愛のある男

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子供を育てていると、人間がどのように意識が形作られていくのか、その後どのような人生をつくりあげて歩んでいくのかという一連の流れがみえるようになるのが良いところだと思う。
 「こどもを育てる」ということだけに目的を絞ると、それはめちゃめちゃ労苦でしかないけど、子供によって多くの学びを与えられて、自分だけでは超えられない意識の限界を突破させてもらえることにありがたさや喜びを感じられるならば、子育ては本当に最高の修行場だと思う。

 学校で問題を起こしている子供とそうでない子供の差は、はたからみると歴然で、いじめ、意地悪をしにいく子供は、例外なく、自分の親にいじめ、意地悪をされて育った子供である。いじめられる子供も、親に圧力をあたえられて、抵抗できないで育った経験のある子供で、この両者がそろってはじめて「いじめ」が成立する。

 そもそも算命学では、加害者と被害者は、陰陽であると考える。
つまり、片方だけがいた場合は、何事も事件は成立しない。同じ意識次元の極をつくる両者がそろって初めて、物事は成立すると考え、どちらが悪いというようなことは判断しない世界なのである。つまり、原因のない被害者はいないし、原因のない加害者はいないのである。

 つまり、親が、子供のこころを尊重したり、人権に配慮したりして育ててこなかったからこそ、いじめる子供はひとを大事にするということが、本質的にどういうことなのかがわからない。子供のまちがった認知が外に出ているわけなので、親とのやりとりがどのようにあってそうなったのかまで見ないと、その子の本質は見えてこない。ちゃんと聞き取れば、過去のその子との関わりの中で発生した親の人格の問題が、子供の現実をつくっているケースは多い。

 かといって、親だって聖人君子なわけではないので、子供がムカつく態度をとったり自分の思い通りに動かなければ、ときには悪魔にもなる。
 ひとはいろいろなので、それを責めることはできないが、そこで親に問われるのが、なんのために子供を持とうと決めたのか、という目的意識だ。
 自分は今、子供によって訓練されているのだと考えられるかどうか。
だれも傷つかない、傷つけないためにはどのような選択肢があるのか、と立ち止まって、自分を修正していけるかどうか、という内観力が子育て力となって、親の力量の差のようなものが出来あがってくる。

そういう面倒なことはしたくない、成長したくない、と思う人は、絶対に子供を持たない方が良いと思う。お互いにとって最悪の二十年を過ごすことになるし、親側にどんな思惑があったとしても、子の宿命は、残酷にも、成長したくない親にも成長を促すために、そのテーマ性を浮き上がらせるような親子関係になるように、こどもの宿命はちゃんと調整されることになるからだ。

すなわち、子供の宿命は、親の脆弱性をつつくようにできている。
だから虐待についても、一方見で簡単には言えない。
 他のひとからは、「なぜあんないい子を虐待するのか。そんなことで腹をたてて。」と思えるかもしれないが、それは他人の宿命とその子供の宿命が葛藤しない間柄の関係性だからかもしれないのだ。
 虐待を起こす親の宿命と子供の宿命は、お互いがお互いでいようとするとガチガチとぶつかり合うようにできていたりするのである。

実際に、虐待されている親子の宿命を見ると、親が子供との間で「天剋地冲」を作っていたり、親にどこにも子供の星がないとか、子供に親の星がないとか、親が最身強を生かしていない、ということもあるし、子供の方にも育てにくい要素はがっちりあって、わかりやすいところでは生年中殺、生日中殺、であったり、子供が親の天冲殺で産まれていたりする。そしてお互いが最強の忌神であったりする場合もよくある。

 こういうのが、てんこ盛りの宿命同士の親子なのだ。こうなると、一般論の育て方云々といった常識はもはや通用しなくて、もう産まれた時からこの親子が傷つけあい、葛藤しながら、親子をやっていくことは確定事項なのだから、親の方に教育機関や福祉機関がちゃんと育てなさい、と指導したところで何も生まない。助けにもならない。そして子供も救われない。
 子育てが得意な他人がこの親子の間に入って、子育てに手を出すしか道はないのだ。

