絞り込み条件を変更する
検索条件を絞り込む
有料ブログの投稿方法はこちら

すべてのカテゴリ

21 件中 1 - 21 件表示
カバー画像

地獄への道…11

息子はとても美味しそうに食べた。私も久しぶりにまともにご飯を食べたせいか、全部は食べきれなかった。そして、少しそのドライブインで休憩した後、帰ることにした。その帰りは私は、「息子のこれから」のことを考えていた。お腹がいっぱいになったのか、珍しく車の中で息子は寝てしまっていた。息子のことばかり考えられる時間は限られている。上と下の娘のことも考えなければいけなかった。先生からのイジメや友達間のイジメで一時不登校になった娘。私に悩みを言えないでいるのではないか…。子どもたちには私が仕事を辞めたことは言っていなかった。仕事を辞めたことは…「言えなかった」プライドとかそういうものではなく…「お母さんが仕事をしていない」ということが、どれだけ子どもを傷つけるか、私は知っていた。そう自分の…あの「毒母」がそうだったから…。もちろん自分から辞めたくて辞めたのではないということを子どもに伝えても傷つくだけだろう。それでも私がやらなければいけないことは山積みだったから、これで仕事となったら、とてもじゃないが相当大変だったのかもしれない。その後、家に帰りいつものようにご飯などを作り普段の生活に戻っていた。息子は相変わらず、近くの公園に行ったり一人で遊んでいることが多かった。私も遊んであげたいと思ってはいたが…どうにも、朝8時を過ぎると急に体が動かなくなる…。身体に鉛のようなものが覆いかぶさっているかのように…。それと共に「お日様」や明るい場所、テレビの音さえもうるさく感じてなにもできない状態が続いていた。薬は飲んでいる。それでもパニックも動悸も何も治まらない…。私は単なる「甘え」なのか…これはいつ治
0
カバー画像

地獄への道…10

こんな人生、終わってしまいたい。そうずっと思っていた。その度に「自分には子どもがいる」と言い聞かせてきた。私の感情など、どうでもいい。この子たちが「幸せ」であればそれでいい。私の役目はこの子たちを自分のような惨めではなく「幸せな人生」を送らせてあげること。それだけしか「私の価値」は要らないし、価値すらない。息子が「支援学校」に通えるようになるまで、家にいたが、それを心配した支援学校の校長先生から電話が度々きていた。「息子くん、どうしてますか?もしよかったら、転校手続きが終わるまで、少し学校にきませんか?」と言ってくれた。私は、涙が出るほど嬉しかった。私は「ありがとうございます。息子は今外で遊んでいます。息子に話してみて、もし希望があればお伺いさせていただきます!」と答えた。その日の夕方、息子が帰ってきた時、早速聞いてみた。そしたら息子は「え!!いいの!?行きたい!」と飛び跳ねて喜んでいた。私もそれを見てとても嬉しくなった。翌日、早速学校に電話した。校長先生に代わってもらい、息子が行きたいと言っていたことを伝えたら「いつでもお待ちしています!」と言ってくれた。息子は「明日にでも行きたい!」という感じだったし、この電話で行くことを伝えた。「学校の都合が良ければ、明日にでも伺いたいのですが…」というと「もちろんです!明日は学校の方も特別な行事がないので、ぜひ!先生にも話しておきます!」と言ってくれた。そのことを息子に伝えると息子は張り切っていた。まだ、転校できるとは決まっていなかったが、それでも「学校にいく」ということは子ども心に嬉しかったのだろう。お姉ちゃんや妹も誰も責めたりはしな
0
カバー画像

地獄への道…9

保育園から受けてきた「発達検査」。息子は小学5年生になっていた。それでもまだ自分の「名前」さえ漢字では書けなかった。決して複雑な書体ではない。名前だけでも画数は20。マンガを買ってみたが、見ているのはマンガの「絵」だけ。内容は理解できていない。マンガもその当時流行っていたアニメで、わかりやすいかと思い購入した。それでもペラペラとめくって終わった。「面白くないの?」と聞いてみたが「よくわかんない!」で終わってしまった。一緒に読もうか、と誘っては見たものの断られてしまった。だが、息子の「コミュニケーション能力」は、他の姉妹より長けていた。どこでも「友達」になれる。それは凄いことだと思った。そこを伸ばしてやりたい。いい意味でも悪い意味でも「KY」なのだ。いつだったか、学校の先生に言われたことがある。「息子君ね、すごいよ」と笑いながらだったが話してくれた。先生が廊下を走っていた生徒を廊下で叱っていたそうだ。数人いたそうだが、先生自身も叱ったのはいいが後に引けなかったという。そして次の授業の時間まで怒りを持ちこしてしまい、生徒も先生もどうにも引けなった状態だったという。そんなところに、息子が「♪~♪~」と鼻歌を歌いながら廊下の影の階段から降りてきたそうだ。息子の鼻歌を聞いた先生と生徒は、あまりの可笑しさにお互いに笑ってしまい、その場は納まったというエピソードがあった、という。階段を下りてきた息子は、そんなことはつゆ知らず、シレッとその場を去って行ってしまったと。「お母さん、本来はね、先生が怒っている声なんかを聞くと他の生徒は静かにして当たり障りないようにしていくんですよ、けれど息子君は違
0
カバー画像

