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地獄への道…11

息子はとても美味しそうに食べた。私も久しぶりにまともにご飯を食べたせいか、全部は食べきれなかった。そして、少しそのドライブインで休憩した後、帰ることにした。その帰りは私は、「息子のこれから」のことを考えていた。お腹がいっぱいになったのか、珍しく車の中で息子は寝てしまっていた。息子のことばかり考えられる時間は限られている。上と下の娘のことも考えなければいけなかった。先生からのイジメや友達間のイジメで一時不登校になった娘。私に悩みを言えないでいるのではないか…。子どもたちには私が仕事を辞めたことは言っていなかった。仕事を辞めたことは…「言えなかった」プライドとかそういうものではなく…「お母さんが仕事をしていない」ということが、どれだけ子どもを傷つけるか、私は知っていた。そう自分の…あの「毒母」がそうだったから…。もちろん自分から辞めたくて辞めたのではないということを子どもに伝えても傷つくだけだろう。それでも私がやらなければいけないことは山積みだったから、これで仕事となったら、とてもじゃないが相当大変だったのかもしれない。その後、家に帰りいつものようにご飯などを作り普段の生活に戻っていた。息子は相変わらず、近くの公園に行ったり一人で遊んでいることが多かった。私も遊んであげたいと思ってはいたが…どうにも、朝8時を過ぎると急に体が動かなくなる…。身体に鉛のようなものが覆いかぶさっているかのように…。それと共に「お日様」や明るい場所、テレビの音さえもうるさく感じてなにもできない状態が続いていた。薬は飲んでいる。それでもパニックも動悸も何も治まらない…。私は単なる「甘え」なのか…これはいつ治
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地獄への道…10

こんな人生、終わってしまいたい。そうずっと思っていた。その度に「自分には子どもがいる」と言い聞かせてきた。私の感情など、どうでもいい。この子たちが「幸せ」であればそれでいい。私の役目はこの子たちを自分のような惨めではなく「幸せな人生」を送らせてあげること。それだけしか「私の価値」は要らないし、価値すらない。息子が「支援学校」に通えるようになるまで、家にいたが、それを心配した支援学校の校長先生から電話が度々きていた。「息子くん、どうしてますか?もしよかったら、転校手続きが終わるまで、少し学校にきませんか?」と言ってくれた。私は、涙が出るほど嬉しかった。私は「ありがとうございます。息子は今外で遊んでいます。息子に話してみて、もし希望があればお伺いさせていただきます!」と答えた。その日の夕方、息子が帰ってきた時、早速聞いてみた。そしたら息子は「え!!いいの!?行きたい!」と飛び跳ねて喜んでいた。私もそれを見てとても嬉しくなった。翌日、早速学校に電話した。校長先生に代わってもらい、息子が行きたいと言っていたことを伝えたら「いつでもお待ちしています!」と言ってくれた。息子は「明日にでも行きたい!」という感じだったし、この電話で行くことを伝えた。「学校の都合が良ければ、明日にでも伺いたいのですが…」というと「もちろんです!明日は学校の方も特別な行事がないので、ぜひ!先生にも話しておきます!」と言ってくれた。そのことを息子に伝えると息子は張り切っていた。まだ、転校できるとは決まっていなかったが、それでも「学校にいく」ということは子ども心に嬉しかったのだろう。お姉ちゃんや妹も誰も責めたりはしな
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地獄への道…9

保育園から受けてきた「発達検査」。息子は小学5年生になっていた。それでもまだ自分の「名前」さえ漢字では書けなかった。決して複雑な書体ではない。名前だけでも画数は20。マンガを買ってみたが、見ているのはマンガの「絵」だけ。内容は理解できていない。マンガもその当時流行っていたアニメで、わかりやすいかと思い購入した。それでもペラペラとめくって終わった。「面白くないの?」と聞いてみたが「よくわかんない!」で終わってしまった。一緒に読もうか、と誘っては見たものの断られてしまった。だが、息子の「コミュニケーション能力」は、他の姉妹より長けていた。どこでも「友達」になれる。それは凄いことだと思った。そこを伸ばしてやりたい。いい意味でも悪い意味でも「KY」なのだ。いつだったか、学校の先生に言われたことがある。「息子君ね、すごいよ」と笑いながらだったが話してくれた。先生が廊下を走っていた生徒を廊下で叱っていたそうだ。数人いたそうだが、先生自身も叱ったのはいいが後に引けなかったという。そして次の授業の時間まで怒りを持ちこしてしまい、生徒も先生もどうにも引けなった状態だったという。そんなところに、息子が「♪~♪~」と鼻歌を歌いながら廊下の影の階段から降りてきたそうだ。息子の鼻歌を聞いた先生と生徒は、あまりの可笑しさにお互いに笑ってしまい、その場は納まったというエピソードがあった、という。階段を下りてきた息子は、そんなことはつゆ知らず、シレッとその場を去って行ってしまったと。「お母さん、本来はね、先生が怒っている声なんかを聞くと他の生徒は静かにして当たり障りないようにしていくんですよ、けれど息子君は違
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地獄への道…8

2時間かかろうが、「息子の診断」をしっかりしてくれるところならどこでも診察してもらいたかった。藁にもすがる思い、とはこのことかと思うくらいだった。私は元々「地図」が苦手なので初診ということもあり電話して場所を聞いた。それでも想像は付かなかったが、「近くまで行ったらまだ電話してもいいですか?」と聞いたら快く受けてくれた。秋田市内すらあまり詳しくないが、そこを越していくとなると本当にわからない…。息子を乗せて長時間の運転に耐えられるだろうか…。その当時、私の車にはテレビがみれるようなものもなく、DVDを見せたいが、そうするとカーナビの地図が見れなくなる…。私は息子が退屈しないように話しかけたりして運転していた。その病院は、大きい病院のように「数か月待ち」という状態ではなかったため初診でもすんなり受付をしてもらえた。もちろん、発達障害の検査は時間を要するだろうが、まずは診察から…。数時間走っていくと、もう少しのところで道に迷ってしまった…。病院に電話するか…。電話してみると、丁寧に教えてくれた。「わかりずらいですよね、安全運転でいらしてください」と言ってもらえた。やっとの思いで着いた、その病院は周りには何もなく、道を挟んだところに喫茶店のようなものがポツンとあるだけ…。周りは木々に囲まれていた。建物は新しい作りになっていた。いよいよ診察である。受付に行くと笑顔で「遠くからお疲れさまでした」と言ってもらえた。待合室という「物々しい」感じはなく、まるで「別荘」を思わせるような造り。待っている人は置いてある本を読んだりしていたが、そんなに多くの人はいなかった。数分待っていると「こんなに早い
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地獄への道…7

生活保護が決定してから2週間くらい経っただろうか、保護のお金が振り込まれていた。少し金銭面的には安心したが、前にも話した通り「人間失格」を張り付けられたような感じがして、どことなく後ろめたさがあった。保護の振込金額は、子供手当などを相殺して振り込まれるが、それでも十分だと思った。車所有の件は、保護の方から「特別許可」という形になった。トントン拍子に物事が決まっていく中、私の体調は反するかのように悪くなっていった…。元々痩せていたわけではないが、体重は減り、とうとう血圧が上80前後になっていた。精神科に通うようになり、慣れない「薬」と合わない「薬」のせいか、脳みそが全く「機能」してくれない。とにかく「眠い」…とにかく下の子を保育園に預ける、というまでが精一杯になっていた。それでも「生活保護受給者」だと思われたくなくて必死だった。そして、「仕事を辞めたこと」も自分の中では消化できていなかった。けれど日を追うごとに「どうせ生活保護を受給するなら、うつ病をしっかり治そう!そして歯医者にも行こう…、行けなかった病院や自分の体を治していこう、それからまた社会復帰すればいい」と思うようになった。そう思えるまでに半年は掛かったと思う。それまでは「会社を訴えてやろうか」、母親のこと、父親の死、全てが「恨み」に変わっていた。母親の宗教、お金のこと、イジメられたこと、サラ金のこと、最初の旦那のこと、元旦那のこと…取られてしまった息子のこと挙げればキリがないほどに恨む要素はたくさんあった。自分は本当に愛されたことはあるのか…子供たちに愛情は与えてられているのか…ただ一つ親だからという「見栄とプライド」
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地獄への道…5

私はとことん「今まで」のことができなくなっていた。 それでも必死に子供達には気づかれないように過ごした。 その間も、上の娘は小学5年生になり、息子は小学生2年生くらいにはなっていたと思う。 卒園から「療育センター」に通院していたものの、「発達障害」の診断は確定されることはなかった。 通級しながら学校に行く息子に異変も起きていた。 そして、上の娘にも異変が‥。 私は子供達を引き取ってからずっと「子供達の話はちゃんと聞いてあげよう」というのは心がけていた。自分の当時のことを思い出すと「会話」はとても「大切だ」とつくづく思ったからである。 自分の小学生時代は多分、親とのコミュニケーションが成り立たなく、友達との距離感や話し方、色んなことが欠如してたと思う。 大人になってからもとても苦労した。 その経験があるから「会話」は大切にしてきた。 上の娘の様子が変だと思い、「最近学校どう?」とそれとなく聞いてみた。 すると、娘は何やら言いたそうな言いたくなさそうなそぶりをしていた。 少し待って見ると娘が口を開いた。 「この前ね‥学校で2時間目の時に先生に机教室から出された‥私だけ廊下で勉強してた」 という。 はい?どういうことだろう‥。 私は、「何かしたの?」と聞いてみた。 私は自分の子供の話は聞くが「全部鵜呑み」にするのは違うと思うのだ。 話を聞くと、どうやら 「隣の席の子が何かを落としたのを拾ってあげたら、その瞬間に先生が見つけ、『遊んでいるなら教室から出ていきなさい!』と言われた」 というのだ。 娘もその子も先生のあまりの大きい罵声に驚いて、何も言えなかったそうだ。 それからどうしたか、
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新しい人生の終焉…5

証人の欄に書いてもらった後、旦那はモノも言わず、実家から出たが私は、一応、お礼をいい、その場を後にした。その帰りの車の中では、今後の養育費…というか生活費などの話になり…。初めは「やり直す前提」という離婚、だった。私も旦那を信じれる自信がなかったし、その旦那の顔を見て過ごすということや、今まで子供たちに「お父さんが働いてくれてるからだよ」というのがとてつもなく辛い。別に言わなくても良いかもしれないが、子供たちの中でも「お父さんがいない生活」そして、結局、学校の「保護者の欄」が私に変わるのだ。到底、隠し通せるものでもない。子供たちになんて言ったらいいかなどを話した。旦那的には、「どうせ今までも毎日帰る仕事じゃなかったし、たまに顔は出すからそのままで」と言っていた、なんでこの人は「自分のこと」しか考えられないんだろう…。本当に呆れた。生活費も15万あれば、今まで間に合ってきただろう?とまで言った。…そりゃね…それしかなかったと思ってたからね…私の給料とかをやりくりしてたよね…。その開き直る言葉にもイラついたが、もうこれを出せば「他人」…。「この足で直接市役所持って行く?」と聞くと、「それは俺がいない時に出してくれ」というのだ。なんて勝手なんだろう…。それをまず無視して、私は家計の細かいところを言った。子供たちには「学資保険」などが掛けてあった。その支払いや、今後私たちが住むアパートは自分たちで決めることも…。そして、旦那が自分で決めた15万の生活費を入れる口座なども話しあった。私も仕事がある。いつまでも時間があるわけではない。「離婚届け」いつ出そうか…。と考えていると「下の子供は俺
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新しい人生の終焉…3

それから半年の時間が過ぎた…。私もなるべく「自然」に振る舞うようにした…。夜の性生活は、その中でも「地獄」だった…純真と、そんな綺麗なことを言う気はないが…結婚する前の女性のことをどうの言うつもりは到底ないが、夫婦でいて…その間も私との行為もありながら、影でも誰かと行為をしている…。どうしてもそういう想像が私を苦しめた。もう別れたとはいいつつも…不信感しかない…。かといって、性生活を断って、それを理由にまた浮気されるのか、という恐怖が私を襲った。旦那はそんなことは「なかった」かのようにしてくる…。私は、あのおぞましい過去を思い出した…そう、母親に「売られた時」のこと…。感情を殺した、あの時のこと…。同じ感じがした。それからというもの、私は「性生活」を拒むようになってしまった…。私の中では、もう「離婚」という文字が頭にあったのかもしれない。別れたとて、給料が戻ったわけではなかった…それも「不信」の原因だった。本当に「別れたのか…」もう何もかも信じれなくなった…。けれど、その反面、私の仕事は順調だった。成績も伸びて、グングン昇格もしていった…。私を認めてくれる場所は「会社」になっていた。息子の診断はまだ、明らかにはならなかったが、自分には「やるべき事」がたくさんあった。その中で、たくさんたくさん考えた。自分の気持ちと向き合った。何度も書いているけど、子供たちを引き取れたのは今の旦那のおかげで、その感謝ももちろん忘れてはいない。それは到底、私一人のチカラでは成しえなかったこと…だけど、それとこれとは「別問題」であって、だからといって「やっていいことと悪いこと」の区別くらいしてほしかっ
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新しい人生の終焉

