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私の人生(高校生まで)

記憶が残っているのは、5歳の頃からです。保育園へ行きだして直ぐのことでした。お友達が「食べきれないからあげる」と言ってくれたカレーを食べたことで私は延長室に呼び出され、酷く怒られたことを覚えています。それ以来、私は保育園へ行くのを嫌がり大暴れ。母に児童相談所まで連れて行かれ、その時の風景も覚えています。私は、生まれて直ぐに大病にかかり、死と生の狭間を彷徨いました。そのせいで、母は私を酷く甘やかして育てたのです。だから5歳になっても、1人で靴を履くという事を知りませんでした。なので、初めての社会生活で園長先生に怒られたことは、大きな衝撃だったという訳なんです。そのまま、家に引きこもり小学校へ入学しましたが、最初は連日大泣き。でも、先生が好きになってからは、学校へ行くのが楽しくなりました。ところが、2年生の時の作文で私は『自分が嫌い』という題をつけました。顔の部品や性格など、嫌な所ばかりを書いたのです。当然、先生は驚き家庭訪問され、親にも何かを言われたのでしょう。それからは、学校へは行くけど授業が始まると直ぐに、頭痛がして微熱が出るようになってしまい、ほぼ保健室に通うようになりました。なので授業はほとんど受けて無くて、何も分からないと言う理由で、また微熱や頭痛で保健室へ行っていました。学校の帰りには、家が近づくと急にお腹が痛くなり、近所のお家へ駆け込みトイレを借りる毎日でした。同時期に、1週間学校へ行くと(保健室だけど)日曜日には40度を超す熱を出して寝込むという生活になりました。今は、うつ病とパニック不安障害と診断されているので、理解できるのですが私は、小学校3年生でうつ病を発症
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聖マリアからのメッセージ

愛する娘たち、そして私の小さな子供たちへあなたが今、どれほど苦しみ、どれほどの痛みを抱えているか、私は全てを知っています。あなたが夜、涙を流しながら目を閉じる時、私はそばにいます。誰にも言えない苦しみを抱え、孤独に耐えているあなたの心の声を、私はいつも聞いています。あなたの痛み、悲しみ、そして絶望の中にあっても、どうか思い出してください。あなたは一人ではありません。あなたの苦しみは、私にとっても重いものです。しかし、その苦しみの中にも、神の愛が確かに存在しています。私たちの父である神は、決してあなたを見捨てたりはしません。あなたが今いる場所、あなたが抱えている苦しみ、そのすべてを神は理解し、慈悲深く見守っているのです。あなたが感じている不正や暴力に対して声を上げる勇気がない時も、それは恥ずかしいことではありません。あなたの苦しみを声に出せない日も、私はその声を代わりに上げ続けます。あなたが押しつぶされそうな時、私はあなたの肩に寄り添い、背中を支える母として、決して手を離しません。この世界には、あなたのように苦しんでいる多くの魂がいます。私もかつて、愛する息子であるイエスが十字架にかけられる姿を見守るしかできなかった母です。その時、私もあなたと同じように無力さを感じました。何もできない、何も変えられないという絶望感が押し寄せました。それでも、私は神の計画を信じ続けました。あなたの人生にも、神の計画があります。そして、あなたが耐え抜くことで、必ずその計画の中で新しい希望が見えてくるでしょう。今、あなたが感じている孤独や苦しみは、決して永遠ではありません。痛みの中にあっても、愛と希望
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夜驚症(やきょうしょう)

こんにちは、りあら♡です。夜驚症という言葉をご存じでしょうか?『睡眠障害の一種であり、恐怖の叫び声などを伴って、突然目を覚まし、おびえたような表情や動作を示す症状』だそう。また、夜間睡眠時に起きて歩き回る夢中遊行症(夢遊病)というのもあります。私には、その両方の症状が、同時に起きていました。幼少時、眠った後、夜中23時頃に起き出し、泣き叫びながら家中を走り回る、という行動を、私は毎晩繰り返していたのです。たぶん3歳から5歳くらいの間なので、自分の記憶なのか、親から聞いた話なのか定かではないのですが。でも、その時走りながら感じていた、言葉にできないほどの恐怖、悲しみ、張り裂けそうな思いは、今でもはっきり覚えています。そんな私を見て、怒り狂う父親の姿と怒鳴り声これもはっきり覚えています。大人になってから、納得しました。なぜ毎晩、こんな行動をとっていたのか。私の父は、感情を抑えることができず、いつもイライラしていて、ちょっとしたきっかけで爆発して、怒鳴っていました。そんな父に、私たち子供も、母親も、いつも怯えていました。何もしていないのに、激怒され、私は泣いてしまうのですが、父は泣く子供が大嫌い。「泣くな!」と激高し、もっと怖い目にあうのでした。泣くことを禁じられた私は、昼間起きている間、何をされても、どんなに怖くても恐ろしくても、ギューッと拳に力を入れ、泣くことを我慢をするようになりました。だけど感情は放出できずに体内に残ったまま。それで、眠って無意識の状態になった時に、泣き叫びながら走り回ることで、感情を放出させるという、精神を守るための、身体の自動反応だったのでしょう。小さい私
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素晴らしきかな人生色々♩が糧となり武器である!【最強説】