地獄への道…8

2時間かかろうが、「息子の診断」をしっかりしてくれるところならどこでも診察してもらいたかった。藁にもすがる思い、とはこのことかと思うくらいだった。私は元々「地図」が苦手なので初診ということもあり電話して場所を聞いた。それでも想像は付かなかったが、「近くまで行ったらまだ電話してもいいですか?」と聞いたら快く受けてくれた。秋田市内すらあまり詳しくないが、そこを越していくとなると本当にわからない…。息子を乗せて長時間の運転に耐えられるだろうか…。その当時、私の車にはテレビがみれるようなものもなく、DVDを見せたいが、そうするとカーナビの地図が見れなくなる…。私は息子が退屈しないように話しかけたりして運転していた。その病院は、大きい病院のように「数か月待ち」という状態ではなかったため初診でもすんなり受付をしてもらえた。もちろん、発達障害の検査は時間を要するだろうが、まずは診察から…。数時間走っていくと、もう少しのところで道に迷ってしまった…。病院に電話するか…。電話してみると、丁寧に教えてくれた。「わかりずらいですよね、安全運転でいらしてください」と言ってもらえた。やっとの思いで着いた、その病院は周りには何もなく、道を挟んだところに喫茶店のようなものがポツンとあるだけ…。周りは木々に囲まれていた。建物は新しい作りになっていた。いよいよ診察である。受付に行くと笑顔で「遠くからお疲れさまでした」と言ってもらえた。待合室という「物々しい」感じはなく、まるで「別荘」を思わせるような造り。待っている人は置いてある本を読んだりしていたが、そんなに多くの人はいなかった。数分待っていると「こんなに早い
0
カバー画像

地獄への道…7

生活保護が決定してから2週間くらい経っただろうか、保護のお金が振り込まれていた。少し金銭面的には安心したが、前にも話した通り「人間失格」を張り付けられたような感じがして、どことなく後ろめたさがあった。保護の振込金額は、子供手当などを相殺して振り込まれるが、それでも十分だと思った。車所有の件は、保護の方から「特別許可」という形になった。トントン拍子に物事が決まっていく中、私の体調は反するかのように悪くなっていった…。元々痩せていたわけではないが、体重は減り、とうとう血圧が上80前後になっていた。精神科に通うようになり、慣れない「薬」と合わない「薬」のせいか、脳みそが全く「機能」してくれない。とにかく「眠い」…とにかく下の子を保育園に預ける、というまでが精一杯になっていた。それでも「生活保護受給者」だと思われたくなくて必死だった。そして、「仕事を辞めたこと」も自分の中では消化できていなかった。けれど日を追うごとに「どうせ生活保護を受給するなら、うつ病をしっかり治そう!そして歯医者にも行こう…、行けなかった病院や自分の体を治していこう、それからまた社会復帰すればいい」と思うようになった。そう思えるまでに半年は掛かったと思う。それまでは「会社を訴えてやろうか」、母親のこと、父親の死、全てが「恨み」に変わっていた。母親の宗教、お金のこと、イジメられたこと、サラ金のこと、最初の旦那のこと、元旦那のこと…取られてしまった息子のこと挙げればキリがないほどに恨む要素はたくさんあった。自分は本当に愛されたことはあるのか…子供たちに愛情は与えてられているのか…ただ一つ親だからという「見栄とプライド」
0
カバー画像

地獄への道…6

離婚してまだ半年経ったか、経たないかで元旦那からの再婚の電話。反対とかどういう感情よりも怒りや、「やっぱり…」という感情の方が強かった。その電話ついでに「生活保護を受けるかもしれない」ことも話した。そしたら「あ~じゃあこっちも都合がいいや、今までみたいに生活費入れなくて済むし、その話もしたかったから」人間とは思えない発言だった。けれど私はその当時、もう感情などほとんどなかったおかげでキレずに済んだのかもしれない。子供たちとの面会はどうするのか、と聞くと、「ん~今までのようには行けないからな~」と…。私は「じゃあコッチからなんとか言っておくよ」と言った。もう相手に期待しても無駄だと思った。全てを諦めていた。それでも子供たちの問題は待ってはくれない。次は息子だった。療育センターに通っていることも学校に話した上で、「特別学級」に通級していた息子。少しは環境がよくなったかと思っていた。息子は3年生くらいだったと思う。保育園の時から診察を受けていたが、一向に「診断」は付かず…。もう半ば「発達障害」のことは「秋田では診断できないのではないか」と不信感でしかなかった。そのあたりから私は個人で「発達障害専門」の医師を探していた。その最中、時折「学校に行きたくない」とまたいい始めていた。その度に、私は「無理に行かなくていいよ」と言ってきたが、お姉ちゃんの姿を見ると、それも忘れて学校に行ったりもしたが、どうしてもダメな時は休ませていた。そういう時は、なるべく公園に行ったりしていた。息子は「体を動かす」のが得意のようで、スポーツにとても興味を持っていた。ルールなどは覚えられないがゲーム自体は好きなよ
0
カバー画像

