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気づけば、“頑張ること”ばかり考えていた。

夜道には、まだ少し昼の熱が残っていた。街灯の光が、アスファルトを細く照らしている。凪と陽菜は、並んで歩いたまま、ゆっくり駅の方へ向かっていた。足音が、静かに重なる。その音を聞きながら、凪は、胸の奥で同じ言葉を繰り返していた。“凪がちゃんと呼吸できる場所”そんなこと、今まで考えたことがなかった。どうしたら嫌われないか。どうしたら安心されるか。どうしたら期待に応えられるか。気づけば、“頑張ること”ばかり考えていた。「……私さ」凪が、小さく口を開く。陽菜が、少しだけ顔を向ける。「頑張ってないと、落ち着かないのかも」夜風が吹く。髪が、少し揺れる。「ちゃんとしてないと」少し間。「ここにいていいって思えない感じ」その言葉は、凪の中にずっとあったのに、今までうまく言葉にならなかったものだった。陽菜は、しばらく黙って聞いていた。急がない。否定もしない。ただ、凪の言葉が出るのを待っている「だから」凪が、少し苦しそうに笑う。「気づくと、ずっと頑張ってる」街灯の下を通り過ぎる。光と影が、二人の足元をゆっくり流れていく。陽菜は、少しだけ空を見上げる。それから、静かに言った。「でもさ」やわらかい声。「今日の凪、ちゃんと頑張ってたじゃん」凪が、少しだけ目を開く。「来るの、怖かったでしょ」陽菜が、小さく笑う。「でも来た」凪は、言葉を返せない。胸の奥が、静かに熱くなる。「だから今日は」陽菜が、前を向いたまま言う。「もう十分なんじゃない?」その瞬間、凪の中で、何かが静かに止まる。“もっと頑張らなきゃ”。いつも頭のどこかで鳴っていた声。急かすみたいに。責めるみたいに。止まらなかった声。でも今、陽菜の言葉が、その音
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凪ってさ、ちゃんとしようとしすぎるよね。

公園の空気は、昨日より少しだけやわらかかった。街灯の光が、ブランコの鎖を細く照らしている。凪と陽菜は、近い距離で立ったまま、まだ触れない。でも、昨日みたいな“遠さ”は、もうなかった。「学校、ちゃんといたね」陽菜が、小さく笑う。凪は、少しだけ視線を逸らす。「……いたよ」「でも、なんか違った」その言葉に、凪の心が、静かに揺れる。陽菜は、ブランコに軽く触れる。鎖が、きい、と鳴る。「なんていうか」少し考えるみたいに空を見る。「無理してる感じ、してた」凪の指先が、わずかに動く。その言葉は、思ったより深い場所に落ちた。「別に」反射みたいに返す。でも、その声は少しだけ硬かった。陽菜は、すぐには何も言わない。ただ、静かに凪を見る。逃がさないみたいに。風が吹く。髪が揺れる。凪は、その視線から逃げるみたいに、少しだけ下を向いた。「凪ってさ」陽菜が、やわらかく言う。「ちゃんとしようとしすぎるよね」その瞬間、凪の胸の奥が、小さく痛んだ。“ちゃんと”。その言葉は、ずっと自分を守ってきたものだった。嫌われないように。困らせないように。空気を壊さないように。そうしていれば、安心できると思っていた。でも、陽菜の前にいると、その“ちゃんと”が、少しずつ苦しくなる。「……別に、普通だし」小さく言う。陽菜は、少しだけ笑った。「普通の人は、“普通”って何回も言わない」凪が、顔を上げる。目が合う。逃げられない。でも、不思議と、逃げたくない。陽菜が、一歩だけ近づく。ほんの少し。触れられそうで、触れない距離。「無理して笑ってる時、わかるよ」その声は、やさしかった。責める感じじゃない。見つけてしまった、みたいな声。凪の呼吸が
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凪は、その違和感に触れそうになって、やめる。

チャイムが鳴る。音が、少しだけ遅れて届く。凪は、ペンを持ったまま、黒板を見ていた。文字は追っているのに、意味が残らない。先生の声が、教室を流れていく。ところどころで、誰かの笑い声が混ざる。その中に、昨夜の声が、ほんの少しだけ重なる。ここでしてもいい?凪は、ペン先を止めた。一瞬だけ。すぐに、また動かす。ノートの上に、きれいな字が並ぶ。でも、書いた内容は、ほとんど覚えていない。授業が終わる。椅子が引かれる音。ざわめきが、少しだけ大きくなる。凪は、ノートを閉じる。そのとき、ポケットの中で、スマートフォンが小さく震えた。取り出すか迷って、そのままにする。理由は、ない。でも、今は見ないほうがいい気がした。ほんの少しだけ。廊下に出る。人の流れにまぎれて、歩く。前から、悠真が来る。「次、移動だよな」いつもの声。いつもの距離。「……うん」凪はうなずく。「ノート、大丈夫?」「たぶん」軽く返す。悠真は、少し笑う。「たぶんって」そのやり取りも、いつも通り。でも、どこか、少しだけ、手応えが違う。うまく言えないけど、少しだけ、空気がすべる。凪は、その違和感に触れそうになって、やめる。考えない。まだ、いい。階段を上る。窓の外に、空が広がる。青くて、明るい。その中に、昨夜の街灯の色が、ふと混ざる。一瞬だけ。凪は、足を止める。「どうした?」後ろから、蓮の声。振り返る。やわらかい表情。落ち着いた声。「……なんでもない」凪は、そう言って、また歩き出す。蓮は、それ以上聞かない。隣に並ぶ。その距離は、心地いいはずなのに、ほんの少しだけ、足りない。何が、とは言えない。でも、たしかに、何かが違う。教室に入る前、凪は、もう
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待ってる。 陽菜からの何かを。

家の前で、足が止まる。夜風が、少しだけ冷たい。さっきまで隣にいた温度が、ゆっくり離れていく。「じゃあね」陽菜が、小さく手を振る。凪は、少し遅れて頷いた。「……うん」そのまま、陽菜が歩いていく。街灯の下。少し揺れる髪。遠ざかっていく背中。凪は、しばらく動けなかった。胸の奥が、静かにざわついている。苦しい。でも、嫌じゃない。むしろ、離れたあとに、急に静けさが戻ってくる。凪は、ゆっくり家のドアを開ける。暗い玄関。誰もいない空気。いつもの夜。なのに、今日は少し違った。部屋に入って、バッグを置く。そのまま、ベッドに座る。スマートフォンが、机の上で小さく光っている。凪は、少しだけ見る。通知はない。なのに、視線が離れない。「……何やってるんだろ」小さくつぶやく。さっき別れたばかりなのに。もう会えないわけじゃないのに。でも、胸の奥が落ち着かない。凪は、スマートフォンを伏せる。深呼吸する。目を閉じる。でも数秒後、また手が伸びる。画面を開く。通知欄を見る。何もない。閉じる。また開く。凪は、そこでようやく気づく。“待ってる”。陽菜からの何かを。言葉を。通知を。繋がる感じを。その瞬間、胸が少し苦しくなる。「……やだ」小さな声。こんなの、知らなかった。誰かを、こんなふうに待ってしまう感じ。頭の中に残り続ける感じ。気づくと、同じ言葉を思い出している感じ。“凪が楽なほうが、見てて安心する”胸の奥が、また静かに熱くなる。凪は、スマートフォンをぎゅっと握る。「ちゃんとしなきゃ」考えすぎないように。気にしすぎないように。変にならないように。でも、その言葉のあとに、別の声が浮かぶ。今日は、これで十分なんじゃない?陽
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孤独がほどけ始める

