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地獄への道…13

息子の病院の先生から、息子のことをわかってもらった安心感でいっぱいだった。これでスムーズに物事が動く、そう思っていた。なにせ「診断書」があるから。これがもらえなくて息子も私たちも苦しんだ。けれど現実はそうはいかなかった。学校に電話をした。もちろん診断書のことである。そして、それに伴う「支援学校への転校」の件。これはさすがに学年主任や担任だけの問題ではないだろう、と考えたのであらかじめ担任の先生に「診断書がでたのでお話がしたいのですが」という電話をした。先生はあまりいい返事ではなかったが、時間を取ってもらうことにした。そしてそのことを息子に話すと、一気に顔が暗くなった…。私は息子に「これはね、これからあなたが支援学校に気持ちよく行けるための書類とか、話し合いをしなければならないの。とても大事なんだよ、あなたが学校に行きたくないならお母さんだけが行ってくる。あなたはもう傷つかなくていい」そう伝えた。学校に行かなくてもいいと聞いて少し安心したのかホッとした顔ではあったが、暗い顔をしていた。それを見て、わたしは「絶対、この子に同じ思いはさせない」そう強く決めた。お姉ちゃんや妹は、気を使ってか息子の前で学校の話をすることはなかった。息子がお風呂に入っている間や、いない時に話すが、息子は友達からはとても好かれていた存在だったので、学校が終わると息子を誘ってくれる友達が多かった。それでもその友達は「無理に学校にこなくてもいいよ!俺たち学校が終わればいつでも遊べるし!」という優しい友達ばかりだった。それを見て、娘たちも気を遣うことなく、少しづつ学校の出来事を話すようになってくれた。お姉ちゃんに
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地獄への道…12

前から雰囲気が悪くなっていた「お隣さん」…。とうとう実害、というか当たりが強くなってきたのと、発言と暴言が多くなっていた。前から少し発言は気になっていたが大家さんに相談していたため、原因はわかっていた。だから、あまり前のようには関わらないようにしてきた。が、その時はあまり深く考えなかったが、夜中にいきなり叫び始めたり。その原因が「私の家の子どもたちがうるさいから」と。とうに子供たちは寝ている時間である。子供たちは21時前後には寝ている。お隣さんが叫ぶのは22時過ぎ…。私自身も22時には寝ている。叫び声で起こされるのだ。それが数日続き、とうとう「子供たち」を怒鳴り始めた。学校から帰ってくる時間を狙っているのか、偶然なのかはわからないが子供たちが家に入る寸前を狙って「お前ら!!毎日うるせぇんだよ!!」と怒鳴り始めたのだ。子供たちもビックリしていた。私もその時はすぐ玄関にいって謝っていたが、これが続くのはもう耐えられなかった。大家さんは当時すでにご年配のため、アパートの管理を大手の管理会社に譲渡していた。そこで、その管理会社に電話することにした。が、明確な対処も得られず…。大家さんからは何も聞いていないという返事だった。これではコチラばかりが「クレーマー」のようになってしまう。そう感じた。どう考えても「子どもが住んでいる」という時点で、コチラが悪くなるのは分かっていた。もう…引っ越すしかないか…。とはいってもすぐに引っ越せるわけもなく…。生活保護を受給している以上、今まで通りにはいかない。まずは「目の前」のことを1つ1つこなしていくしかなかった。上の娘も中学生になり、それなりに学校生
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地獄への道…11

息子はとても美味しそうに食べた。私も久しぶりにまともにご飯を食べたせいか、全部は食べきれなかった。そして、少しそのドライブインで休憩した後、帰ることにした。その帰りは私は、「息子のこれから」のことを考えていた。お腹がいっぱいになったのか、珍しく車の中で息子は寝てしまっていた。息子のことばかり考えられる時間は限られている。上と下の娘のことも考えなければいけなかった。先生からのイジメや友達間のイジメで一時不登校になった娘。私に悩みを言えないでいるのではないか…。子どもたちには私が仕事を辞めたことは言っていなかった。仕事を辞めたことは…「言えなかった」プライドとかそういうものではなく…「お母さんが仕事をしていない」ということが、どれだけ子どもを傷つけるか、私は知っていた。そう自分の…あの「毒母」がそうだったから…。もちろん自分から辞めたくて辞めたのではないということを子どもに伝えても傷つくだけだろう。それでも私がやらなければいけないことは山積みだったから、これで仕事となったら、とてもじゃないが相当大変だったのかもしれない。その後、家に帰りいつものようにご飯などを作り普段の生活に戻っていた。息子は相変わらず、近くの公園に行ったり一人で遊んでいることが多かった。私も遊んであげたいと思ってはいたが…どうにも、朝8時を過ぎると急に体が動かなくなる…。身体に鉛のようなものが覆いかぶさっているかのように…。それと共に「お日様」や明るい場所、テレビの音さえもうるさく感じてなにもできない状態が続いていた。薬は飲んでいる。それでもパニックも動悸も何も治まらない…。私は単なる「甘え」なのか…これはいつ治
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地獄への道…8

