地獄への道…9

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保育園から受けてきた「発達検査」。
息子は小学5年生になっていた。

それでもまだ自分の「名前」さえ漢字では書けなかった。

決して複雑な書体ではない。

名前だけでも画数は20。

マンガを買ってみたが、見ているのはマンガの「絵」だけ。
内容は理解できていない。
マンガもその当時流行っていたアニメで、わかりやすいかと思い購入した。
それでもペラペラとめくって終わった。

「面白くないの?」と聞いてみたが「よくわかんない!」で終わってしまった。一緒に読もうか、と誘っては見たものの断られてしまった。

だが、息子の「コミュニケーション能力」は、他の姉妹より長けていた。

どこでも「友達」になれる。
それは凄いことだと思った。そこを伸ばしてやりたい。

いい意味でも悪い意味でも「KY」なのだ。

いつだったか、学校の先生に言われたことがある。

「息子君ね、すごいよ」と笑いながらだったが話してくれた。

先生が廊下を走っていた生徒を廊下で叱っていたそうだ。
数人いたそうだが、先生自身も叱ったのはいいが後に引けなかったという。
そして次の授業の時間まで怒りを持ちこしてしまい、生徒も先生もどうにも引けなった状態だったという。
そんなところに、息子が「♪~♪~」と鼻歌を歌いながら廊下の影の階段から降りてきたそうだ。

息子の鼻歌を聞いた先生と生徒は、あまりの可笑しさにお互いに笑ってしまい、その場は納まったというエピソードがあった、という。

階段を下りてきた息子は、そんなことはつゆ知らず、シレッとその場を去って行ってしまったと。
「お母さん、本来はね、先生が怒っている声なんかを聞くと他の生徒は静かにして当たり障りないようにしていくんですよ、けれど息子君は違ったんだよね。それがいいか悪いかは別として救われました」

と。
もしかしたら普通のお母さんなら「嫌味」に聞こえたかもしれない。
けれど私は素直に、というか「これが息子の能力なんだ」と心の中で拍手をした。

そんなことを息子に言ってももう忘れていると思うが(笑)

やはり息子は「一般学校にいるべきではない」と改めて感じたのも事実。

「特別学級」という場所に通級していたが、先生は「プロ」ではない。

これは肌で感じたことであるし、その他一般学校に通わせるお母さんなどにも知ってもらいたいので書きますが。

特別学級の先生は、「一般クラスを担当に持ちたかった」という思いがある。
その上で教育委員会などの指示で配属されることになる。
そうなれば、どういうことが起きるか。

これは先生という立場でなくても想像できると思うが、「特別学級」という違う枠組みに配属された先生の「フラストレーション」が起きるのである。

その気持ちと現実との狭間でイライラが募り「生徒」に八つ当たりをしてしまう先生もいる、ということだけは頭の片隅に置いてほしいと思う。

一般学校の特別学級は「教室にいきたいけどいけない、だけど勉強はしたい、学校にもいきたい」という人が前提なのだ。

発達障害や知能遅延など、ましてや自閉スペクトラムなどの専門的知識を持って特別学級を担当する先生はごく稀である。

今では特別学級も進化しているだろうが、まだ地方や、そこに資金を投入できない学校などは一般の先生が受け持つことになる。

そしていよいよ、学校と息子、そして私との闘いが始まる。

発達診断を予約した、数日後くらいには息子はとうとう
「学校に行きたくない」と言ってきた。
私は「そっか!じゃあ休もう!息子の良さを知らないところには行かなくていいよ」と言った。
けれど息子は「学校に行かない間、なにをすればいい?」と聞いてきた。
私は一瞬ビックリした。子どもながらに「罪悪感があるのか」と。
そこで私は「家の近くなら全然好きなように遊んでいいよ!」と返した。
その代わり「朝はいつも通り起きること、ご飯もお昼のチャイム(街で流れてくる)が鳴ったら家に帰ってきてね」と約束をした。

息子は安心したのか、少し表情が明るくなった。

けれどすぐに「お姉ちゃんたちから何か言われないかな」とポツリつぶやいた。
私は「お姉ちゃんはお姉ちゃんのやり方があるから大丈夫。お姉ちゃんも学校に行きたくない時もあったからわかってくれるよ」と返した。
息子は「うん、わかった!」と言って元気を取りもどした。

下の娘は、色んなことがあった中での小学校に入学していた。
下の娘は、上とまた違って「オシャレさん」だった。
髪の毛や色んなものに興味があったりしたが、1年生の時の担任の先生が「男性」という娘にとってはとてもハードルが高いのが入学スタートだったが、それなりにこなしていたと思う。
ランドセルも上の子どもたち同然、祖父母がいないので買ってくれる人もいなかったし、高いランドセルは与えてあげれなかった。
それでも上の娘の時代よりは「安くてかわいい物」を売っている店が増えたため、ある程度は買いそろえてあげれたと思う。

上のお姉ちゃんの時とは全く値段も種類も増えて、お姉ちゃんの頃から同じ店があったらなと何度も思った。
これは仕方がないことだが…。

私自身は、毎日倒れそうな体と神経を、子供たちの前だけでは見せないように必死だった。
病院に行くと、診察券を出す前に看護師さんから点滴をされる始末。

パニック発作なのかなんなのか目まいや頭痛、そして太ももや服の上から触っただけでも痺れるような…例えるなら電気が走ったような痛み。

そんな日々が続いていた。

それでも私は多分、自分を「病人だ」と思いたくなかった、受け入れたくなかったのだと思う。

いつもギリギリになるまで医師には伝えてこなかった。

ちょっとやそっとで「痛い、辛い、苦しい」なんて言ってはいけない、と自分で我慢してしまっていたのだと思う。
ワザと言わないなどではなく…。
「みんなも頑張ってる。みんなも家事も育児もキチンとしてる、私だけ苦しいのではない」
と思っていた。
これくらいで医師に言うなんて。
という考えだった。

だけど「身体」は正直である。

張りつめていたものが途端に切れてしまう。

診察する頃には、待合室には誰もいない、ということはよくあった。

自分の体は点滴や薬で一時的にはどうにかなったが、精神が追い付いてくれない。

自分が情けない
社会のゴミだ
生きているだけで税金泥棒だ
そもそも自分が産まれてしまったからこうなったんだ
お父さんはなんで引き取ったのか
親の言う通りにしていれば父は死ななかったのか
母親の言う通りにしていれば…自分の価値はあったのか
そもそも私は「愛される権利」などない
人を好きになる権利もない
子供たちのために生きることも自分の「エゴ」ではないか
自分がしてほしかった事の代替えとして自分の子どもに当てはめていないか

…幸せになる権利はないか…

と、一人になると襲ってくる不安と恐怖。

誰かに頼りたいけど頼れない現実。

自分が望んでいた「自分の道」とはかけ離れていた。

どんなに「努力しても報われない」
努力が足りないのか
やっぱり中卒だからか
それとも親がいないからか。

それでも「毎日」はやってきて、時間は過ぎる。

どんなに色んなことをしても、自分が癒されることはなかった。

私はいつでも「孤独」だった。


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