核家族当たり前、子供は親が見るべき、が常識になり、その感覚を当たり前にもつ社会になる程に、一方で親子関係から社会性を学び取れずに社会に馴染むことができないとか、心理的に葛藤した、大人になりきれない大人が大量発生する社会になる。結果、世の中は荒れてくる。
子供は、みんなで育てる。
その意識が欠けた社会は、子供が孤立し、だれからも救われない社会を作る。
 子育て助け合い、は、東京では、形式となり、すっかり忘れ去られた考え方だけど、幸にも、京都にはまだそれがある。子育てを協力し合える親もいるにはいるし、他人の子も一緒にかまってくれる親もいる。

ただ、そうした関係性を支えるのは、子育て世代の「ゆとり」だ。
経済的にも時間的にも、余力がある家庭が増えることで、一般的に親子関係が上手く成立しない組み合わせに生まれついた、子育てに問題を抱えてしまう親子を、外から助ける実際的なちからにもなる。福祉機関は、生活のあちこちまで監視する訳にはいかない。日頃から顔を合わせる機会があって異変に気付きやすい状況、子供同士を通じて外の家庭との交流のドアが常に開いていることが、結果的に子供の虐待死を防ぐことになる。

 だから、大量の税金や生活のゆとりを子育て世代から取りあげておきながら、いっぽうで、虐待はやめましょう!自殺したくなったらいのちの電話を!と宣伝する日本政府のあり方は、一方で火をつけながら、一方で火消しに回ろうとしていて、自作自演もいいところ、むちゃくちゃ矛盾しているのだ。

 少なくとも、京都市の市政ではこの矛盾を感じないで過ごせることが本当にありがたい。京都の人たちが、純粋に街を良くしたいという気持ちを感じられるから、おかげで自分もやれることで、京都を良くしたいと、思うようになった。東京では、そうおもって行動することがバカらしくなるくらい、どこの組織も上が腐っている。

 特に子供は、僕にとって要注意事項で、めちゃめちゃ忙しい身だが、親に子育てが放棄されている子供を見かけるとやはりスルーする訳にはいかない。
 実際にその親と直接揉めるとリスキーではあるので、距離感を図るのは難しいが、暴力現場には割って入るし、なにかと理由をつけてその子供たちを自分の子たちと一緒にレジャーに連れていくようにもしている。

世の中は、親ガチャだ。
今の立場は、自分の努力だけでできあがったものではないことを、親の七光り、二世さん、三世さんほど気がついていないひとが多い。
どこに産まれるか、誰の元に生まれるかで、ほぼその一生が決まると言っても良い。それは算命学の親の位置、子供の位置が非常に大事にされることからも明らかである。家族は運命共同体で、親が意識次元を上げなければ、子供の次元もなかなか上がりづらいから、子供のスタートする意識次元を少しでも楽なものにするためには、親の努力もいる。
ただ、なかなか成長が遅い親もいるんよね。
これは仕方ない。人生とはなにかを考えたことのない親に、そんなことを言ったところで、意味も通じない。

親に虐待を受けている子供が、昔、家に来たとき、こんなことを呟いたことがある。

「いいなぁ、たまちゃんちは、おとうさんとおかあさんが、こんなふうに楽しく話し合えるんだね。うちはいっつも喧嘩ばっかり。ののしりあってばっかり。いつも私は耳を塞いでふとんのなかでかくれてる。」

「うちにきたら、たぶん、あんたたち(うちの子供)はやっていけないよ。あまりに地獄の状況がまってるから。本当にお父さんは怖いんだ。」

ビルが一つ違うだけで、あっち側と向こう側に違う世界が広がっている。
そんなことを感じられるセリフだ。

 そして実は僕もぴかちゅうも、その世界がどんな世界なのか、子供の時に十分すぎるほど知っている。だからこそ、自分の子供にはそんな思いをさせたくない、と自分を変えてきた20代だったからだ。いや、いまもそれはつづいているといっても過言じゃない。

 お互いに激しくぶつかり合いながらも、切磋琢磨できたのは、子供たちに自分たちのような思いをさせないため、ただその一心だったと思う。最初から完璧にできたわけじゃないけど、立ち止まって内観して、自分の過ち(無駄)に気がつく。修正する。専門の力も借りる。そうやってきたから、いま自分の子供たちは、とりあえず本格的な地獄の世界を知らずに済んでいる。
 ましてや子供が人身売買がされるのが当たり前の世の中など、うちの子供達はとても想像がつかないだろう。