ブランコは、もうほとんど揺れていなかった。夜風だけが、静かに通り抜ける。街灯の光が、二人の制服をやわらかく照らしている。凪は、鎖を握ったまま、少しだけ空を見上げた。胸の奥が、不思議なくらい静かだった。今までなら、誰かと長くいると疲れていた。ちゃんとしなきゃ。空気を作らなきゃ。変な間を作らないようにしなきゃ。そんなことばかり考えていた。でも、陽菜の隣では、沈黙が苦しくない。それが、まだ少し怖い。でも、嫌じゃなかった。陽菜が、ゆっくり足を止める。ブランコが、小さく揺れて、きい、と鳴る。「……遅くなってきたね」小さな声。凪は、少しだけ頷く。「うん」帰らなきゃ。時計を見れば、ふつうにそう思う。でも、立ち上がったら、この空気が終わってしまう気がした。凪は、少しだけ指に力を入れる。鎖が冷たい。「凪」陽菜が、静かに名前を呼ぶ。凪が顔を向ける。「今日さ」陽菜が少し笑う。「来てくれて、よかった」その言葉に、凪の胸が、また静かに揺れる。“来てよかった”。そんなふうに、自分の存在をそのまま受け取られる感じ。今まで、あまり知らなかった気がする。凪は、少しだけ困ったみたいに笑う。「……私も」声は小さい。ちゃんと本音だった。陽菜が、その言葉を聞いて、少しだけ安心したみたいに目を細める。沈黙。でも、もう怖くない。凪は、ゆっくりブランコから降りる。スカートの裾が、夜風に揺れる。陽菜も、少し遅れて降りた。帰り道。いつもの道。でも、今日だけは、少し違って見える。二人は、公園の出口へ向かって歩き出す。肩が触れるほど近くはない。でも、離れすぎてもいない。歩幅が、自然と合っていた。凪は、歩きながら思う。今まで、ずっと問
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みんなといるのに、どこか遠い場所にいるみたいになる。

夜風が、少しだけ冷たくなっていた。街灯の光が、陽菜の髪をやわらかく照らしている。凪は、その横顔を見たまま、うまく言葉が出せなかった。“無理にちゃんとしなくていいよ”その言葉が、まだ胸の奥に残っている。凪は、ゆっくり息を吐いた。でも、胸の苦しさは消えない。むしろ、少しずつ広がっていく。「……変だよね」小さく、凪が言う。陽菜が視線を向ける。凪は、少し迷ってから続けた。「ちゃんと人いるのに」風が吹く。ブランコが、小さく揺れる。「別に、一人じゃないのに」声が、少しかすれる。凪は、自分の指先を見る。昔から、誰かと一緒にいるのは苦手じゃなかった。笑うこともできる。合わせることもできる。困られないように、空気を悪くしないように。ちゃんとやれていた。でも、時々、ふっと苦しくなる。みんなといるのに、どこか遠い場所にいるみたいになる。「……なんか」凪が、小さく笑う。苦しそうな笑い方。「ずっと、“ちゃんといる”だけだった気がする」その言葉のあと、夜が少し静かになる。陽菜は、何も急がなかった。ただ、凪の言葉を待っている。凪は、少しだけ目を閉じる。言葉にしてしまった。今まで、ちゃんと外に出したことのない感覚。凪が、ゆっくり目を開ける。陽菜を見る。街灯の光の中。「陽菜といると」胸の奥が、少し熱くなる。怖い。でも、止めたくない。「……一人じゃない感じ、する」小さな声。消えそうなくらい。でも、ちゃんと届く声。陽菜の目が、少しだけ揺れる。驚いたみたいに。でも、すぐにやわらかくなる。「そっか」それだけ。たったそれだけなのに、凪の胸の奥が、ゆっくりほどけていく。理解された。そんな大げさなものじゃない。でも、ずっと閉
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私は、陽菜といる時の自分が好きなのかもしれない

昼休みのチャイムが鳴った。教室の空気が、一気にほどける。椅子の音。笑い声。購買へ向かう足音。いつもの昼休み。凪は、ぼんやり窓の外を見ていた。"私は、陽菜といる時の自分が好きなのかもしれない"さっき浮かんだ言葉が、まだ胸の奥に残っている。その時だった。「凪」聞き慣れた声。顔を上げる。陽菜だった。「お昼、一緒に食べない?」ただそれだけ。ただそれだけなのに、胸が少しだけ跳ねる。凪は慌てて立ち上がる。「う、うん」陽菜が笑う。その笑顔を見ると、なぜだか少し安心する。二人は中庭へ向かった。春の風。柔らかな日差し。木陰のベンチに並んで座る。しばらく、特別な話はしなかった。授業のこと。先生のこと。クラスメイトのこと。どこにでもある会話。なのに、凪は不思議だった。こんな普通の時間なのに、どうしてこんなに心地いいんだろう。陽菜が、お弁当の卵焼きを見ながら言う。「それ美味しそう」「交換する?」「する」小さな笑い声。その瞬間、凪は思い出す。人生の意味は、遠くにあるものじゃない。そんな言葉を、どこかで聞いたことがある。大きな夢。大きな成功。特別な何か。そういうものじゃなくて、誰かがかけてくれた言葉。誰かがくれた安心。誰かが隣で笑ってくれた時間。そういうものの中に、静かにあるのかもしれない。凪は陽菜を見る。陽菜は気づかない。普通に卵焼きを食べている。でも、凪の胸の奥では、何かが少しずつ形になり始めていた。昨日、陽菜が言った言葉。"凪が楽なほうが、見てて安心する"あの言葉は、ただ優しかっただけじゃない。あの言葉があったから、凪は昨日、少しだけ自分を許せた。"今日はこれで十分"そう思えた。そのことに気づいた瞬
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私は陽菜の何に惹かれているんだろう

朝のホームルームが始まる。先生の声が教室に響く。でも、凪の頭にはほとんど入ってこなかった。"私は陽菜の何に惹かれているんだろう"その問いが、ずっと胸の奥に残っている。窓の外では、春の風が木の葉を揺らしていた。陽菜は数列前の席で、普通にノートを開いている。本当に普通だった。昨日の夜、あんな話をした人とは思えないくらい。それなのに私は・・・。凪は気づく。気づくと、陽菜を探している自分に。視線が勝手に向いてしまう。笑っているかな。今、何を考えているんだろう。そんなことばかり。「……おかしい」小さくつぶやく。悠真の時は違った。悠真を好きだった時、こんなふうに一日中考えていたわけじゃない。会えたら嬉しい。話せたら嬉しい。それはあった。でも今は違う。陽菜のことを考えるたび、胸の奥のどこかが揺れる。そして、少し安心する。それが余計にわからない。恋って、こんな感じだっただろうか。先生が黒板に問題を書く。「じゃあ、この問題」教室が少しざわつく。凪は慌てて教科書を開いた。でも、ページをめくった瞬間、ふと昨日の夜を思い出す。"今日はもう十分なんじゃない?"陽菜の声。胸が少しだけ温かくなる。その時、凪はあることに気づく。陽菜を思い出すと、安心する。でもそれだけじゃない。頑張らなくていい気がする。ちゃんとしていなくても、大丈夫な気がする。それは今まで、誰かに感じたことのない感覚だった。悠真といる時は、もっと素敵な自分でいたかった。でも陽菜といる時は、逆だった。頑張らない自分でも、そこにいていい気がする。凪は、その違いに気づいた瞬間、胸が静かに鳴る。"私は……"言葉にならない。まだ早い気がする。でも、何か
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さっきまで、頭の中で考えていた相手が、目の前にいる。

教室のざわめきが、少し遠く聞こえる。「何その顔」陽菜が笑う。朝の光が、窓から差し込んでいる。凪は、何も言えなかった。言えるわけがなかった。さっきまで、頭の中で考えていた相手が、目の前にいる。しかも、昨日までとは違う。昨日の夜、公園で話した。並んで歩いた。本音を言った。そして今、陽菜を見るだけで、胸の奥が少し落ち着かなくなる。「寝不足?」陽菜が聞く。凪は慌てて首を振る。「ち、違う」陽菜が少し笑う。その笑顔を見た瞬間、また胸が鳴る。凪は視線を逸らす。なんなんだろう。昨日から、ずっと同じことを考えている。悠真のことを考える時とは違う。悠真は、好きだと思えた。優しい。かっこいい。一緒にいると嬉しい。ちゃんと説明できる。でも陽菜は違う。説明しようとすると、わからなくなる。安心する。それは確か。でも、安心だけなら、こんなに何度も思い出さない気がする。"凪が楽なほうが、見てて安心する"また思い出す。凪は小さくため息をつく。その様子を見て、陽菜が首をかしげる。「なんか悩んでる?」ドキッとする。図星だった。でも、まさか言えない。"あなたのことです"なんて。凪は机の上の教科書を見る。その時、教室の後ろから声がした。「おはよう」悠真だった。クラスメイトたちが反応する。いつもの朝。凪も反射的に顔を上げる。悠真が笑う。今までなら、それだけで少し嬉しかった。でも今日、凪は気づいてしまう。その直後、自分が何をしたか。凪の視線は、無意識に陽菜へ向いていた。陽菜は、何も気づいていない。窓際で、普通に笑っている。その横顔を見た瞬間、胸がまた揺れる。凪は慌てて前を向く。おかしい。本当におかしい。"私は陽菜に恋してる
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凪って、 全部、自分で抱えようとするよね。

