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顕微鏡の向こう側

顕微鏡の光が、机の上だけを白く照らしている。凪は、もう一度ピントを合わせる。細胞は、ゆっくりと形を変えている。「すごいね、陽菜。説明わかりやすかった。」前の席の子が小さく声をかける。「そんなことないよ。」陽菜は笑う。でもその笑い方は、控えめで、誇らない。先生が、班の記録をのぞき込む。「班全体、よくできてるな。」陽菜がすぐに言う。「凪がまとめてくれたので。」自然に。迷いなく。凪は顔を上げる。「え、わたしは……」「字きれいだし、見やすいよ。」陽菜は本当にそう思っている顔をしている。悪意がない。計算もない。ただ、まっすぐ。凪の胸が、少し痛む。どうして。どうしてそんなに、きれいなんだろう。悠真が、記録用紙をのぞく。「ほんとだ。凪、助かる。」その声は、やわらかい。凪はうなずく。でも。その言葉は、どこか遠い。陽菜は、顕微鏡をもう一度のぞく。「ここ、もうちょっとはっきり見えるかも。」自然に悠真を呼ぶ。肩が、少しだけ近づく。触れない。でも、近い。凪は、自分の顕微鏡に目を戻す。視界が少し揺れる。わたしは。どう考えても。陽菜のほうが、いい。明るくて、やさしくて、空気を変える。わたしは、静かで、重くて、半歩引いている。顕微鏡の中で、細胞が分かれていく。きれいに、均等に。凪は思う。選ばれるのは、どっちだろう。そんなことを考える自分が、いやになる。実験は、まだ続いている。時間は止まっていない。でも、凪の中では、少しずつ、何かが沈んでいく。
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心だけが、まだ教室に残っていた

廊下から、陽菜の声が響く。「ゆうまー、はやく!」明るい声。移動は、もう始まっている。凪は席の横で立ち尽くしていた。鞄は持っているのに、足が動かない。悠真は一度、廊下へ出かけた。でも。凪がまだ教室にいることに気づいて、足を止めた。陽菜の声が、少しだけ近づく。「ゆうま?」間が生まれる。その“間”が、痛い。悠真は、ゆっくり教室に戻る。ドアの影が、少し揺れる。「……凪。」低い声。凪は振り向かない。振り向いたら、決めなきゃいけない気がする。触れない距離で、立ち止まる。手は伸びない。「昨日のこと。」凪の指が、鞄を強く握る。「ちゃんとするって言ったけど。」その言葉は、まだ曖昧なまま。逃げない。でも、何から?「凪がいなくなるのは、嫌だ。」はっきりした告白じゃない。でも、十分に重い。凪は、やっと振り向く。目が合う。近い。でも、触れない。廊下に、足音。陽菜が少し顔をのぞかせる。「もう行こ?遅れちゃうよ。」変わらない笑顔。凪は、小さく息を吸う。「……ちゃんとして。」昨日と同じ言葉。でも意味は違う。“曖昧にしないで。”悠真は、わずかにうなずく。凪は先に歩き出す。悠真の横をすり抜ける。触れないまま。赤いリボンが、やわらかく揺れる。ほどけない。まだ、ほどけない。廊下に出る。三人で歩く。並んでいるのに、均等じゃない距離。移動は続いている。でも。心だけが、まだ教室に残っていた。
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女の子、とっかえひっかえしてるみたいに見えるよ

翌日の放課後。教室の空気が、どこかざらついていた。悠真が席を立った瞬間、女子のひとりが、ふいに言った。「ねえ、ちょっとさ。」教室の視線が、ゆっくり集まる。「どういうつもりなの?」笑ってはいなかった。「陽菜とも帰ってるよね? 凪とも帰ってるよね?」空気が固まる。「女の子、とっかえひっかえしてるみたいに見えるよ。」ざわ、と小さな波。男子が軽く茶化す。「ひがむなよ。」笑いが起こる。でも、悠真は笑わなかった。ただ、一瞬だけ目を伏せた。その顔を、凪は見た。傷ついた顔だった。弁解も、反論も、しない。「そんなつもりじゃない」その一言さえ、飲み込んだ。凪の胸が、強く締めつけられる。“わたしのせいかもしれない”その考えが、頭を離れない。好きでいることが、悠真を追い詰めるなら。一緒に帰った時間が、彼を責める材料になるなら。わたしは——いないほうが、いいのかな。窓の外では、夕焼けが沈みかけている。悠真は静かに教室を出た。凪は、立ち上がれなかった。好きなのに。好きだから。動けない。それがいちばん苦しい。教室に残った夕陽が、赤いリボンを、やわらかく照らしていた。まるで、ほどけそうな糸みたいに。
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――逃げるなよ。……逃げてないよ。

