見透かされたくない、でも、わかってほしい

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コラム
放課後の校舎に、夕暮れの色がゆっくり降りていく。

窓の外の空はうすい橙色で、
廊下の向こうから聞こえる部活の掛け声が、
今日は少し遠い。

音楽室の扉をそっと閉めると、
空気はひんやりしていて、木の匂いがした。

柚はピアノの椅子に腰をおろす。

鍵盤に触れた指先が、
わずかに震えているのが自分でもわかる。

――あの一言、やっぱり痛かったな。

友だちが休み時間に言った、何でもないような冗談。

笑って「大丈夫」って返したのに、
笑いのあとに残った沈黙が、
胸の奥でまだチクチクしている。

鍵盤をひとつだけ、そっと押す。

低いドの音が、
小さな波紋みたいに教室の隅まで広がって、
消えた。

「……ここにいると思った」

扉がもう一度、やわらかく開いた。
新が顔をのぞかせる。

肩からずり落ちかけた通学カバンを直しながら、
柚の隣に立つ。

「無理して笑ってた?、さっき」

その一言で、こらえていた涙が少しだけにじんだ。

見透かされたくない、でも、わかってほしい。

相反する気持ちが、胸の中で押し合いへし合いする。

「……わたし、
   たいしたことじゃないって思おうとしたの」

「たいしたことじゃない、っていうのが、
   たいしたことなんだと思う」

新はそう言って、鍵盤の横に指を置く。

弾かないで、
ただ、そこに置いて、
息を合わせるみたいに沈黙を共有した。

「ねえ、柚」
「うん」
「……今の気持ち、言ってみて」

新の声は、ピアノの余韻みたいに静かだった。

柚は、少し俯いたまま、指先で鍵盤をなぞる。

押した音は出なかったけれど、
心の奥で、なにかが小さく鳴った気がした。

「……さびしい」
そう口にした瞬間、胸の奥の何かがほどけて、
喉の奥に熱いものがせり上がる。

新が横で、小さく頷く。
その頷きが、ひとつの音のように感じられた。

「……でも、そう思ってる自分も、嫌いじゃないかも」

涙をこらえるように笑うと、
新の手が、音もなく柚の手の上に触れた。

あたたかい。
それだけで、少しだけ、世界が優しくなった。

窓の外では風が鳴っていた。

銀杏の葉が、
淡い金色の雨みたいに落ちていく。

柚は小さく息を吸い、ぽつりとつぶやく。

「帰りに……ハーブティー、買って帰る」
「うん」
「明日の朝、きっと、笑えるように」

新は何も言わず、
鍵盤にそっと指を落とした。

三つの音が、心の奥で重なって、
涙と一緒にやわらかく揺れた。

新は頷くと、
今度は鍵盤にそっと指を置き、
三つの音だけで続けて弾いた。

簡単な和音。

けれどその響きは、
窓の外の橙色とよく似て、やわらかかった。

「柚の実況、いい音してる」
「音?」

「うん。黙って抱えてるより、
 名前をつけると、音になる。
 音は、ゆっくり消えていく」

言われてみれば、
さっきの低いドは、いつのまにか消えていた。

残っているのは静けさと、
隣にいる誰かの体温だけ。

「新は?」
「僕?」
「いまの実況」

新は少し照れたように笑ってから、
譜面台の丸をなぞる。

「 “心配”と“守りたい”が、半分ずつ
  心配してもいい。
  守りたいと思っても、いい。」

「帰り道、姿勢をほどく。
 歩幅を少しだけ広げる。」

「何、それ?、歩幅?
 意味わかんないよ?
 新って時々、不思議なこと言うよね。」

「ちょっと歩幅を広げるだけで、
 呼吸がほどけるんだって。先生が言ってた」

ふたりで顔を見合わせて、ふっと笑う。

笑いは小さくて、すぐに消えたけれど、
残った余韻はやわらかかった。

窓の外、運動場の端を渡る風が、
銀杏の葉をゆらした。

光の粒が舞って、床に落ちる。

柚は、指先でひとつ和音をなぞる。
さっきよりも、少しだけ強く。

――泣いてもいい。
――それでも、歩ける。

内側のどこかで、そんな声が小さく灯る。

チャイムが一度だけ鳴って、
校舎のあちこちで扉の音が重なった。

帰り支度の気配の中、
ふたりは、しばらく何も言わずに座っていた。

ピアノの上の夕陽がゆっくりと傾いて、
光の粒が譜面台の上に落ちていた。

柚は、その光のかたちを目に焼きつける。

きっとこの瞬間を、ずっと忘れない気がした。
ふたりは譜面台の小さな丸を写真に撮る。

「ね、帰り道にある、
 あの自販機のハーブティー、まだあるかな?」

「あるよ。たぶん。
 でも、僕はミルクティーかな。」

「歩幅、広げるんでしょ?」

「何?突然、僕の歩幅見るの?」と
 笑い飛ばした。

「見てあげる。」

廊下に出ると、
夕焼けは少し赤くなっていた。

新はほんの少しだけ大股で歩く。

柚も真似をして、一歩ぶん、
空気が軽くなるのを感じる。

昇降口のガラスに映る二人の影が、
並んで伸びていく。

その影のあいだで、
さっきの言葉の棘は、少し角が丸くなっていた。

外に出ると、風が頬を撫でた。

「さびしくても、いい」
柚は小さくつぶやく。

「それでも、わたしは、わたしを連れて帰る」

新が横で、何も言わずに頷いた気がした。

二人の歩幅は、同じリズムになっていく。

夕暮れの町へ、やわらかい音のない音楽を連れて。

今日のわたしに、お帰り。
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