ブランコが、ゆっくり揺れている。きい、と小さく鳴る音が、夜の静けさに溶けていく。凪は、鎖を軽く握ったまま、足元を見ていた。陽菜の言葉が、まだ胸に残っている。無理にちゃんとしなくていいよ。そんなふうに言われたのは、たぶん初めてだった。「凪ってさ」陽菜が、静かに口を開く。「人のこと、気にしすぎるよね」凪の指先が、少しだけ動く。「……そんなことない」反射みたいに返す。でも、陽菜はすぐに首を横に振らない。ただ、“またそうやって隠した”みたいな目で見る。凪は、その視線に少しだけ耐えきれなくなって、ブランコの鎖を握り直した。冷たい感触。胸の奥が、少しざわつく。「だって」凪が、小さく言う。「誰か機嫌悪いと、気になるし」風が吹く。前髪が揺れる。「怒ってたりすると」少し間。「自分のせいかなって思うし」その声は、自分でも驚くくらい素直だった。陽菜は、しばらく黙っていた。夜の公園。遠くの道路を車が通る音。その静かな時間のあと、陽菜が、ぽつりと言う。「凪って」少しだけ困ったみたいに笑う。「全部、自分で抱えようとするよね」凪は、何も返せない。返せないというより、返す言葉が見つからない。“抱える”。その感覚は、ずっと普通だった。空気が悪くならないように。誰かが嫌な思いをしないように。ちゃんと、みんなが大丈夫なように。そうしていれば、自分もここにいていい気がしていた。でも、最近、少し苦しい。ちゃんとしているのに、心だけ、ずっと疲れている。「……でも」凪が、小さくつぶやく。「そうしないと、嫌われるから」陽菜が、静かに目を細める。「ほんとに?」その声は、やさしい。責める感じじゃない。ただ、凪が信じてきたものを静
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……なんで呼ぶの

校舎を出るころには、空はもう薄い群青になっていた。昼の熱が少し残った風が、制服の袖を静かに揺らす。凪は、スマートフォンを片手に持ったまま、ゆっくり歩いていた。返信は、まだしていない。『帰り道』その短い言葉だけが、胸の中で、何度も小さく響いている。駅へ向かう生徒たちが、前を通り過ぎる。笑い声。自転車のブレーキ音。遠くの踏切。全部、いつもの帰り道。でも、凪の足だけが、少しだけ落ち着かない。スマートフォンが、また震える。凪は立ち止まる。街灯が、静かに灯り始めている。画面を見る。『もう着く』短いメッセージ。場所は書いていない。なのに、どこなのか、わかってしまう。凪は、画面を見たまま動かない。心臓の音だけが、少し大きい。行く理由なんて、ない。急ぐ必要もない。でも、足が、もう迷っていない。曲がり角を、一つ。その先に、公園へ続く道がある。昨日と同じ景色。でも、昨日より、少しだけ空気が近い。凪は、スマートフォンをポケットにしまう。そのとき、前から歩いてくる人影が見えた。陽菜。街灯の下で、足を止める。目が合う。昨日みたいに、長い沈黙はない。でも、言葉も、すぐには出てこない。陽菜が、少しだけ笑う。「来ると思った」やわらかい声。凪は、答えない。代わりに、ほんの少しだけ、近づく。その距離に、陽菜の目が、静かに揺れる。風が吹く。髪が、少しだけ触れる。凪は、そのまま陽菜を見る。昨日より、近い。なのに、まだ、はっきりとは触れられない。「……なんで呼ぶの」小さく、凪が言う。陽菜は、少しだけ目を細める。考えるみたいに、空を見る。それから、「わかんない」そう言って、笑った。その曖昧さに、凪の胸が、また静かに鳴る。
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その全部を、見られていた気がする。

教室のざわめきが、少しずつ薄れていく。部活へ向かう声。椅子を戻す音。窓の外から入る、夕方の風。凪は、まだ席に座っていた。手の中には、スマートフォン。画面は暗いまま。開けばいい。それだけなのに、指が、少しだけ止まる。窓の外が、オレンジ色に染まっていく。その光が、机の上を長く滑る。凪は、ゆっくり息を吐いた。そして、親指が、静かに動く。画面が点く。通知は、一つだけ。陽菜。短い名前。それだけで、胸の奥が、少しだけ鳴る。メッセージを開く。『今日は、ちゃんと授業受けてた?』凪は、瞬きをする。思わず、小さく息が漏れる。なんでもない言葉。特別じゃない。重くもない。でも、なぜか、少しだけ笑いそうになる。『受けてた』打つ。送る。すぐ既読がつく。その速さに、胸が小さく揺れる。凪は、画面を見つめたまま動かない。数秒。それだけなのに、長い。『ほんとに?』続けて届く。『なんか上の空っぽかった』凪の指が止まる。教室の空気。窓際。昼休み。その全部を、見られていた気がする。凪は、画面を見たまま、少しだけ俯く。胸の奥が、静かに落ち着かない。嫌じゃない。でも、安心とも少し違う。『……見てたの?』送る。既読。少し間。それから、『見ちゃう』短い返事。たったそれだけ。なのに、凪の心臓が、大きく鳴る。教室には、もう人が少ない。遠くで、誰かが笑っている。夕方の光が、ゆっくり薄くなっていく。その中で、凪は、スマートフォンを持ったまま動けない。『なんで?』打ちかけて、止まる。消す。また、打つ。止まる。聞いたら、何かが、変わってしまう気がした。まだ、そこには触れたくない。でも、もう、気づき始めている。自分の時間が、少しずつ、一人分
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なのに、一瞬だけ、違うものを探してしまう。

午後の授業は、静かに進んでいく。黒板に、白い文字が増えていく。チョークの音が、一定のリズムで続く。凪は、その音を聞きながら、ノートにペンを走らせる。ちゃんと、書いているが、でも、どこかで、別の音を待っている気がする。隣の席から、ページをめくる音。ふと、顔を上げる。そこには、いつもの教室。いつもの景色。なのに、一瞬だけ、違うものを探してしまう。すぐに、目を戻す。理由は、ない。でも、探していたことだけが、少し残る。先生が、質問をする。名前を呼ばれて、凪は立ち上がる。答えは、わかっている。口に出す。間違っていない。「正解」その一言で、席に着く。小さく息を吐く。できている。ちゃんと、いつも通り。でも、さっきの一瞬が、まだどこかに残っている。授業が終わる。チャイムが鳴って、一気に空気がほどける。椅子の音。話し声。笑い声。その中で、凪はゆっくりと立ち上がる。ポケットに、手を入れる。スマートフォン。指先が触れる。取り出す。画面を、つける。通知が一つ。短い名前。一瞬だけ、息が止まる。凪は、そのまま画面を見つめる。開くまでの、ほんの数秒。それだけで、周りの音が、遠くなる。指が、少しだけ動く。でも、止まる。まだ、開かない。なぜか、ここで止めておきたい気がした。このままでも、もう、わかっている気がして。「帰る?」後ろから、悠真の声。凪は、画面から目を離す。「……うん」短く答える。スマートフォンを、ポケットに戻す。まだ、見ていない。でも、さっきまでより、少しだけ、心臓の音がはっきりしている。教室を出る。廊下の光が、少しだけ長く伸びている。窓の外、空が傾いていく。その先に、昨夜の場所がある。凪は、少しだ
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私は、陽菜みたいになりたいのかな。 それとも、陽菜の隣にいたいのかな。

