは…… それはそれで、なんか……きつい」凪は顔を上げられなかった。上げたらきっと、すぐにばれる。自分がどれだけ揺れているか。(……逃げてるんだ、私)昨日も、今日も。視線が合ったら、胸が苦しくなる。それが怖くて、避けてる。少し沈黙が落ちたあと、悠真が小さく息をついた。「……ねえ、凪」その声があまりに優しくて、凪はゆっくり顔をあげてしまった。視線がぶつかった。途端に、胸の奥がきゅっと痛くなる。(あ……だめ、こんなの……)でも、目をそらすより先に悠真がそっと囁くように言った。「そんな顔で見られたら…… 俺、本当に勘違いするよ?」凪は息を飲んだ。「な、なにを……?」悠真の肩が少しだけ震える。たぶん、自分でも抑えられ
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……ずるいよ、そういうこと言うの

冬の冷たい空気が、校舎の廊下にゆっくりと入り込んでくる。チャイムが鳴る前のホームルーム教室は、いつもより静かだった。凪は席につきながら、窓の外の沈んだ空を見た。(なんだろ……   今日はずっと胸が落ち着かない)昨日の並木道での出来事。風でマフラーがめくれた瞬間、体勢を崩した凪を、悠真が本気で抱きとめたこと。その時の 手の強さ。息が触れそうな距離。そして、あの赤くなった耳。全部、まだ胸に残っていた。1限目。現代文。席は斜め後ろ。ちょうど振り返れば悠真が見える位置。……だから凪は、振り返らないように必死だった。(気づいたら見ちゃいそう……   いや、見たくない……   いや、見たい……)ノートの上に書いた文字が少し震える。そのとき。ふと、視線を感じた。(……え?)ゆっくり後ろを向くと――悠真がじっと、凪を見ていた。目が合った。凪の心臓が跳ねる。悠真はわずかに目を見開き、それから照れたように視線を逸らした。(なんで見てたの……?)胸がざわざわして、授業の内容が頭に入らない。休み時間。凪は教室の後ろでノートを整理していた。そこへ悠真が近づいてくる。「凪、今の……」凪は咄嗟に言ってしまった。「見てないよ!全然っ!」悠真は一瞬きょとんとし、そこからゆっくり笑った。「俺が見てたって話なんだけど」凪の顔が一気に熱くなる。「……っ、なんで……見てたの?」悠真は少しだけ真剣な表情になって言った。「今日の凪、   いつもより落ち着かなく見えたから」「お、落ち着いてるよ……」「うん。そう見えたらいいんだけどさ」悠真は指でノートの端を軽く触れ、目を逸らさずに続ける。「……本当は、  今日ずっと気になって
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凪……反則……

金曜日の朝。教室の窓から見える空は、冬の色に少しずつ近づいていた。冷たい風が流れているはずなのに、凪の胸の中にはほんのり温かいものが灯っていた。昨日、上手に話せたから。ちゃんと気持ちを交換できたから。(今日は……   もう少し踏み出せる気がする)自分でも驚くほど、心の奥が前へ進む準備をしていた。放課後の図書室は、静けさがいつもよりやわらかく感じられた。席に着いた凪は、深呼吸をひとつ。そこへ、扉が開く。悠真が、少し急ぎ足で入ってきた。頬が赤く、息がほんの少しだけ弾んでいる。「凪、待った?」「ううん、今来たところ」その言葉が自然に口から出たことに、凪は自分で驚いた。悠真は凪の前に座ると、珍しく、ちょっと言いにくそうな顔をした。「今日さ、   俺の方から……話したいこと、ある」「え……?」胸の奥が一気に高鳴る。悠真は、机の上で両手を軽く組み、まっすぐに凪を見た。「昨日、 凪が“嫌だった”って言ってくれたとき…… 俺、正直ちょっと嬉しかったんだ」凪の心臓が跳ねる。「だってさ。 誰かに嫉妬されるって…… 期待してもらえてるってことだろ?」頬が一気に熱くなる。(ずるい……そんな言い方……)悠真は照れくさそうに笑い、続けた。「でさ……実は俺も、 ちょっとだけ言いにくいこと、ある」凪は息をのんだ。“自分だけじゃなかった”その予感がして、胸の奥が甘くなる。「名前……呼んでみてほしい」「……え?」「“悠真”って。 凪に呼ばれたら…… 多分、結構やばい」凪は言葉を失った。(やばいって……何それ……)頬が熱い。胸も熱い。心の奥で何かがはじけたような感覚。悠真は軽く俯き、小さな声で付け足した。「俺、凪に
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その距離が、 恋のはじまりをじっくり温めてくれる