2時間かかろうが、「息子の診断」をしっかりしてくれるところならどこでも診察してもらいたかった。藁にもすがる思い、とはこのことかと思うくらいだった。私は元々「地図」が苦手なので初診ということもあり電話して場所を聞いた。それでも想像は付かなかったが、「近くまで行ったらまだ電話してもいいですか?」と聞いたら快く受けてくれた。秋田市内すらあまり詳しくないが、そこを越していくとなると本当にわからない…。息子を乗せて長時間の運転に耐えられるだろうか…。その当時、私の車にはテレビがみれるようなものもなく、DVDを見せたいが、そうするとカーナビの地図が見れなくなる…。私は息子が退屈しないように話しかけたりして運転していた。その病院は、大きい病院のように「数か月待ち」という状態ではなかったため初診でもすんなり受付をしてもらえた。もちろん、発達障害の検査は時間を要するだろうが、まずは診察から…。数時間走っていくと、もう少しのところで道に迷ってしまった…。病院に電話するか…。電話してみると、丁寧に教えてくれた。「わかりずらいですよね、安全運転でいらしてください」と言ってもらえた。やっとの思いで着いた、その病院は周りには何もなく、道を挟んだところに喫茶店のようなものがポツンとあるだけ…。周りは木々に囲まれていた。建物は新しい作りになっていた。いよいよ診察である。受付に行くと笑顔で「遠くからお疲れさまでした」と言ってもらえた。待合室という「物々しい」感じはなく、まるで「別荘」を思わせるような造り。待っている人は置いてある本を読んだりしていたが、そんなに多くの人はいなかった。数分待っていると「こんなに早い
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新しい人生の終焉…4

私は決めた。…「離婚する」…。このままでは、不信感しかない、そして、また自分の心を殺して、このまま生きていくのか…。それで子供たちに「素直になりなさい」と言えるのか…。子供たちにどんな顔して毎日を送ればいいのか。親として、妻として…そして一人の女性として…それは果たして「正解」なのか…。色んなことを考えての「決断」だった。私の気持ちは何日経っても変わることはなかった。旦那が帰ってくる日を待った。そして、その日は案外すぐ来たのか、そう感じただけなのかはわからない。そして、子供たちが寝静まった後、旦那に話をした。「もうあなたを信じることはできない…。」と…そうすると旦那は「なんでこれからやり直そうとしているのに、そういうことをいうんだ!」と言ってきたが、その後に「じゃあ別れなくてもよかったじゃん」と…。なにを言っているんだ?この人は?自分の言っていることの意味も今口に出していいことの区別もつかないのか?私はキレそうにもなったが、「もう別れる」と決めた心には怒りなどはなかった。そして、私は淡々と続けた。「離婚するにも証人が必要だから、それはRさんに頼んであるけど、もう一人、あなたの方から出してね、それと慰謝料とか養育費を決めたい」と一気に話した。旦那はここまで言って初めて本気だと思ったのか「どうしたら許してくれるの?」「お前にだって悪いところはあるぞ」などと言ってきたが黙ってただ、反応もせず旦那の言う事を聞いていた。そうすると段々「わかった…もう相手とは別れたし、俺にはお前しかいないから、やり直すという前提で離婚しよう」と言い出した。なんて都合のいい人だ。こんな人だと本当に思っていな
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新しい人生の幕開け…41