ごきげんような愛子です~人間、生きてりゃ ええこと あるでな( *´艸`)↑↑↑↑↑今年の秋のメインテーマは学問の秋です!!芸術の秋🍁  スポーツの秋🏀食欲の秋🌰 🍠ジャ~ この前、さっそく「芋ご飯💛」作ったよ🥢ということで以前から資格取得の構想を考えながら激動なる華麗なる?人生を駆け抜けておりまして、、、あんまし人生の舞台裏は語らんのやけどな~他人が聞いて「楽し💛」って思えるんでも無いからニャ~🐈反応、困るやんかな~(*´σー`)エヘヘ~ん!!最初の結婚でDV??劇場なるもの人生勉強させてもろて!【最強説】の入り口に突入してみたさ('ω')次は、ですな~連れ合いが精神疾患発症で警察が何度も家庭訪問(出動)で・・・家族崩壊を体験してみた。愛子さんのお子達が「とんでもなく賢く大人過ぎて」救われた!!愛子さんは児童・障害福祉/障害分野専門でありますので自分は障害への認知や理解は一般以上の熟知なんやって思ってた・・・「家庭崩壊」かあ・・・連れ合いは精神病院へ長期入院に突入である。我が子達は受験ラッシュに突入しており・・・当時、まだ1歳だった娘は「児童福祉法」により「保護対象児童」となり・・・愛子さんは自分で娘の保護要請をしたんさ。職種ならではの愛子さんの「冷静沈着さ」・・・が、である・・・実際に重度の精神疾患の家族という当事者となった瞬間は・・・何が起きているのか?何がどうなってるのか?受容の置き所が分らんかった・・・生活しないと・・・子ども 学校に送り出さないと・・・そんな経験をサバイバルして今を絶賛、生きてるんだよ~(≧▽≦)育ちの環境もあんましヨカッタ♡って言えないかもニャ~🐈
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地獄への道…16

色んな事が変化していく中で私の「記憶」だけは変化することはなかった母親からされてきた虐待小中と受けたイジメそれが大人になっても続いた数々のイジメそれがフラッシュバックという形になってこれから何十年も恐怖に陥れた。今まで「目を背けてきた嫌な過去」それが自分の意に反して強制的に思い出される父親から言われたこと母親から言われたことされてきた暴力それを見て見ぬ振りをしてた「周りの大人」の冷たい視線「ブス」「デブ」「近寄るな」「触るな」「汚い」「笑うな」「死ね」「お前は生きてるだけで迷惑だ」「臭い」無視親や周りからサンドバックにされてきた自分の子どもを「金づる」にもされた私のやっとできた友達にさえも母親が「お金の無心」をして…嫌われた働くところは全部潰された身体も心も「労わる」なんて言葉は存在しなかった私がお父さんの思うような頭がよくて、スポーツができて、スタイルが良くて、友達もたくさんできてお父さんの「自慢の子ども」だったらお父さんは自分の命を持ってまで、私に嫌がらせをしたんだ…私がいなかったらお父さんも死なずに済んだお祖母ちゃんもお爺ちゃんも私がいなかったらもっと穏やかに生きれた私がいなかったらお爺ちゃんお祖母ちゃんもお父さんと仲良く過ごせた全部、私が産まれたせいでみんなの人生が狂ってしまったそして、私も自分の子どもの人生を狂わせようとしているのかもしれない恐怖何度も自分を責めたり親を恨んだりしたなんで要らない子ども(私)を産んだのかなんでお祖母ちゃんは母親の悪口を一切言わなかったのか私を産んだのも「嫌がらせ」だったのかお父さんは私をみて母親を思い出し、憎かったんじゃないかだから出来
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不安障害

確実に私は不安障がいと愛着障がいです。自分で治せないの?と思われるかもしれませんが人間は過去に戻れません。どれだけお金があっても、努力しても戻れません。だから過去を悔やんでも悲しんでも仕方ないのです。そんなことはわかっていても、悔やんだり後悔したり 悲しんだりしますよね。過去の出来事で色んな症状が出てしまっている方に私の体験から 何かお役に立てないか?と思ってお話しをお聞きしています。私は赤ちゃんの時から学校に上がるまで写真が1枚もありません。姉は立派なアルバムがあります。私は七五三を一回もしてもらっていません。誕生日もサンタさんも何もありませんでした。だから今色んな弊害に苦しんでいます。私にとって過去ではなく苦しめた毒親は今も私に寄生していて私は介護をしています。そんな馬鹿な私はね幸せなんです。一緒に頑張りましょう!!
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なぜ我慢を選んだか

私の人生の大半が親によってめちゃくちゃにされました。子どもの頃はそれを友達にバレたくなくて幸せな子どもを演じていました。大人になって、カウンセリングをするきっかけで少しだけ友達に私の不幸が分かってしまった時みんな口を揃えて「なんで我慢したん??」と聞きました。私の不幸のほんのほんの一部だけ知ってもみんな驚いて、自分なら耐えられない病気になる…と言いました。うん、病気になってるよ(笑)それでも我慢した理由は・・・脅迫されていました。養父に驚くべき卑劣な脅迫をされやりたい放題 言いたい放題されていました。普通の家庭・・・それがどれほど幸せか・・・羨ましかったな~だから私の夢は動物の殺処分ゼロ悲しむ子どもゼロ死ぬまで活動します!!
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僕がカウンセラーになった理由 ~ ⑤彼女に会いにいきます