 よく、虐待を受けたから、自分の人生はこんななんです、とクライエントさんから相談を受けることがあるけど、僕は思うのよ。
それは、君が背負った「テーマ」なんだよ、って。
そこからどのように立ち上がるか、それ自体が人生のストーリーの始まりなんだよって。そこで、虐待を受けて終わったら、すごいつまんない人生ストーリーなんだよね。
 客観的にそんな映画見ても、後味悪くて見なきゃよかったで終わる映画よ。

でもさ、僕らは、その映画をつまんない映画にしたくなかったわけよ。
ピカチュウも、自分の激情をどう取り扱っていいかわからなくて、いまも咆哮するときがあるよ。でもそれでも彼は、最後はハッピーエンドにしたい、家族の愛で終わりたい、そういうシナリオにしたいんだと思うんだよね。
それは彼の中の心の中の戦いなんだけど、最初から自分はもうダメだ、って白旗をふらないとこが、立派だよなと思うよ。

そしてそれを続けられてるのも、その映画を作っているのは、シナリオを書いているのは、他ならぬ、自分なんだってことを、そもそも僕らは気がついているからなんだよね。あいつが、とか、親が、とか、虐待を受けたから自分の人生は真っ暗なままです、っていう人たちにそこを気がついて欲しいんだよね。
分析は必要。でもそこで止まって、行動しなければ、何も変わらない。
被害ストーリーで終わってしまう。

同時に、同じ目線で僕は、虐待を受けている子供たちをも眺めている。
すこしでもこの子供たちのカルマが軽くなるように、この先大人になった時、この子たちは人生を迷い、時に挫折し、傷を背負ったまま生きていくだろうけど、そんときに、どっかのしらない他人が、この自分に優しさをかけてくれたこと、楽しい時間を作ってくれたことを、ふと思い出したら、自分の人生もまんざらじゃなかったよなって、気がつく一助になると思うんだよね。
 その記憶を、そういう子たちに意識的に送り込んでいる。

僕自身もそうだから。僕はこれまで、本当に見知らぬ他人からたくさんの陰徳を受けてきた。子供の時はその素朴なありがたみに気がつけなかったけど、大人になった時に、結局は、それが今の自分を支えてくれているということがわかるんだ。
 反社会的な人間にならずに済んでいるのは、みずしらずの他人の優しさ、人生の一時期をクロスした友達のおかあさん・お父さんが、やってくれたことの積み重ねの愛のおかげだってことをね。

 先日も近所の子供が、朝泣きながら登校していたので、どうした?って聞いたら、今朝も激しく親に叱られたらしかった。そんななか、学校で朝顔を持っていかなくてはならないけど、怖くて家に取りにも帰れないし、自分だけではおおきすぎて持っていけないんだけど、お父さんに頼んでも、やってくれなくて、先生にももってきてっていわれるし、どうしたらいいかわからないのだと言ってた。

次の朝、その子の親に会ったので、「朝顔、忘れると困ると思うから、〜〜ちゃんにもってってよ。」といったら、「いいんですよ、忘れて。怒られれば。」と突き放したセリフが返ってきて、子供をおいかければ追いつくのに、何もしようとしない父親の姿があった。

「そうなんや。(やっぱりな。)」と僕はこたえて、放置したけど、そのあとでその子のお母さんに電話をかけてその朝顔を出してもらい、ついで、ということにして、僕は彼女の小学校に昼間、朝顔を持っていったんだよね。

 教室で僕と自分の朝顔を見たその子は、びっくりしてめちゃめちゃ喜んだのはいうまでもなく、先生に促され、二人で学校の朝顔置き場に置きにいった。
 暑い日差しで力のない朝顔たちにちょっと水をやろうよ、と、ホースを伸ばして、全学年の朝顔についでに水を撒いていたら、

「Jemmyは、花にもやさしいんだね〜」とその子が言った。
ひとがしていることに気がつけるこの子は救いがあるな、と思った。
「一生懸命花を咲かせて、みんなを楽しませてくれたやろ、だからありがとうやん。」って、僕は笑った。