地獄への道…5

私はとことん「今まで」のことができなくなっていた。 それでも必死に子供達には気づかれないように過ごした。 その間も、上の娘は小学5年生になり、息子は小学生2年生くらいにはなっていたと思う。 卒園から「療育センター」に通院していたものの、「発達障害」の診断は確定されることはなかった。 通級しながら学校に行く息子に異変も起きていた。 そして、上の娘にも異変が‥。 私は子供達を引き取ってからずっと「子供達の話はちゃんと聞いてあげよう」というのは心がけていた。自分の当時のことを思い出すと「会話」はとても「大切だ」とつくづく思ったからである。 自分の小学生時代は多分、親とのコミュニケーションが成り立たなく、友達との距離感や話し方、色んなことが欠如してたと思う。 大人になってからもとても苦労した。 その経験があるから「会話」は大切にしてきた。 上の娘の様子が変だと思い、「最近学校どう?」とそれとなく聞いてみた。 すると、娘は何やら言いたそうな言いたくなさそうなそぶりをしていた。 少し待って見ると娘が口を開いた。 「この前ね‥学校で2時間目の時に先生に机教室から出された‥私だけ廊下で勉強してた」 という。 はい?どういうことだろう‥。 私は、「何かしたの?」と聞いてみた。 私は自分の子供の話は聞くが「全部鵜呑み」にするのは違うと思うのだ。 話を聞くと、どうやら 「隣の席の子が何かを落としたのを拾ってあげたら、その瞬間に先生が見つけ、『遊んでいるなら教室から出ていきなさい!』と言われた」 というのだ。 娘もその子も先生のあまりの大きい罵声に驚いて、何も言えなかったそうだ。 それからどうしたか、
0
カバー画像

地獄への道…4

私は出された薬をただ眺めていた。確か…「セルシン、パキシル」という薬だったと思う。その薬にどんな効果があるかなんて、わからず飲んだ。この薬で本当に「うつ病が治るんだろうか…」どれくらいで治るんだろう、そもそも「うつ病」は…家にいると色々なことが頭をよぎる…会社で私は何か先輩たちに「嫌なこと」をしたんだろうか、詐欺師とまで言われなければいけない何かをしたんだろうか…外に買い物に行くと知っているかのように「今日休み?」と聞いてくるのはワザとなのか…私はもう働ける場所なんかないのかもしれない…私は…そうだ…元々「誰からも必要とされていなかった」…もう涙すら出てはくれなかった。「明日…市役所に行こう…」けれど一つ心配なことがあった。それは母親のこと。保護を申請すると「親族に連絡が行く」というのを聞いたことがある。もし…私が保護を受給すると母親は目の色を変えて金銭を取りに来るだろう…アイツはやりかねない。それだったらいっそ、子供たちと死んでしまおうか…保護を申請するのにも凄く悩んだ。もし家がバレたら…またあの地獄のような日々が続く…せっかく女性相談所まで行って逃げたのに…それだけは避けなければ…。なぜ、それほどまでに「母親」の行動に恐怖を感じるのか…それは、やっぱり地元にいると嫌でも母親の話は聞こえてきていた。いかにも「子供を心配しない親はいない」とか「辛い思いをさせてしまった」などとお涙頂戴話をしているようだった。私はそこから母親のことを思い出すだけで「動悸」がするようになった。怒りと恨みと憎しみと…情けなさ…。私は何時間も子供たちが帰ってくる時間までずっとボーっとそんな事を考えていた
0
カバー画像