廊下の窓から、やわらかな夕方の光が差し込んでいた。凪は、まだ立ち止まったままだった。悠真の言葉が、胸の奥で何度も響く。――逃げるなよ。その一言が、思っていたよりずっと重い。逃げているつもりなんて、なかった。ただ。どう考えても。陽菜のほうが、いいと思っただけ。凪は、小さく息を吐く。「……逃げてないよ。」そう言ったけれど、自分でも、声が少し震えているのがわかった。悠真は、何も言わない。ただ、凪を見ている。その視線が、苦しい。やさしいから。まっすぐだから。凪は、ゆっくり言葉を探す。「悠真はさ。」少しだけ笑う。でも、その笑顔はうまく作れない。「陽菜といると、楽しそうだよ。」悠真の眉が、少し動く。「見ててわかる。」凪は、窓の外を見る。校庭は、もう少しずつ暗くなり始めている。「陽菜は明るいし。」「誰とでも自然に話せるし。」「……みんな、好きになると思う。」そこまで言って、凪は言葉を止める。本当は、ここから先を言うつもりだった。――だから。わたしは。でも。その瞬間。悠真が、静かに言う。「それで?」凪は、少し驚いて顔を上げる。悠真の目は、まっすぐだった。「それで、凪はどうしたいの。」その問いに、凪の胸が大きく揺れる。どうしたいの。そんなこと。本当は、ずっと前から決まっている。でも。それを言ってしまったら、全部終わってしまう気がした。夕方の光が、赤いリボンを、やわらかく照らしている。凪は、そのリボンをぎゅっと握る。そして、ゆっくり息を吸う。――言わなきゃ。その言葉が、もうすぐ、口からこぼれそうだった。
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“ちゃんとする”って、どうすることなんだろう。

理科室の前には、すでに列ができていた。陽菜が振り向く。「はやく、遅れちゃうよ?」凪は、歩き出す。悠真は、その一歩後ろ。三人で、理科室へ入る。実験台は四人一組。班は、固定のまま。——昨日と同じ。凪はほっとする。少なくとも、今日は“偶然”に裏切られない。でも。顕微鏡を準備する間、陽菜は自然に悠真の隣に立つ。自然すぎる距離。凪は、向かい側に立つ。触れない距離。先生の声が響く。「今日は細胞分裂を観察します。」光が落ちる。理科室は、少し暗くなる。顕微鏡の光だけが、机を照らす。陽菜が、嬉しそうに言う。「見えた!すごい。」悠真が、のぞき込む。肩が、少しだけ触れそうになる。凪は、目を伏せる。逃げない、って言ったのに。逃げられない距離が、ここにある。ふいに。悠真が、顔を上げる。凪を見る。ほんの一瞬。言葉はない。でも。“ちゃんとする”って、どうすることなんだろう。凪は、自分の顕微鏡をのぞく。ピントを合わせる。細胞が、ゆっくり分かれていく。ひとつが、ふたつに。きれいに、分かれていく。胸の奥が、少しだけ痛む。分かれるって、こういうこと?理科室の静けさの中で、赤いリボンが、わずかに揺れた。ほどけない。まだ。
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ああいう人が、悠真の隣にいたら、きっと・・・

体育の笛が、短く鳴る。女子が、ゆっくり動き始める。凪も、その列の中に入る。でも。胸の奥では、まださっきの光景が残っている。陽菜の笑顔。悠真の、やわらいだ表情。たったそれだけのことなのに。どうしてこんなに、胸が重くなるんだろう。女子の列が整う。先生が言う。「今日は軽くランニングからね。」グラウンドを、一周。みんなが走り出す。凪も走る。風が、頬を通り過ぎる。少しだけ、楽になる。でも。頭の中は、静かに同じことを繰り返している。――どう考えても。陽菜のほうが、似合う。走りながら、凪は前を見る。少し前を、陽菜が走っている。背中が軽い。足取りも、自然で。途中で振り返って、友達に笑いかける。その笑顔に、周りの空気がふっと明るくなる。凪は、思う。やっぱり。ああいう人が、悠真の隣にいたら、きっと。自然なんだろうな。体育が終わる。女子の更衣室は、少し騒がしい。凪は、ゆっくり制服に着替える。赤いリボンを結びながら、ふと、手が止まる。鏡の中の自分を見る。普通。ただ、それだけ。誰かを明るくするような笑顔も、自然に空気をやわらげる力も、きっと、ない。胸の奥で、その言葉がまた浮かぶ。――やっぱり。凪は、そっと目を閉じる。好きだから。好きだからこそ。その考えは、少しずつ形になっていく。放課後。廊下の窓から、夕方の光が入る。凪は、まだ知らない。この決意が、悠真の心を、大きく揺らすことになるなんて。そして。この恋が、ここから、静かに、大きく動き始めることを。
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好きでいることが、少しだけ、苦しくなる。