浮気が発覚したのはディズニーランドから帰ってきて、半年も経たない頃だった。その日は、仕事から私も仕事から帰ってきて、子供たちにご飯を食べさせている時に旦那が、「これから帰る」と電話がきた。今までにも急に帰ってくることはあったので、さほど気にしていなかった。ご飯の準備しなきゃな、くらいの気持ちだった。そうして、旦那が帰ってきて色々していた。そうして一通り家事やら子供たちを寝せて一休みしようとしていた時「ちょっと話がある」と言ってきた。今度はなんだろう…。私は、仕事を変えるとかそういう話だと思っていた。「ごめん…好きな人ができた…」と…。私は呆然とした。私はどこか冷静を装っていた。「その人はどんな人なの?どこで知り合ったの?」と聞いた。そうすると旦那は「ゲームアプリで知り合った…最近家にこれなかったのは、その人の家に行っていたから……その人が弱いんだ!お前みたいに強くない!うつ病なんだ!俺がいないと」バアアアァン!!私は旦那の顔を叩いていた。「なに?誰が強いって?誰が弱いって?私もあんたと一緒になる前に病院で『うつ病』って診断されたとき、あんたなんて言った?ふざけんな!!」と怒ったというより、もう怒鳴っていた。旦那は涙目になっていた。「誰が子供産んでくれって頭下げたんだよ!お前に育てられんのか?それともなに、その女に育ててもらうのか?!!」と今までの「我慢」を全部さらけ出した。サラ金を払ったこと、生活費の足りない分をクレジットカードで補っていたこと、一人で育児をしてきたこと全部全部…。それでも旦那は「ごめん!すまなかった!」と土下座をした。それにも腹が立った。よくよく聞くと「毎月の
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新しい人生の幕開け…43

子供たちに伝える前に「日にち」を決めなければ、子供たちに「守れない約束」をしてしまう可能性があるから、日にちを決めることにした。けれど、子供たちが「夏休み」なことと、私たちの仕事に影響を与えない日にちにしなければならなかったが、私の場合はなんとかなる。問題は旦那だ。旦那に電話をした。「ディズニーのことなんだけど…いつ行けそう?決めないとチケットも私の休みも取れないし、あなたも休み取れないでしょ?お盆時期はどうしても混雑するし…小さい子を連れて混雑したところに行くのも子供大変だし…」と…。旦那は「会社に聞いてみる、これははっきりしないと全部だめになるからな」と言ってくれた。旦那は行く前から「ディズニーまでの道順は仕事で何回も通ってるから大丈夫だ」と自信満々に言っていた。そして、数時間後、会社に聞いたであろう旦那から折り返しの電話がきた。「8月の10日から3日休み取れた!そのままお盆休みでいいって」と電話がきた。そういう時だけはちゃんと休み取れるんだな…と、少し腑に落ちないところがあったが、仕方がない…。日にちが決まったところで、子供たちが学校や保育園から帰ってきたら真っ先に報告しよう!子供たちの喜ぶ顔を想像したら嬉しくなってきた!とうとう子供たちを迎えに行く時間になった!そして、みんなが揃ったご飯の時間…。「聞いて!今度ディズニーランドにみんなでいくよ~!!」すると…「ほんと!!??わーい!!(∩´∀`)∩ワーイ!!」とみんなで喜んでくれた!!良かった!この顔を見たかった!それからしばらく「ディズニーランド」の話で盛り上がった!子供たちは興奮状態だった。それからしばらくテレビやな
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新しい人生の幕開け…42

後日、銀行から旦那に仮審査の結果の電話がきたようだった。旦那から私が仕事中に電話が来た。「仮審査…ダメだって」とひどく落胆した声だった。私は正直ホッとした。「そっか…残念だね…でもしょうがないよね」とは言ったが。まず一つ肩の荷が下りた感じがした。本当は「家を建てる」ってもっとウキウキしたり、楽しんだりして建てるものという感覚だったから…。けれど、その当時の私はとても楽しめるというような気持ちではなかった。これで家を建てることが実現してしまったら、とてもじゃないけど家計が続かないとわかっていた。その当時の旦那の給料は15~18万…。今の時代は可能かもしれないが、その当時はダメだった。そのうえに子供が3人ともなれば銀行も貸さないだろうなと。私が働いてはいるものの「連名」ではないから尚更だろう。さて、まずは一件落着というところですか…。旦那も諦めたというか諦めざる終えなかったので。そうして、そんな忙しい日々を送って数か月が過ぎた。ある日、下の娘が「ディズニーランドに行きたい」と言い出した。そういえば…私も行ったことがないな~とぼんやり考えていた。私がないということは上の子供たちも行ったことはなく…。近々私のボーナスが出る…そのボーナスの金額で行けたら連れていきたいなぁ…くらいに考えていた。それで旦那に夜子供たちが寝静まってから電話をしてみた。「もしさ、ボーナスがよかったらディズニー連れてってくれない?子供たち行きたがってたし…まぁ…いくら貰えるか次第だけど」と…。そうしたら旦那は開口一番「ボーナスがある会社でいいな」と嫌味を言われた。旦那だって最初はボーナスがある会社にはいたのだ。そ
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新しい人生の幕開け…41

少しの間は、息子も元気に学校に行ってくれていた。娘も、弟のことに関して、たまに愚痴は言うものの友達と遊んだりしているようだった。その間、「家を建てる」という話は平行線状態だった。旦那が銀行に行く時間がない、というのだ。土地ももう決まったような状態で、買う坪数は「100坪」田舎の特権なような坪数(笑)私が無知のまま、「簡単でいいから設計図」を書いてと言われて書いた家の設計図も完成していた。その次のステップにいっていないのだ。散々急かせておいて、自分はこれだ…。その銀行の「仮審査」に行けない。電話越しに、ここまでやってんなんでなの?と聞いてみた。旦那は「銀行って15時までだろ?都合よくいかないんだよ」などと言っていたが、家を買う時点での時間は取れていたのに、一番肝心な時間が取れないのは別の理由があるのだと思った。だから少しつっこんで聞いてみた。そうすると旦那は「断られたらどうしようとは思ってる」と本心がでてきた。今更?「それ、私も言ったよね、家の話の時に…。ブラックだったし、いくら一括で返したとしてもリストには載ってるって…それでも大丈夫なの?って聞いたよね」というと、旦那は沈黙した…。やっぱり直前になって困ったんだ…。怖いんだ…。きっとサラ金のこともお義父さんには言っていないから勝手にドンドン話を勧めたんだろう…。けれど自分で話を持ってきたからには自分でケジメを付けてほしい。私だってもう日々の時間がギリギリで生活している。金銭面も…。けれど、もう何も理由なくして、この話を「なし」にすることはできない。大家さんでもある不動屋さんも乗り気だからだ。どうするのか…。少し沈黙の後、旦那は
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新しい人生の幕開け…38

日常でも、様々な変化もあり、その中でも息子の「障害」のことは、まだはっきりしない診察と診断だった。前に検査したときもまだ「保育園ですからね」などと言われ…はぐらかされてきたように思うが、まだその頃では「発達障害」というものに先生たちすら「知識」がなかったのだと思う。その年の春、息子は1年生になった。保育園の先生からは最後まで「息子君は普通の男の子です!」と言われた…。けれど、私は納得がいかなかった。それは「障がい者」にしたい、ということではなく、やはりどこか「違う」ということが明確ではないが、本に書いてあった行動と思考が同じだったのだ。これは「男の子だから」などで済まされない。なんとも言い難い…説明がしずらかった。入学式にも旦那は出席はしなかった。入学式の準備も私一人で行った。旦那の両親からも「お祝い」などは貰ってもいないしお祝いの言葉すらなかった。上の娘の時の運動会なども旦那は出席はしなかったが、Rさん家族が一緒にいてくれたから少しは気持ちはラクになった。Rさん家族は、その頃「離婚」をしてRさん子供が学区が同じになったのを機に、イベント事には協力してくれた。もちろん旦那の両親などは来ない。私が住んでいる地域は春に運動会をする。なので入学したら初めてのイベントが運動会となる。息子が入学するまでは運動会さえ、娘と私の「二人ばっち」だった。ごめんね…と、つい言ってしまったことがある。けれど娘は「お母さんと一緒だから大丈夫!」と言ってくれた。本当はみんなが羨ましいだろうに…。他の親たちは一生懸命、自分の子供たちの運動会を「ビデオ」に撮っていたが、ウチにはそんな贅沢品はなかった。携帯す
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子育て支援施設(サービス)とは? 2

 引き続き「子育て支援施設(サービス)」についてお話します。【学童保育(放課後児童クラブ)】お国の「放課後子ども統合プラン」に基づいたサービスです。 学童期(小学生)の子どもたちを対象に、「(放課後以降の自宅などで)何かしらの制限のあるお子さん」に対しての居場所を提供します。 私の時代にはそのようなものはほぼなく、いわゆる「鍵っ子」としてランドセルなどに自宅の鍵を取り付け、それで自宅の鍵を開けて留守番をしていました。(その鍵をしょっちゅう忘れていた私なのですから、やはり発達障がいが存在したのだと自覚するしかありません。(^-^;) そういうことや最近は治安に関しても含め「子ども一人が自宅で過ごすのは望ましくない」ということでこうしたサービスが普及しました。 ただし、こちらも認可保育所などと同様、入所などの選抜は大変厳しく、学童保育の先生方と利用児との相性(マッチング)が上手くいかない場合もあります。【児童館(公立・私立)】「児童福祉法」に基づいた居場所サービスです。 年齢などを問わず、「遊び」を通した子育て支援施設です。 「数ある児童福祉施設の中で、唯一、子どもの意志で自由に利用することができる施設であり、課題の早期発見や発生予防的な福祉機能も果たしています」 内容や規模は施設によってまちまちですが、共通点としては「'遊び'を通して仲間づくりや自主性を身に着ける」ことができます。 ただし、障がいなど「個別の事情」への配慮などが難しいところも多く、他のサービスとの'連携'なども必要になります。【放課後等デイサービス】「児童福祉法」に基づいたサービスです。  主に障がいのある学童期
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新しい人生の幕開け…36

「学歴」…。私は行きたくなくて行かなかったわけではない。けれど、それは相手の会社には全く関係のないこと。それに同情してほしいとも思わなかったが、こんなにも「学歴」に関して言われることがなかった。私の中で「学歴」はコンプレックスになっていった…。何もできない資格もない…。当然、仕事をしないと「保育園」に入園できない、という負のループだった。息子は「育児」という名目で通園できているが、それも1年くらいしたらもう通じないだろう…。息子だけの問題ではない。働かないと生活ができない…。どうしよう…。そうして、下の子が1歳になろうとした時、前職の保険屋さんが訪問にきた。「どうしてる~」と。その時の私には輝いて見えた…。生き生き仕事してるな~と…。玄関先で世間話を少ししていた。その元上司は「そういえば仕事なにしてるんだっけ」と言ってきた。私は、ことの経緯を説明して、今仕事がない状況なことと、やっぱり子供が保育園に入れられないことなど、色々話した。そうすると…「あら!じゃあ丁度よかった!ウチにまたおいでよ」といってくれたのだ!!私には願ってもいない話だった。出戻りになるし、ちょっと行きづらいな、とも思ったが、そんな悠長なことは言っていられない。「え!?いいんですか?」と口から出てしまった。と、なぜかトントン拍子に仕事が決まってしまった。私は嬉しくなった。よし!またこれで頑張れる!しかも子供がいても、気にしないで子供のために時間も作れるし、土日休みだし!!学歴も関係ないならもってこいだ!私は早速旦那に連絡をして、報告した。そうすると旦那は「また保険屋やるの?仕事、そんなに焦らなくてもいいんじゃな
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新しい人生の幕開け…35