少しの間は、息子も元気に学校に行ってくれていた。娘も、弟のことに関して、たまに愚痴は言うものの友達と遊んだりしているようだった。その間、「家を建てる」という話は平行線状態だった。旦那が銀行に行く時間がない、というのだ。土地ももう決まったような状態で、買う坪数は「100坪」田舎の特権なような坪数(笑)私が無知のまま、「簡単でいいから設計図」を書いてと言われて書いた家の設計図も完成していた。その次のステップにいっていないのだ。散々急かせておいて、自分はこれだ…。その銀行の「仮審査」に行けない。電話越しに、ここまでやってんなんでなの?と聞いてみた。旦那は「銀行って15時までだろ?都合よくいかないんだよ」などと言っていたが、家を買う時点での時間は取れていたのに、一番肝心な時間が取れないのは別の理由があるのだと思った。だから少しつっこんで聞いてみた。そうすると旦那は「断られたらどうしようとは思ってる」と本心がでてきた。今更?「それ、私も言ったよね、家の話の時に…。ブラックだったし、いくら一括で返したとしてもリストには載ってるって…それでも大丈夫なの?って聞いたよね」というと、旦那は沈黙した…。やっぱり直前になって困ったんだ…。怖いんだ…。きっとサラ金のこともお義父さんには言っていないから勝手にドンドン話を勧めたんだろう…。けれど自分で話を持ってきたからには自分でケジメを付けてほしい。私だってもう日々の時間がギリギリで生活している。金銭面も…。けれど、もう何も理由なくして、この話を「なし」にすることはできない。大家さんでもある不動屋さんも乗り気だからだ。どうするのか…。少し沈黙の後、旦那は
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新しい人生の幕開け…34

そういえば、あの後、お義母さんたちは本当に「歩いて」家に帰ったんだろうか。ふと思い出して、旦那に電話した。旦那はすぐ出た。まだトラックを走らせているようだった。「おう!どうした?」という相変わらずの応答だったが、事情を説明した。そしたら「なんだってな…。役に立たない奴らだな…。俺になんにも連絡きてないから、どうせ親父に迎えに来てもらったんだろ、どこかで」という返事だった。「悪いけど、私もそれどころじゃなかったし、止めけどどうにもならなかったし…。あとであなたから連絡してみて。なにかあったら大変だし。」と。「わかった」と言ってくれたが…「それと…赤ちゃんの名前、もうそろそろ決めなきゃいけないんだけど…いつ帰ってくる?」と聞くと「おう!そうだな!明日帰る予定だ!その時決めて、市役所に出しに行かなきゃだろ?」というので「うん、そうだよ。子供たちも名前ないと呼びにくいし、この子もかわいそうだよ」と…。そうすると旦那は「俺も考えてはいるから帰ったら二人で決めよう」ということになった。今までどの子も「私が付けた」とか「二人で話し合って決めた名前」という子がいない。裁判で取られた息子も元旦那の親と義姉さん。娘もそう…。手元にいる息子は、憎いあの母親。そう、勝手に名前を決められて出生届を出された。私の入院中に…。だから、せめて「二人」で決めたかった。全部自分の思い通りにとは言わない。二人で…。そして、ようやく寝ることにした。3人で寝ていると子供の成長がすごくわかる。体が大きくなったな…寝相が悪くなったな(笑)…そうしていると、赤ちゃんがミルクの時間で泣き始めた。最初は子供たち起きるかな?と心配
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新しい人生の幕開け…32

一人病室にいると、旦那が看護師さんと一緒に入ってきた。「おう!やっと帰ってきたぞ!」と呑気な言葉と共に入ってきた。イラっとした。それでも病院では怒るわけにもいかず…。一人で悶々としていた。そして、お義母さんたちのことを言うと、「それは大丈夫だから!」と言い放つ…。「そういってこの間だって帰ろうとしたじゃん」というと「ちゃんと言って聞かせたから!」と…。もう言い合いにもなりなくなくて、私からはもう何も言わなかったが、旦那が帰ってきたならもう子供たちも大丈夫かな、とも思った。そして、3日目。旦那に電話すると…なんと!仕事に行っている!「え?入院している間は子供たち見てくれるんじゃなかったの?」というと「いつまでも休めないよ…」と…それはそうだけど…自分の親がどれだけのことをしたかわからないのか…まだ小さい子供にご飯も食べされられないのに…。そうしてまた、毎日子供たちに電話をした。ちゃんと学校に行けたか、保育園に行けたか、迎えはきたか、ご飯は食べれているか、お風呂は入ったか…。学校でなにがあったか、保育園でどんなことをしたか…。そんな電話の途中でさえ、お義母さんが「毎日電話うるさい!」などと聞こえてくる…。腸が煮えくりそうなのを必死で我慢した。子供たちには「もうすぐで赤ちゃんと一緒に帰るからね!」と言って安心させることしかできなかった。Rさんはたまに病院に来てくれた。赤ちゃんと私と話をしに…。Rさんは「あの親じゃだめだな…、私が子供たちを見ようと思ったけど、『あんた誰』って言われたし」と…。なんてことを言うんだろう。本当に「非常識」。そんな感じでとうとう「退院」の日がやってきた!私は
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新しい人生の幕開け…29