先生の声が遠くで響いている。「観察できた班から、考察を書いていってください。」ペンが紙の上を走る音。凪は、静かに書く。字は整っている。乱れない。感情と違って。「ここ、どう書く?」陽菜が悠真に小さく尋ねる。「えっと……」悠真が考える。「分裂の段階で、核が――」ふたりの声は、低く、近い。凪は、書きながら聞いてしまう。聞かなくていいのに。陽菜は、うなずきながらメモをとる。「なるほどね。じゃあ、こうかな。」さらりとまとめる。自然に。凪は思う。わたしは、まとめる前に、迷う。言葉を選びすぎる。空気を気にしすぎる。陽菜は、まっすぐ。悠真は、そのまっすぐさを見ている。その目は、やさしい。凪は、胸の奥が少しだけ冷えるのを感じる。どうして。どうして、比べるんだろう。比べたくないのに。「凪、ここどう思う?」ふいに、悠真の声。顔を上げる。視線が、ちゃんと向いている。「え……」言葉が、一瞬遅れる。「いいと思う。」それだけ。もっと何か言えたはずなのに。陽菜が笑う。「凪、ほんと冷静だよね。」褒めている。ちゃんと。でも。凪の胸は、なぜか少し痛む。冷静。それは、明るくない、ということ。場を変えない、ということ。実験は、まだ終わらない。光は変わらない。三人は同じ机にいる。でも。凪の中で、“どう考えても”が、また一枚重なる。好きでいることが、少しだけ、苦しくなる。
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でも、それが一番ずるい気がする

悠真の指が、空をつかんだまま止まっている。触れなかった。触れなかったことが、何よりも重い。凪は、一歩下がったまま、視線を逸らさない。「……ごめん。」また、同じ言葉。謝られるたびに、胸が少しずつ削れていく。「俺、ちゃんとするって言ったけどさ。」悠真は、苦く笑う。「ちゃんとって、誰かを傷つけないことだよな。」凪の喉が、ひりつく。陽菜の笑顔が浮かぶ。明るくて、まっすぐで、何も悪くない子。凪も、何も悪くない。悠真も。それなのに。「俺、凪といると、楽なんだ。」その言葉は、刃だった。やさしい刃。「でも、それが一番ずるい気がする。」教室の空気が、静かに沈む。凪は、やっと笑った。ほんの少しだけ。「楽、って……いいことじゃないの?」声が震えないように、ゆっくり言う。悠真は、首を振る。「誰かが傷つくなら、楽って言っちゃだめだろ。」凪の胸が、ぎゅっと締まる。やっぱり。選ばなきゃいけないんだ。選ばれるか、選ばれないか。その間にいる時間は、長くは続かない。廊下の向こうで、また陽菜の声。今度は少し、不安そうな響き。「ゆうま……?」悠真は目を閉じる。一瞬。そして、凪を見る。「待ってて、って言ったら……」言葉が、途切れる。凪は、首を振った。「言わないで。」それを言われたら、動けなくなる。「ちゃんと、して。」やさしく、でも逃げない声。悠真の瞳が揺れる。やっと、指が下がる。距離が、戻る。でも。目だけは、離れない。「……わかった。」低い声。その“わかった”が、何を意味するのかは、まだわからない。凪は先に歩き出す。背中に、視線を感じる。振り返らない。振り返ったら、きっと、全部、壊れる。赤いリボンが、そっと揺れる。ほど
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ちゃんと、って……何だろうな。

