胸の奥には、 まだ、冬のような空気が残っていた
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コラム
凪は、ノートを閉じたまま、
しばらく机を見つめていた。
理科室の窓から入る光が、
顕微鏡の金属の部分を静かに光らせている。
「凪、行かないの?」
陽菜が振り返る。
「うん……今行く。」
凪は、少し遅れて立ち上がる。
悠真は、
窓際の流しから戻ってきたところだった。
ビーカーの水滴を軽く振りながら言う。
「廊下、混む前に出ようぜ。」
三人で理科室を出る。
廊下には、
昼の光がまっすぐ伸びていた。
誰もまだ話さない。
靴音だけが、廊下に響く。
陽菜が先に口を開く。
「さっきの細胞、すごかったね。」
「うん。」
悠真がうなずく。
「思ったよりはっきり見えた。」
二人の会話は、普通だ。
いつも通り。
凪も、そこにいる。
でも。
凪は、少しだけ後ろを歩いていた。
半歩。
ほんの半歩。
それだけなのに。
前に並ぶ二人の背中が、
少し遠く感じる。
悠真が、ふと振り返る。
「凪?」
目が合う。
凪は、あわてて少し歩幅を上げる。
「うん、大丈夫。」
悠真は少し安心したように、また前を向く。
そのとき。
陽菜が、くすっと笑う。
「悠真ってさ。」
「なに?」
「凪のこと、よく見てるよね。」
一瞬、空気が止まる。
悠真が、少し困った顔をする。
「別に、普通だろ。」
「そうかな?」
陽菜は、いたずらっぽく笑う。
凪は、その言葉を聞いた瞬間、
胸の奥が、強く揺れる。
でも。
次の瞬間、
陽菜は、あっさり続ける。
「凪、しっかりしてるもんね。
班のまとめ役って感じ。」
その言葉は、
やさしくて、正しい。
だからこそ。
凪の胸に、静かに落ちる。
まとめ役。
頼れる人。
それは、悪い言葉じゃない。
でも。
凪は、ふと思う。
“それだけなのかな。”
廊下の突き当たりに、階段が見えてくる。
昼休みのざわめきが、遠くから聞こえる。
悠真が言う。
「次、体育だよな。」
「うん。」
陽菜が答える。
「外だって。」
凪は、窓の外を見る。
空は、春の色になりかけている。
でも。
胸の奥には、
まだ、冬のような空気が残っていた。
この気持ちは、
まだ、名前がない。
でも――
きっと、
今日の理科室で、
何かが、静かに動き始めてしまった。