放課後の教室は、昼間とは少し違う顔をしていた。窓から差し込む光が、少しだけオレンジ色になっている。凪は席に座ったまま、陽菜の方を見ていた。陽菜は、まだクラスメイトの話を聞いている。時々うなずく。時々笑う。でも、自分の意見を押しつけたりはしない。ただ、相手の話を受け止めている。凪は不思議に思う。どうして陽菜の周りには、人が集まるんだろう。どうしてみんな、あんなに安心した顔になるんだろう。私なら、きっと、何か言わなきゃと思う。元気づけなきゃ。助けなきゃ。正しいことを伝えなきゃ。そんなふうに考えてしまう。でも陽菜は違う。まるで、雨の日の紫陽花みたいだった。凪はふと、通学路で見た紫陽花を思い出す。青。紫。少しだけ桃色。どれが正しい色なのか、説明できない。でも、綺麗だった。見ているだけで、心が落ち着いた。陽菜も少し似ている。無理に答えを出さない。無理に誰かを変えようとしない。ただ、そこにいる。それだけなのに、なぜか安心する。その時、相談していた女子生徒が笑った。「ありがとう」陽菜も笑う。「うん」それだけだった。その短いやり取りを見ているだけで、胸が少し温かくなる。私は、陽菜みたいになりたいのかな。それとも、陽菜の隣にいたいのかな。どちらなのか、まだ分からない。でも、一つだけ分かることがあった。陽菜を見ていると、頑張らなきゃという気持ちが、少しだけ静かになる。肩の力が抜ける。呼吸が深くなる。まるで、雨上がりの紫陽花を見ている時みたいに。その感覚が、凪には心地よかった。そしてまた、新しい問いが生まれる。「私は、陽菜といる時の自分が好きなのかな」窓の外では、夕暮れの光が校庭を照らしていた。その
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なのに、凪だけが妙に落ち着かない。

風が、ふたりのあいだを通り抜ける。「今のほうが好きかも」陽菜の言葉は、もうとっくに終わったはずなのに、凪の胸の中ではまだ続いていた。今のほうが好き。それは、どういう意味なんだろう。陽菜は特別な顔をしていない。卵焼きを食べて、いつもみたいに笑っている。なのに、凪だけが妙に落ち着かない。"私は、陽菜に好きだと思われたいのかな"さっき浮かんだ問いが、まだ胸の奥に残っている。その時だった。「おーい」遠くから声がした。振り向く。悠真だった。中庭を横切りながら、誰かに手を振っている。クラスの男子たちも笑っている。いつもの光景。少し前までなら、凪は自然に目で追っていた。でも今日は違った。悠真を見たあと、凪は無意識に陽菜を見る。陽菜は気づいていない。普通にお茶を飲んでいる。その横顔を見た瞬間、胸の奥がまた揺れる。凪は思う。悠真を見た時と、陽菜を見た時。何が違うんだろう。悠真を見ていると、"素敵だな"と思う。でも、陽菜を見ていると。"離れたくないな"と思う。その違いに気づいた瞬間、心臓が大きく鳴った。離れたくない。その言葉は、凪自身が思っていたより重かった。慌てて否定する。違う。ただ、一緒にいて楽だから。話しやすいから。安心するから。それだけ。でも、心のどこかでわかっていた。それだけじゃないことを。陽菜がふとこちらを見る。「どうしたの?」凪は慌てて首を振る。「なんでもない」陽菜は少し笑う。「最近、なんか変だよね」その言葉に、凪の心臓が止まりそうになる。まさか。気づかれた。そう思った瞬間、陽菜は続けた。「なんか考えごとしてる」凪は小さく息を吐く。違った。でも、少し残念な気もした。その感情に気づいて
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私は、陽菜に好きだと思われたいのかな

陽菜の言葉が、凪の胸の奥に残っていた。「最近、前より笑うよね」その一言。たぶん、何気なく言っただけ。でも、凪にとっては違った。今まで、いろんな人に言われてきた。優しいね。真面目だね。しっかりしてるね。でも、"笑うようになった"と言われたことは、あまりなかった。それはつまり、陽菜が見ていたのは、"頑張っている私"じゃなくて、もっと別の私だったのかもしれない。風が吹く。木々が揺れる。陽菜は、お弁当箱を閉じながら言った。「ねえ」凪が顔を上げる。「凪ってさ」また心臓が少し跳ねる。陽菜は少し考える。「昔からそうだったの?」「え?」「なんか」陽菜が笑う。「人のことばっかり気にするの」凪は言葉に詰まる。図星だった。気づけば、いつもそうだった。誰かが怒っていないか。誰かが傷ついていないか。誰かが困っていないか。そればかり見ていた。そして、自分のことは後回しだった。「……たぶん」小さく答える。陽菜は頷く。否定しない。笑わない。ただ聞いている。昔なら、ここで何か説明していたかもしれない。大丈夫だよ。そんなことないよ。そう言われるのを待っていたかもしれない。陽菜は、凪を変えようとしない。ただ、見ている。その静けさが、なぜか心地いい。しばらく沈黙。でも、もう苦しくない。陽菜が空を見上げる。「私ね」ぽつりと言う。「凪が無理してる時、なんとなくわかる」凪の胸が揺れる。「だから」少しだけ笑う。「今のほうが好きかも」風が止まる。世界の音が、少し遠くなる。凪は返事ができなかった。"今のほうが好き"その言葉が、胸の奥で何度も繰り返される。嬉しい。なぜだろう。陽菜にそう言われることが、こんなに嬉しい理由をまだ説明で
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気づくと、隣にいてほしいと思っている。

陽菜が卵焼きを口に運ぶ。「おいしい」小さく笑う。凪は少し肩の力が抜ける。「ほんと?」「うん」陽菜はもう一口食べる。それだけなのに、凪は少し嬉しくなる。なんでだろう。自分でもわからない。ただ、胸の奥が少し温かい。陽菜は気づいていない。普通にお弁当を食べている。それなのに、凪の視線は何度も陽菜へ向いてしまう。横顔。髪が風で揺れる。時々笑う。本当に、ただそれだけ。なのに。凪は思う。悠真の時は、こんな感じじゃなかった。好きだった。それは確か。でも、もっとわかりやすかった。会えると嬉しい。話せると嬉しい。そんな感じだった。でも今は違う。気づくと見ている。気づくと考えている。気づくと、隣にいてほしいと思っている。陽菜がふと顔を上げる。目が合う。凪は慌てて視線を逸らした。「なに?」陽菜が少し笑う。「えっ」凪の顔が熱くなる。「な、なんでもない」陽菜は不思議そうに首を傾げる。それから少し考えて、ぽつりと言った。「凪ってさ」凪の心臓が跳ねる。「最近、前より笑うよね」風が吹く。木々が揺れる。凪は返事ができなかった。陽菜は続ける。「前はもっと」少し考える。「頑張ってる感じだった」胸が揺れる。図星だった。でも、その言葉が嫌じゃない。むしろ、見つけてもらえた気がした。凪は陽菜を見る。陽菜は普通に笑っている。その笑顔を見ながら、凪はまた思う。私は、陽菜の何に惹かれているんだろう。そして初めて、別の問いが浮かんだ。私は、陽菜にどう見られたいんだろう。その問いに、自分自身が少し驚いていた。
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今、何を期待した?