自死の選択をした彼女の真相を妹さんから教えてもらった僕は、カウンセラーになろうと決意しました。そして、彼女の最後の日から一年後、僕はあの場所へ。「姉の方法を真似れば自分にもできるんだって思ってしまう自分がいるのです」12月31日午後11時59分。彼女がこの世を去ったあのときから一年。 その一時間前、彼女が人生の最後の風景を見たその場所に、こっそりと僕は足を運びました。 (こんな高いところから・・・)夜空にそびえる灰色の建物を見あげると、恐怖が全身を覆いつくそうような感覚に襲われて、彼女の気持ちがわからなくなってゆくのです。 (僕はまだ、あの子の苦しみを理解できていない。  もしかしたらあの子も、あの高さから・・・。 その可能性が1%でもあるのなら・・・)高層マンションに立ち入れば不法侵入になってしまうので、僕は付近の駐車場あたりをうろうろするしかありませんでした。 その年が終わる30分前、僕はあの子に電話をかけました。 でも反応がありません。 僕は不安になりました。もしもあの子がこの近くにいたら・・・ いまあの子が姉のあとを追おうとしていたらと思うと、ついあせってしまい、訳も分からずそのあたりを駆け巡るのですが、いったいどうしたらよいのか。 幸いなことなのかどうか、どこにもそれらしい姿は見えません。 (どうかあの子が無事でありますように・・・)除夜の鐘の音を聞きながら僕はうろうろと駆け巡り、マンションを見上げるたびに心のなかで祈りました。 そうこうしているうちに、来てほしくもない新年が・・・。 どこか遠くから、誰かが楽しく騒ぐ声が聞こえてきます。何事も起こっていない? いやま
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自己受容と許し~虐待された過去を乗り越えるための道~

虐待された過去を持つ人にとって、その経験が心と体に与える影響は計り知れないものがあります。傷ついた心を癒し、過去を振り切るためのプロセスは一人ひとり異なりますが、その中で「自己受容」と「許し」という概念は非常に重要な役割を果たします。❇️自己受容とは何か?自己受容とは、自分自身をありのままに受け入れることを指します。過去の経験、現在の感情、そして未来への不安も含めて、自分の全てを受け入れることです。特に虐待の経験がある人にとっては、自分を責めたり、自分を否定したりする傾向が強くなることがあります。そのため、自己受容は非常に困難な課題となり得ます。❇️自己受容のステップ1️⃣自分の感情を認識する:    自己受容の第一歩は、自分の感情を認識し、それを無視せずに感じることです。怒り、悲しみ、恐怖などの負の感情も含めて、自分の感情を否定せずに受け入れることが重要です。2️⃣自分に対する優しさを持つ:    自分に対して優しく接することを意識しましょう。自己批判をやめ、自分を責める代わりに、自分を励まし、サポートすることが大切です。3️⃣現実を受け入れる:    過去の出来事を変えることはできませんが、それを受け入れることは可能です。過去の出来事を否定せずに、今の自分を形成する一部として受け入れることが必要です。❇️許しの意義許しは、自己受容と密接に関連していますが、より難しいプロセスかもしれません。許しは、過去の虐待を行った人々を許すことだけでなく、自分自身を許すことも含まれます。自分を責め続けることは、心の傷を深め、癒しのプロセスを遅らせる原因となります。❇️許しのステップ1️⃣過
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地獄への道…15

私は、その頃には薬漬けになっていた。とにかく子どもたちに悟られないように「テンション」を上げるに必死だったのだ。そして「働いていない」自分にも苛立ちがあった。それでも子どもたちは大きな病気せず、すくすく育ってくれている。それだけでも本当にありがたいことだった。転校が決まってからは、息子はすっかり元気を取り戻した。支援学校に行くことも保護課の担当の人に伝え、色々な手続きや買いそろえなければならないものがあって気持ちはだいぶラクにはなったが、体は休んでいる時間はそれほどなかった。今までもだが、これからもずっと「独り」で、誰にも頼らず生きていかなければならない。私は「生まれた時から一人」だから。私だって、幸せになりたかった。私が望んだのは「ごくごく普通の家庭」贅沢をしたいわけじゃない。高価なブランド品を身に付けたいわけじゃない。ただお父さんお母さんという人がいて子どもがいておじいちゃんおばあちゃんがいておじいちゃんおばあちゃんから子供たちは色んな遊びや、お話を聞いたり話したり私はお姑さんから料理を教わったり…。たまには家族でピクニックに行ったり家の敷地でBBQしたり。そんな家庭が欲しかっただけ子どもは「計画的に」なんてみんな言うけど「計画通り」に行く人生なんて「1つ」もなかった。再婚した当時は元旦那にもそれなりの年収もあったし、それに甘えないで生きようとも努力した。私はいつも「必要」とされたかった。かといって、子どもに対して「お母さんがいなくなったら悲しい?」なんてことは言ったことも思ったこともない。誰にも頼らず、というより「頼れない」が正しい、かな私は「止まる(休む)」ことは許され
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天使と悪魔のレメディ  マーキングナットAnac.

