その距離が、 恋のはじまりをじっくり温めてくれる
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コラム
翌日の放課後。
凪は胸の奥がふわっと軽くなるのを感じた。
(今日、また話せるかな……)
図書室へ向かう廊下を歩く足取りが、
自分でも驚くほどゆっくりになっていく。
そのときだった。
教室前の掲示板で、
悠真が見知らぬ女の子と話しているのが見えた。
長い黒髪。
落ち着いた雰囲気。
柔らかく笑って、何か差し出している。
「これ……頼まれてたプリント。返すね」
「ありがとう。助かった」
悠真は自然に笑って受け取り、
その柔らかさが凪の胸にチクリと刺さった。
(……誰?)
そんな疑問の前に、心の奥で別の声がささやいた。
――ああ、こういう笑顔もするんだ。
凪は立ち止まり、
少し胸の奥がしんと冷える感覚を抱えたまま、
気づかれないようにその場を通り過ぎた。
遠まわりをして、たどりついた図書室。
窓際の席に座っていたのは、やっぱり悠真だった。
「凪、今日も来たんだ」
「うん……」
凪の返事はいつもより小さかった。
悠真はすぐ気づいたようで、少し顔を覗き込む。
「なんかあった?」
(言えるわけないよ。あの子、誰?なんて)
胸の奥で、言葉が喉につかえる。
“本音を話したい”のに、“怖い”も同時にある。
凪は目を伏せたまま、かすかに首を振った。
「……なんでもないよ」
悠真はしばらく凪の横顔を見つめていたが、
それ以上追及しなかった。
代わりに、緑茶の缶を机に並べた。
「とりあえず、飲む?今日、風が冷たいし」
そのさりげない優しさが、逆に胸を締めつけた。
(やさしいな……でも、だから余計に言えないんだよ)
頬に触れた風が少し冷たくて、
凪は気づかないふりをして、缶を開けた。
沈黙が、いつもより重く落ちる。
ふたりで同じ景色を見ているのに、
心の距離だけがほんの少しずつ離れていくような――
そんな感覚。
凪は勇気を出して、口を開いた。
「悠真って……誰にでも優しいんだね」
「え?そんなことないよ」
「さっき、女の子と話してるの見た」
悠真の手が止まった。
「ああ……あれか。部活の後輩。
プリントの貸し借りしてただけだよ」
「そっか……」
凪は胸の奥に残る“ざわり”を押し込もうとした。
――部活の後輩。
――それだけ。
頭ではわかっているのに、
なぜかその一言が、安心には繋がらなかった。
悠真は机に肘をつき、静かに言った。
「……凪、気づいてたんだね」
「え?」
「さっき、ちょっとだけ顔が曇ってた」
凪は一瞬、呼吸を忘れた。
「ご、ごめん……そんなつもりじゃ」
「謝らなくていいよ。
ただ……そう感じてもらえるくらい、
俺のことを気にしてくれてるんだなって」
悠真の声は、冗談でも、軽い言い方でもなかった。
凪の心の奥で、何かが小さく震えた。
「……気にしてないわけじゃ、ないけど」
「うん。俺も、今日の凪をすごく気にしてたよ」
「え?」
「“なんでもない”って言う時の声が、
本当はなんでもなくない時の声だったから」
凪は目を丸くした。
図書室の静けさがふたりを包む。
悠真は続けた。
「凪。
もし……言えないことがあるなら、
言わなくてもいい。
でも、言いたくなったら、そのタイミングで話して」
凪は、胸の奥に溜めていた“言葉の海”が
少しだけ溶けていくのを感じた。
(ああ……この距離、嫌じゃない)
触れたいけど触れられない。
けれど、
その距離感は決して“遠ざかっている”わけじゃない。
むしろ、
“触れられるようになる前の、
大事なステップ”
そんな気さえした。
凪はぎゅっと手を握りしめ、
ほんの少しだけ心を開いた。
「ねぇ、悠真……」
「うん」
「いつか……全部話すね。
今日みたいに、怖かった気持ちも」
悠真は静かに頷いた。
「その“いつか”を、ずっと待ってるよ」
夕暮れの光が窓から差し込み、
ふたりの影がゆっくりと重なった。
――触れたいけど触れられない距離。
でもその距離が、
恋のはじまりをじっくり温めてくれる。
凪は思った。
(これでいいんだ。急がなくていい)
心の奥に、静かな灯りがともる。