昨日の夜のことが、夢だったみたいに思えた。朝の教室。窓から差し込む光が、机の上を白く照らしている。誰かの笑い声。椅子を引く音。教科書を開く音。いつもと同じ朝。いつもと同じ教室。なのに、凪の中だけが少し違った。机に頬杖をつきながら、窓の外を見る。青空。風に揺れる木々。ふと、昨日の夜を思い出す。"今日はもう十分なんじゃない?"陽菜の声。夜道。街灯。並んで歩いた時間。凪は、慌てて顔を上げる。まただ。今日だけで、何回思い出しているんだろう。「……変なの」小さくつぶやく。その時、教室のドアが開いた。凪の心臓が、一瞬だけ跳ねる。でも入ってきたのは、別のクラスメイトだった。凪は、自分でも驚く。今、何を期待した?視線を落とす。胸の奥が、少しだけざわつく。"違う"凪は心の中で言う。ただ、昨日たくさん話したから。ただ、少し安心したから。ただ、それだけ。なのに、否定しようとするほど、陽菜の笑顔が浮かぶ。"凪が楽なほうが、見てて安心する"また。、凪は額を机につける。おかしい。こんなの、今までなかった。悠真のことを考える時は、もっと違った。会えると嬉しい。優しいと嬉しい。話せると嬉しい。でも、今みたいに、気づくと頭の中にいる感じじゃなかった。もっと静かだった。もっと、わかりやすかった。じゃあ、これは何なんだろう。凪は、机の木目を見つめる。"私は陽菜のことが気になっているの?"その問いが浮かんだ瞬間、胸が大きく鳴る。違う。そう思う。でも、何が違うのかは、うまく説明できない。"私は普通だし"その言葉を考えた瞬間、凪は自分で違和感を覚えた。普通って、何だろう。昨日までなら、考えなかった問い。でも、陽菜と出会っ
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どうしたら嫌われないか、ばっか考えてたかも

夜は、ゆっくり深くなっていた。公園の街灯が、静かな円を地面に落としている。ブランコは、もうほとんど揺れていない。凪と陽菜は、並んで座ったまま、同じ夜風を感じていた。凪は、少しだけ空を見上げる。黒に近い青。その色を見ながら、胸の奥で、何かが静かに変わっている気がしていた。今までは、ずっと同じことを考えていた気がする。嫌われないように。変に思われないように。ちゃんとしていられるように。どうしたら、ここにいていい人になれるか。その問いばかりで、ずっと生きてきた。「……なんか」凪が、小さくつぶやく。陽菜が、ゆっくり視線を向ける。「私、ずっと」言葉を探すみたいに間が空く。ブランコの鎖が、かすかに鳴る。「どうしたら嫌われないか、ばっか考えてたかも」夜風が、髪を揺らす。その声は、少し恥ずかしそうで、でも、ちゃんと本音だった。陽菜は、何も急がない。ただ、凪の言葉が落ちる場所を、静かに待っている。「だから」凪が続ける。「誰かが怒ってると、自分のせいかなって思うし」少し笑う。苦しそうな笑い方。「ちゃんとしてないと、ダメな気がしてた」陽菜は、しばらく黙っていた。それから、小さく息を吐く。「凪ってさ」やわらかい声。「ずっと、“自分がどうしたいか”聞いてなかったんだね」その瞬間、凪の胸の奥が、静かに揺れる。“自分がどうしたいか”。そんなこと、考えたことがあっただろうか。どうすれば嫌われないか。どうすれば安心されるか。どうすれば空気を壊さないか。そればかりで、“自分”を置いてきた気がする。凪は、ゆっくりブランコを揺らす。ほんの少しだけ。前へ。後ろへ。「……わかんない」小さく言う。「私、何が楽なのかも、まだ
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ちゃんとしていれば大丈夫。優しくしていれば嫌われない。

ブランコは、ゆっくり揺れていた。きい、と小さく鳴る音が、夜の静けさに溶けていく。凪と陽菜は、並んで座ったまま、しばらく何も話さなかった。でも、その沈黙は、不思議と苦しくなかった。夜風が、二人の髪を揺らす。街灯の光が、足元にやわらかい影を落としている。凪は、鎖を軽く握ったまま、前を見ていた。“理解される価値がある”そんな言葉を、昔の自分は信じられなかった気がする。ちゃんとしていれば大丈夫。優しくしていれば嫌われない。空気を読めば、ちゃんとここにいられる。そう思っていた。でも、今こうして陽菜の隣にいると、それだけじゃなかったのかもしれないと思う。「……静かだね」凪が、小さく言う。陽菜が、少しだけ笑う。「うん」短い返事。でも、その声の温度が、やさしい。また沈黙が落ちる。普通なら、何か話さなきゃと思う時間。でも今日は、それがない。凪は、少しだけ不思議だった。誰かと一緒にいるのに、頑張って空気を作らなくていい。ちゃんと笑わなくていい。何か話題を探さなくていい。ただ、ここにいる。それだけでいい。その感覚に胸の奥が、少しだけ熱くなる。「……陽菜といると」凪が、ぽつりと言う。言葉を選ぶみたいに、少し間を空ける。「なんか」ブランコが、きい、と鳴る。「呼吸、楽」言ったあとで、凪は少しだけ視線を落とす。恥ずかしくなったみたいに。でも、陽菜は笑わなかった。からかいもしない。ただ、少しだけ目を細める。「そっか」小さな声。その一言だけで、凪の胸の奥が、また静かにほどける。陽菜が、足で少しだけ地面を蹴る。ブランコが、ゆっくり前に揺れる。「凪ってさ」夜風の中で、陽菜が言う。「ずっと息止めて生きてた感じする」凪
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“楽でいてほしい”なんて、誰かに言われたことはなかった。

陽菜の言葉のあと、しばらく、誰も話さなかった。夜風だけが、静かに通り過ぎる。ブランコが、きい、と小さく鳴る。凪は、胸の奥に残る熱を、どう扱えばいいのかわからなかった。“凪が楽なほうが、見てて安心する”その言葉が、何度も、ゆっくり胸に落ちていく。今まで、“ちゃんとしてるね”とは言われてきた。“優しいね”とも。でも、“楽でいてほしい”なんて、誰かに言われたことはなかった。凪は、少しだけ視線を落とす。制服の袖を、指先でつまむ。癖みたいな動き。不安な時、昔から、よくしていた。陽菜は、その手元を見ていた。でも、何も言わない。ただ、少しだけ距離を近づける。肩が触れそうで、触れない。その曖昧な近さが、妙に落ち着かなかった。「……陽菜って」凪が、小さく言う。「なんで、そんなこと言えるの」陽菜は、少しだけ笑う。「なんでだろ」考えるみたいに空を見る。「たぶん、凪が頑張ってるの、わかるから」凪の胸が、静かに揺れる。わかる。その言葉が、思っていたより、深く刺さる。「でもさ」陽菜が続ける。「凪、自分が疲れてる時ほど、“大丈夫”って顔するよね」その瞬間、凪は、言葉を失う。図星だった。たぶん、自分より、陽菜のほうが見えている。「……そうしないと」また、小さく漏れる。陽菜が、静かに見る。凪は、少しだけ苦しそうに笑った。「そうしないと、迷惑かけるから」その言葉のあと、夜が少しだけ静かになる。遠くで、自転車のベルが鳴った。陽菜は、しばらく黙っていた。それから、ほんの少しだけ眉を下げる。「凪ってさ」やわらかい声。でも、逃げられない声。「誰にも迷惑かけないようにしてるのに」少し間。「自分には、ずっと無理させてるよね」
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陽菜の前では、“いつもの言葉”が、うまく出てこない。

陽菜の言葉が、まだ胸の奥に残っている。『「無理してる感じ」してた。』凪は、何も返せなかった。返そうと思えば、返せたはずなのに。「そんなことない」とか。「普通だよ」とか。いつもみたいに。でも、陽菜の前では、その“いつもの言葉”が、うまく出てこない。夜の公園は静かだった。ブランコの鎖が、風に揺れている。街灯の光が、二人の影を長く伸ばす。凪は、少しだけ下を向いた。「……別に、頑張ってないし」小さく言う。その声は、自分で思っていたより弱かった。陽菜は、すぐには返事をしない。少しだけ首をかしげて、凪を見ている。“ちゃんと聞いてる”目だった。「凪ってさ」陽菜が静かに言う。「いつも、“大丈夫な人”やってるよね」その瞬間、凪の呼吸が、少しだけ止まる。“大丈夫”。その言葉は、ずっと自分を守ってきた。迷惑をかけないように。空気を壊さないように。心配させないように。そうしていれば、ちゃんとここにいられる気がしていた。「……そうしないと」気づけば、口から漏れていた。凪は、自分で少し驚く。言うつもりじゃなかった。でも、陽菜の前だと、時々、本音が先に出る。陽菜の目が、少しだけ揺れる。「そうしないと?」やわらかい声。急かさない。でも、逃げ道も作らない。凪は、言葉を探す。胸の奥が、少し苦しい。でも、嫌な苦しさじゃない。ずっと閉じていた場所に、空気が入ってくるみたいな感覚。「……嫌われるから」小さな声。風に消えそうなくらい。でも、ちゃんと陽菜には届いた。沈黙。ブランコが、きい、と鳴る。遠くで、車の音。夜は静かなままなのに、凪の胸の中だけが、少しずつほどけていく。陽菜は、すぐには何も言わなかった。ただ、ほんの少し
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『一人?』 打とうとして、止まる。

