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誰かの前で、無理に笑わなくていい場所

朝から雨が降っていた。屋根を叩く音が、教室のざわめきをやわらげている。柚は傘を閉じ、制服の袖についた水滴を軽く払った。湿った空気の中に漂う紙の匂いが、なぜだか落ち着く。放課後、校舎の奥の図書室。誰もいないその空間は、雨の日だけ時間が止まったみたいに静かだ。柚は、窓際の席に座る。曇ったガラス越しに見える中庭の紫陽花が、かすかに揺れていた。──新、今日は部活かな。昨日の放課後のことを思い出す。重なった手のあたたかさ。あの一瞬の静けさが、まだ胸の奥でやさしく響いている。けれど、心のどこかでざわめきも残っていた。「こんな気持ち、どうして生まれるんだろう」安心したいのに、少し不安。人を信じたいのに、傷つくのが怖い。雨音が、その複雑な思いをやわらかく包み込んでいく。ページをめくる音が、雨のリズムと重なった。ふと、ふたつ隣の机で誰かが椅子を引く音がする。顔を上げると、新が立っていた。「ここにいると思った?」「……びっくりした」「先生に頼まれて、本返しに来たんだ」そう言って笑う新の声は、雨に溶けるように静かだった。柚の前の席に座った。柚は胸の中がざわめき出すことに気づく。新は「雨の日、嫌いじゃないんだ」と話し出す。「どうして?」「外の音が全部、やさしくなるから」新は窓の外を見ながら言った。雨粒がガラスをつたって、光の線を描いていく。柚もその先を見つめながら、ぽつりとつぶやく。「わたしも、こんな静かな時間が好き。 何も言わなくても、“ここにいるだけでいい”って思える」二人の間を、しばらく沈黙が流れた。でも、その沈黙は重くなくて、本を開く音さえ、どこか温かく響いた。「……ねえ、新」「うん?」「安心
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見透かされたくない、でも、わかってほしい

放課後の校舎に、夕暮れの色がゆっくり降りていく。窓の外の空はうすい橙色で、廊下の向こうから聞こえる部活の掛け声が、今日は少し遠い。音楽室の扉をそっと閉めると、空気はひんやりしていて、木の匂いがした。柚はピアノの椅子に腰をおろす。鍵盤に触れた指先が、わずかに震えているのが自分でもわかる。――あの一言、やっぱり痛かったな。友だちが休み時間に言った、何でもないような冗談。笑って「大丈夫」って返したのに、笑いのあとに残った沈黙が、胸の奥でまだチクチクしている。鍵盤をひとつだけ、そっと押す。低いドの音が、小さな波紋みたいに教室の隅まで広がって、消えた。「……ここにいると思った」扉がもう一度、やわらかく開いた。新が顔をのぞかせる。肩からずり落ちかけた通学カバンを直しながら、柚の隣に立つ。「無理して笑ってた?、さっき」その一言で、こらえていた涙が少しだけにじんだ。見透かされたくない、でも、わかってほしい。相反する気持ちが、胸の中で押し合いへし合いする。「……わたし、   たいしたことじゃないって思おうとしたの」「たいしたことじゃない、っていうのが、   たいしたことなんだと思う」新はそう言って、鍵盤の横に指を置く。弾かないで、ただ、そこに置いて、息を合わせるみたいに沈黙を共有した。「ねえ、柚」「うん」「……今の気持ち、言ってみて」新の声は、ピアノの余韻みたいに静かだった。柚は、少し俯いたまま、指先で鍵盤をなぞる。押した音は出なかったけれど、心の奥で、なにかが小さく鳴った気がした。「……さびしい」そう口にした瞬間、胸の奥の何かがほどけて、喉の奥に熱いものがせり上がる。新が横で、小さく頷く。その
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