以前、子育てについてのブログを上げました。(↓ こちら★)今回は少し暗いレメディなのですが、家庭環境の影響でこんな人も多いんじゃないかなと感じたホメオパシーのレメディがあります。マーキングナットAnac. (写真は、Wikiより)これは、インド、マレーシアなどの森林地帯に生息する低木、マーキングナットの種です。このマーキングナットAnac.があっている人は、子供が自分で選択することを許されずに育ち、虐待されてきた人に多いレメディです。ジキルとハイドのレメディとも言われています。完全な親の支配下にあり、子供はそれに応えようとしてふるまいます。それは、言いなりにならないと、罰が待っているから。そして、あまりにも期待通りにばかりふるまうために、アイデンティティが育たず、自身の欠如になり、優柔不断、不安な状態に陥ります。そして、それが長期間続くことで、悪意を持ち始め、世の中に対して反社会的になったり、残酷な状態に陥ってしまう。最悪な場合には、自殺願望を抱き、実行してしまうことも。自分の中に天使と悪魔がいるような、まさにジキルとハイドのような二重性の感覚や、精神と身体が分離しているような感覚も出てきます。以前、秋葉原通り魔殺人事件の記事を見て、加害者の加藤智大はこのレメディに近いんじゃないかなと感じました。幼児期からの母親による厳しい教育と、それに応えないと虐待されることに怖れ、母親のいう通りに(着る服まで決められていたそう)生きてきて、最終的には凄惨な事件を起こしてしまう。まさに、このマーキングナットAnac.だなと感じました。身体的な特徴としては、体の一部に栓をしたような感覚やバンド
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【開運】なんで?恋愛で苦しむ理由10

皆様こんにちは!べリザと申します。ココナラでは、サイキック能力を活かして占い、リーディングをはじめ、エネルギー的な変容を促すセッションを行なっております。なんで?恋愛で苦しむ理由101.コミュニケーション不足コミュニケーションが出来ないそれは精神的な部分の様々が関わってもいます。・強迫性・心配性・隠れうつ・不安症恋愛では、どちらか一方にそのような気質があればどうしても双方のコミュニケーションが難しくなります。2.信頼の欠如これは、パートナーが恐れや怯えなど、パーソナリティーの課題の領域や自尊心や自己肯定感など、自分自身に関する部分が影響している事が多いです。恋愛の場合は、双方のエネルギーが混ざり合うので、お相手のものも自分のものになることが多く見受けられます。なかなか、本音を言えないなど壁やバリア防衛本能が大きく影響します。本当は、包み隠さず素直に話してくれるのなら疑念も晴れ、本心を知るきっかけになりますが、、、思いやりという偽善もあったりするので背後に何が潜んでいて、何を隠しているのか?を確認するとスムーズに解消できます。3.依存関係依存とは様々な領域で現れます。それがないと生きていけないなど。経済的な縛りや、支配や強制するような関係は依存関係に含まれます。⚠️依存とは、あなたが本当は求めていない何かを取り入れている時に引き起こされます。依存の種類には・・・・恋愛依存・セックス依存・仕事依存・人間関係の依存・両親への依存・子供への依存・アルコールへの依存・ダイエットへの依存・娯楽への依存・食べ物に関する依存それは、あなたのストレスの素でもあります。4.嫉妬や不安未来への期待や
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地獄への道…14

待てど暮らせど、学校からの電話や手続きの手紙などはこなかった。もう10日も過ぎると段々苛立ちと焦りが出てくる。その間も支援学校とは連絡を取っていた。支援学校の方は「すでに息子君が転入してくる準備はできています。書類だけです」という電話で、こちらも申し訳なく思ってきた。その電話で「私の方も早くそちらに転校させたいのですが、学校の方が手続きをしてくれないようで…息子も私も困っています」と話した。支援学校の校長先生はとてもいい方で、「お母さんも息子君も辛いですよね、早く手続き取ってくれればいいのに…もちろん支援学校の方からも現在の学校に連絡はしていますが、濁されてしまっている状態で」と話してくれた。支援学校の校長先生も動いてくれている。それなのに、あの学校は…。そんなに「学校にお金が入ること」が重要なのか。今のようなネットが普及している時代ではなかったが、明らかに「嫌がらせ」としか感じられない学校の行動発言。許せない。どうしてやろうか、そこに気持ちがいってしまった。前回も市教委や県教委に行ってもどうにもならなかった経験がある…。もちろん「弁護士」にも相談した。田舎の弁護士は、圧力に弱い。法律や人権とはなんだろう、と本当に考えさせられることばかりだった。それでも何度も学校に電話や面談をしに行った。理解をしてもらおうなんてことは諦めていた。なんでもいいから早く「転校手続き」を取って欲しかった。このままでは、息子は壊れてしまう。息子の気持ちを考えると本当に腸が煮えくり返る気持ちと悔しい気持ちと…申し訳なさでいっぱいだった。「どうせ自分なんか…」と思ってほしくない。できないわけではない、決し
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地獄への道…13

