結婚生活30

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本格的に「離婚」に向けて動き始めた。

とりあえず、私は母親の家に行くことにした。

もちろん長く居座る気はない。

仕事はしている、ギリギリまでやればなんとかなる!

保険屋さんは福利厚生も豊富だった。
中卒の私には、初めてとも言える福利厚生のある会社。

けれど会社にはまだ伝えてはいなかった。

家が落ち着いてからにしようと思っていた。

まず、母親に会うことから始めなければ…。

屈辱だった。

あれだけのことをされても戻らなければいけない悔しさや自分のふがいなさ

けれど今は自分より「子供」を優先しなければならない。

旦那の子供への育児放棄や金銭的問題、姑舅からの子供らへの虐待。
私への侮辱。

どちらに行こうとも私には地獄だった。

母親と会う時間を作った。

久しぶりに会う母親は「いい母親」を演じていた。

「心配してたのよ~」だの
「子供を心配しない親はいない」だの

もう聞き飽きたし、そんなことはどうでもいい。

まず、ことの一部始終を話した。

今までの6年間の話。

母親は「かえっておいで~」
と言っていたが、
私は「何か下心があるな」
とすぐ気づいた。

妊娠していることも伝えた。

それも踏まえて帰ることにした。

旦那の家にも母親の家に帰ることをほのめかした程度にしておいた。

そして、旦那の家と母親の家を行き来するような日々が続いた。

そうして1か月くらいたっただろうか

お腹の子供は順調に育っていた。

上の二人の子供には「大人の都合」で振り回されているのが辛くて
毎日寝る前に謝っていた…

「ごめんね…こんなお母さんで」
「絶対離れないからね」
と…。

段々と旦那の家に帰る頻度を少なくしていった。

お腹が大きくなってきたのかスーツがきつくなってきていた。

会社にそろそろ言わなければな…

母親の家に戻ったとて、あきおばさんの言うような「変わった」様子は、全く見られなかった。

パチンコ屋が近くにないから行かないというか「行けない」だけだった。

母親の自分の子供たちは私の認識では上の男の子が「高校生」のはずだったが働いていた。
そう、中卒。
まともに学校にも行かせてもらえなかったからな…

下の女の子は中学生になっていた。
が、学校に行かないのが当然のように、家にいた。

が、母親は自分の子供には「家事」をさせない。

家はまた「ゴミ屋敷」のようになっていた。

私はまたそれを掃除する。
まぁ、今回は私がお世話になる側だから、それに関しては何も思わなかった。

そして、離婚に向けていろいろ調べたり、何をどうすればいいかなどを裁判所などに聞きにいったりした。

まず、離婚裁判をする前に「調停」というものがあることを知った。

3回まで調停をすることができるようだ、3回で決まらなければ、やっと「離婚裁判」なる、ということだった。
※現在の調停の基準は違うかもしれません。ご了承ください

なるほど…

まずは「話し合い」をして、離婚してくれなければ調停というものをしよう。

着々と離婚と出産に向けて進んでいった。

そしてとうとう私の子供の保育園を転園させることができた。

よし、ここまでは順調。

会社にいよいよ言わなければならなくなった。

会社は「出産育児休暇は使えない」
と言われた。

呆然とした。
え?なんのためにあるの?

理由は明確にしてくれなかった。

一度退社して再度入社になる、ということだった。

私は「わかりました」としか言えなかった。

仕事も楽しくて充実していたのにな…。

これが高卒だったら待遇が違ったのかな、などと思ってしまった。

そうして、会社を辞め出産と離婚に集中することにした。

いろいろなストレスが祟ったのか、検診のときに「切迫早産」の可能性があるというので、入院しなければいけなくなった。

5日ほどで退院できた。

安静に、と言われたが、あの家にいて「安静」にはできない。

家に帰ると普通に家事などをしていた。

母親は「家の床を雑巾がけすれば鍛えられるよ」などと意味のわからないことを言い出したが、そんなことを言うのは今に始まったことではない。

私が妊娠しているからといって「栄養のある食べ物」が出てくる家でもなければ、自分の子供や孫に何かしてあげようという気持ちは全くない人だった。

別に期待はしてなかったけど、「この人は本当に人間の心を持っているのだろうか」
というくらい「自分中心」だった。

義弟妹とは、それなりに仲がよかった。

私の子供のお世話も進んでしてくれていた。

だがどこかにやっぱり「距離」があった。
それは当然のことなのだが…。

私が母親に怒鳴られていると、スーっといなくなる…。
関わりたくないということなのだろう。

そんな毎日を過ごしていたある日
母親から
「ちょっと連れて行ってほしいところがある」
と言われ、私は車を出した。

そして言われるままに車を走らせてたどり着いたところは…

「無人君」

「あんたそこに行ってきて言われるままにしてきて」
と言われた。

私は「ココは何をする場所なんだろう…」
と考えながら小さな箱のようなところに入っていった。

そこに入ると、機械の中からなにか話しけられた…。

細かいことは忘れたが、途中から
「免許証の提示」などと言われ始めた…

こ、こ、これは。

旦那に誕生日の日に連れていかれた「サラ金」というやつではないのか…。

私はフッと後ろを見た。
そしたら母親が扉の外でなにか指示しているがわからない。

機械の人が「何かありましたか?」と言われた。

私は、瞬間的に「なんでもありません」と答えていた。

結果、お金は借りれなかった。
当然である。

旦那からも借金されているものがあるからだ。
いわゆる「限度額」なのだろう。

私はホッとした。

外に出ると「あーだめだったか」
と一言…

私はそれ以上なにも話すことはなかった。

私の周りの大人は私を「借金のかて」にしか見ていなかった。

出産予定日が過ぎ、切迫早産と一時は言われたが陣痛らしいものもこないまま
41週を過ぎ、先生がこれ以上は危険、とみなし、陣痛誘発剤を投与し出産するいことになった。

そして、無事出産した。
男の子だった。

名前はどうしよう♪とワクワクしていた。
これまで私の意見など通ったことがなかったから、今度こそは!
と思っていた。

そして出産後3日…

旦那のお義母さんが病院にやってきた。

私の下の娘を渡してほしい、というのだ!

冗談じゃない!

たまたま下の娘がいたのもあり、病院の廊下で「子供の取り合い」になった。
もはやドラマの世界である、

片方の腕を私が掴み、反対の腕をお義母さんが引っ張った。

泣き叫ぶ娘の声を聞いた看護師さんが慌てて走ってきた瞬間、お義母さんは娘から手を離した!
その瞬間に私は娘を自分のほうへ引き寄せた。

なんてことをしてくれるんだ!

はらわたが煮えくり返るとはこのことか!

私の心臓はバクバクしていた。

しばらく病室に娘を置き、看護師には面接禁止にしてもらった。

夕方きた母親にそのことを報告しようと思ったら…
「出産届!だしてきたよ!名前は○○に決めたから~」
と…。

もう私の精神は尋常ではなかったと思う。

けれど名前か娘かと言われたら、絶対的に娘の保護が先だったから…
というか、そう思わなければ自分を制止することができなかった。







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