妊娠してからはもちろん、「うつ病」の薬は飲んでいない。そもそも「通院」すらまともにしていない。もちろん、「自分がうつ病になるわけがない」とも思っていたけど、だれも親身にはなってはくれなかったし、そこまでまだ「うつ病」が認知されていなかった。日々過ごしていると「病院に行く」というのは子供主体になってしまい、自分はギリギリまで「病院」というところにはいかなかった。旦那が帰ってきて、名前を決めよう、という話になった。もう時間がない。色んな案が出たが、女の子なのに?という感じの名前になった…。私はあまり賛成ではなかったが、何時間も話しても埒が明かなかった…。お互い離れていても子供の名前の漢字や画数や意味などは考えていると思っていた。けれど旦那は「もうこれでいいんじゃない?」なんてことを言い出す始末。「名前は一生ものなんだよ!」と言っても…「俺の名前も適当だった」だの「爺さんが付けた」だの全くお門違いな答えしか返ってこなかった。夕方までには出さないと、明日にはまた旦那が仕事にいってしまう…。私が出してもいいけど、出生届けくらいは旦那に出してほしかった。出産したことがある人ならわかるかもしれないが、出産したからといって自動的になんでも手続きができるわけではない。健康保険の加入の手続きやたくさんの書類などがあった。今はどうかはわからないが…。そして、出産一時金…。これが問題となった。これは、もちろん私は旦那の扶養になっていたから旦那の社会保険から支給されることになる。その当時の金額は35万円くらいだったと思う。そのお金を…「少し貸してほしい」と言い出したのだ。はい??また始まった。このパター
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新しい人生の幕開け…34

そういえば、あの後、お義母さんたちは本当に「歩いて」家に帰ったんだろうか。ふと思い出して、旦那に電話した。旦那はすぐ出た。まだトラックを走らせているようだった。「おう!どうした?」という相変わらずの応答だったが、事情を説明した。そしたら「なんだってな…。役に立たない奴らだな…。俺になんにも連絡きてないから、どうせ親父に迎えに来てもらったんだろ、どこかで」という返事だった。「悪いけど、私もそれどころじゃなかったし、止めけどどうにもならなかったし…。あとであなたから連絡してみて。なにかあったら大変だし。」と。「わかった」と言ってくれたが…「それと…赤ちゃんの名前、もうそろそろ決めなきゃいけないんだけど…いつ帰ってくる?」と聞くと「おう!そうだな!明日帰る予定だ!その時決めて、市役所に出しに行かなきゃだろ?」というので「うん、そうだよ。子供たちも名前ないと呼びにくいし、この子もかわいそうだよ」と…。そうすると旦那は「俺も考えてはいるから帰ったら二人で決めよう」ということになった。今までどの子も「私が付けた」とか「二人で話し合って決めた名前」という子がいない。裁判で取られた息子も元旦那の親と義姉さん。娘もそう…。手元にいる息子は、憎いあの母親。そう、勝手に名前を決められて出生届を出された。私の入院中に…。だから、せめて「二人」で決めたかった。全部自分の思い通りにとは言わない。二人で…。そして、ようやく寝ることにした。3人で寝ていると子供の成長がすごくわかる。体が大きくなったな…寝相が悪くなったな(笑)…そうしていると、赤ちゃんがミルクの時間で泣き始めた。最初は子供たち起きるかな?と心配
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新しい人生の幕開け…33

まずは赤ちゃんが寝ていてくれている間、そして子供たちが帰ってくる前に家の掃除からだった。…産後はゆっくりしたかった…。そういう約束だったよね…。自分の気持ちがぐちゃぐちゃだった。けれど協力してくれる人が一人でもいてくれて心強かった。二人で掃除をするとすぐに片付いた。やれやれ…。私はRさんにお礼をいい、コーヒーを入れた。Rさんは、旦那の両親に対する文句は止まらなかった。それはそうだ。それは私も同感だったけど、赤ちゃんにも、子供にも罪はない。そう、全部私が悪いのだ。Rさんとは色んな話をしていたけど「お前、退院してすぐなんだから少し寝ろ、学校は帰ってくるだろうけど保育園は私が行くから!保育園に電話しておいて!まだ時間あるけど、軽くご飯も作っていくから、少し寝な!」と言ってくれた。私は申し訳なさ過ぎて、寝れるわけもないが、少し横になった。そうしているうちに赤ちゃんが起きた。ミルクを作ったり、オムツを変えたりしたがなかなか寝てくれない…。けれど赤ちゃんの顔を見ると本当に癒される。この頃、まだ名前は決まっていなかった。普通は入院している間や、産まれる前に夫婦で決めたりするものだろうけど、なにせ、旦那もいない。電話やなにかで決められるようなものではない。旦那は明日帰ってくるとのことだった。本当に、私は旦那に愛されているのだろうか…。愛されているつもりになったんだろうかそれとも勘違いなのかそもそも「愛されるってどういうことなんだろう」以前からも感じていたことが、またふと頭をよぎる。けれど、子連れの私と結婚するなんて愛情がないとできないよね…同情だけで結婚とはならないよね…。私は必死に考えた。そ
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新しい人生の幕開け…32

一人病室にいると、旦那が看護師さんと一緒に入ってきた。「おう!やっと帰ってきたぞ!」と呑気な言葉と共に入ってきた。イラっとした。それでも病院では怒るわけにもいかず…。一人で悶々としていた。そして、お義母さんたちのことを言うと、「それは大丈夫だから!」と言い放つ…。「そういってこの間だって帰ろうとしたじゃん」というと「ちゃんと言って聞かせたから!」と…。もう言い合いにもなりなくなくて、私からはもう何も言わなかったが、旦那が帰ってきたならもう子供たちも大丈夫かな、とも思った。そして、3日目。旦那に電話すると…なんと!仕事に行っている!「え?入院している間は子供たち見てくれるんじゃなかったの?」というと「いつまでも休めないよ…」と…それはそうだけど…自分の親がどれだけのことをしたかわからないのか…まだ小さい子供にご飯も食べされられないのに…。そうしてまた、毎日子供たちに電話をした。ちゃんと学校に行けたか、保育園に行けたか、迎えはきたか、ご飯は食べれているか、お風呂は入ったか…。学校でなにがあったか、保育園でどんなことをしたか…。そんな電話の途中でさえ、お義母さんが「毎日電話うるさい!」などと聞こえてくる…。腸が煮えくりそうなのを必死で我慢した。子供たちには「もうすぐで赤ちゃんと一緒に帰るからね!」と言って安心させることしかできなかった。Rさんはたまに病院に来てくれた。赤ちゃんと私と話をしに…。Rさんは「あの親じゃだめだな…、私が子供たちを見ようと思ったけど、『あんた誰』って言われたし」と…。なんてことを言うんだろう。本当に「非常識」。そんな感じでとうとう「退院」の日がやってきた!私は
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新しい人生の幕開け…31

夕方になり、Rさんが息子を保育園まで迎えにいってくれた。Rさんがいなかったらどうなっていただろう…。本当に感謝と申し訳なさしかなかった。最初は反対していたRさんだけど、いざとなるとこうやって協力してくれる…。けれど甘えてばかりはいられない。5日間、どうすればいいのか…。それだけが心配だった。Rさんには「今旦那の親がこっちに向かっているらしいから」ということは伝えたが、病院にくる気配はなかった。そして、18時頃になりRさんに電話をしてみた。そうすると「家に旦那の親がいたから子供たちそのまま置いてきたよ、けど大丈夫かな」と心配の様子だった。明日になれば旦那も帰ってくるだろうし…。と思ったが…。私は家に電話を掛けてみることにした、そうすると娘がでた「おばあちゃんたち来てる?大丈夫?」と聞いたら「来てるよ!けど私たちなに食べるかわかんないってゆってまだなにもご飯食べてない、お腹空いた~」と…。なんだって??どういうことだ?どうする気でいるんだ?もうパニックだった。娘には「もうちょっとでお母さん退院するから待っててね、ご飯はあると思うから、卵掛けご飯でいいから食べてね!弟にもあげてね!」といい、切りたくない電話を一度切った。旦那に今度は電話をした。「どうなってんの?子供らお腹空かせてるけどなんにもご飯作れないって…、私は5日間退院できないし、どうするつもりでいるの?」と本当に腸が煮えくりかえるような思いで旦那に言った。「ごめん~だってしょうがないだろ!俺だって仕事だし、頼める人いないんだから!」と…。それを言われれば私は何も言えない。自分にまともな親がいたら、こんなことにはなっていないだ
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新しい人生の幕開け…29

療育センターに着いた。色々日頃の生活などを聞かれたりして、その日は終わった。次の診察の日に「診断テスト」というものをするらしい。息子は終始、何事もなく居たためあまり先生からハッキリとわかるようなことはなかったからかもしれないが「男の子は女の子より発育が遅いですからね」などと言われてしまった…。お子さんをお持ちの方なら一度は経験があると思うが、家では熱を出してグッタリしていたのに「病院に着くと元気になる」、あの現象ですね。片道1時間もかけて診察にきたのに診察はたった5分くらいだった。子供には丁寧かと思っていたが…。やっと家に帰ってきたころにはもう夕飯の時間だった。その頃旦那はまた「無職」になっていたが、さすがにこの数か月でいろんな体験をしたのだと思う。高校卒業してから、少し地元の会社にいたようだが、「大型免許」を取ってからずっと「長距離運転手」だったらしいので、今まで見下していた仕事にも何も言わなくなった。だからといって「家事」などができる人ではないため、ひたすらハローワーク通いをしていた。そんなある日、「やっぱり俺、長距離に戻るわ、悪いけど」と言った。まぁ…いろんな経験もしたし、これから子供が産まれるしな…。私も仕事できないし…。と思って「うん、わかったよ」と言った。そして私が続けて「この子が産まれるときには立ち会えるように会社に話してちょうだいね、それだけ」と言った。私は、もう旦那もいるのにお産の時「一人でいる」というのがとても怖いというか寂しかった…だからそれだけはしてほしかった。旦那は「それはする!出産が近くなったら地元周りさせてもらうようにする」と言ってくれた。本当にそ
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新しい人生の幕開け…28

ドタバタだった引っ越しも終わり、前の不動産屋とも前のように揉めることもなく終わった。子供たちは新しい家の近くに早々に友達を見つけたらしい。その間、息子の検診があった。確か5歳児検診だったと思う。子供たちには日頃から「本の読み聞かせ」はしていた。娘は黙って聞きながら眠りにつくが、息子は、例えば昔話のお決まりの「昔、昔あるところに…」と始まりますよね。そうすると「昔っていつも昔??!あるところってどこ??」など質問攻めに合うこと多々ありました(笑)けれどそれは、「興味」の一つだと思っていたからそんなに深く考えたことはなかった。検診の時、保健婦さんと息子と私とで話や色々なことをしていると、保健婦さんが「息子君、この色な~に?」と問いかけた。そうすると息子は「あお!」…明らかに「赤」だった。そして次の質問「この色は?」「きいろ!」…「青」だった。テーマは変わって男の子なら興味があるであろう「車」のことについて聞き始めた「これは?」と指を指す保健婦…「パトカー!」…救急車だ…。あれ?こんなに私教えてこなかったっけ…。と疑問を抱いた。子供むけの本も毎月買っていた。そこには救急車やパトカーなど散々書いていたし見せていたけど…確かに興味がなかったかもしれない…。保健婦さんは…少し考えた様子で「お母さん…息子さん…もしかしたら『発達障害』かもしれません…。専門医に一度診察してもらったほうがいいかもしれません」と言われた。初めて聞く言葉だった。「私は、そうですか…、どこにいけばいいですか?」と聞いた。「秋田市にいかないといけませんが、予約がないと受診できないのでコチラで予約とっても大丈夫ですか」と
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新しい人生の幕開け…21

