昨日と同じはずなのに、少しだけ、目の奥が違う
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コラム
街灯の下を通り過ぎるたび、
影が少し伸びて、また元に戻る。
凪は歩きながら、
スマートフォンを握った指先に、
まだ残っている温度を感じていた。
——見なかった。
——返さなかった。
それは、逃げじゃない。
今は、そう言い切れる。
立ち止まって、
小さく息を吐く。
静かな住宅街。
誰かの家の窓に、明かりが灯っている。
当たり前の夜が、当たり前に続いている。
凪は、もう一度だけ空を見上げる。
雲の切れ間に、星がひとつ。
——明日、会う。
それだけで、
胸の奥が、少しだけ引き締まった。
今日の夜に、
無理に言葉を足さなくてよかった。
そう思える自分が、
ほんの少し、頼もしい。
スマートフォンをバッグにしまい、
歩き出す。
“待ってる”と言ったのは、
相手を縛るためじゃない。
自分が、
次の時間を選ぶためだった。
玄関の前で立ち止まり、
凪は深呼吸をひとつ。
夜は、ここで終わる。
でも、物語は終わらない。
静かに、
でも確かに、
次の朝へとつながっている。
凪はドアを開けて、
いつもより少しだけ、
やわらかな気持ちで、家に入った。
布団に入って、電気を消しても、
すぐには眠れなかった。
凪は天井を見つめながら、
呼吸のリズムを整える。
スマートフォンは、
バッグの中に入れたまま。
取り出さない、と決めた。
——今日は、ここまで。
それが、
自分を大事にする選択だった気がする。
目を閉じると、
カフェの窓際の席が浮かぶ。
湯気。
夕方の光。
向かいに座る、悠真の横顔。
言葉は少なかった。
でも、足りなかったわけじゃない。
凪は、
「また来たい」と言えた自分を思い出す。
あの一言で、
時間はちゃんと前に進んだ。
カーテンの隙間から、
夜の街灯の光が差し込んでいる。
その明かりが、
少しずつ遠のいていく感覚。
やがて、
意識がふっと沈む。
——明日。
その一言だけを、
胸に残したまま。
朝の光は、
思っていたよりも静かだった。
目を覚ました凪は、
すぐには起き上がらず、
しばらくそのままでいる。
スマートフォンに手を伸ばす。
通知は、ない。
それでも、
胸がざわつくことはなかった。
——大丈夫。
制服に袖を通し、
鏡の前に立つ。
昨日と同じはずなのに、
少しだけ、
目の奥が違う。
玄関を出ると、
空は薄く白んでいる。
新しい一日が、
何事もなかった顔で始まろうとしていた。
凪は歩き出す。
今日は、
教室で会う。
言葉があるかどうかは、
まだ分からない。
でも、
同じ時間にいることだけは、
もう決まっている。
その事実を、
凪は静かに抱えたまま、
朝の道を進んでいった。