凪の指先が、画面の上で止まる。打ちかけた文字。消して、また打って、もう一度消す。教室は、静かだった。窓の外の空だけが、ゆっくり色を変えている。『なにしてるの?』短く打つ。送る。その瞬間、胸の奥が、少しだけ熱くなる。凪は、スマートフォンを伏せる。でも、数秒も経たないうちに、また手に取ってしまう。既読。その二文字だけで、呼吸が少し浅くなる。返事は、まだ来ない。なのに、待っている時間が、妙に長い。窓の外で、風が揺れる。遠くで、電車の音。教室の時計が、静かに秒を刻む。凪は、スマートフォンを見つめたまま、ふと、昨日の公園を思い出す。あの距離。あの沈黙。“見ちゃう”あの言葉。通知音。小さく、鳴る。凪の肩が、ほんの少しだけ動く。画面を開く。『帰り道』短いメッセージ。それだけ。でも、凪の胸の奥が、また静かに鳴る。『一人?』打とうとして、止まる。なんで、そんなことを聞きたいのか。自分でも、よくわからない。でも、聞きたいと思ってしまった。凪は、画面を閉じる。窓の外を見る。夕焼けが、少しだけ薄くなっている。教室のガラスに、自分の顔が映る。その表情が、ほんの少しだけ、知らない顔に見えた。「……なにしてるんだろ」と小さくつぶやく。誰に聞かせるでもなく、でも、その声は、どこか少しだけ、やわらかかった。スマートフォンが、もう一度震える。凪は、すぐには見ない。なのに、口元が、少しだけ緩んでしまう。“安心”とは違う。でも、嫌じゃない。少しずつ、そっちへ引っ張られている。凪は、ゆっくり立ち上がる。椅子が、小さく音を立てる。窓の外。夜の色が、少しずつ近づいてくる。そして、凪の中でも、まだ名前のない何かが、静かに、形
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ちゃんと見るって、言ったでしょ?

昼休みのざわめきが、少しだけ遠くに感じる。教室の中はにぎやかで、誰かの笑い声が、何度も弾む。凪は、自分の席でお弁当のふたを開けた。いつもと同じ中身。いつもと同じ匂い。でも、箸を持ったまま、少しだけ手が止まる。「ちゃんと見るって、言ったでしょ?」また、浮かぶ。ほんの一瞬。凪は、軽く瞬きをして、そのまま一口、口に運ぶ。味はする。でも、どこか、遠い。「今日さ、放課後どうする?」向かいの席から、悠真が言う。何気ない声。凪は、少しだけ顔を上げる。「……まだ、決めてない」短く答える。本当は、考えていないわけじゃない。でも、言葉にすると、違うものになりそうで。悠真は「そっか」とだけ言って、それ以上は聞かない。その距離が、ありがたいはずなのに、どこか、少しだけ、物足りない。窓の外に、風が通る。カーテンが、ふわりと揺れる。その動きに、昨夜のブランコが重なる。きい、と鳴る音。ほんの少しの揺れ。凪の指先が、わずかに動く。箸を持つ手とは反対の手。机の上で、少しだけ握られる。無意識に。「なに?」隣から、蓮の声。視線だけ向けると、やわらかい顔がそこにある。「……ううん」凪は、小さく首を振る。蓮は、それ以上踏み込まない。ただ、同じ空気の中にいる。それが、心地いいはずなのに、凪の中で、ほんの少しだけ、何かが足りない。理由は、まだわからない。ふと、ポケットに意識がいく。スマートフォン。さっきから、見ていない。見ようと思えば、すぐ見られる。でも、なぜか、そのままにしている。開いたら、何かがはっきりしてしまう気がして。まだ、その形にしたくない。チャイムが鳴る。昼休みの終わり。凪は、お弁当を閉じる。カチッという小さな
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昨夜の空気が、まだ残っている。

朝の光は、やわらかいのに、どこかまぶしかった。カーテンのすき間から入ってくる白い線が、部屋の中に細く伸びている。凪は、目を開けたまま、しばらく動かなかった。昨夜の空気が、まだ残っている。あの場所。あの距離。あの声。「ちゃんと見るって、言ったでしょ。」ふと、その一言が浮かぶ。胸の奥が、ほんの少しだけ、動いた。起き上がる。スマートフォンは、静かなまま。画面をつける理由を探して、やめる。何もないのに、なぜか、それでいい気がした。教室は、いつも通りの音で満ちていた。椅子を引く音。誰かの笑い声。遠くで名前を呼ぶ声。凪は、自分の席に座る。机の上に手を置いたとき、ふと、指先に意識がいく。昨夜、少しだけ前に出した足。あのときの感覚が、なぜか残っている。「おはよ」横から声がして、顔を上げる。悠真が立っていた。いつもの距離。いつもの表情。「……おはよう」凪は、少し遅れて返す。「昨日さ、連絡しようと思ったんだけど――」悠真が話し始める。その声を、ちゃんと聞こうとする。でも、途中で、ふっと、別の声が重なる。「5分だけでいい。」ほんの一瞬。凪は、目を瞬いた。「……凪?」呼ばれて、意識が戻る。「あ、ごめん」小さく笑って、言う。悠真は、少しだけ首をかしげたあと、「いや、いいけど」と軽く流す。会話は、そのまま続く。いつもと同じ内容。いつもと同じテンポ。でも、どこか、少しだけ、遠い。休み時間。廊下の窓から、外を見る。校庭。揺れる木。その先に、公園の方向がある。凪は、無意識に、そのあたりを見ていた。何かを思い出そうとして、でも、はっきりさせないまま、目を離す。「なに見てんの?」後ろから、蓮の声。振り返ると、やわら
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何を覚えているのか。どうして今なのか。

陽菜の指先が、ほんの少しだけ、こちらに向いた。呼ぶほどでもない。でも、気づかないふりはできないくらいの動き。凪の足が、もう一歩だけ前に出る。砂の上で、小さく音がした。その音に、陽菜の視線がわずかに揺れる。逃げるでもなく、受け止めるでもなく。ただ、そのまま。距離が、少しだけ縮まる。それだけで、空気の密度が変わる。言葉を探そうとして、やめる。今は、いらない気がした。代わりに、呼吸がそろう。同じ速さで、吸って、吐いて。それだけで、さっきまでの遠さが、少しずつほどけていく。ブランコが、もう一度だけ鳴る。陽菜が、目を伏せた。ほんの一瞬。それから、また顔を上げる。「……来たね」小さな声。凪は、うなずく。声にすると、壊れそうで。でも、伝わってほしくて。「……うん」それだけ。沈黙が、すぐに戻る。でもさっきまでの沈黙とは、少し違う。逃げ場としての静けさじゃなくて、置いておいても大丈夫な静けさ。陽菜が、ブランコに手をかける。鎖が、軽く揺れる。「ここ、覚えてる?」振り返らずに言う。凪は、少し考えてから、うなずく。「……うん。たぶん」はっきりしない返事。でも、陽菜は、それでいいみたいに、小さく笑った。「わたしは、ちゃんと覚えてる」その言葉だけが、少しだけ重く落ちる。凪の胸が、また静かに鳴る。何を覚えているのか。どうして今なのか。聞こうとして、やめる。まだ、そこまで踏み込まないほうがいい。そんな気がした。陽菜が、ブランコに座る。きい、と音がして、ゆっくり前に揺れる。ほんの少しだけ。子どもみたいに強くは蹴らない。ただ、体重を乗せただけの揺れ。「ね」揺れながら、言う。「さっきの続き、ここでしてもいい?」凪は
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またあの言葉が浮かぶ

