心だけが、まだ教室に残っていた
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コラム
廊下から、陽菜の声が響く。
「ゆうまー、はやく!」
明るい声。
移動は、もう始まっている。
凪は席の横で立ち尽くしていた。
鞄は持っているのに、
足が動かない。
悠真は一度、廊下へ出かけた。
でも。
凪がまだ教室にいることに気づいて、
足を止めた。
陽菜の声が、少しだけ近づく。
「ゆうま?」
間が生まれる。
その“間”が、痛い。
悠真は、ゆっくり教室に戻る。
ドアの影が、少し揺れる。
「……凪。」
低い声。
凪は振り向かない。
振り向いたら、
決めなきゃいけない気がする。
触れない距離で、立ち止まる。
手は伸びない。
「昨日のこと。」
凪の指が、鞄を強く握る。
「ちゃんとするって言ったけど。」
その言葉は、まだ曖昧なまま。
逃げない。
でも、何から?
「凪がいなくなるのは、嫌だ。」
はっきりした告白じゃない。
でも、十分に重い。
凪は、やっと振り向く。
目が合う。
近い。
でも、触れない。
廊下に、足音。
陽菜が少し顔をのぞかせる。
「もう行こ?遅れちゃうよ。」
変わらない笑顔。
凪は、小さく息を吸う。
「……ちゃんとして。」
昨日と同じ言葉。
でも意味は違う。
“曖昧にしないで。”
悠真は、わずかにうなずく。
凪は先に歩き出す。
悠真の横をすり抜ける。
触れないまま。
赤いリボンが、やわらかく揺れる。
ほどけない。
まだ、ほどけない。
廊下に出る。
三人で歩く。
並んでいるのに、
均等じゃない距離。
移動は続いている。
でも。
心だけが、まだ教室に残っていた。