私は勇気を出して「トイレ」にいった。判定は…。「陽性」…。え…。今仕事始めたばかりなのに、まだ旦那は子供たちとそんなに多くの時間を過ごしてないのに…。どうしよう…。パニックになった。その話はすぐにRさんに報告した。仕事のこともあるからだ。Rさんは「やっぱり…。おかしいと思ったよ。で、堕すんでしょ?」と当然のように聞いてきた。え?なんで他人からこんなこと言われなきゃいけないんだろう。やっぱりRさんは苦手だ。「ちょっと考えるし、旦那にも相談しなきゃだから」と濁した。「仕事は出てもらうからね」といい、Rさんは電話を切った。溜息しかでなかった。嬉しいことだけど、今じゃないような気がする。けれど私ももう28歳だ。多分これが最後の妊娠となるだろう。まずは旦那に相談だ!夜になり、子供たちが寝静まってから私は旦那に切り出した。「あのね…最近体調が悪かったんだけど…調べたらね、妊娠してた」と。旦那は「まじ?ホント?おう!そうか!やった~!」と喜んでいたが「ん、でもね、ちょっと考えてる…今の子供たちだけでも大変でしょ、経済的にも色々…それに私、息子の産後の時も無理してしまってるから体力的にも自信ないんだよね」と気持ちそのままを伝えた。「え?それっておろすってこと?1人くらい増えたって変わらないだろ!せっかくの命なのに…それに俺にとっては初めての子だし…」と。確かにそうだ。今の子供たちは旦那の子供ではない、だからこそ、もっと今の子供たちと触れ合ってほしかったし、「自分の子供はかわいい」みたいに産まれたら、今の子供たちへの態度が変わってしまうんじゃないか、という不安もあった。それも伝えた。けれど旦那は
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新しい人生の幕開け…20

来年、上の娘が小学校に入学する。そんな時、私の急な体調不良…それでも仕事に行っていた。なんだろう…。熱もないしな…。私は幼少期から熱を出すということがあまりなかった。祖母がいうには「うち熱」といって、体温計には出にくい熱を出すそうだ。それでふと、思い出した。「あ、私、そういえば何年か前に『うつ病』って言われたんだ…、そのせいかもしれない」と、私は近くの精神科を受診した。診断された病院はもう遠い。しかもその時は「私がなるわけない」と思ったり、当時彼だった旦那もそんなに気にも留めていなかったから忘れていた。現に、「うつ病」と言われる症状はでていなかったと思う。母親のことや元旦那のこと、色んなことでたまに思い出して動悸がすることはあったけど、それが「うつ病」の症状だとは思いもしなかった。病院に行ったが、精神科は物々しい雰囲気で、病院内は薄暗く居心地がいいとはとても言えなかった。先生に前にうつ病と診断されたことなどを伝えたが、先生は私の顔をみるなり「今までの育成環境」を聞いてきた。はっきりいって、「げっ!」と思ったが、そのまま簡単に伝えた。黙って先生は聞いていた。そして「よく生きてこれましたね」と…。私は「はい?」とキョトンとしてしまった。どういうことだろう…。診察が終わり、薬を出されたが「眠くなるかもしれない」と言われ眠くなられたら…仕事はおろか、子供のことができない。そう思い、薬はその時は飲まなかったと記憶している。けれど、目まいと吐き気が辛くなり、休みの前の日だけ飲んでみた。気持ち悪さや目まいは治まったように感じたが、眠気がすごかった…。車なんて運転できない、と思うほどだった。怖
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新しい人生の幕開け…19

旦那も新しい職場で慣れてきた1か月くらい経ったであろうか。旦那も私も「新しい仕事」に対して、一生懸命だったと思う。時間も休みもバラバラになってしまったが、みんなが顔を合わせる時間は増えたと思う。もちろん会話も増えた。会話が増えると共に「喧嘩」も増えてきたと思う。そんな大きい喧嘩ではなかったと思う。喧嘩の原因は、やっぱり「金銭問題」だった。それまでは旦那が35万前後、私も同じくらいの収入があった。二人で65万以上の収入があったわけだが、旦那も新人というのもあってか、旦那の収入は15万ほど…私はパートだから6万ほどに落ちていた。それでも保育料は二人で月5万、家賃5万、車のローン5万、公共料金3万、携帯料金二台3万(昔は高かったです)。もう無理ですね…。まずは「保育料」を今の収入を市役所に提示して保育料を下げてもらったりした。そんな話もしているのに旦那は、あっけらかんとしている。ちょっと話そうもんなら「無言」を貫いていた。貯金もそんなにない…。前回の無職の時などで使ってしまっていた。失業期間にも補填してきた。旦那のお義父さんにもお金を借りたりした。……もうだめか…。そう思ったが、旦那に相談してもどうにもならない。お金の問題だけは誰にも相談できない。どうしよう…。一人で悩む日々…それでも日常は止まることなくやってくる。子供たちにもたべさせなきゃいけない保育園に行くには車も使わなければいけない。もうガソリンさえままならないくらいに貧困状態になっていた。そこでハッと気づいた。旦那は自分のファミリーカーで仕事に行っている。それを私の「軽自動車」で通勤してくれないか、と提案した。ガソリンだって
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新しい人生の幕開け…18

Rさんが働くところでバイトをすることになった。時間は朝8時~14時・10時~18時のシフト制だった。朝の8時はちょっとキツイかなと思ったが保育園も7時から開園していたので、その辺は子供たちを少し早く保育園に連れていくことにした。ということは…私の家事をする時間を早めなくてはいけなかったが、それもどうにか時間の逆算をして、なんとかしようと思っていた。時間が早い分、早く終われるから、その時間少し休もうか…などと考えていた。そこのフードコートでは、「ラーメン・パスタ・アイス・クレープ」などを提供していた。全ての工程を、そこの人達でやらなければいけないような感じだった。覚えることがたくさんあるなぁ…。体力も相当必要だった。お昼のピーク時にはたくさんのお客さんがきた。もちろん初日の私にはサポート的なことしかできなかったが、それでも終わったころには、息もできないくらい疲れていた。その職場では、若い人も年配の人も混じっているせいか、あまり「もめ事」のようなものか感じられなかったが、油断はできない。数週間たって、やっと仕事にも慣れてきた。土曜日は保育園にお願いして日曜日だけ、旦那にお願いしていた。その日曜日…、事件は起きた。私がいつも通り、旦那に子供を預けて仕事に行った、お昼のピークになり、忙しくなった。そんな時、旦那が血相を変えて私が働くフードコートに駆け込んできた!!「大変だ!息子がいなくなった!!」とフードコートの目の前で叫んだ。私は咄嗟のことで、「え!なになに?どういうこと?」とパニックになったが、すかさずRさんが「他のお客さんに迷惑だから、ちょっと待って」と促した。待ってもいられなか
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ブログを読んでくださる皆様へ…

日頃、私のブログを読んでくださりありがとうございます。今までも何度もSNS等でお知らせはしてきましたが、私のブログは「ノンフィクション」です。当時の秋田県で本当に私が経験したことだけを書いています。作ったり、盛り上げようなどとは一切しておりません。むしろ「忘れている」」ことの方が多いかもしれません(笑)誤字や脱字、拙い言葉で伝わりにくい部分もあるかと思います。それでも読んでくださる方いらっしゃるおかげ様でブログを書くことができています(*^^*)最近ではSNS等からメッセージを頂くことも多く、本当に嬉しいです(*^^*)返信させていただくのですが、「え!?返信くれるの?」なんて言ってくださる方もしばしば(笑)私はそんなに有名人でもないし、本当にそこら辺にいる「母」であり「カウンセラー」なので、頂いたDMなどに対しては返信させていただいております(*^^*)ブログ自体の年齢から言うと、まだまだ色んなことがありました。ブログを書くことで、当時に自分を振り返ることもたくさんありますが、その当時は「それが精一杯の自分だったんだな」と客観的に見れている自分もいます。ちなみにフラッシュバックような症状は一切ありませんのでご安心ください☺私が「カウンセラー」になるまで、たくさんの人と経験、そして別れを繰り返してきました。それはこれからも続くと思いますが、その分、みなさんに「寄り添えるカウンセラーでありたい、どこにも属さないクライアント様最優先でいたい」という気持ちは全くブレることはありません。これからもどうぞこのブログとみなさん一人ひとりと「今」を生きていきたいと思いますので、よろしくお願い
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新しい人生の幕開け…17

Rさんから突然の電話…。私が会社を辞めたことを誰かに聞いたのだろうか、ちょっとめんどくさいな、と思いながら電話に出た。「久しぶり~!何してた?」と、しらばっくれたような電話だった。「特になにもしてないよ」と当たりさわりのない返事をした。そしたら案の定…「保険屋、辞めたんだって?仕事探してるの?」と言ってきた。「あ~話早いね(笑)」などと話をしていたが、Rさんは思わぬことを私に言ってきた。「いや~実はさ、私今、あの近くのスーパーのフードコートで働いているんだけど、人手が足りないのよね」と。「あ~そうなんだ~」と聞き流していたら「どうせあんた暇でしょ!私ここのフードコートの責任者になっているから面接は私だけど求人票欲しいから早く取ってきて~」と。「ありがたいけど、土日休みじゃないでしょ?」というと「土日は高校生のバイトもいるし、年配の人もいるから完全に土日休みとはいかないけどなるべく休んでいいから」と…。「うん、ありがとう、わかった、旦那に相談してみるね」というとすかさず「旦那なんかアテになんないんだし、自分で決めればいいでしょ」と言われてしまった。そうだけど…一応、相談しないと、という耳は一切聞かず、「今もう面接来てるしあんたのシフトのところ空けておくからハローワーク行ってきて!」といい、電話は切れてしまった。確かにいい話ではある。そこのスーパーはその当時、できたばかりでいろんなフードコートが入っていた。家からも近い…。選択肢などなかった。自分で探しても仕事などなかった。子供のこともわかってくれる人が責任者なら、それはそれでありがたい。Rさんは最近音沙汰なかったと思ったら、そこで
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新しい人生の幕開け…16

旦那の次の仕事場はトラックにも乗りながら集団で作業をするというものだったが、順調に進んでいるようだった。そんな中、私の会社で不穏な空気が流れていた。それは、私より少し前に入社した女の子だったけど年は私よりも若くて可愛らしい女の子だった。名前はYさんと呼ぶことにします。数か月前にYさんから相談を持ち掛けられていた。それは…会社の営業部長の「セクハラとストーカー行為」だというのだ。最初、聞いただけでもゾッとしたけど、真実は分からなかった…。Yさんの相談内容は「しつこく電話がくる、二人で食事に行こう、服装のことに関して『もっと胸元を開けて』、仕事中にドライブに行こう」などなど、本当に彼女は怖くなったりしていたようだった。私や他の人にはもちろん同じことはしてないだろうが、私もその相談を受けてから上司には気を付けてみていた。うん、確かに面談の時間が長すぎる。そして私と出先でYさんと相談を受けている間にも頻繁に電話が鳴るようになっていた。電話に出なければ出るまで電話が鳴っている、という状況を目の当たりにした。私にできることはないか、とYさんに言ったけど「これはどうにもできないし、私も辞めれればいいんだけど…そうもいかなくて…」と諦め加減だった。Yさんの家庭事情も複雑だったので、なにも言い返せなかった。もちろん、そんな話は誰にでもできるわけがないと思っていたし、Yさんも私にしか相談していない、ということだったから私も誰にも相談できなかった。が、しかし…。ある朝、私が出社すると営業部長が私を見た途端、呼び出した。なんだろう、と思い部長の席の前に座った。「おはようございます…」と挨拶する間も与え
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新しい人生の幕開け…15

やっとの思いで家に帰ったときはもう日付は過ぎていた。私は子供たちを部屋に運び布団へと寝せた。そしてI子さんも、なにも言わずに寝た。旦那はまだ泣いている。「明日どうしよう…」と…。そんなことまで私が指示しないといけないの?とほとほと呆れてしまった。そして「明日も早いから」と言い残して私の寝た。次の日の朝、私はいつも通り家の掃除をし朝ごはんを作っているとI子さんが起きてきた。「昨日はお疲れさん」と慰めの言葉をくれた。こっちこそ、本当は楽しませてあげたかったのに…と申し訳ない気持ちだった。子供たちを保育園に送って帰ってくるとまだ旦那は家にいた。もう出勤の時間だ。旦那はガクッと肩を落とし、「会社になんて言おう…」とブツブツ言っていた。それを見たI子さんは「こら!男だったらしっかりしなさい!!」と叱ってくれたが本人はボーッとしているだけだった。そうしているうちに会社から電話がきたようだ。そりゃそうだよな…出張先からいなくなったんだもんな…。旦那はビクっとしながらも電話にでた。色々話していたようだが、ただ「はいはい…」としか答えない旦那。そして何を話したのか「もう自分はできません…辞めさせてください」と言っていた。電話を切った後、「なんていってた?」と聞くと「自分のものを取りにいくのと退職届だしに行ったりしなきゃいけない…会社行くのいやだなぁ…」と子供のようなことを言っていた。私は「事務処理とかもあるからいかなきゃだよ」とチクリと言った。私は多分、その頃から旦那に対しても色々な考え方が変わったように思う。旦那が渋々会社に行くのを見届けてから、私はI子さんを家に送って行った。I子さんは帰りの
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新しい人生の幕開け…13