階段の前で、陽菜が立ち止まる。「やば、着替え遅れる。」陽菜は笑う。「先行くね!」返事を待たずに、軽く手を振る。「またあとでー。」そう言って、駆けていく。階段を下りる足音が、すぐに遠くなる。廊下に残るのは、凪と、悠真。急に静かになる。窓からの光が、床に落ちている。凪は、視線を落とす。さっきまで三人だった空気が、急に、狭くなる。悠真が言う。「凪。」その声は、さっきより少し低い。凪は顔を上げる。「……なに?」悠真は少し迷う。言うか、言わないか。そんな顔。それから、少しだけ笑う。「今日、元気ない?」凪の胸が、強く鳴る。気づいてほしくない。でも。気づいてほしかった。「そんなことないよ。」凪は言う。でも、声が、ほんの少しだけ揺れる。悠真は、そのまま凪を見る。真っ直ぐ。「凪ってさ。」言葉が止まる。凪は、少しだけ息を止める。「……なんでもない。」悠真は、そう言って笑う。その笑い方は、少しだけ、寂しそうだった。凪の胸の奥で、またあの言葉が浮かぶ。どう考えても。でも。もし。ほんの少しだけでも――違ったら。階段の向こうから、体育の笛の音が聞こえる。凪は、ゆっくり歩き出す。悠真も、隣を歩く。さっきまで半歩あった距離が、今は、ほんの少しだけ近くなっていた。
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次は、どんな顔で会うんだろう

改札を抜けたあと、凪は一度だけ振り返りそうになって、やめた。もう、見なくても分かっている。悠真は、あの場所に立ったまま、少し遅れて歩き出すはずだから。ホームへ向かう階段を下りながら、胸の奥が、静かに忙しい。——楽しかった。——また、会う。言葉にすると簡単なのに、現実になると、こんなにも余韻が残る。電車が来るまでの数分。スマホを取り出しても、画面は見ない。代わりに、さっきの視線を思い出す。触れなかった距離。でも、確かに縮まっていた距離。悠真は、「また誘ってもいい?」と聞いた。凪は、「待ってる」と答えた。約束じゃない。でも、逃げ道のない言葉。電車が入ってくる音がして、凪はやっと前を向く。——次は、どんな顔で会うんだろう。学校かもしれない。放課後かもしれない。また、あの店かもしれない。確かなのはひとつだけ。今日で、この関係は「何もなかった昨日」には戻れなくなった。電車がホームに滑り込んできて、風が一瞬、凪の髪を揺らした。乗り込む人の流れに身を任せながら、凪はドアの近くに立つ。ガラスに映った自分の顔は、少し前より、やわらいで見えた。——待ってる。さっき言ったその言葉が、胸の奥で、まだ温かい。電車が走り出す。街の灯りが、線になって流れていく。凪はつり革につかまりながら、今日一日の場面を、静かにたどる。橋の上。教室。カフェのテーブル。駅前の別れ。どれも派手じゃない。でも、どれも確かに、「選んだ時間」だった。スマホが、軽く震える。通知ではない。ただ、ポケットの中で動いただけ。それでも凪は、ほんの少しだけ息を止めてから、また自然に呼吸を戻した。——次は、きっと。そう思えることが、もう答えみたい
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……緊張してる?

カップに口をつけたのは、ほぼ同時だった。湯気の向こうで、二人の動きが少しだけ重なる。凪は、一口飲んでから視線を落とす。思っていたより、甘かった。「……おいしいね」自分から言ったことに、少し驚く。沈黙を壊すつもりはなかったのに、声が、勝手に出た。「うん」悠真は短く答えて、それから少し間を置く。「……緊張してる?」その問いは、責めるでも、探るでもなく、ただ確かめるみたいだった。凪は、一瞬だけ迷ってから、小さく笑う。「……してるかも」正直に言った瞬間、胸の奥が少し軽くなる。悠真は、ほんのわずかに息を吐いた。「俺も」それだけ。理由も、説明もない。でもその一言で、テーブルの上の空気が、少しだけやわらいだ。窓の外では、夕方の色が、ゆっくりと夜に近づいている。凪は思う。派手なことは起きていない。でも今、「同じ時間を選んでいる」という事実だけが、確かにここにある。——これは、始まってる。そう思ってしまった自分を、もう否定しなくていい気がした。カップを置く音が、ほとんど同時に重なった。湯気が薄くなって、二人の間にあった緊張も、少しだけ形を変える。「……ここ、静かだね」凪の声は、思っていたより落ち着いていた。言葉にしてみると、不思議と怖さが薄れる。「うん。騒がしいの、あんまり得意じゃないから」悠真はそう言って、窓の外を見る。夜の色が、ゆっくり街に降りてきている。凪は、その横顔を見てから、視線を戻した。橋の上でも、教室でも、いつも“途中”で止まっていた時間が、今はちゃんと流れている気がした。「……また、来てもいい?」言い終わってから、胸が遅れて跳ねる。“また”と言った自分に気づいて。悠真は少しだけ驚
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言葉にならなかった部分。 それが、今、ここにある。

街灯の光が、すこしだけ色を持っていた。あたたかいようで、どこか冷たい。夜の公園は、音が少ない。遠くで車が通る気配と、ブランコの鎖が、かすかに揺れる音だけ。凪は、立ち止まった。ポケットの中の指先に、まだ体温が残っている。さっきまで握っていたスマートフォンの感触。あの声。あの間。ゆっくり、顔を上げる。そこに、いた。陽菜は、ブランコの近くに立っていた。照明の下で、輪郭がやわらかく浮かんでいる。思っていたより、近くて。思っていたより、遠い。風が、二人のあいだを通り抜ける。髪が、ほんの少しだけ揺れた。目が合う。それだけで、時間が止まったみたいだった。ああ、ちゃんと来たんだ。誰も言っていないのに、そんな言葉が、空気の中に落ちた。凪は、ほんの一歩だけ、足を動かした。でも、それ以上は進まない。陽菜も、動かない。ただ、見ている。少しだけ、泣きそうな顔で。でも、笑いそうでもあって。どっちとも言えない、その表情。凪は、視線を逸らさなかった。怖くない、とは言えない。でも、逃げたくない、とも思った。さっきの電話で、確かに触れたもの。言葉にならなかった部分。それが、今、ここにある。ふたりの間に。ブランコが、きい、と小さく鳴る。風のせいか、陽菜の手が、少しだけ動いた。それだけで、凪の心が、かすかに揺れた。近づくでもなく、離れるでもなく。ただ、立っている。それなのに、何かが、確実に変わっていく気配がした。夜は、静かに深くなる。そして、まだ何も始まっていないのに、もう、戻れないところまで来ている気がした。
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誰かに合わせて選ぶ恋ってさ、結局……続かないし

教室に、少し長い沈黙が落ちた。窓の外、オレンジ色の光がゆっくりと傾いていく。凪の言葉は、まだ空気の中に残っていた。「……自分を、選ぶ、か」悠真が、ぽつりと呟いた。その声は、少しだけ震えていた。「それってさ……」言いかけて、止まる。言葉を選ぼうとしているのが、わかる。蓮が、ゆっくりと息を吐いた。「いいと思う」迷いのない声だった。「誰かに合わせて選ぶ恋ってさ、結局……続かないし」少しだけ笑う。「俺、それ、前にやったことある」凪が、顔を上げる。蓮の言葉は、どこかやさしくて、でも逃げていなかった。「だからさ」蓮は続ける。「凪が“自分を選ぶ”って言ったの、ちゃんと意味あると思う」一歩だけ、前に出る。「でも、そのあとで選ばれるのが俺だったら……それは嬉しい」空気が、少しだけ揺れた。悠真が、顔を上げる。その目は、まっすぐだった。「……ずるいな、それ」苦笑いのような、でもどこか本音の声。「俺もさ」ゆっくり、言葉を探す。「凪に選ばれたい」一歩、踏み出す。「でも……」そこで、止まる。「“無理してる凪”に選ばれるのは、違うって思う」凪の目が、わずかに揺れた。「ちゃんと、自分で立ってる凪に」少しだけ息を吸う。「その上で、俺を見てほしい」教室の空気が、静かに張りつめる。陽菜が、ふっと笑った。「……あーあ」腕を組んで、少しだけ肩をすくめる。「なんか、みんな急にちゃんとしてるじゃん」その一言で、少しだけ空気がほどけた。「でもさ」陽菜が凪を見る。「いいじゃん、それ」やわらかい声。「恋って、“選ばれるゲーム”じゃないし」少しだけ、間を置いて。「“どう生きるか”の延長にあるだけでしょ?」凪の胸が、ゆっくりと揺れる
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昨日と同じはずなのに、少しだけ、目の奥が違う