療育センターに着いた。色々日頃の生活などを聞かれたりして、その日は終わった。次の診察の日に「診断テスト」というものをするらしい。息子は終始、何事もなく居たためあまり先生からハッキリとわかるようなことはなかったからかもしれないが「男の子は女の子より発育が遅いですからね」などと言われてしまった…。お子さんをお持ちの方なら一度は経験があると思うが、家では熱を出してグッタリしていたのに「病院に着くと元気になる」、あの現象ですね。片道1時間もかけて診察にきたのに診察はたった5分くらいだった。子供には丁寧かと思っていたが…。やっと家に帰ってきたころにはもう夕飯の時間だった。その頃旦那はまた「無職」になっていたが、さすがにこの数か月でいろんな体験をしたのだと思う。高校卒業してから、少し地元の会社にいたようだが、「大型免許」を取ってからずっと「長距離運転手」だったらしいので、今まで見下していた仕事にも何も言わなくなった。だからといって「家事」などができる人ではないため、ひたすらハローワーク通いをしていた。そんなある日、「やっぱり俺、長距離に戻るわ、悪いけど」と言った。まぁ…いろんな経験もしたし、これから子供が産まれるしな…。私も仕事できないし…。と思って「うん、わかったよ」と言った。そして私が続けて「この子が産まれるときには立ち会えるように会社に話してちょうだいね、それだけ」と言った。私は、もう旦那もいるのにお産の時「一人でいる」というのがとても怖いというか寂しかった…だからそれだけはしてほしかった。旦那は「それはする!出産が近くなったら地元周りさせてもらうようにする」と言ってくれた。本当にそ
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新しい人生の幕開け…15

やっとの思いで家に帰ったときはもう日付は過ぎていた。私は子供たちを部屋に運び布団へと寝せた。そしてI子さんも、なにも言わずに寝た。旦那はまだ泣いている。「明日どうしよう…」と…。そんなことまで私が指示しないといけないの?とほとほと呆れてしまった。そして「明日も早いから」と言い残して私の寝た。次の日の朝、私はいつも通り家の掃除をし朝ごはんを作っているとI子さんが起きてきた。「昨日はお疲れさん」と慰めの言葉をくれた。こっちこそ、本当は楽しませてあげたかったのに…と申し訳ない気持ちだった。子供たちを保育園に送って帰ってくるとまだ旦那は家にいた。もう出勤の時間だ。旦那はガクッと肩を落とし、「会社になんて言おう…」とブツブツ言っていた。それを見たI子さんは「こら!男だったらしっかりしなさい!!」と叱ってくれたが本人はボーッとしているだけだった。そうしているうちに会社から電話がきたようだ。そりゃそうだよな…出張先からいなくなったんだもんな…。旦那はビクっとしながらも電話にでた。色々話していたようだが、ただ「はいはい…」としか答えない旦那。そして何を話したのか「もう自分はできません…辞めさせてください」と言っていた。電話を切った後、「なんていってた?」と聞くと「自分のものを取りにいくのと退職届だしに行ったりしなきゃいけない…会社行くのいやだなぁ…」と子供のようなことを言っていた。私は「事務処理とかもあるからいかなきゃだよ」とチクリと言った。私は多分、その頃から旦那に対しても色々な考え方が変わったように思う。旦那が渋々会社に行くのを見届けてから、私はI子さんを家に送って行った。I子さんは帰りの
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新しい自分へ…21