旦那は翌日ハローワークに行って面接の日どりを決めてきたようだ。旦那は求人票を私に見せてきた。……。「職種/営業・外壁のリフォームのアポイントのルート営業」「給与/35万以上可」私はバカにされている気分だったから「やれるやらやれば?」と言った。旦那は結構浮かれている感じだった。そして、面接当日、旦那はいつもは作業着だったのだが面接にはスーツで行った。ネクタイの結び方すらおぼつかない手つきで…。数時間経ってから旦那が帰ってきた。「俺、あんな会社の面接は初めてだ!みんなスーツ着てるし現場にも車で送迎だって!」と息巻いていた。結果は数日後にきた。「採用」旦那はすごく喜んでいた。今までやったことのない職種なことと給料、そして「ラク」な仕事だと思っているし、スーツを着る仕事など初めてらしい。ウキウキしていた。仕事初日…どんよりした顔で帰ってきた。まず子供たちのことをしてから旦那の話を聞くことにした。私は二階から降りて旦那のところにいった。旦那は難しい顔をして、紙を見ていた。なになに??「ロープレしてこいって言われた…。」「あ~そうなのね!営業なら普通だからね」とチクリと言ってやった。そして旦那が見ていた紙を見ると…。A4サイズにちょこっとだけ書かれた営業用の挨拶やアポイントを取るための言葉が並べられていた。「じゃあ、それ読んでみて」というと、ぎこちない言葉で話し始めた。そして「会社の人、これ暗記してこいっていうんだよ、いくら見ても覚えれない!」とダダをこね始めた。「え、これくらい普通だし逆になんで覚えれないの?少ないくらいだけど」と言った。そして何度かロープレをしたがとてもじゃないけど、営
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新しい人生の幕開け…12

仕事を辞めようと思う…。それは突然のことだった。「え?なんで?」と聞くと、『どうやら給料が足りない(長距離の運転手の相場がわからないが以前よりは下がっていた)し、こんなに寝ないで走って帰ることもできないし、なにより社長にイライラしてきた。』ということらしい…。確かに最近の電話は愚痴が多くなってきてはいた。それは感じていたが…。「自分には運転手しか向いていない」とも言っていた。たまに従業員同士のいざこざは聞いていたが、聞いていれば特に旦那は「板挟み」状態のことも多かった。私は反対も賛成もできず「次はどこの会社とかもう決めているの?」と聞いてみた。どの業界もそうかもしれないが、「情報網」みたいなものは回っているらしく今までも色んなトラック会社の名前を聞いていた。すると旦那は「いや、毎日家に帰れる仕事がしたい」という。私はビックリしたが、嬉しかった。それが現実になるかどうかは別として…。旦那はそれから相当悩んだと思う。今仕事を辞めたら…家を買うということも遠くなる。けれど、それは言えなかった。私の仕事は順調だったが、旦那の借金を返済したため「貯金」はほぼない状態だった。もう半年くらいで娘が小学校に入学する時期に、タイミングが悪い…。もう旦那の両親に期待はできないし、そもそも期待してはいなかったから世間的にいう「ランドセルはおじいちゃん、おばあちゃんから買ってもらう」ということはできなかった。子連れの再婚がこんなにも辛いものだなんて…。私の親とは絶対つながりを持ちたくないから何も言えないけど。子供たちに「おじいちゃん、おばあちゃん」という存在を持たせてあげたかったのは自分のエゴかもしれ
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新しい人生の幕開け…11

その日は本当に疲れてしまった。次の日の仕事が休みで本当によかった。その夜は子供たちは「おばあちゃん、おじいちゃんがきた!」や「新しい家ひろ~い!」などと楽しんでいたが、お義母さんは「おばあちゃんじゃない!」と娘に強く否定した。なんなんだろう、この人…。その光景を見た旦那がやっと「うるさい!ババアは黙ってろ!」と言った。怒鳴ってくれたことで私の怒りは少し和らいだが、それを言われた娘は悲しかったと思う。絶対にこの親たちとは仲良くなれない、と確信した。翌朝、私はいつも通り5時に起きて掃除をしていた。私はいつも起きてから家の掃除をする。これは多分、元旦那の姑から「朝飯前の仕事をしろ」というのが染みついているせいだと思う。その習慣は今でも変わってはいない。そして洗濯を回しながら朝ごはんの支度をしていた。もちろん、舅姑の分も。そうしているうちに子供たちが起きてきた。ご飯を食べ、テレビを見ていると、舅が先に起きてきた。舅は割と子供たちと仲良くしてくれていた。そしてもう9時になろうとしているころにノコノコと姑が起きてきた…。ありえない…。「あら~朝早いのね~、お腹すいちゃった!ご飯食べる!」とあたかも当然のように言ってきた。「そこにできてます」というと「あら!あなたたちもう食べたの?」とシレッとしていた。旦那の話には聞いていた。お義母さんが料理ができないこと、自分のお母さんの味(おふくろの味)というものが分からないこと。全部おばあちゃんがしてくれたことなど…。聞いてはいたが、ここまでとは…。子供たちは、近所の子供たちが遊びに来てくれたので外に遊びに行った。旦那は車庫の中を片付けたりしていた。旦
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新しい人生の幕開け…10

新婚、のような初々しさはなく、ただ淡々と時間だけが過ぎていった。旦那の借金を全額返済し、数年したら家を買う。その一心だった。そして、旦那が帰ってきた時にお世話になっている不動産屋さんに一緒に向かった。そして、不動産の人は何も知らないのでしかたなかったが、旦那は乗り気で引っ越しの話や家賃の話、色々していた。もう話は完全にあの戸建てに引っ越す話になっていた。そこで引っ越しの日どりなどの話が進んでいた。私はわざと「え、引っ越しって私一人でやるの?」というと、旦那は「実家からも手伝いに来てもらうし俺もいるようにする」と言われたので、反対する理由もなかった。引っ越し当日。引っ越しといっても、そもそもあまり「物」がなかったせいもあって案外スムーズに行ったが、来ると言っていた「旦那の両親」が来ていなかった。遠いせいもあるだろうと思ってあまり気にしてはいなかったが、引っ越し先も伝えなければならないのでは?とも思った。なんでこの人(旦那)はこんなにのんびりしているんだろう…。引っ越しは旦那と不動産の人が手伝ってくれた。トラックも出してくれた。そのおかげで1往復と少しで荷物の搬入は終わった。天気も良くて引っ越し日和だった。その物件にあった物などは使わないものは不動産で持って行っていく、というので差し当たり見た感じで使えなさそうなものは持って行ってもらった。さて、やりますか!子供たちが帰ってくるまでにでかさないと大変だ!と、ふと気づくとまだ旦那の両親はこない。旦那に聞いてみた。「あれ、お義父さんたちは?」と、それで気づいたのか、それともわざとなのかわからないが、「あれ?そういえばこないな、電話してみ
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新しい人生の幕開け…9

入籍を済ませ、新しい苗字になった私と子供たち彼のことは、これからは「旦那」とココでは呼びます。旦那の実家は離れているため、あまり顔を合わせることがなかった分、気が楽だった。そして、同じ市にいる「母親」ともすれ違うことすらなかった。バレていないのだろうか…。不安ではあったが、それは考えないことにした。そして、たぶんこのブログを読んでくださっている皆さんは「あれ?借金は?」と思っている人もいるかと思います。あれほど毎日借金取りの催促や勧告の手紙やハガキが来ていたのが、女性相談所にいってからパタリと来なくなっていた。そして私もでこかでは気にはしていたものの、触れずにいた。そうして半年の月日が流れた。ある日、このアパートを管理している不動産屋さんから電話があったという電話が旦那からされた。家賃の滞納はしていない。騒音でもなさそう…。けど「話がしたい」ということで、旦那の時間の取れる日に不動産屋さんに行くことになった。アパートのお隣さんは学生さんの一人暮らしで、とても愛想のいい女の子だったし…、なんだろう…そして彼が帰ってきたとき、不動産屋さんに行くことにした。その話とは「家族4人であのアパートは狭いと思うんだよね、これからお子さんも大きくなるし…一軒家の貸家があるから、最初は貸家として貸してよかったらリフォームするとかしてそのまま家を買うのはどうかな?」という話だった。彼は「うんうん!」と乗り気だった。そしてその流れでその貸家を見せてもらえることになった。その家は住宅街にあり、買い物も学校も近いとても立地のいい物件だった。そして中を見ると少し前の人の物は残っていたがそれは好きに使ってい
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新しい人生の幕開け…7

家に着いた。彼は、そそくさとなにか準備し始めた。「これからどこかに行くの?」と聞くと「仕事」と答えた。え?婚姻届け一緒に出しに行ってくれるんじゃないの?という言葉と気持ちを飲み込んだ。「明日出発かと思ったよ…気をつけてね」「うん」とだけいい、彼はさっと仕事に行ってしまった。私だって…一応○○の日記念日だから~とか言ってみたかった。他のカップルと同じように…。それにいつ出してとか、○○日出してとか全く婚姻届けを出す日すら何も言われていないし相談もなかった。これをどうしたらいいんだろう。彼に電話して聞いてみることにした。「一緒に出しに行こう」…その言葉を期待して。彼はすぐに電話に出た。まだ近くにいる時間だ。「あのさ、婚姻届け…どうすればいい?」そう聞くのが精一杯だった。「あ、出してくればよかったなー…。まだ日にち書いてないもんな。俺もまたいつ帰れるかわからないしな…。」「………」無言になってしまった。私が勝手に出すようなものではない。いくら証人が揃っても…。彼の気持ちがわからなくなった。なんのために同僚までお願いして証人を書いてもらったのか。無言でいる私に彼は言った「お前、都合のいい時出しておいて!で、出したら教えて」と…。一番聞きたくない言葉だった。「私が結婚記念日になる日を一人で決めるの?」とちょっと突っ込んで聞いた。「しかたないだろ、俺は仕事休めないし積み下ろしの時間も決まってる。俺が帰ってくる日に役所が開いてるとも限らないし、帰ってからは休みたいし…長距離運転手の嫁はそういうもんだ」と返ってきた。私の知っている限りでは長距離の旦那を持つ人はいなかったからわからなかった。知っ
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新しい人生の幕開け…6

彼に、いつ言おうか迷っていた。電話でする話ではない。私の感情はバラバラだった。ここまで来たのに…。彼も凄く頑張ってくれたのに…。同情だけでは絶対できないことまでしてくれたのに…。やっぱり相手も自分も子供たちも「不幸」にするのはいつも「自分」幸せだった。そんなことを思っていた、その日の夜。彼から電話がきた。私はドキッとした。彼は相変わらず「何してた~?」とノーテンキな話し方をする。私はいつも通りに接することにした。なにせ彼は運転手だ。事故に遭われたら大変だから。普通に日常のことや子供たちの話などをしていると珍しく彼が「そういえば婚姻届けのことなんだけどー」と切り出してきた。私はまたもや「ドキッ」とした。触れないで置こうと思っていたからだ。私は「うん」としか答えられず黙ってしまったが、彼は続けざまにこういった。「俺の運転手の仲間に証人になってくれるって人がいてさ!別にだれでもいいんだろ?親族じゃなくても!」と一気に話された。私は「え?なんで?どういうこと?」と聞き返してしまった。彼は「どういうこともなにも、お前に身内もいないのはわかってるし、今始めたばかりの保険屋で証人になってくれる人いないだろ、だから俺が探しておいた。」というのだ。私は、心底「また迷惑をかけてしまった」と思った。だから私は「ありがとう…けどそれには甘えられないよ。言おうと思ってたけど、入籍諦めようと思ってたんだ…。」と言ってしまった。我慢ができなかった。彼にばかり負担をかけてしまっている自分が惨めで情けなくて、不甲斐なくて迷惑ばかりかけている自分に彼の職場の人まで巻き込むなんて…。それを聞いた彼は「なに言ってんの
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新しい人生の幕開け…5