悠真の指が、ほんの一瞬だけ動いた。凪の胸元——赤いリボンに、触れそうで、触れない距離。教室には、まだ誰も戻っていない。廊下のざわめきだけが遠い。凪は、視線を逸らさなかった。逸らしたら、終わる気がした。「……ごめん。」悠真の声は低く、かすれていた。何に対しての謝罪なのか、凪にはわからない。昨日のこと。陽菜のこと。それとも、自分の曖昧さに?「俺、ちゃんとするって言ったけどさ。」目が揺れる。悠真は、凪を見る。逃げない目。「ちゃんと、って……何だろうな。」その言葉は、独り言みたいだった。凪の胸が、ぎゅっと締まる。“わたしがいなければ”その考えが、また浮かぶ。でも。悠真の目は、昨日と同じだった。探している目。凪を。「凪はさ。」名前を呼ばれる。それだけで、心臓が跳ねる。「……行くなよ。」また、同じ言葉。今度は、はっきり。凪の指先が震える。好きだから。好きだから、逃げたい。好きだから、離れられない。「わたしは……」声が出ない。赤いリボンが、微かに揺れる。窓から入る光が、やわらかく触れる。そのとき。廊下から、陽菜の声。「ゆうまー?まだー?」空気が、戻る。悠真は目を閉じる。ほんの一瞬。そして、凪を見る。今度は、迷いが混じっている。選ばなければいけないことを、わかっている目。凪は、笑った。ほんの、少しだけ。「行って。」言葉は軽い。でも、胸の奥は、重い。悠真は、動かない。動けない。その沈黙が、いちばん甘くて、いちばん苦しい。次に動いたのは——凪だった。一歩、下がる。距離が、戻る。でも。悠真の指は、まだ、空を掴んでいた。
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ねえ悠真くん、今度テスト終わったら一緒に帰らない?

夕焼けが沈み、教室には薄いオレンジ色の影が伸びていた。三人で並んだ机の上には、開いたノートと消しゴム。静かな時間のはずなのに、凪の心臓だけがやけに大きく鳴っている。「ここさ、この公式使うんだよ」悠真がそう言ってペン先を動かす。「へぇ〜!さすが悠真くん!」陽菜は目を輝かせて身を乗り出した。その拍子に、陽菜の肩が悠真の腕に軽く触れる。ほんの一瞬。でも、凪にははっきり見えた。悠真が少しだけ驚いて、でも離れなかったこと。胸が、ぎゅっと締めつけられる。(近い……)陽菜は気にした様子もなく、楽しそうに笑う。「悠真くんと勉強すると分かりやすいんだよね。    凪ちゃんもそう思わない?」突然振られて、凪はびくっとした。「え……う、うん」声が少し震えてしまう。悠真が心配そうに凪を見る。「大丈夫?」「うん、大丈夫だよ」そう言いながら、目をそらした。本当は全然大丈夫じゃない。陽菜はくるっと悠真の方を向いた。「ねえ悠真くん、   今度テスト終わったら一緒に帰らない?」凪の心臓が止まりそうになる。教室の空気が一瞬固まった。悠真は少し驚いた顔をして、それから困ったように笑った。「えっと……」その沈黙が、やけに長く感じる。凪は息をひそめて答えを待った。陽菜の瞳はまっすぐで、真剣だった。「私ね、悠真くんともっと話したいんだ」素直な気持ち。逃げ場のない空気。悠真はゆっくりと口を開く。「……ごめん」凪の胸が跳ねる。「約束があるんだ」「約束?」陽菜が聞き返す。悠真はちらっと凪を見る。「凪と、一緒に帰るって決めてる」その言葉に、凪の目が大きく見開かれた。陽菜は一瞬驚いたあと、少しだけ寂しそうに笑った。「そっか……そり
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気づいてほしいのに。気づかれたくない。