娘を引き取ってから初めての「登園」。事前に保育園の先生や園長先生からはとても温まる言葉をもらっていて、本当に救われた。「お母さん、よく頑張ってきましたね…、これからはお母さん一人で頑張らないように私たちを頼ってくださいね!」と…。保育園の準備はまだ完璧とまではいかなかったが、先生たちは「少しづつでいいから」と言ってくれていた。登園当日、娘はやや緊張していたようだが、なにか様子が変だ…。娘を保育園に預けて仕事に向かおうとすると、娘は急に「行かないで!」と泣き出したのだ。先生もビックリした様子だったが、「そうか…ここも施設と同じだと思っているのか…。」とすぐに察することができた。だから私は「ちゃんと夕方迎えにくるよ!約束!」といい、指切りをして、まだグズグズ泣いている娘を先生に預け、私は仕事に行った。私は「しばらくは保育園の迎えの時間を早い時間にしよう」と思った。幸い、「保険屋」は時間の自由は効く会社だ。けれど一応、上司にも相談して早めに帰宅させてもらえることになった。心配だけれど、それでも一緒に進んで行くしかない!本当は1週間くらい仕事を休もうか悩んだが、まだ下の息子のこともある…。早めに迎えに行って「本当に迎えに来てもらえる」という安心を持ってもらうのが精一杯だった。その日は15時で会社を出て娘を迎えに行った。保育園に入ると1番に私を見つけて「おかぁさ~ん!」と半分泣きながら走ってきた。「ほら、ちゃんと迎えに来たでしょ(*^^*)」というと娘もホッとした様子で「うん!」とうなずいた。先生に少し様子を聞いたが、みんなの前では泣いたり困らせることはなかったと…。娘ながらに周りに気を
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新しい自分へ…17

アパートを契約して、さぁ!引っ越しだ!という時に、Rさんから電話がきた。内容はいつもの通り、こちらの様子を伺う電話。引っ越しを内緒にして、もし、なにも知らずに今のアパートに来られたら…。私は不本意ではあるけど、Rさんに引っ越しの日を教えることにした。そしたらRさんはやっぱりノリノリで「引っ越しを手伝う!」といい始めた。やっぱり…。仕方ないから引っ越しの日どりを教えた。そして、その事を彼にも伝えた…。もちろん彼はいい顔はしなかった。ただ「手伝ってくれる」という言葉にうかうか乗ってしまったのである。そうして迎えた引っ越し当日。Rさんは張り切って自分のワンボックスカーに乗ってきた。そして彼の持っていたワンボックスカーと二台で往復したりして引っ越しを終えた。それで必然的にRさんに新居がバレてしまったのである…。地元に戻ってきたけれど、私はすでに仕事も決まっていたし、子供たちの保育園も決まっていた。Rさんとは引っ越し以来会うことが少なくなっていた。あとは息子を引き取ること、と、彼と入籍することだけになった。彼の両親に会うのは気が引けたが、挨拶や礼儀はちゃんとしないといけない。最低でも、あの母親のようにはなりたくなかった。彼は相変わらず「長距離運転手」をしていたが、帰ってくると子供たちと遊んでくれたりしていた。新居は狭いが綺麗なアパートだ。入籍をして落ち着いたら中古住宅でも買うか、などとも話していた。私は「こんなに幸せでいいのだろうか」と不安になるくらい順調だった。こんな「人並み」の幸せですら、今までの生活では考えられなかった。息子は上の娘の保育園が順調に登園出来て娘の気持ちも安定したら、
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思い出したこと

ここまでの出来事の中で思い出したことを書いてこうと思います。やっぱり「記憶」というものは、途中から抜けていたり、「思い出したくない」記憶の一つとして奥底に眠っているのでしょうね。まずは、祖母のとき。祖母はすごく怒る人で町内で有名だったらしい。そして、私もよく怒られたものだが、「憎さ」はなかったように思う。夜になると先に逝ってしまった祖父の仏壇に向かって「おじいさん、今日もこの子を怒ってしまった、早く私もそっちに行きたいな」などと話しかけてから寝ていた。次は父親のとき。父親は、たとえ「家出してきた子」がいても決して頭ごなしに怒ったり、突き返したりすることはなかった。理由をきくこともなかったが、たぶん私たちが部屋に行ってから、その家族に電話していただろうと思う。父は他人の子供には格別優しかった。私には厳しい父だったが、お弁当などは全て「手作り」だった。やりたいことはほとんどやらせてくれたと思う。部活なども途中で辞めても文句は言わなかった。勉強さえ出来ていればなにも問題なかった。母親に関しては、私を学校に行かせない代わりに「タバコ」「酒」を勧めてきた。父の葬式のその日も「居酒屋」に連れていかれた。そして、私を周りの人に紹介して相手の人に「飲食代」を奢ってもらったりしていた。そして、旦那旦那には「女友達」がいた。その女友達を紹介された。自分の家と女友達の家にも私を紹介するくらいだから「腐れ縁」のようなもの、と思っていたが、一人目を妊娠していた時、まだ私たちがアパート暮らししていた時、泊りながら遊びに来た。その夜、軽くお酒を飲んで「さぁ寝よう」となったとき、ベットにその女友達と寝ると言い
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離婚まで…33