街灯の下を通り過ぎるたび、影が少し伸びて、また元に戻る。凪は歩きながら、スマートフォンを握った指先に、まだ残っている温度を感じていた。——見なかった。——返さなかった。それは、逃げじゃない。今は、そう言い切れる。立ち止まって、小さく息を吐く。静かな住宅街。誰かの家の窓に、明かりが灯っている。当たり前の夜が、当たり前に続いている。凪は、もう一度だけ空を見上げる。雲の切れ間に、星がひとつ。——明日、会う。それだけで、胸の奥が、少しだけ引き締まった。今日の夜に、無理に言葉を足さなくてよかった。そう思える自分が、ほんの少し、頼もしい。スマートフォンをバッグにしまい、歩き出す。“待ってる”と言ったのは、相手を縛るためじゃない。自分が、次の時間を選ぶためだった。玄関の前で立ち止まり、凪は深呼吸をひとつ。夜は、ここで終わる。でも、物語は終わらない。静かに、でも確かに、次の朝へとつながっている。凪はドアを開けて、いつもより少しだけ、やわらかな気持ちで、家に入った。布団に入って、電気を消しても、すぐには眠れなかった。凪は天井を見つめながら、呼吸のリズムを整える。スマートフォンは、バッグの中に入れたまま。取り出さない、と決めた。——今日は、ここまで。それが、自分を大事にする選択だった気がする。目を閉じると、カフェの窓際の席が浮かぶ。湯気。夕方の光。向かいに座る、悠真の横顔。言葉は少なかった。でも、足りなかったわけじゃない。凪は、「また来たい」と言えた自分を思い出す。あの一言で、時間はちゃんと前に進んだ。カーテンの隙間から、夜の街灯の光が差し込んでいる。その明かりが、少しずつ遠のいていく感覚。やがて
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迷惑なんじゃなくて……悔しい

凪は、昇降口の陰に身を潜めるように座り込んでいた。校舎を満たす放課後のざわめきが、今日はやけに遠い。(なんで……私なんかに……)三条の告白。――「俺は凪を泣かせたりしない。守りたいと思ってる」クラスがどよめき、スマホを構える子すらいた。その数秒後から噂は一気に燃え上がり、三条のファンの女子たちは一斉に凪を睨みつけた。「なんでよりによって“あの子”なの?」「地味な癖に調子乗ってない?」「三条くんの好感度下げないでくれる?」全部、聞こえていた。笑い声も、ため息も、嫉妬の視線も――ぜんぶ、凪の胸に突き刺さる。(もう……どこにいたらいいのかわからない)俯いた視界に、涙が一滴落ちた。その瞬間、影が差し込んだ。「……凪」凪は、びくっと肩を震わせる。聞き慣れた声。だけど、いつもよりずっと深くて、揺らいでいた。悠真が立っていた。「探した。どこにもいなくて……」凪は慌てて涙を拭った。「……ごめん……なんか、いろいろ迷惑かけて……」「迷惑なんて思ったこと、一度もない」悠真は凪の前にしゃがみ込み、目線を合わせた。その瞳は、まっすぐで、苦しそうで、でも優しい。「俺が……守れなかったから、泣かせた。 だから、迷惑なんじゃなくて……悔しい」凪の胸が痛む。でも、同時に少しだけほどけていく。「……悠真のせいじゃ……」「俺は嫌だ」凪の言葉を遮るように、悠真は言った。「凪がひとりで抱えて泣くの、もう見たくない。 噂にも、女子の嫌味にも、三条にも…… 全部に怯えてる凪を見るのが……俺は、いちばん嫌なんだ」声が震えている。「俺が言わなきゃいけなかったんだ。 “凪は俺にとって大事な人だから、勝手に傷つけるな”って」凪は
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逃げてもいいけど……俺は追いかけるから

凪は、あの日からずっと胸の奥がざわついていた。悠真が見せた、あの真剣なまなざし。図書室で手を重ねてきたあの温度。そして、凪の過去を知ろうとしてくれた優しさ。(……知られたくない。 でも、知られたら……楽になるのかな。)心の中で揺れる二つの気持ちの間に、ずっと答えの出ない沈黙があった。放課後。誰もいない昇降口の前で、悠真が凪を待っていた。「……凪。話、いい?」凪は少し戸惑いながらも頷いた。悠真は、凪の顔を見るなり心配そうに眉を寄せた。「今日……ずっと元気なかったよね。 無理して笑ってたの、わかったよ」凪の胸が痛くなる。(どうして……そんなに見てくるの。)「凪、昨日のこと……気にしてる?」凪は喉がつまったように言葉が出なかった。悠真は静かに続けた。「無理に話さなくていい。 でも……凪が泣いた理由くらい、 知りたい。 だって……」言いかけて、彼は少し息を吸った。「凪が苦しむの、見てられない」その一言が、凪の奥に触れた。誰にも触れてほしくなかった傷に、悠真だけがそっと手を伸ばしてくる。「……私、悠真に嫌われたくなくて」ようやく出た声は、震えていた。「嫌うわけないよ」「でも……私、いつも人を困らせるから。 中学のときも、友だちに“重い”って言われて…… それからずっと……怖いの。 誰かに期待されるのも、距離が近いのも……」途中で言葉が途切れた。涙の方が先にこぼれたからだ。悠真はその涙を見ると、そっと近づいて、凪の手をゆっくり取った。「凪が重いなら……俺だって重いよ」凪は顔を上げる。悠真は真っ直ぐな目で続けた。「だって、凪のこと…… 考えすぎて胸が苦しくなる」凪の心臓が大きく跳ねた。「困ら
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今から、少しだけ外に出られる?

通話の向こうで、陽菜が小さく息を吸う。「じゃあさ」その一言で、空気が変わる。「今から、少しだけ外に出られる?」凪の指が止まる。「え……今?」夜。部屋。さっきまでの“安全な距離”。全部が、一瞬で揺れる。でも、陽菜は続ける。「5分だけでいい」やわらかい声。でも、逃がさない。「同じ空気って言ったじゃん」少し間。「ほんとに、同じとこで感じてみない?」凪の心臓が、大きく鳴る。怖い。でも。逃げないって、決めた。凪は立ち上がる。パーカーを羽織って、ドアに手をかける。「……出る」短く。でも、ちゃんと前を向いた声。陽菜が、少しだけ笑う。「いいね」その声が、背中を押す。凪は、静かな廊下を抜けて外へ出る。夜の空気。少し冷たい。心が、はっきりしていく。「どこ?」凪が聞く。陽菜は、すぐに答える。「学校の近くの公園」あの場所。今日の続きが始まった場所の、少し先。「先に着いたら、ブランコね」軽く言う。でも、意味は重い。「ちゃんと見るって言ったでしょ?」凪の胸が、また鳴る。「……うん」歩き出す。夜道。街灯。静けさ。でも――もう一人じゃない。同じ方向に、同じ速度で、もう一人も動いている。凪は、少しだけ笑う。(ほんとに、来るんだ)その気持ちが、少しだけ嬉しい。そして、止まりかけていた物語が、一気に“動き出す”。
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分かっているのに、言葉が、すぐには出てこない

店を出ると、夜の空気がすっと頬に触れた。昼とは違う匂い。少し冷えていて、静か。凪と悠真は、自然と並んで歩き出す。さっきまで向かい合っていたのに、今は同じ方向を見ている。街灯の下を通るたび、二人の影が伸びて、重なって、また離れる。「……今日はさ」悠真が、前を向いたまま言う。声は低くて、抑えめ。「楽しかった」それだけ。余計な言葉はない。凪は一瞬、歩く速度を落としそうになって、でもすぐに整える。「……私も」短く答えたあと、胸の奥がじんわりと温かくなる。駅が近づくにつれて、人の気配が増えてくる。それが、少しだけ惜しい。改札の手前で、二人は立ち止まる。ここで、別れる。——分かっているのに、言葉が、すぐには出てこない。悠真が、少しだけ凪のほうを向く。「……また、誘ってもいい?」問いかけというより、確認。逃げ道を残した言い方。凪は、ほんの一瞬だけ間を置いてから、はっきりとうなずいた。「うん。待ってる」その一言で、今日が“特別な一日”になった気がした。改札を抜ける前、二人は同時に振り返る。手は触れない。でも、視線だけは、ちゃんとつながっていた。夜は、まだ終わらない。でも今日は、ここまで。続きがあると、もう知ってしまったから。
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