息子の病院の先生から、息子のことをわかってもらった安心感でいっぱいだった。これでスムーズに物事が動く、そう思っていた。なにせ「診断書」があるから。これがもらえなくて息子も私たちも苦しんだ。けれど現実はそうはいかなかった。学校に電話をした。もちろん診断書のことである。そして、それに伴う「支援学校への転校」の件。これはさすがに学年主任や担任だけの問題ではないだろう、と考えたのであらかじめ担任の先生に「診断書がでたのでお話がしたいのですが」という電話をした。先生はあまりいい返事ではなかったが、時間を取ってもらうことにした。そしてそのことを息子に話すと、一気に顔が暗くなった…。私は息子に「これはね、これからあなたが支援学校に気持ちよく行けるための書類とか、話し合いをしなければならないの。とても大事なんだよ、あなたが学校に行きたくないならお母さんだけが行ってくる。あなたはもう傷つかなくていい」そう伝えた。学校に行かなくてもいいと聞いて少し安心したのかホッとした顔ではあったが、暗い顔をしていた。それを見て、わたしは「絶対、この子に同じ思いはさせない」そう強く決めた。お姉ちゃんや妹は、気を使ってか息子の前で学校の話をすることはなかった。息子がお風呂に入っている間や、いない時に話すが、息子は友達からはとても好かれていた存在だったので、学校が終わると息子を誘ってくれる友達が多かった。それでもその友達は「無理に学校にこなくてもいいよ!俺たち学校が終わればいつでも遊べるし!」という優しい友達ばかりだった。それを見て、娘たちも気を遣うことなく、少しづつ学校の出来事を話すようになってくれた。お姉ちゃんに
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私の過去について①

いつも読んでいただいている方 初めましての方、訪れていただきありがとうございます。ここから先は、ご興味ある方のみお読みください。*ご気分を害す記述があるかもしれませんのでご了承ください。家族構成 父・母・弟・妹 1984年8月某日 私は生まれました。過酷な事が起きることも知らずに 生まれてから、3年間のことは、 写真も少なく、記憶もありません。 写真で見る限りは、祖父母や叔母・叔父と笑っていました。 記憶の中では、叔母と遊んでいることが多かったと思います。 私が4歳の時に弟が生まれましたが 「かわいい」と言えずにいたのを覚えています。 そのころから歯車が壊れ始めたのかもしれません。 「躾」 という名の暴力・・・が始まりました。 何をしても怒られる。 時に物置小屋に閉じ込められ 真冬の外に裸足で数時間も立たされ 髪の毛を掴まれ引きずられたことも。 「お手伝い」は当たり前・・・ 弟の世話 洗濯・掃除 全てやるのが当たり前だし普通だと思っていた。 でも、実際はそこまで手伝いをしている同級生はいなかった。 保育園時代も 小学校時代も 弟が生まれて4年後に妹が生まれた。 「赤ちゃんかわいい」って思ってたけど やっぱり口に出しては言えなかった。 だって、お世話はあたしがしなきゃ・・・と思ってしまったから。 そして、また怒られることが増えると・・・ 思い描いていた家族のイメージとは かけ離れていた・・・ 朝が来るのが恐いとさえ思っていた。 起きた瞬間・・・いや・・・ 寝ているときでさえ自分で自分を抑えることに 必死だった・・・ お風呂・・・ 食事・・・ お風呂は一年中、水風呂 温かいお風呂に
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地獄への道…12

前から雰囲気が悪くなっていた「お隣さん」…。とうとう実害、というか当たりが強くなってきたのと、発言と暴言が多くなっていた。前から少し発言は気になっていたが大家さんに相談していたため、原因はわかっていた。だから、あまり前のようには関わらないようにしてきた。が、その時はあまり深く考えなかったが、夜中にいきなり叫び始めたり。その原因が「私の家の子どもたちがうるさいから」と。とうに子供たちは寝ている時間である。子供たちは21時前後には寝ている。お隣さんが叫ぶのは22時過ぎ…。私自身も22時には寝ている。叫び声で起こされるのだ。それが数日続き、とうとう「子供たち」を怒鳴り始めた。学校から帰ってくる時間を狙っているのか、偶然なのかはわからないが子供たちが家に入る寸前を狙って「お前ら!!毎日うるせぇんだよ!!」と怒鳴り始めたのだ。子供たちもビックリしていた。私もその時はすぐ玄関にいって謝っていたが、これが続くのはもう耐えられなかった。大家さんは当時すでにご年配のため、アパートの管理を大手の管理会社に譲渡していた。そこで、その管理会社に電話することにした。が、明確な対処も得られず…。大家さんからは何も聞いていないという返事だった。これではコチラばかりが「クレーマー」のようになってしまう。そう感じた。どう考えても「子どもが住んでいる」という時点で、コチラが悪くなるのは分かっていた。もう…引っ越すしかないか…。とはいってもすぐに引っ越せるわけもなく…。生活保護を受給している以上、今まで通りにはいかない。まずは「目の前」のことを1つ1つこなしていくしかなかった。上の娘も中学生になり、それなりに学校生
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過去(トラウマ)との対峙の仕方 その6「心の臓」