その家は暖かかった…。「家族」というのにふさわしかった。バイトも少しずつ慣れてきて、嫌味を言うお客さんもいたけど、ママも応援してくれて、ぎこちないながらもバイトを続けていた。母親は到底、このA子の家はわかるまい。けれど、もし、また今までのようなことがあったら、この家族に迷惑がかかる…。早くお金を貯めて部屋を探さなければ!毎日5時間働いて5000円…。タダで置いてもらうわけにいかないのでそこから少しA子のお母さんに渡していた。けれど、子供のオムツ、ミルク…。追いつかない…。2週間くらいたっただろうか…。様子がおかしくなった…。A子の様子も…。家族の様子も…。何かぎこちない…そんなある日、A子のお母さんから「話がある」と言われた。「悪いんだけどね…。おばあちゃんが他の家への体裁が悪いっていうのよ…。けど私たちもあなたの状況はわかっているつもり、だからこのまま出て行ってとも言えない。それでね、色々役所の人に聞いたりしたんだけど、『女性相談所』というところがあるらしいの、そこだと守ってもらえるし子供たちも安心できると思うの、それでその方がいいと思ってね手続きしてきたわ、明後日A子に送って行かせるから…。」と言われた。私は、「女性相談所」というところがあるのすら知らなかった。A子のおかあさんに申し訳ない気持ちでいっぱいになった。「ごめんなさい…。そういう施設があるとは知らなくて…。ありがとうございます」と頭を下げた。この数日間、私がバイトに行っている間、みんなを悩ませてしまった…。携帯はとうとう止まってしまった。払えなかった。女性相談所に行くまでは、みんな優しくしてくれた。最後の夜、私は
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離婚まで…31

私は、もうボロボロだったのかもしれない。産まれてきた子供は「チアノーゼ」になったらしく一緒に退院できないかもしれない、と言われた。私のストレスのせいだ…ショックだった。そして、母親の家に来てからロクなものを食べていなかったせいもあるかもしれない。私は何が正解で、何が間違っていたのか…。何をどうすればよかったのか。悩んだけど、あまりいい方法は思いつかなかった…まず、退院してからいろいろ動こう…。ココにいると携帯料金もそのうち払えなくなるのは目に見えていた。その間、保険屋さんで同僚の人たちと連絡を取り合っていた。そしたら、なにかあったらすぐ動けるようにしておくからね!と心強いメールが来た。よし!準備はできた!問題はそれからだ!まず、退院して体調を元に戻さねばならない。退院直前になり、チアノーゼが落ち着いたとのことで一緒に帰れることになった。母親の家に帰り、赤ちゃんの準備などをしていると「私は出産すぐに洗濯とか家事をしたもんだ!やれ!」と言われた。ヨレヨレの体を引きずり、茶碗洗いから始めた。神経が敏感になっているせいか、水道の水すらもピリピリと感じた。おむつすらまともに買えないような生活…早く家を出なければ…。上の娘たちは新しい保育園で友達ができた!と喜んでいた。それだけが唯一の救いだった。そうして、一週間が経とうとしたとき舅が母親の家にきた。「車を返せ」というのだ。そうだ、名義を変えていなかった…。車を取り上げれば家に戻ってくるとでも思っているのだろうか。私は「どうぞ、持って行ってください」といった。母親ですら免許を取らせてくれなかったのだから、その点に関しては感謝もしていた。だか
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結婚生活30

