分かっているのに、言葉が、すぐには出てこない
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コラム
店を出ると、
夜の空気がすっと頬に触れた。
昼とは違う匂い。
少し冷えていて、静か。
凪と悠真は、自然と並んで歩き出す。
さっきまで向かい合っていたのに、
今は同じ方向を見ている。
街灯の下を通るたび、
二人の影が伸びて、
重なって、また離れる。
「……今日はさ」
悠真が、前を向いたまま言う。
声は低くて、抑えめ。
「楽しかった」
それだけ。
余計な言葉はない。
凪は一瞬、
歩く速度を落としそうになって、
でもすぐに整える。
「……私も」
短く答えたあと、
胸の奥がじんわりと温かくなる。
駅が近づくにつれて、
人の気配が増えてくる。
それが、少しだけ惜しい。
改札の手前で、二人は立ち止まる。
ここで、別れる。
——分かっているのに、
言葉が、すぐには出てこない。
悠真が、少しだけ凪のほうを向く。
「……また、誘ってもいい?」
問いかけというより、確認。
逃げ道を残した言い方。
凪は、ほんの一瞬だけ間を置いてから、
はっきりとうなずいた。
「うん。待ってる」
その一言で、
今日が“特別な一日”になった気がした。
改札を抜ける前、
二人は同時に振り返る。
手は触れない。
でも、
視線だけは、ちゃんとつながっていた。
夜は、まだ終わらない。
でも今日は、ここまで。
続きがあると、
もう知ってしまったから。