2日目 朝起床。洗顔、掃除、朝食。午前中の一柱目昨日、散々、両親を切り刻んだので、いい加減、飽きてきた。過去のトラウマを、また、再生し始める。泣き止まないといって、逆上して、大きな声でわめき、手加減してるとはいえ、5歳の男の子をひっぱたく、30代の大の男。私が成長してから、「しつけ」だったと説明されたが、記憶の中の男は、どう見てもキチガイじみていた。もちろん、「悲しく」「つらい」のだが、何度も、何度も見てると慣れるし、やはり、飽きてくる。そして、あまり、何も感じなくなってくる。「ああ、また、泣かされてる。」記憶の中の泣いている5歳の自分は、自分なのだが、それを眺めている今の冷静な自分がいる。両親を切り刻む時の自分は、今の年齢の自分だが、やはりそれを眺めている冷静な自分が、また別にいる。はて、よく考えると、二人の自分が、心の中にいる…。セミが鳴いている。アブも飛んでいる。アブは鋭角に直線的に飛ぶが、ホバリングして、空中で静止できたりもする。私に刺さないか、要注意だ。刺されれば、さすがに、座禅どころの話ではない。夏の風が、畳越しに吹いてくる。外は暑いだろうが、寺の本堂はヒンヤリして涼しい。トラウマの再生や復讐の血の海から、一瞬、気が散った私は、ある事に気づいた。「結構、心臓って、動いてるんだな…。」「心臓」は、もちろん、自分の意思でコントロールできない。「死ぬ」その瞬間迄、勝手に動いてくれる。左の胸が、大きく波打っている。聴診器や手をあてれば、鼓動が聞こえたり、動きを感じたりはできる。ただ、座禅をして、背筋を伸ばし、静かにして脱力していると、心臓が脈打つたびに、左側の上半身が結構、
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負の連鎖とは。。。児童虐待の現場で。

児童虐待の現場に接することはとても心が痛む事が多い。目の前にあるのは虐待を受けている児童。しかし虐待をしていると指摘されている親や家族にも虐待の経験がある場合が多い。特にネグレクトや暴力といったことに関しては加害側の人が幼少期において、家族から同様なことをされていたケースが多く。「私も親にこのよう育てられたから」という答えが来る事が多々ある。ネグレクトの場合、現在自分の子供に対してネグレクトをしている親との話をすると、親自身がネグレクト状態で育っており、子供との接し方が分からない、どうしていいか分からないという答えが多々あるのである。ネグレクト状態と指摘をされても何がネグレクトになっているのかの理解が出来ず、自分がどうしたらいいのか分からないという方も多くいらっしゃいます。
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地獄への道…10

こんな人生、終わってしまいたい。そうずっと思っていた。その度に「自分には子どもがいる」と言い聞かせてきた。私の感情など、どうでもいい。この子たちが「幸せ」であればそれでいい。私の役目はこの子たちを自分のような惨めではなく「幸せな人生」を送らせてあげること。それだけしか「私の価値」は要らないし、価値すらない。息子が「支援学校」に通えるようになるまで、家にいたが、それを心配した支援学校の校長先生から電話が度々きていた。「息子くん、どうしてますか?もしよかったら、転校手続きが終わるまで、少し学校にきませんか?」と言ってくれた。私は、涙が出るほど嬉しかった。私は「ありがとうございます。息子は今外で遊んでいます。息子に話してみて、もし希望があればお伺いさせていただきます!」と答えた。その日の夕方、息子が帰ってきた時、早速聞いてみた。そしたら息子は「え!!いいの!?行きたい!」と飛び跳ねて喜んでいた。私もそれを見てとても嬉しくなった。翌日、早速学校に電話した。校長先生に代わってもらい、息子が行きたいと言っていたことを伝えたら「いつでもお待ちしています!」と言ってくれた。息子は「明日にでも行きたい!」という感じだったし、この電話で行くことを伝えた。「学校の都合が良ければ、明日にでも伺いたいのですが…」というと「もちろんです!明日は学校の方も特別な行事がないので、ぜひ!先生にも話しておきます!」と言ってくれた。そのことを息子に伝えると息子は張り切っていた。まだ、転校できるとは決まっていなかったが、それでも「学校にいく」ということは子ども心に嬉しかったのだろう。お姉ちゃんや妹も誰も責めたりはしな
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安全基地を理解する

こんにちは!食べ過ぎの日々の原です。痩せないとなーと思いつつ食べてしまいます。さて、最近、アタッチメントについて取り上げてきましたが、これに関連してとても重要な概念があります。それが「安全基地(secure base)」です。以下では安全基地の説明をしていきたいと思います。安全基地とは、2~3歳頃になる子どもにみられるもので子どもの不安やストレスを軽減して安心感や安全感をもたらす養育者の存在のことを言います。アタッチメントのタイプがどれなのか理解するためにエインズワースがストレンジ・シチュエーション法を作ったのですが、安全基地もエインズワースによって作られました(別の研究者が作ったといわれることもあるのですが、ここではエインズワースにします)。安全基地について例えば、公園に行くと子どもが1人で遊びに行きますが、困ったり泣いてしまったりして自分自身の不安感が高まったら母親のもとにいくのは母親が安全基地の役割をしているといえます。より専門的な表現をすると、子どもが1人で探索行動をしている中で不安場面や恐怖場面、欲求不満場面が生じるとすぐに養育者(主に母親)のところに戻ってきて接触行動や定位行動をとります。これは、養育者との物理的接触を取ることで安心感や安全感を持とうとするアタッチメントの行動といえます。大切なのは、子どもが1人で探索行動をして不快な場面が生じたら養育者のもとに行き、ストレスや不安感を低減させてからまた探索行動に行くことを繰り返すことです。これを何度も行うことではじめてのおつかいにも行けるようになるのです。子どもの発達で安全基地が取り上げられることが多いのですが、人間
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地獄への道…9