本当に自分は役に立たない…。両親…いや、片親だけでもいない、ということはどれだけ、孤独で辛くて苦しいものか…。もちろん、自分で全て選んできた。それでもやっぱり頼りたいときもある。かといって私は改めてあの「母親」とつながりを持とうとは思わなかった。これ以上「自分の人生」に関わってほしくなかった。証人だけ、という理由だけでは安易すぎる。それなら「入籍」などいらない。婚姻に関して頼れる人もいない…。それだけの「信頼関係」を築いてこなかった。前のアパートの近くなら、I子さんに頼めたかもしれないが、それもなんとなく遠慮した。そうして数日たったある日、Rさんから電話がきた。まずは、子供たちを引き取ったことは伝えなければならない、それは筋として…。Rさんは苦手だったがそれはRさんのフォローもあったから当然。子供たちを引き取ったことを伝えた。Rさんは喜んでくれたが、なにを察したか「あんた再婚する気じゃないだろうね」と言われた。え?だめなの?一瞬、なんでこの人の言うことを聞かなければならないのか全く理解できなかった。なにか「全否定」された気持ちになった。相変わらずの「マシンガントーク」を聞き流し、ふとした時に「うん、再婚する」といった。これは再婚したら苗字がかわっていずれバレるから今のうちに伝えておこうと思った。それに対しRさんはあまり面識のない彼に対し、相当な文句を私にぶつけた。要は「もう子供も引き取ったんだから、あいつは捨てろ」ということだった。私は確かに彼はぶっきらぼうではあるけど、「親を捨ててでも私たちと一緒にいる」という言葉を信じたかった。Rさんに対し反論をしようものなら倍になって返っ
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新しい人生の幕開け…4

入籍はまだしていなかった。子供たちを引き取るのが最優先だったから。そうしているうちに半年の年月が経っていた…。子供たちもスッカリ保育園や生活に馴れ、私も順調に仕事をしていた。仕事は思ったより順調で、今までは貰ったことがない給料の額になっていたが、私は今までと同じ生活をしていた。そして密かに「貯金」をしていた。子供たちがこれから小学生になるときの「準備費用」として貯めていた。なんでも彼には言えなかった…。かといって信用していないわけではない。どこか「迷惑」だと思っている自分がいた。日々の生活は彼の給料と私の給料で生活していた。それでも月に20万円くらいは貯金できていた。ある日彼が仕事から帰ってきたときに思い切って聞いてみた。「入籍、どうする?いつにする?」と…彼は「あ~、忙しくて忘れてたな…」と…。入籍って忘れるものなのか、とも思ったが言えなかった…。彼は続けてこういった「今度帰ってくるときに入籍するから婚姻届け、もらってきて」と…。私はなんだか腑に落ちなかった…。それは「しょうがない」という感じがしたからだ。疲れているのかもしれないが、私は再婚になるけど彼は初婚。なんだか私だけが「浮かれている」と思ってしまった。元旦那も「プロポーズ」なんかなかったから、ちょっとは期待した。それと共に「フラッシュバック」のような感覚に陥ったが、すぐにその記憶は自分の中で消した。私は彼の言葉に「うん」としか返せなかった。翌日、私は市役所に行き「入籍届」を取りに行った…。本当はこれって二人で取りに来たかったな…。その気持ちを抑え受け取った…。仕事から帰り子供たちにご飯やお風呂、そして寝たのを見計らっ
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第2の人生の幕開け…3

私は翌日、会社に休みをもらい、息子と娘と3人で過ごした。保育園の登園の準備もあったが、何より3人で過ごすのは何年ぶりだろうか…。本当は彼も一緒にとも思ったが、彼が帰ってくるのは週末だ。そう何日も空いてはいないのだが、3人で過ごしたかった。思いっきり甘えてほしかったし、私自身も安心したかった。朝はゆっくり起きて、3人で朝ごはんを食べ、私が家事をしている間、子供たちはテレビを見ていた。たまに娘が息子に「絵本」を読んであげたりもしていた。そうして10時頃だったと思う。近所の公園に3人で遊びに行った。ヨチヨチ歩きではあったが、とても歩くのが好きなようで、ゆっくり…娘も歩幅を合わせて歩いた。そして公園に着くと、二人は待ってました!と言わんばかりに遊具で遊んだ。私は、シートを敷いて準備をした。そして、息子や娘と一緒に遊んだ。さすがにまだ1歳半の息子を一日中、公園で遊ばせるのも、体力的に持たないだろうと、午前中で帰ってきた。帰りは疲れて歩けないかな?と思ったが、全然疲れている様子などなく、ちゃんと歩いて帰ってきた。お昼ご飯を食べて、「昼寝」をさせようと思って食器などを片付けて…ふとリビングをみると…そこには二人で手を繋いで寝てしまっていた。私は「これが姉弟かぁ…すごいなぁ…」と感心しつつも、微笑ましく見ていた。明日から登園させよう。この子たちなら大丈夫…。そう思えた。私は静かに明日の登園の準備をした。そこでふと、息子がお世話になっていた施設の人たちの最後の涙と、プレゼントを思いだした。そうだ、初登園は頂いたトレーナーにしよう!私も明日からは仕事に行かなくちゃ…。二人を引き取ったからってゆっく
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新しい自分へ…21

娘を引き取ってから初めての「登園」。事前に保育園の先生や園長先生からはとても温まる言葉をもらっていて、本当に救われた。「お母さん、よく頑張ってきましたね…、これからはお母さん一人で頑張らないように私たちを頼ってくださいね!」と…。保育園の準備はまだ完璧とまではいかなかったが、先生たちは「少しづつでいいから」と言ってくれていた。登園当日、娘はやや緊張していたようだが、なにか様子が変だ…。娘を保育園に預けて仕事に向かおうとすると、娘は急に「行かないで!」と泣き出したのだ。先生もビックリした様子だったが、「そうか…ここも施設と同じだと思っているのか…。」とすぐに察することができた。だから私は「ちゃんと夕方迎えにくるよ!約束!」といい、指切りをして、まだグズグズ泣いている娘を先生に預け、私は仕事に行った。私は「しばらくは保育園の迎えの時間を早い時間にしよう」と思った。幸い、「保険屋」は時間の自由は効く会社だ。けれど一応、上司にも相談して早めに帰宅させてもらえることになった。心配だけれど、それでも一緒に進んで行くしかない!本当は1週間くらい仕事を休もうか悩んだが、まだ下の息子のこともある…。早めに迎えに行って「本当に迎えに来てもらえる」という安心を持ってもらうのが精一杯だった。その日は15時で会社を出て娘を迎えに行った。保育園に入ると1番に私を見つけて「おかぁさ~ん!」と半分泣きながら走ってきた。「ほら、ちゃんと迎えに来たでしょ(*^^*)」というと娘もホッとした様子で「うん!」とうなずいた。先生に少し様子を聞いたが、みんなの前では泣いたり困らせることはなかったと…。娘ながらに周りに気を
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新しい自分へ…19

娘を引き取る準備はできている。アパートに帰って足りないものの見直しをして、準備万端!彼は帰ってきてもそんなに家にいる時間は少なかったが細かい気遣いをしてくれてた。引き取りの日も一緒に迎えに行ってくれるという話になった。引き取りまで時間はすぐ過ぎた。引き取りの朝、私は今日は娘の好きなものをたくさん食べさせてあげよう!そして、好きなことをさせてあげよう!彼の車で娘を迎えに行った。娘は面会部屋で施設の人と待っていた。娘は走って私に駆けつけてきた!私は「帰ろうね」といい抱きしめた。彼はほんの少ししかない娘の「荷物」を車に積んでくれていた。私は施設の人に挨拶をし、お礼をいい、施設の外観を少し振り返りながら施設の門を閉めた…。娘と手を繋いで…。彼と娘はもう仲良くなっていたから、なんの抵抗もなかった。そして、娘に「なにが食べたい?」と聞くと「お母さんの料理!」と言った…私はファミレスなどを想像していたからビックリしたけど嬉しくなった。「じゃあ、何が食べたい?お母さん作るから!」というと「ポテトサラダと煮物!」と答えた。家に材料がなかったからみんなで買い物に行くことにした。
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新しい自分へ…17

アパートを契約して、さぁ!引っ越しだ!という時に、Rさんから電話がきた。内容はいつもの通り、こちらの様子を伺う電話。引っ越しを内緒にして、もし、なにも知らずに今のアパートに来られたら…。私は不本意ではあるけど、Rさんに引っ越しの日を教えることにした。そしたらRさんはやっぱりノリノリで「引っ越しを手伝う!」といい始めた。やっぱり…。仕方ないから引っ越しの日どりを教えた。そして、その事を彼にも伝えた…。もちろん彼はいい顔はしなかった。ただ「手伝ってくれる」という言葉にうかうか乗ってしまったのである。そうして迎えた引っ越し当日。Rさんは張り切って自分のワンボックスカーに乗ってきた。そして彼の持っていたワンボックスカーと二台で往復したりして引っ越しを終えた。それで必然的にRさんに新居がバレてしまったのである…。地元に戻ってきたけれど、私はすでに仕事も決まっていたし、子供たちの保育園も決まっていた。Rさんとは引っ越し以来会うことが少なくなっていた。あとは息子を引き取ること、と、彼と入籍することだけになった。彼の両親に会うのは気が引けたが、挨拶や礼儀はちゃんとしないといけない。最低でも、あの母親のようにはなりたくなかった。彼は相変わらず「長距離運転手」をしていたが、帰ってくると子供たちと遊んでくれたりしていた。新居は狭いが綺麗なアパートだ。入籍をして落ち着いたら中古住宅でも買うか、などとも話していた。私は「こんなに幸せでいいのだろうか」と不安になるくらい順調だった。こんな「人並み」の幸せですら、今までの生活では考えられなかった。息子は上の娘の保育園が順調に登園出来て娘の気持ちも安定したら、
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新しい自分へ…16

いよいよ新居を決める日が近づいた。それまでに色々内見してみたり、場所などを結構神経質になりながらも、やっと見つけたアパート。資金のほとんどを彼が出してくれた。さて、引っ越し間近になって、あのRさんからまた電話がきた。度々電話を寄こしては、私の様子を探る…私は、Rさんが母親に告げ口していないか不安になったりもした。けれどもう引っ越しをする…。私は引っ越したらRさんとは距離を置こうと思っていた。が、相手も強者だった。「引っ越しの日、決まった~?」などと聞いてきた。私は内心ドキッとして「ん~、だいたいね~」とはぐらかそうとしたら「引っ越し費用バカなんないでしょ!車も買ったんだし!私の車、ワンボックスだからなんでも運べるよ!一人暮らしくらいの荷物なら!」と言い出した。私は新居を知られるのが嫌だった…。さっきも書いた通り、新居には母親関連の人は知られたくなかった。なんとかズルズル引っ張っても、この人はしつこい…。アパートを契約する日は、誰にも知らせず二人だけでやった。そして、市役所の人たちにも「アパートを契約した」ことを伝えた。よし!順調だ!このまま行けば、近々息子も向かい入れることができる!保育園も決まった!アパートも契約した!あとは引っ越しだ!
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新しい自分へ…15

その時、ふと自分を振り返った。私は今まで「親には恵まれなかったけど人には恵まれていたんではないだろうか…。」と。結局、どんな時も「助けてくれた」のは親でもなく「知人・友人」だった。母親から逃げるときのお金も居場所も…。それに気づいたとき、全てに「感謝」ができた。もちろん、母親に感謝できるほど人間はできていないけど。今の彼もそう。最初は「同情」だったかもしれないけれど「同情」だけでできないこともたくさんしてくれていると思っている。多分、毒親に育てられた人のほとんどは「同情」なんかしてほしくないと思う。「同情」がいかに自分を惨めにして、悲劇のヒロインを作り上げるかをわかっているから。私も「同情」という言葉も、その気持ちも大嫌いだった。だからこそ、I子さんは「同情」とは思わせないようにしてくれたのかもしれない。それはI子さんにしかわからない。私と彼の計画はドンドン進んで行った。こんなに順調でいいのか、と疑うくらいに…。アパートも家を購入前提で一時の間借りとして1LDKを借りることにした。この私が彼と再婚をして家を購入する、までになるなんて!人生とはどこでどんでん返しがくるかわからない、と本当にその時は思った。けれど、100%全部を信用できないでいる自分もいたことは確か。だからこそ「慎重になろう」と心がけた。確実に一歩一歩。まずは、上の娘は「住む場所が決まって保育園が確定した1か月後」に退所ということになった。その前に児童相談所の相談員さんがアパートを見に来る。ということ。その日は、割とすぐに来た。相談員さんは結構年配の女性で、気軽におしゃべりなんかをしながら、部屋の環境や交通の便、引
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新しい自分へ…14

