気づいてほしいのに。気づかれたくない。
記事
コラム
「あと五分で片づけてください。」
先生の声が、少しだけ現実に引き戻す。
陽菜が、顔を上げる。
「早いね。」
明るい声。
そのまま、自然に器具をまとめ始める。
「スポイト洗うね。」
迷わない。
悠真がビーカーを持つ。
「これ、流してくる。」
流し台のほうへ歩く。
凪は、スライドガラスをそっと拭く。
手元は丁寧。
でも、どこか遠い。
陽菜が、ふと凪を見る。
「さっきの考察、すごく分かりやすかったよ。」
やわらかい声。
本気だ。
「ありがとう。」
凪は、少し笑う。
ちゃんと笑えているか、自信はない。
悠真が戻ってくる。
「陽菜、これでいい?」
名前を、自然に呼ぶ。
凪は、その呼び方に、少しだけ胸が締まる。
自分の名前は、少し慎重に呼ばれる気がする。
それは、優しさかもしれない。
でも。
距離でもある。
実験が終わる。
顕微鏡の光が、ひとつずつ消える。
理科室の明るさが戻る。
三人は、同じ机に立っている。
同じ空間。
同じ時間。
なのに。
凪の中だけが、少しずつ沈んでいく。
陽菜は、誰の隣にいても自然だ。
明るい。
やさしい。
空気を変える。
わたしは。
どう考えても。
その言葉が、また静かに重なる。
悠真が、凪を一瞬見る。
言いたいことがありそうで、
でも言わない。
凪は、視線をそらす。
気づいてほしいのに。
気づかれたくない。
理科室の扉が開く。
まだ昼の光。
でも凪の中では、
たそがれが、ほんの少しだけ始まっていた。