「あと五分で片づけてください。」先生の声が、少しだけ現実に引き戻す。陽菜が、顔を上げる。「早いね。」明るい声。そのまま、自然に器具をまとめ始める。「スポイト洗うね。」迷わない。悠真がビーカーを持つ。「これ、流してくる。」流し台のほうへ歩く。凪は、スライドガラスをそっと拭く。手元は丁寧。でも、どこか遠い。陽菜が、ふと凪を見る。「さっきの考察、すごく分かりやすかったよ。」やわらかい声。本気だ。「ありがとう。」凪は、少し笑う。ちゃんと笑えているか、自信はない。悠真が戻ってくる。「陽菜、これでいい?」名前を、自然に呼ぶ。凪は、その呼び方に、少しだけ胸が締まる。自分の名前は、少し慎重に呼ばれる気がする。それは、優しさかもしれない。でも。距離でもある。実験が終わる。顕微鏡の光が、ひとつずつ消える。理科室の明るさが戻る。三人は、同じ机に立っている。同じ空間。同じ時間。なのに。凪の中だけが、少しずつ沈んでいく。陽菜は、誰の隣にいても自然だ。明るい。やさしい。空気を変える。わたしは。どう考えても。その言葉が、また静かに重なる。悠真が、凪を一瞬見る。言いたいことがありそうで、でも言わない。凪は、視線をそらす。気づいてほしいのに。気づかれたくない。理科室の扉が開く。まだ昼の光。でも凪の中では、たそがれが、ほんの少しだけ始まっていた。
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“悠真は悪くないよ” “わたしが勝手に好きなだけ”

翌日。昼休みの教室は、いつもより静かだった。悠真は窓側の席で、ノートを開いている。陽菜は前の席で友達と笑っていた。凪は、自分の席からその様子を見ないようにしていた。“いないほうがいいのかな”昨日から、その言葉が消えない。チャイムが鳴る。次の授業は移動教室だった。みんなが立ち上がる中、凪はわざとゆっくり鞄を閉じる。そのとき。「凪。」低くて、少し迷いのある声。顔を上げると、悠真が立っていた。陽菜はもう廊下に出ている。教室には、ふたりだけ。「昨日さ。」それだけ言って、言葉が止まる。悠真は、目を伏せた。凪は、胸が痛くなる。また、飲み込むんだ。そう思った瞬間――「ごめん。」小さな声だった。凪は、息を止める。「ちゃんとしてないよな、俺。」ちゃんとしてない。それは、誰に対して?陽菜?凪?それとも――自分に?凪は、首を振りかけて、止める。本当は言いたい。“悠真は悪くないよ”“わたしが勝手に好きなだけ”でも。それを言ったら、全部、終わる気がした。沈黙が落ちる。廊下から、陽菜の明るい声が聞こえる。「ゆうまー!早くー!」悠真は、一瞬だけ凪を見る。その目は、昨日と同じだった。探している目。「……行くなよ。」かすれる声。凪の心臓が、強く跳ねる。「俺、ちゃんとするから。」ちゃんと。それが何かは、まだわからない。でも。凪は、小さくうなずいた。動けないはずの足が、今日は、少しだけ前に出た。ふたりで教室を出る。距離は、まだある。でも、昨日より、ほんの少しだけ。近い。
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奪われるかもしれない、という怖さ

朝のチャイムが鳴り終わる頃、教室のざわめきが少しだけ落ち着いた。悠真の隣で、人気女子は楽しそうに何かを話している。声は聞こえないけれど、その笑顔だけで、場の空気がふわっと明るくなる。悠真はうなずきながら、時々小さく笑う。――あんな顔、見たことなかった。凪の胸が、きゅっと締めつけられる。(私といるときは、あんなふうに笑わないのに…)ペンを持つ指に、自然と力が入った。そのとき。人気女子が少し照れたように、悠真のノートを指さして何かを言う。悠真は一瞬驚いたあと、照れくさそうに目をそらしながら答えた。その仕草が、あまりにも自然で。凪の心に、小さな不安が芽を出す。(悠真は…私より、あの子のほうが楽しいのかな)笑顔の二人を見つめながら、凪は初めて知る感情に戸惑っていた。奪われるかもしれない、という怖さ。そのとき、悠真がふと顔を上げる。一瞬だけ、視線が凪と重なった。驚いたように、でもすぐにやさしく微笑む悠真。その笑顔に、凪の胸はさらに揺れる。(まだ…私のこと、見てくれてるよね?)けれど次の瞬間、悠真の視線はまた人気女子へ戻っていった。凪の中で、期待と不安が静かにせめぎ合う。この朝はまだ、恋が壊れる朝じゃない。でも――恋が試され始めた朝だった。昼休み。教室の空気が少しゆるみ、笑い声や椅子を引く音が混ざり合う。凪は席を立つタイミングを失って、ただノートを閉じるふりをしていた。その視界の端で――人気女子が、また悠真のほうへ歩いていく。今度はさっきよりも、少しだけ距離が近い。「悠真くん、お昼どうするの?」その声は明るくて、でもどこか緊張している。悠真は一瞬迷うように視線を伏せてから、穏やかに答えた。
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