保育園から受けてきた「発達検査」。息子は小学5年生になっていた。それでもまだ自分の「名前」さえ漢字では書けなかった。決して複雑な書体ではない。名前だけでも画数は20。マンガを買ってみたが、見ているのはマンガの「絵」だけ。内容は理解できていない。マンガもその当時流行っていたアニメで、わかりやすいかと思い購入した。それでもペラペラとめくって終わった。「面白くないの?」と聞いてみたが「よくわかんない!」で終わってしまった。一緒に読もうか、と誘っては見たものの断られてしまった。だが、息子の「コミュニケーション能力」は、他の姉妹より長けていた。どこでも「友達」になれる。それは凄いことだと思った。そこを伸ばしてやりたい。いい意味でも悪い意味でも「KY」なのだ。いつだったか、学校の先生に言われたことがある。「息子君ね、すごいよ」と笑いながらだったが話してくれた。先生が廊下を走っていた生徒を廊下で叱っていたそうだ。数人いたそうだが、先生自身も叱ったのはいいが後に引けなかったという。そして次の授業の時間まで怒りを持ちこしてしまい、生徒も先生もどうにも引けなった状態だったという。そんなところに、息子が「♪~♪~」と鼻歌を歌いながら廊下の影の階段から降りてきたそうだ。息子の鼻歌を聞いた先生と生徒は、あまりの可笑しさにお互いに笑ってしまい、その場は納まったというエピソードがあった、という。階段を下りてきた息子は、そんなことはつゆ知らず、シレッとその場を去って行ってしまったと。「お母さん、本来はね、先生が怒っている声なんかを聞くと他の生徒は静かにして当たり障りないようにしていくんですよ、けれど息子君は違
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今では考えられない母の怒り方

とにかくヒステリックな人でした。 何がきっかけでキレ始めるか分からず、一度切れたら数時間にも及ぶお説教。 お説教と言えるのかは、別ですが。。。 元々理容師をしていた祖母が亡くなる前までは、祖母が髪を切ったり 眉を整えたりしてくれていました。 祖母は私の入学式の日になくなりました。 おしゃれやメイクに興味を持ち始め 初めて自分で眉を整えた時のことです。 当時 結構、眉が濃く眉の真ん中が薄っすら繋がっていたので 洗面所にあった剃刀で眉の真ん中と眉の下を祖母がやってくれていたように剃りました。 整った眉で顔が違って見えたのか 母は眉を剃ったことにすぐ気が付き **「おまえ その眉毛なに?剃ったんか!?」**と突然キレはじめました。 いつも祖母がしていてくれた事を自分でしただけなのでそんなに怒られると思ってなかった私は何も言えず萎縮していました。 「正座しろ」と言われテーブルの前に座ると、母は剃刀をもってきて
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誹謗中傷やいじめの中で生きる④自分の気持ちを言葉にして自分を知る

言語化。言葉にする話をしています。ここでは、心理学に近い話を書いていきます。いきなりですが。この一言や誰かの言葉、何かの文章で、ふと、自分の考えが大きく変わることは、ないでしょうか?少し考えてみて下さい。好きな人とか、親、上司、先生、友人など、影響を受けた誰かの言葉が出てくるでしょうか?それは、もしかしたら、自分の中で言葉に出来ていなかったことかもしれませんし、自分が全く考えていなかった言葉かもしれません。前回紹介した本は、ベストセラーですが、知らない方が読むと、衝撃的な内容と思うかもしれません。このように、人は、自分の外にある言葉に影響を受けるのですが、求めているものが、自分の目や耳に入ってくることが多いです。例えば、忘れ物をすることが多くて、起こられたり、嫌がらせを受けている人がいるとします。この方が、発達障害のADHDという本を読んだときに、「もしかしたら、自分のことかもしれない。」と思うことがあるかもしれません。そして、ADHDのことを知ると、次の行動で、治療方法などを探していく行動に出る可能性があります。このように何かを知ることで、行動が変わるという事があります。例えば、学生がいじめを受けている時に、フリースクールのことを知り、この場所なら、学校に行けるかもと考えて、行ってみると友達が出来たという事もあったりします。このように言葉は、知識になり、行動に変わります。何がどこで、変わるか分からないので、色々な言葉に触れていくのは、大切な事です。個人的な話ですが、僕は、子どものころ貧しい環境だったので、クラスメートが読むような少年ジャンプなどの雑誌は、買えませんでした。よく
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理不尽過ぎる母 私の自己肯定感が育たなくなった原因