彼にバイトを辞めたことを伝えた…。なんて言われるだろう…。見放されちゃうかな…呆れられちゃうかな…。嫌われるかな…。色々考えた…が、彼は…「しょうがないんじゃない?俺一人の稼ぎでも少しはやっていけるだろ!」といった。意外な回答だった。嬉しいような申し訳ないような…。素直に喜べない自分がいた…。「ごめんね…大事な時に…」それでも彼は私を責めることはなかった。「今度は車もあるし、別なところ探せばいいよ!」と逆に励まされた。「ありがとう…」といい、今後のことも少し話して電話を切った。そして、娘の施設に行き、今後のことなどを相談しにいった。もちろん、ここでバイトを辞めた、なんて知られたら引き取ることはできない。そう思ってバイトのことは伏せていた。順調に進んでいるかのように見せていた。もちろん「不安」でしかなかったが、すぐに娘を引き取れるわけではない…これから児相がアパートを見に来たり、手続きやらがたくさんある、会議にかけてそれから「引き取り」という流れらしい。その話を聞いて最短でも2週間のうちに仕事を見つけなければ!そう焦っていた。そんな状態の中、Rさんから電話がきた。少しめんどくさいな、と思いながらも電話に出なかったりかけなおさなかったりするとややこしくなるので、電話に出てみた。そして、また彼の話や自分の話などをしていく中で、「あれ?あんた今日バイトは?」と言われた。…いや、バイトだと知ってて電話してきたの?とも思ったが、背に腹は代えられない…新しい仕事先を紹介してもらえるかも、と思いバイトを辞めたこともやめた理由も話した。そうすると意外にわかってくれて、「あぁ、それなら紹介できるよ
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新しい自分へ…13

次の日もバイトだった。休みの日を利用して、市役所行ったり、児童養護施設に行って娘と面会や外泊…。外泊のときはなるべく彼も一緒にいることにした。彼は特別、娘に気に入ってもらおうともせず、普通に接してくれていた。まるで、「今までなにもなかったか」のように…。とても「自然」に触れあってくれた。下の息子にも同じだった。息子は何もわからない年齢(12か月くらい)だったが、ぐずることにも何も言わず嫌な顔をすることなくあやしてくれた。そんな姿や光景をみて、「あぁ…これが『普通の家族』なんだなぁ」と感じていた。こういう「普通」がなによりほしかった。彼は特別何かをしているわけではないが、それもまた嬉しかった。晩御飯を買いにスーパーに行くときも自然に娘の手を取り歩いていた。なんだろう…すごく胸が熱くなるのを感じた。「このまま幸せが続けばいいのに…」そう思わずにはいられなかった。バイト仲間も彼の存在を知り始めてきてくれて、「頑張ってね!次は幸せになるんだよ!」などと声を掛けてくれた。そんな中…事件は起きた…バイトを終えた私はアパートに帰った。次の日バイトに行くと「店長」から呼び出しがあった。「なんだろう…」と控室に行った…。「お前、エアコンの電源落としていかなかっただろ!」と…。そこの店はそういう細かいところにうるさかったため、たかだか10分休憩のときなどエアコンは使っていない。「え、私ではありませんけど…。しかも私がエアコン使わないの知ってますよね…」というと「お前しかいないんだよ!なんで認めないんだ!」と…。普段店長とは良好な関係が築けていたと思っていたから、そんな風に言われるのは驚いた。冗談も
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新しい自分へ…12

Rさんから電話がきた。電話に出るなり「なんなのあの男!私に対して失礼じゃない?挨拶もなしに!あんな男、私は許さないよ!別れな!」と怒涛のように言われた。私は「ごめんね…疲れてたみたいで」というのが精いっぱいだった。彼もいるし…どっちの味方とか、何が悪いとか…朝から憂鬱な気分になった。それからもゴチャゴチャ言われたが、もうほぼ覚えていない…。電話を終え、バイトの準備をしていると彼も起きてきて、自分の仕事に行くといい、仕事にいってしまった。さっきの電話…聞いてたかな…ちょっと心配になった。けれど、時間も迫っていたため、そのままバイトにいった。その日は、どっちからも電話はこなかったと思う。私はつかの間の「自分の時間」ができた。明日はバイトが終わったら市役所に行こう。そう思いながら、その日は寝た。最近の出来事が多すぎて疲れていたのか、ぐっすり寝れた。そしてバイトに行き、終わってから市役所にいった。その理由は「施設の退所、その後の保育園」の話を相談しにいくためだ。市役所に行くと、保護課の人や福祉課の人たちが私を向かい入れてくれた。そこで色々な話をした。これからのことアパートでの生活のこと相手の話のこと施設を出てからの生活のこと自分の体のことなど細かいところまで…いつ退所予定かなど…。色々話したらもう市役所が閉まる時間になってしまった。その後の話は後日、ということになった。市役所を出た私はドッと疲れてしまった。真っすぐ家に帰り、彼に市役所で話したことを話したりした。もうご飯を食べる気力すらなかったため、シャワーを浴びその日は寝た次の日もバイトだ…。
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新しい自分へ…11

納車まで2週間くらいあるらしい。ので、その間私はワクワクしていた。ところが…。その当時、母親のところにいたときに私の世話をしてくれていた地元のRさんという6つ年上の女性がちょくちょく私のところに連絡をしてきていた。そのRさんはとても口が堅く、むしろ私の味方でいてくれていたが、Rさんに幼い子供がいたので迷惑はかけられない、と思い私からは連絡はしてなかった。そのRさんから久しぶりに連絡がきた。そして、今の状況を伝えると「はぁ!?中古の車で98万?そんなの今すぐ返せよ!」とすごまれた。私は喜んでくれると思っていたから少し怖くなってしまった。なんでそんなことを言われなければならないのか…。Rさんは結構、きっちりしている性格で、白黒ハッキリタイプだった。そして話の流れから再婚するかもしれないこと、子供を引き取れるかもしれないことなど色々話した。そしたら「その彼氏に今度会わせて」と言われた。私は相手のこともあるし、自分のいる場所もバレたくない。いくら口が堅いと言っても、その時の私には信用できなかったが、母親と一緒に住んでいる時に一番の理解者で、味方で「お前の母親は最低だ」と冷静に見てくれていた人だけに信用をしたいと思いたいが…。私は角を立てないように「相手にも聞いてみるね!長距離だしいつ帰ってくるかもわかんないし!」といってその場は終わった。けれど、最後に「車は返せよ!」と言われてしまった。私は電話を切った後、考えた。自分のやったことが軽率ではなかったか、急いでしまったんではないか…。けれど「秋田」にいて「車がない」のは死活問題だった。子供を引き取ったとして、それこそ病気になったりしたらタ
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新しい自分へ…10

なんだか後味が悪い感じではあったが、「私の味方」をしてくれたことが嬉しかった。今まで私の味方をしてくれる人などいなかったから…。心が温かくなる…とはこのことか…。私はその頃には「花を花だとも思わない」「綺麗だと思わない」他で子供が殺されてもなんとも思わない…感情が希薄になっていることを気づかずにいた。花なんて…なんの足しにもならない。多分、その時の私はそう思っていた。「現実の感覚」しか感じなくなっていた。「いいか」「悪いか」の選択の感覚…これを読んでくれている皆さんなら、ご存じかもしれないが、私はこれまで「選択」を迫られてきた。そこに「感情」があったかどうかはわからない。その時、「最善の決断」を迫られてきた。彼ともそうだ。けれど、彼はちゃんと感情があった。そんな人が私と一緒にいてくれる…なんだか自分が「おこがましく」思えてきた。そんな人と一緒にいていいのか…私なんか、親もいなくて歯もなくて学歴もないのに…。相手は両親がいて、妹もいて…学歴も普通くらいある。仕事もちゃんとしてる…どう考えても「不釣合い」だ色んな感情がめぐってきた。この人といれば子供たちとも一緒に住める。親に反対されても味方してくれる。「この人を大事にしよう」改めて思った。「この人の恥じない人になろう」そう決めた。帰りの道中は終始楽しい話をしていたが、アパートに着く前には「母親のことは気にしなくていいから」とまで言ってくれた。顔に出てたかな…。「うん、ありがとう」と言って、その日は別れた。私はドッと疲れたのか、すぐに眠りについてしまった。これが「普通」なんだな、と感じた。初めて「普通」の感覚を感じた。そして次のバイ
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新しい自分へ…9

まだ不安はあった。けれど、彼はちゃんとした「仕事、給料、親への報告」までしてくれた。信じよう…。そして、子供たちと一緒に暮らすんだ!私は思いもよらぬ進展に嬉しくなった。そして、次の休みの日には、「子供たちに会いたい」というので子供たちに会わせることにした。それで、子供たちが「嫌な顔」をしたり、子供たちに嫌なことをしたら、残念だけど一緒にはなれないな、そう思った。やっぱりこれから長い間一緒に住んでいくのに少しでも「違和感」があったら大変だ。私の二の舞になる。それだけは避けたい。そして、迎えた当日…娘にはなにも話していなかった。どう話せばいいのか分からなかった…。ところが…。彼と顔を合わせた瞬間…「お父さん?」といったのだ!え?!私がびっくりしていると、彼は「そうだよ!もう少しだからな!お母さんとみんなで暮らせるの」と話しかけた。娘は元旦那(実父)を忘れているのか…思い出したくないのか…。私にはわからなかったが、彼の膝の上に座り何か話していた。心配しすぎたかな…。そう思った。そして、数回娘と息子に会わせた。息子は生後まだ11か月くらいだったから、なにがなんだかわからないような雰囲気だったが、娘がとてもうれしそうにしていたので、私も「これでいいんだ」と確信した。よし!そう思ったら施設から子供たちを退所させる手続きを取らなければならないが…。そっか…アパートが狭い…。う~ん…。まず施設のほうに相談をしなければならないな…それからどうなるか…それまでどうするか…。それからというもの、彼は「生活保護を辞退しよう」と言ってきたけれど、自分だけの収入ではアパートが維持できないことを伝えたら足り
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新しい自分へ…8

それから彼からはしばらく連絡はなかった。私は、バイトや子供たちのことに専念していた。けれど実際問題、お金が貯まるなど何年先になるかわからない状態が現実だった。それでも「諦める」という考えはなかった。児童養護施設では最低2年施設に入所してもらう、というのが条件だったが、私はそれより早く子供を引き取りたかった。気づけばもう1年が経とうとしていた。小学校入学前までには…一緒に生活していたい…。今のバイトでは無理だ…。その頃の秋田県はパートでもアルバイトでも「副業」ということが原則「禁止」されていた。そのころ、ちょうど「某牛丼チェーン店」は「牛肉輸入制限」かなにかで肉が入ってこなくなる事態に陥り、店は混雑、シフトも人数も増やして対応していた。帰るのは、シャワーを浴びに帰るだけの日々が2週間くらい続いた。これでは「副業」どころの話ではない…。体力的にも限界に近かった。忙しかったせいもあり、色んなことを忘れて仕事に打ち込むことができた。そして、牛肉がなくなりシフトも通常に戻った…やっと休める…それを見計らったかのように「彼」から電話がきたのである。私はハッとした…。そうだ、返事も返していない。返事だけはしようと電話にでたそうすると相変わらず何事もなかったかのように接してきた。そうか、ただの気の迷いだったんだな、私はあの話には触れないようにしていた。そうして、今までの仕事のことや彼の仕事のことなど他愛もない話をしていたそうすると「それで、考えてくれた?あの話」と…え?私はどうやって返していいのか分からなくなった。断る、ということをしたことがないからどうやって断ったらいいのか分からなかった。黙
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新しい自分へ…5