翌日の放課後。凪は胸の奥がふわっと軽くなるのを感じた。(今日、また話せるかな……)図書室へ向かう廊下を歩く足取りが、自分でも驚くほどゆっくりになっていく。そのときだった。教室前の掲示板で、悠真が見知らぬ女の子と話しているのが見えた。長い黒髪。落ち着いた雰囲気。柔らかく笑って、何か差し出している。「これ……頼まれてたプリント。返すね」「ありがとう。助かった」悠真は自然に笑って受け取り、その柔らかさが凪の胸にチクリと刺さった。(……誰?)そんな疑問の前に、心の奥で別の声がささやいた。――ああ、こういう笑顔もするんだ。凪は立ち止まり、少し胸の奥がしんと冷える感覚を抱えたまま、気づかれないようにその場を通り過ぎた。遠まわりをして、たどりついた図書室。窓際の席に座っていたのは、やっぱり悠真だった。「凪、今日も来たんだ」「うん……」凪の返事はいつもより小さかった。悠真はすぐ気づいたようで、少し顔を覗き込む。「なんかあった?」(言えるわけないよ。あの子、誰?なんて)胸の奥で、言葉が喉につかえる。“本音を話したい”のに、“怖い”も同時にある。凪は目を伏せたまま、かすかに首を振った。「……なんでもないよ」悠真はしばらく凪の横顔を見つめていたが、それ以上追及しなかった。代わりに、緑茶の缶を机に並べた。「とりあえず、飲む?今日、風が冷たいし」そのさりげない優しさが、逆に胸を締めつけた。(やさしいな……でも、だから余計に言えないんだよ)頬に触れた風が少し冷たくて、凪は気づかないふりをして、缶を開けた。沈黙が、いつもより重く落ちる。ふたりで同じ景色を見ているのに、心の距離だけがほんの少しずつ離れていくよ
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悠真が……そんな顔するなら

昼休み。教室のざわめきがいつもより少しだけ遠く感じた。凪は、クラスメイトの 蓮(れん) からプリントを渡されていた。蓮は明るくて誰とでも気さくに話せるタイプ。男女問わず人気がある。凪とも席が近く、数学の宿題の話で時々やり取りをする。「これ見た? 俺の解き方、 合ってるか見てほしい」「うん、ちょっと待ってね」蓮のノートを覗き込む凪。さほど深い意味はない。ただ、数学が得意な凪にとってはよくある話しだった。――けれど。後ろの席から、視線が刺さる。(……また見てる)振り返ると、悠真がジッとこちらを見ていた。表情はいつもと違う。どこか硬く、冷たく、そして少し不機嫌だった。凪は慌てて視線を外す。(え……なんで?)蓮は気づかず、明るい声で続ける。「凪ってさ、 教え方めっちゃうまいよね。 家庭教師できるレベルじゃん」「そんなことないよ……!」笑って返す凪。でも、その声はどこか落ち着かない。蓮のノートに視線を落としたまま、心はまったく別のほうへ向かっていた。(悠真……怒ってるのかな?)放課後。凪がカバンを閉じようとしたとき、後ろから低い声がした。「……さっきさ」振り返ると、悠真が立っていた。正面から見ると、彼の眼差しはもっと鋭かった。「蓮と……なんの話してたの」「え? あ、あれは宿題の――」「近かったよね。やけに」(……え、嫉妬?)凪の胸が一気に熱くなる。「ち、近くなんて……」「近かったよ。俺から見たら」悠真は一歩近づく。凪は思わず後ずさりし、机の角にぶつかった。逃げられない距離。「……別に。蓮のこと、 好きとかじゃないよね?」「ちょっ……な、 なんでそういう話に……!」悠真は凪の目をまっすぐ見
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変わるのが怖いって、本気で誰かを想ってる証拠だよ

