地獄への道…11

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息子はとても美味しそうに食べた。

私も久しぶりにまともにご飯を食べたせいか、全部は食べきれなかった。

そして、少しそのドライブインで休憩した後、帰ることにした。

その帰りは私は、「息子のこれから」のことを考えていた。
お腹がいっぱいになったのか、珍しく車の中で息子は寝てしまっていた。

息子のことばかり考えられる時間は限られている。

上と下の娘のことも考えなければいけなかった。

先生からのイジメや友達間のイジメで一時不登校になった娘。

私に悩みを言えないでいるのではないか…。

子どもたちには私が仕事を辞めたことは言っていなかった。

仕事を辞めたことは…「言えなかった」

プライドとかそういうものではなく…
「お母さんが仕事をしていない」ということが、どれだけ子どもを傷つけるか、私は知っていた。

そう自分の…あの「毒母」がそうだったから…。
もちろん自分から辞めたくて辞めたのではないということを子どもに伝えても傷つくだけだろう。

それでも私がやらなければいけないことは山積みだったから、これで仕事となったら、とてもじゃないが相当大変だったのかもしれない。

その後、家に帰りいつものようにご飯などを作り普段の生活に戻っていた。

息子は相変わらず、近くの公園に行ったり一人で遊んでいることが多かった。
私も遊んであげたいと思ってはいたが…
どうにも、朝8時を過ぎると急に体が動かなくなる…。

身体に鉛のようなものが覆いかぶさっているかのように…。
それと共に「お日様」や明るい場所、テレビの音さえもうるさく感じてなにもできない状態が続いていた。

薬は飲んでいる。
それでもパニックも動悸も何も治まらない…。

私は単なる「甘え」なのか…
これはいつ治る?
このままじゃ…
子供たちに気づかれないように必死だった。

子どもたちが帰ってくると、「普通」を装った。

心配なんか絶対にかけたくない。
「心配してアピール」は毒母で散々見せられてきた。

私は「強くなければ…」と自分に言い聞かせた。

「誰にも頼れない」
「私が子供たちを守らなければ」

その思いだけで生きていた気がする。

買い物もままならない。

私は隣街のスーパーまで買い物に行って「まとめ買い」をした。

車は本来、「通院のみ」とされていたが、保護課にも相談し、まだ息子の診断や私の体調面を考慮して許可してもらっていた。

遊びに行けるほどの余裕など、自分にもないし金銭面にもない。

これから子供たちが進学、入学のために貯蓄もある程度ないと困る。

息子が支援学校に行くようになったらその準備の費用も必要だ。

自分の体のメンテナンスという時間はあまり記憶にない…。

痩せたから少し前より服が選べるようにはなったが、服にも興味がない、というより、流行りの年相応の服を着ても「気持ち悪い」と言われ続けてきた私には、選ぶ勇気も着る勇気もなかった。
地味に…地味に…目立たないように…
オバサンというより「おばあさん」に近いような服装をしていた。髪型も一本結び。

天パな私はずっと髪型でイジメられてきたから、みんなのように髪の毛をサラサラにして…などということもできなかった。

そのころようやく地元にも「縮毛矯正」というものが出てきたような気がするがとてもじゃないが高額で、美容院にすらいけなかった。

一人になると、襲ってくる
「フラッシュバック」

それは毒母のことであったり、元旦那のことであったり…。

元旦那に関しては、
自分のどこがダメだったのか
好きとか結婚は、嘘だったのか
子どもまで作ったのは旦那のエゴだったのか
父親に頭を下げさせてまで産んだ子どもをどう思っているのか
それをなんで「浮気相手を育てる」などと簡単なことが言えたのか
糖尿病になりかけた旦那を正常値まで食生活で改善させたのは迷惑だったのか
私が入院したのがいけなかったのか
私に両親がいないから好きなことができたのか
私が仕事をしたからいけなかったのか
借金まで肩代わりしたのはいったいなんのためだと思っていたのか
誕生日プレゼントだって、結婚指輪だって…
本当は旦那から欲しかったというのは贅沢なのか…
トラック運転手の時はお弁当も作った
現場仕事になれば早朝から起きてお弁当も作った…

惣菜なんか一度も出したことがない。

どんなに忙しくても…。

どんなに忙しくても「やりたくない」とか「辛い」とか旦那には一言も言ったことがない。

なにが悪かったのか自分でもわからない。

毒母に関しては、宗教にハマり保育園や小学校低学年の子どもを置いてご飯も与えず、宗教とギャンブルと酒。
そしてお金が無くなると機嫌が悪くなる。
掃除もしない、食事も作らない。風呂にもほぼ入れない。
子供たちの学費は未納のまま。
宗教とギャンブルには惜しみなく使う。
食べ物だけではない。服も子どもたちは戦後のような服を着ていた。
首回りが伸びていたり、靴も泥だらけ、サイズの合わない靴。
歯磨きなぞ、「歯ブラシ」すら見たことがない。
子どもらは歯が真っ黒だった。

それでも母親は自分が都合が悪くなると「救急車」を呼ぶ。
そして自分の旦那が帰ってくると「ちゃんと家事してました」かのようにご飯を作ったりする。
私には「旦那は立てなきゃいけないんだ!仕事から帰ってきたらお酒を出してツマミも準備して!それでこそ嫁だ」と…。
頭の悪い私ですら、「なに言ってんだこの人」となったのは言うまでもないが
それが「当たり前」に暮らしてきた、あの子どもたちはどうなるんだろうと考えた。
私が借金できる年齢になると脅してきた、「あの子たち(義理の弟妹)がご飯食べれなくなってもいいのか」などと…。
結婚式のご祝儀は丸ごと盗んだ。

私はどこに「居場所」を探しても、「居場所」がなかった。

友達と呼べる人も離れていく。

私は「嫌われないよう」に必死だった。
できることならなんでも相手の言う事を聞いてきた。

断るのが怖かった。

けれど断らなくても「嫌われる」ということに気づいた。

私は所詮「誰からも愛されないし、好かれない」

その気持ちが全てを支配し始めた。

病院は薬が出されるだけ。病院の先生に話を聞いてもらおうとも、言葉も出ないし、なにを伝えたいかもわからない。

なにがなんだかわからない内に点滴やら採血されたり…。
病名なんて教えてくれなかった。

息子のことや色んなことをしているうちに1年が経ち、病院の先生がこんなことを言った

「あなた、障がい者手帳いる?」と、私は、「え?」と戸惑っていると
「いらないよね!あなた、そんな枠にはまりたくないでしょ」と…。
返事も返す隙もなく
「じゃ、また次ね」と診察が終わってしまった。

この先の仕事だって、もうできる勇気も希望も学歴も資格もない…。

どうやって生きていけば…。

障がい者の「枠」とは…。

障がい者にもなれないのか…。

病院の先生に私のなにがわかるっていうんだ…。

それから病院の先生に期待するのを辞めた。
ただ「薬さえくれればいい」
そう思った。

世の中の人が全員「敵」に見えた。

そう「敵」だった。

子どもがいても「孤独」だった。

それでも子どもは大切だった。
子どもがいなかったら、私はとうにこの世に存在しない。

そんな時、また新たな問題が起こった。

お隣さんだ。

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