小学生の時、朝 学校に行くのが遅くなってしまった日のことです学校に遅刻の連絡をしてもらった事もなく、学校まで送ってもらったこともありませんでした。たぶん10時くらいは過ぎていたんじゃないかと思います。学校に向かおうを家を出るとき、「母からゴミ出して行って!」と言われ、結構大き目な段ボールにゴミが詰められた箱を渡されました。小学生の私にはとても重く持ち上がらず、引きずりながら運びました。ゴミ捨て場は一般のお家の前なのですが、すでにゴミの収集は終わった後だったようで一つもありませんでした。出さないと母に叩かれる。。。もうゴミないけど出していいのかな?と思っていたところ 収集場所の前の家の人が気付き「もう収集終わってるから出しちゃダメだよ」と注意されました。もちろん出してはいけないのは当たり前に分かっていたのですがその時はどうしよう叩かれる どうしよう。。。しか頭にありませんでしたとは言え持って帰るしかないし、ちゃんと伝えれば大丈夫だろうと自分に言い聞かせ また重い段ボール箱を引きずり自宅へ戻りました家の前に置いて、部屋にあがり 母に「ゴミ捨て場の前の家の人が、もう収集終わったから出したらダメだって」と伝えました。母は「はぁ???」とキレ始め、「あのゴミどーするん?」「私子が遅刻なんかするから間に合わんかたんじゃろーが!」「ゴミどーにかしてこいや!!」などの罵声を浴びせながら私を殴る蹴る。髪も引っ張られぐちゃぐちゃ 泣いて顔もぐちゃぐちゃ、その日は学校休みました。ちなみに学校に行くのが遅くなった理由なのですが、当時は3人姉妹(内3番目だけ弟)で3人分の洗濯済の衣類が部屋に山積みになっ
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自分が虐待されていたと気付くまで

皆さん こんにちわ、こんばんわ今日は自分が ”母の行為は虐待だったんだと気付くまでのお話です。小学校低学年の頃 祖母の家に預けられ、祖母と一緒にお風呂に入った時の事アザだらけの私の身体を見た祖母に「身体どうしたの?」と聞かれ、私「お母さんに怒られた」と答えました。お風呂から上がってすぐ祖母が私の自宅に電話をし「あんた、これ虐待よ」と言っていました。そのころ私自身 虐待という言葉も知らなかったですし自分が悪いから叱られたんだと思っていました。はっきりとは何を話していたかは覚えていませんが、祖母は結構長い時間、母と話しをしていました。翌日 学校があるため自宅に帰宅し母に言われたこと。「私(母)があんたを虐待してんだってよ。何が虐待じゃ、あんたがいらん事するけぇ怒られるんじゃろ」もうずいぶん前の事なので私が何をして怒られたのかは覚えていませんがこの頃は、蹴られるのは当たり前で、布団たたきやダスキンのモップの棒で叩かれたりしていました。祖母は母に虐待を指摘して以降 一つ変わったことがありました。武器が硬い物から柔らかい物へ記憶にあるのは 皮のベルト。硬い物で殴るとアザができるのですが、皮のベルトだと皮膚の表面が赤くなるだけでアザにはなりません。これも大人になってから気が付きました。。。そこから数年後 母からの暴力やお金の要求に耐えられなくなり家出をし関西に逃げ、野宿→パチンコ店で住込みバイト→夜職そしてモラハラ夫と出会い5年交際の後 妊娠出産。5年付き合っても、モラハラに気付かない超鈍感な自分に乾杯 笑そして一人目の子を産んで育児してて気が付きました。母の行為は虐待だったんだと。自分が
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地獄への道…8

2時間かかろうが、「息子の診断」をしっかりしてくれるところならどこでも診察してもらいたかった。藁にもすがる思い、とはこのことかと思うくらいだった。私は元々「地図」が苦手なので初診ということもあり電話して場所を聞いた。それでも想像は付かなかったが、「近くまで行ったらまだ電話してもいいですか?」と聞いたら快く受けてくれた。秋田市内すらあまり詳しくないが、そこを越していくとなると本当にわからない…。息子を乗せて長時間の運転に耐えられるだろうか…。その当時、私の車にはテレビがみれるようなものもなく、DVDを見せたいが、そうするとカーナビの地図が見れなくなる…。私は息子が退屈しないように話しかけたりして運転していた。その病院は、大きい病院のように「数か月待ち」という状態ではなかったため初診でもすんなり受付をしてもらえた。もちろん、発達障害の検査は時間を要するだろうが、まずは診察から…。数時間走っていくと、もう少しのところで道に迷ってしまった…。病院に電話するか…。電話してみると、丁寧に教えてくれた。「わかりずらいですよね、安全運転でいらしてください」と言ってもらえた。やっとの思いで着いた、その病院は周りには何もなく、道を挟んだところに喫茶店のようなものがポツンとあるだけ…。周りは木々に囲まれていた。建物は新しい作りになっていた。いよいよ診察である。受付に行くと笑顔で「遠くからお疲れさまでした」と言ってもらえた。待合室という「物々しい」感じはなく、まるで「別荘」を思わせるような造り。待っている人は置いてある本を読んだりしていたが、そんなに多くの人はいなかった。数分待っていると「こんなに早い
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地獄への道…7

生活保護が決定してから2週間くらい経っただろうか、保護のお金が振り込まれていた。少し金銭面的には安心したが、前にも話した通り「人間失格」を張り付けられたような感じがし