金曜日の帰り道。学校の裏門から続く並木道は、冬の気配をまとった風が通り抜けていた。歩幅は自然と揃っていて、凪と悠真の影は、時々重なっては離れ、また寄り添う。「今日は……ありがとう」凪がぽつりと呟くと、悠真はゆっくり首を振った。「俺の方こそ。 凪に名前呼ばれたの、ずっと反芻してた」「反芻って……牛みたい」凪が笑うと、悠真も照れたように笑った。「でも、本当に……やばかった。 呼ばれた瞬間、 心臓おかしくなったかと思った」(そんなふうに言われると、     またドキドキするよ……)風が二人の間をすり抜け、冬の匂いだけを残していく。ふと、凪の髪が風に揺れて、頬にふわりとかかった。悠真が自然に手を伸ばし、 軽く払い落とそうとした――その瞬間。指先が、ほんの一瞬だけ触れた。「……っ」触れたと言えるほどの強さでも、握ったと言えるほどの距離でもない。ただ、指先の温度が、胸の奥まで届いてしまう“瞬間”。悠真は、そのまま少し固まった。「ご、ごめん……!  今の、勝手に……!」「ち、違……びっくりしただけ……!」凪も顔が熱くなり、手をぎゅっと握りしめた。(触れたいなんて思ってなかった……  でも、触れられた瞬間……      嫌じゃなかった……)むしろ。心臓の高鳴りが止まらなかった。並木道の出口が見えてきたころ、悠真が息を整えながら話し始めた。「ねぇ凪。 俺、ひとつだけ言っていい?」「……なに?」夕暮れの光の中、悠真の横顔は少しだけ真剣だった。「俺、凪に触れるの……すごく怖い。 凪が嫌がったらどうしようとか、 嫌われるかもしれないとか……」凪は思わず立ち止まった。悠真も歩みを止め、こちらを向く。「で
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……じゃあ。目そらさないでよ

放課後の帰り道。冬の空はまだ明るいのに、胸の奥だけが妙に薄暗かった。(悠真……今日、 ずっとよそよそしかった)数学の時間も。昼休みも。図書室に来たときも。まるで、私と目を合わせないようにしているみたいだった。――それが苦しかった。ほんの少し前まで、視線が合うたびにあたたかくなっていたのに。(私、何かした……?)勇気を出して口を開いた。「ねえ、今日……  なんか変じゃない?」「変じゃないよ」悠真は笑おうとした。けれど、その笑顔は目元に届いていない。“嘘だ” とすぐにわかるくらいに。「じゃあ、なんで目そらすの?」凪が問い詰めるように言うと、悠真は歩みを止めた。風がふたりの間を抜ける。夕陽が少し刺さる。やがて――悠真は小さな声で言った。「……さっきの、谷口のこと」「え?」「……楽しそうに話してたろ」(谷口くん……?)今日、ノートを貸しただけの、隣のクラスの男の子。「別に…… 普通に話しただけだよ?」「それは、わかってるけど」悠真の言葉は途中で途切れ、視線は地面に落ちた。その横顔が、想像以上に苦しそうだった。胸がチクリと痛んだ。(……嫉妬、してくれたんだ)そう思った瞬間、胸に広がるあたたかさと同時に――怖さもこみ上げた。もし、期待して、もし、これが勘違いだったら。息を整えて尋ねた。「悠真は……  どうしてイヤだったの?」しばらく沈黙が続いた。けれど。悠真は逃げなかった。凪の目をまっすぐ見て、絞り出すように言った。「……嫉妬したんだよ。 自分でも、  びっくりするくらい」凪の呼吸が止まる。悠真は続けた。「谷口が凪を見てたの、 わかったから。 あいつの顔……  見たことない顔してた」凪の胸
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……凪、それ言うの反則

図書室の扉を開けると、いつもの冬の光が静かに差し込んでいた。凪は胸の奥の高鳴りを落ち着けるように深呼吸をひとつしてから、窓際の席に向かった。(見られると、弱い……)自分で言った言葉が頭の中で何度も反芻され、頬がまだじんわり熱い。ほどなくして扉が静かに開き、悠真が姿を現した。目が合った瞬間――また胸の奥で跳ねるような音がした。「来てたんだ」「……うん」悠真は席につくと、いつもより少しだけ距離を近く座った。ほんの数センチ。でも、その数センチが心臓の位置を揺らす。「今日の授業のときさ――」悠真が切り出す。凪はピクリと肩を揺らした。「そんなに見てなくてもよかったのにって、 思ってる?」「……ちょっと」「じゃあ……」悠真は意地悪に笑うかと思いきや、驚くほど真剣な目をして言った。「俺が見ても困らない方法、 ひとつあるけど」凪は息を飲んだ。「何……?」「見られたくないなら、 凪も見ればいいんだよ」「……は?むり」即答した凪に、悠真はくすっと笑った。「じゃあ今日は、 見たいだけ見ていいよ」「な、なんでそうなるの?」「凪が僕のこと見たときの顔、 好きだから」(……ずるい。ほんとにずるい)心のどこかがふわりと甘く溶けていく。ページをめくる音だけが響く図書室。二人の影が机の上で少し重なる。ふいに――凪のペンがころん、と転がった。「……あ」ペンは机の端から床へ落ち、悠真がそれを拾おうと同時に凪も身をかがめた。指先が――触れそうになって止まる。(……っ)肩が触れそうで触れない。指先も触れそうで触れない。その距離は、呼吸ひとつで埋まるような近さだった。「凪……」小さな声。耳の奥まで届く距離。凪は慌てて手を
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