彼はベットで寝ていた。そしてとうとう男女の関係になった。これまで、自分の体のことなどどうでもいいと思っていたが、この人は違うなと感じた。朝になり、彼は「子供たちのこともあるし、俺と真剣に付き合おう」と言われた。「子供?!」私はハッとした。この人は「子供」のことまで考えてくれていた。そのあとに「長距離やってるからある程度は養えるから」と…。そこまで!?私は即答できなかった…他人の子供を養うってどういうことかわかってないそう思った。そんな簡単なことじゃない黙っていると「返事は後ででいい」というので「わかった、あとで返事するね」と返した。その日はアパートに降ろしてもらって別れた…。私はなにが一番「最善」なのか…。考えていた。今、生活保護を受給しているものわかっている子供を施設に入れていることも私に両親がいないこともそして…入れ歯なことも…。最初は「会う」とは思っていなかったから全部話していた。それでも「養う」?そんな簡単なことじゃない彼も考えてくれただろうが自分の母親でさえもあの有様だ…そして自分の旦那の子供であってもかわいがることはなかった…それを他人がやる?顔も会わせてないのに?また「騙される」ところだった…そう思うことにした。そして、しばらく連絡は控えよう…。そして、私はそのことを忘れるかのようにバイトをした。今までの生活に戻した。バイトをして子供に会ったり外泊をさせたり…。彼からも連絡はなくなっていた。所詮そんなもんか…。そんなもんだよな一時の気の迷い、ってやつかな本当に男の人はわからないな。まぁ好かれるなんて思ってないけどね。ちょっとは「期待」した自分もいたが子供のことをな
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新しい自分へ…4

i子さんは、私たちをアパートに呼んでくれた。そして、お昼ご飯を作ってくれた。娘はi子さんのことを「ばあば」と呼ぶようになっていた。I子さんはそれを聞いて喜んでいるようだった。i子さんの息子さんは遠く北海道に住んでいて、奥さんとも仲が悪いらしい…。I子さんの家庭事情もよく話してくれていたからなんとなくは知っていた。だからか私の娘も「孫」のようにかわいがってくれた。そろそろ施設に戻らなければいけない時間になっていた。I子さんのアパートを出て、私のアパートに行き荷物をもって自転車に乗せて施設に向かった。娘は施設に戻ることはわかっていただろうが、私もあまり触れないようにしていた。自転車に乗って30分くらいして施設に着くと、やはり寂し気な顔になった…。施設の人に引き渡すときは、娘も私も泣いていた。やっぱり寂しい…。苦しい…。辛い…。帰りの道中、私は考えた「あんまり会わない方がいいのかな…、でもな、見放されたと思ってほしくない。かといって頻繁だとまた施設の人から言われるし…。間隔的にどうしよう…。」と考えながら自転車を漕いでいた。今度は下の息子に会いにいった。息子の「外泊の許可」を取りたかったから話だけでも聞いてみようと思った。乳児院は比較的、外泊もokらしい。よかった!息子と少し会って、その日は帰った。あのまま帰りたくなかった。苦しかった、娘はもっと苦しいと思うとどうしていいかわからなくなった。息子とはいつでも会えそうだ。それなら娘に専念しよう、そう思った。娘を2週間に一回息子を3週間に1回のペースで外泊させよう!そう決めた。とはいえ、娘の幼稚園の関係上、土日でなければ外泊は不可能だった
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新しい自分へ…3

離婚裁判から一か月くらいが経った。そろそろ「慰謝料」などが振り込まれてもいい時期だ。私はどういうルートで慰謝料が振り込まれるかわからなかった。直接…ということは私の口座を相手が知っていなければならないし、裁判所経由で振り込まれるのか、それとも弁護士さんから振り込まれるのか…、私は、弁護士さんの事務所の近くに丁度用事があってきていたので、行ってみることにした。弁護士さんはいなくても事務の人がいるから、どういう状況かくらいは教えてくれるかな、と思い寄ってみた。玄関を入ると、受付で事務の方が私のことを覚えていてくれて「あら、こんにちは、今日どうしたの?」と話しかけてくれたので「慰謝料の件なんですが、いつ頃振り込まれるでしょうかと思って…」というと事務の人はいきなり険しい表情になり、「慰謝料は振り込まれましたが、あなたに振り込まれるだけの金額ではありません!こっちがマイナスなくらいです!!」とピシャリと言われた。私は「え?私にはこないということですか?」あまりの言い方に私は聞き返してしまった。事務「そうよ!こっちが逆に欲しいくらいだわ!わかったらもう帰って!先生も忙しいのよ!」と言われてしまった。あっけに取られているうちに目の前から誰もいなくなり、私はうつむきながらその事務所を後にした…。いくら慰謝料が振り込まれたのか、いつ払われたのか、なぜ私には連絡がこなかったのか、裁判に勝っても私が全部払わないといけないのか…。今のように携帯電話もそこまで詳しく教えてくれるわけでもない。周りに詳しい人がいるわけでもない。どれが本当でどのようにすればよかったのか、全く分からなかった。ただ「離婚が成立
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離婚まで…39

いよいよ「離婚裁判」にたどり着けそうだ。無料相談に行った際、女性の弁護士が付いてくれるというのでその弁護士さんにお願いすることにしていた。その女性の弁護士さんは、私の話を丁寧に、そして優しく聞いてくれた。母親の虐待の話や、金銭の話、離婚裁判には全く関係のない話だったが、「あなたのことをキチンと知ったうえで裁判をしたい」といってくれた。優しい表情から、時折厳しい表情に変わるときも私は必死になって話した。そして、2時間くらい話した。弁護士さんはなぜか泣いていたそして一通り話終わると「よく生きてこれたね…偉かったね」と言った…。私はこれまで「褒められたこと」など一度もない。邪魔にはされても褒めれれることはなかったまして「生きてきた」ことに対してなど誰も認めてはくれなかった。「普通」のことが「普通」ではない。私は「この弁護士さんならお願いしたい!」そう思った。そして、絶対「息子も養育費も慰謝料も取ってやる!」弁護士さんとそう約束した。そして、「着手金」のお金も渡した…。数日後には旦那のほうに手紙がいくらしい。「裁判を起こしました」という内容のものだそうだ。数日後、打合せのために弁護士さんのところへ行った。前回は旦那や母親のことを中心に話してきたが今度は子供のことや、これからのことなどを話したりした、今後のことは私にとっても重要なポイントとなる。けれど、今「不利な状況だ」という。なぜなら私に「両親がいない」から…それはなにを意味するかというと「息子を引き取れない」ということだった、それには愕然とした。息子…言葉が出なかった…それだけで負けた気がした。なぜ息子が引き取れないか、それにはもう
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離婚まで…38

i子さんとばったり道であった!私は嬉しくなった!そして道端にも関わらず、色々話した。話しているうちにi子さんの家がこの近くだというのだ。私のアパートと歩いて10分くらいの距離にいるようだった。「ついでだからおいで!」と言われて嬉しくなってi子さんのアパートに付いていった。そしたらなんと、風呂トイレ共有のアパートに住んでいた。i子さんは「ここ汚くてね、また私掃除からよ(笑)」などと笑いながらいっていたが部屋はi子さんらしく綺麗にされていた。i子さんは「花」が大好きだ。その部屋にもたくさんの花があった。シェルターから出たときのことや今までの話、色々二人で話した。そして時間も遅くなりそろそろ帰ろうかな、と思っていた時「晩御飯食べていきなよ!私も一人で食べても美味しくないし!」といってくれたので、その言葉に甘えることにしました。i子さんはとても料理が好きな人ならしく、ドンドン料理が出てきました。こんな料理は何年ぶりだろう…暖かいご飯、みそ汁、漬物や焼き魚…サラダ…テーブルに乗せられないくらいの料理が出てきた。どれも美味しく、泣きそうになった…これは美味しくて、もそうだけど、「子供たちに食べさせてあげたかった」という気持ちが強かった。そしてなにより、i子さんの気持ちが嬉しかった。たくさんご馳走になった後、「今度私のアパートにも遊びにきて!」と言って帰った。i子さんは携帯電話ではなく、「家電」を契約したようで家の電話番号もおしえてもらった。そうして、数日が経った…。全く何事も前に進まない時間が過ぎていった。アパートを借りてから2週間ほど経ったとき、私は初めて娘のいる施設にいった。娘は私を見
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離婚まで…37

その間私は、保険屋さんの勉強に通っていた。試験も終わり、さぁ!仕事するぞ!というときになりいきなりの「採用解除」のようなことを言われた…。私は頭が真っ白になった。理由は「車がないこと」だったらしいが、そんなことは面接のときに話していることだ。それも上司に話したが、「本社の決定だから…」しか回答はもらえなかった…。え、これからどうすればいいの?アパートの支払いは?生活は?アルバイトも以前に「車を所有していないと雇用できない」と言われていた。コンビニのアルバイトでさえだ。なぜかというと「夜勤のとき危ないから」だそうだ。本当に地方は「車がない」と仕事もできない。免許はあっても車がない…自転車はあったが、もはや仕事の手段にはならないようだ。早く仕事に就いて子供たちを引き取るんだ!そういう願いも虚しく…。なぜこうも上手くいかないんだろう…シェルターの職員に相談をしに行ったそしたら「生活保護をもらいにいきなさい」と言われた。「生活保護…。」生活保護がどんなものなのかさっぱりわからなかった「とにかく市役所いっておいで!そのままでいいから!」と言われたそして、市役所に行き、言われた通り「保護課」にいった。そうすると「相談室」のような狭いところで色々話を聞かれた若い男性だったと記憶しているが、とても丁寧に相談にのってくれて最後のほうは泣きそうになったが、「ここで泣くのはずるい」と自分に言い聞かせてなんとか抑えた。そうして、何時間か話した後、その男性職員は「すぐ手続きしますね!印鑑は持っていますか?」と聞かれた。今は持っていないことを伝えると、後ででいいので持ってきて、とのことだった。生活保護の仕
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離婚まで…36

20万円…。これがあればアパートが借りれる!けれど、シェルターに帰ると、このお金、没収される…。どうしよう…。そして、思いついたのが、知人に預かってもらうことだった。「大金だから怖いけど、アパート決まるまで預かっておくね!」と言ってくれた。シェルターに帰り、職員の人に事の説明をした。そしてそのお金は知人に預かってもらっていることも伝えた。職員の人は「いろんな人がいるから大金をもってたら危ないからね」と言ってくれた。そして、早くアパートを探そうとも言ってくれた。そして、前回見ていた35000円のアパートの物件を見に行くことにした。保証人などが必要だったが、シェルターの職員の人が付いてきてくれて不動産屋さんに話をつけてくれて、大家さんにその場で電話してくれて「貸してくれる」ことになった!よっしゃ!!順調だ!35000円あれば入れる!あとは家電などがリサイクルショップなどで揃えよう!と、そんなとき、シェルターで私に色々してくれたi子さんがシェルターを出るという話を聞いた。その人の行く先は誰にも教えない、教えられない決まりだった。ただi子さんは「このシェルターの近くにはいるから!」とだけ言って翌朝には居なくなっていた…。みんないなくなる…。そんな中、シェルターの上は「母子寮」になっていたことがわかった。全然顔も合わせないからそんな施設が併設されているのは知らなかった。どうやら玄関が違うらしい…。その母子寮に入っていた若いママが話しかけてきた。子供はまだ1歳くらいだったと思う。髪を金髪にして、いかにも「今時のママ」のような恰好をしていた。ハスキーな声で「シェルターいるの?」などと話しかけ
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児童養護施設へのプレゼント

クリスマスに売り上げの一部を寄付しようと考えていると、以前お伝えしました。売り上げの一部を児童養護施設に居る子供達のクリスマスプレゼントのために使うつもりです。本当は子供達一人一人に聞き取りをして欲しいものをあげたかったのですが、現実問題難しいようで悩んでいます。こちらが考えてプレゼントを贈ったとして、いらないものを送っても意味がないと感じます。いっそのこと、図書カードにしたほうが良いのだろうかと考えます。小さな子供にとって図書カードはそこまで嬉しいものではないかもしれません。ですが、本は知識を与えてくれますし、未来のためにもなります。こちらが選んだプレゼントよりも、図書カードなら自分で好きな本を買うことが出来ます。みんなに同じものをプレゼントすることで、取り合いになることもないかと思います。クリスマスまでまだ時間はあるので、じっくりと考えようと思います。子供達に少しでも温かい気持ちを味わってもらえたら良いなという気持ちでいっぱいです。心がわくわくするようなクリスマスカードも一緒に贈る予定です。こういうことが出来るのもココナラでご依頼くださる皆様のおかげなので、感謝しております。自分一人ではなく、いつもご依頼くださる皆様と一緒にする寄付だと思っています。こんなプレゼントが良いかもしれないと思う方や他に良い案がある方はぜひDMで教えてくださると幸いです。今日も一日お疲れ様でした。
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