この世界は、感謝のこころを持つ子供には、ちゃんと外から「愛」が入るようになっている。どんな激しい虐待をうけた子供だとしても、他人のかけた優しさに気がつくこころ、感謝の思いをもてる子供は、必ず救われるようになっている。
 僕は、彼女に「感謝」と「笑顔」の大切さを自分を通していつも伝えているつもりだ。生き抜くのが大変な宿命をもつ子供だけども、一筋の光であっても、これからの人生に手助けになる無形の何かをこうして送り続ける。

一般に誤解されていると思うけど、虐待は、目に見える暴力だけが虐待ではない。司法が罪に問うことのできない見えない暴力が社会にはそれこそたくさんある。暴力として見える形になるのは、氷山の一角なんだ。心を傷つける暴力、支配し、こころを封じる暴力、いろいろある。
 だから通報できない虐待は、おそらくそこら中にあって、その中で他人ができることはといえば常に安全を見守ることと、少しでも隙間から手を出して、中にいる子供に心の扉を開ける鍵を渡すことくらいしかない。

いじめを行う子供は、かならず、親にいじめられている。
毒を吐く子供は、親に毒を吐かれている。
 親にしっかりと愛され、こころを尊重された子供は、わざわざ他人をいじめになどいかない。そして、おなじように、愛がなにかをわかっている子供を大好きになる。

 子供の頃、不適切な扱いや虐待を受けた女性は、同じように子供時代に親に適切に愛されなかった男を好きになり、そういう他人を愛する余力のない男を好きになって愛する能力のないその破壊的な男に、自分を愛してもらうことに必死になり、執着するようになる。

愛して欲しい、愛されたい。そのために何でもやる。
愛情の餓鬼道にふたりで陥っていく。

他人に求めることをやめたとき、自分たちが依存症になっていることにも気がつくのだろうけど、そこにはまり込んでいるうちは、誰の声も聞こえない。
 子供ができれば、きっとこの男は変わるだろう、と幻想も抱くが、そんなことにはならず、もっと追い込まれることになる。
世話してくれる女が、子供にかまって自分を世話してくれなくなったとたん、つまらなくなって浮気を始めたりもする。そんな愛のない男にとって、自分を世話する余力がなくなった女に、価値はないからだ。

 愛する能力のない男は、楽すること、自分の気持ちをヨシヨシしてくれる存在をコントロールして利用することしか考えない。また、自己肯定感が低い女をハントしに行くだけだ。
 そして、そのお守役を自分の役割や居場所にしてしまう女性は、そこからいつまでも抜けられないまま、なんだかおかしいな、と思いつつ、中途半端な幸せ感にひたり、ぬるま湯の中で茹でガエルになっていく。
男女関係の問題は、だいたいこんなところにある。

このパターンに気がついて、でると決めて行動を起こすのも自分の決断、人に助けてください、なんてやっているうちは、絶対にその地獄から抜け出すことなどできない。僕にだって助けることなどできない。
その人の自由意志がその人の人生のシナリオを作っていくからだ。

というわけで、助けてください、といって、依頼しにくるクライエントさんは、僕はまずお断りするようにしている。
 自分が明確な行動の意思を持ち、そのための戦略を持ちたい、誰かのアイデアが欲しいというひとのために、実学算命学を提供してるつもり。
そう、わかってね。誰かを救うひとはいません。
自分を救うのは自分自身なんです。それが悟りの一歩なんです。
お釈迦様の時代から、人類はそう言われています。

誰か(例えば神様)が自分を救うと考える人は、その「誰か」に自分の人生を利用されることになります。算命学が自分を救ってくれる、と思ったら、それは算命学の世界に自分が利用されることになります。
そして、それがこれまでの信仰宗教のあり方です。
 確かに事実として実学算命学の源流は密教にありますが、宗教ではないですので、救ってくれる神様などいません。その点、めっちゃドライなんです。

現実的な、アドバイスの手がかりとして、僕から言えることは、もしあなたが良い恋愛をしたかったら、自分自身の中にたくさんの愛を見つけてください。
 愛されなかったことを数えるのではなく、愛されたことを数える人生にしてください。それが地獄を飛び出したいと思った時、次の次元の扉を開ける鍵になるでしょう。
すべてのものは、宿命の型のなかで、自分の意識世界が引き寄せている現実です。

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