本格的に「離婚」に向けて動き始めた。とりあえず、私は母親の家に行くことにした。もちろん長く居座る気はない。仕事はしている、ギリギリまでやればなんとかなる!保険屋さんは福利厚生も豊富だった。中卒の私には、初めてとも言える福利厚生のある会社。けれど会社にはまだ伝えてはいなかった。家が落ち着いてからにしようと思っていた。まず、母親に会うことから始めなければ…。屈辱だった。あれだけのことをされても戻らなければいけない悔しさや自分のふがいなさけれど今は自分より「子供」を優先しなければならない。旦那の子供への育児放棄や金銭的問題、姑舅からの子供らへの虐待。私への侮辱。どちらに行こうとも私には地獄だった。母親と会う時間を作った。久しぶりに会う母親は「いい母親」を演じていた。「心配してたのよ~」だの「子供を心配しない親はいない」だのもう聞き飽きたし、そんなことはどうでもいい。まず、ことの一部始終を話した。今までの6年間の話。母親は「かえっておいで~」と言っていたが、私は「何か下心があるな」とすぐ気づいた。妊娠していることも伝えた。それも踏まえて帰ることにした。旦那の家にも母親の家に帰ることをほのめかした程度にしておいた。そして、旦那の家と母親の家を行き来するような日々が続いた。そうして1か月くらいたっただろうかお腹の子供は順調に育っていた。上の二人の子供には「大人の都合」で振り回されているのが辛くて毎日寝る前に謝っていた…「ごめんね…こんなお母さんで」「絶対離れないからね」と…。段々と旦那の家に帰る頻度を少なくしていった。お腹が大きくなってきたのかスーツがきつくなってきていた。会社にそろそろ言
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社会人18

私は妊娠していた。そのまま彼に報告した。そしたら、すごく喜んで、彼の親に会ってほしい、と言われた。次の日、彼の親に会うために彼の実家に車で向かった。この時、まだ母親には報告していない。彼の実家は、私が住んでいるところから車で40分くらいかかるところに住んでいた。周りの景色がどんどん少なくなっていった失礼かもしれないが、本当にココに人が住んでいるのだろうか、というような田舎だった。コンビニなんてというものは存在せず…。街灯もロクににない集落だった。私は、ドキドキしながら彼の実家の玄関に入った…。そしたら彼のお母さんが出てきて挨拶をしてくれた。そして、妊娠したこと、結婚の意思があること、など色々な話をした。とても和やかな雰囲気でその日は帰った。そして、次は私の母親に言わなければならなかった。母親はなんていうだろう。と考えていた。そしてその日はやってきた。母親は今でいう「どや顔」で居間に座っていた。そして、彼が事の経緯を話していた。一部始終話終わってから、今後どうするんだ、という話になった。まず、結婚をすることの話をしたが、もう妊娠しているため式は挙げないということも伝えた。そして安定期を過ぎたら彼の実家に引っ越すという結果になった。いわゆる「同居」である。安定期に入り、いよいよ私は彼の実家に住むことになった。私は17歳にして彼の親と同居という過酷な世界に踏み入れたのである、安定期に入り、彼の実家は車がないと暮らしていけないような僻地だったのもあり、彼のお母さんが、私に「運転免許」を取ってほしいというのだ。私はびっくりした!そういえば私はもうすぐで18歳になる、子供を産んでからでは病
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中学校生活10

思い出したことがあったので、書き留めたいと思います。私がまだ小学生のころ…あれは何年生だったかな、5年生くらいだったと思う。ある女子生徒数人に「話があるから体育館のステージ下にきてよ」と言われた。その小学校はステージの下が倉庫のようになっており、暗い物置のようになっていた。そこに呼び出されたのだ。私はなんだろう、と言われた時間にステージの下に行った。そこには呼び出した女子生徒と他に数人がいて私がくると、サッと私を取り囲んだ。そして「お前さぁ、邪魔だし目障りだから、死んでくれない?屋上から今すぐ」と、唐突に言われた。私は、その辺りには多分「感情」というものを無くしていたのか「わかったよ、今から屋上いくから着いてきてよ」と言った。そしたら、一瞬ビクっとして「……、目の前で死なれたら、こっちが迷惑だからいいよ、ストレス発散にはなるからな」とだけいって、どこかに行ってしまった。私は、悲しいとか辛いとかそういう感情を失ってしまったと思う。話しを前回までのに戻そうと思う。おばさんの家から中学校に通うことになって、今までの自分はもう捨てよう!と思っていた。もう半年だけど、地域も違うし知り合いもいないし、今度こそはイジメられることはない!と…。それと同時進行で、父の財産の話も進んでいた。財産関係でどうしても父の兄と話しをしなければならない。そして、家庭裁判所にもいかなければならなかった。家庭裁判所では、いろいろな話を聞いた。私が「財産を放棄することで家もなにもなくなる」こと「財産を引きつぐと負債も引き継ぐことになる」など…。私は、これだけの人(親戚や兄、母親など)が、財産を欲しいと思っているけ
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