地獄への道…1

アパートに引っ越してから3か月くらいだろうか、仕事も順調だった。次々と業績も上がり、自分でいうのもなんだか、私が入社したときは営業員が私を含め4人しかいなかった営業部も25人にもなっていた。ほぼ私の「部下」と言われる人たちである。全国入賞も何度もした。実際、成績を挙げているという感覚がなかったので、特別偉ぶったりることはなかったように思う。よく「保険屋」というと名義貸しであったり、架空契約などがまだあった時代ではあった。けれど私の場合は契約をするのはお客さんの「職場」か自分の会社に来てもらう、というスタイルが9割を占めていた。会社に来てもらうことで上司とも面談できる。全ては「不正な契約ではない」という証明にもなるのだ。「押し付けない営業」が功を奏したのか営業員も増えていった、というのが今となっては成績に繋がったのだと思う。そして、そうしている間に一度だけ、旦那がアパートにきた。それは何でもない日だったが、アパートまでの場所を教え、子供たちに「お父さんがくるって」というと、喜ぶのかな、と思ったが予想とは反して「ふ~ん…」だった。あれ?私旦那の悪口とか言ったかな…態度に出たかな…なんだろう…と少し心配になったが、来ることが決まっていたので来た時の態度やその後の気持ちを子供たちに聞いてみようと思った。旦那はアパートの玄関…といってもすぐキッチンなので丸見えなのだが「こんなところに住んでるのか…狭くないか?」と言ってきたが「大きければいいということではないから十分です」といった。そして、子供たちが部屋から出てきた。リビングとは呼べないようなところで少し会話をしたりしていたが、どこかぎこ
0
カバー画像

今、この瞬間が一番若い。あなたはどう生きる。

人は何歳からでも、人生をやり直せる。10代が思い通りにいかなかった人は20代で頑張ればよい。20代が思い通りに行かなかった人は30代で頑張ればよい。30代が思い通りに行かなかった人は 40代で頑張ればよい。40代が思い通りに行かなかった人は 50代で頑張ればよい。あなたが、今、生きている限り何かを始めるのに遅すぎることなんてない。もしやりたいことや、やってみたいことがあるならすぐに行動を起こしてみよう。なぜなら、今この瞬間が一番若いから。過去がどうとか、もう歳だからとかそんなのは言い訳に過ぎない。そんなことを嘆いているから、未来を変える事が出来ない。今、この瞬間をどう生きるか、どう楽しむかで未来を変えることができる。まずは、些細なことでもいいから挑戦してみよう。それで、違っててもいい。何も挑戦していなかった自分より、一歩前に進んでる。一歩前に進むと、別の視点で考える事が出来る。”今、あなたはどう生きる”良かったらプロフィールの方も見て下さい^^
0
カバー画像

新しい人生の終焉…6

その日は何もできない、と言われ点滴を打たれたまま気を失ったように寝ていた。翌朝起きたら、看護師さんが「体調どうですか?」などと言いながら血圧や体温を測ってくれていた。お腹に違和感はあったものの昨日ほどではない感じがしたので、「もう大丈夫です」というと看護師さんは血相を変えて「あんた!なんでここのナースセンターの前の病室にいると思ってんの?あんた昨日死にそうだったんだよ?血圧も上60もなかったし!」と怒られてしまった。血圧なんて普段測ることもないから、それが異常なのかなんなのかすら分からなかった。病院のご飯を食べていると、旦那から電話がきた。「あれ?起きてるの?子供たちのことが全然わからなくて…保育園に何を持たせればいいの?朝ご飯はどうしてたの?」という電話だった…。私は「入院している場合ではない、もう帰ろう」と思った。過去にもあった…同じことが…。そして過去にも2日で退院してきている。医師のいうことも無視して…私に「休んでいる時間」も「体を治す時間」もないのだ。ましてやこれから「離婚しよう」としているのに…。この弱みに付け込んで離婚がなかったこと、になるのも、すごく嫌だった。もしかしたら「プライド」だったのかもしれない。けれど、私は「引き返す」選択肢はなかった。その電話を切った後、点滴などを変えにきた看護師さんが「午後から診察ありますからね」と言って去っていった。今日のところはまず保育園や学校に行くとどうにかなるだろう…子供たちが帰るころには家に帰っていなければ、子供たちも心配するし、ご飯や洗濯や…などと考えていた。もう私の中では「今日中に退院」すると決めていた。旦那がお見舞い
0
カバー画像

新しい人生の終焉…5

証人の欄に書いてもらった後、旦那はモノも言わず、実家から出たが私は、一応、お礼をいい、その場を後にした。その帰りの車の中では、今後の養育費…というか生活費などの話になり…。初めは「やり直す前提」という離婚、だった。私も旦那を信じれる自信がなかったし、その旦那の顔を見て過ごすということや、今まで子供たちに「お父さんが働いてくれてるからだよ」というのがとてつもなく辛い。別に言わなくても良いかもしれないが、子供たちの中でも「お父さんがいない生活」そして、結局、学校の「保護者の欄」が私に変わるのだ。到底、隠し通せるものでもない。子供たちになんて言ったらいいかなどを話した。旦那的には、「どうせ今までも毎日帰る仕事じゃなかったし、たまに顔は出すからそのままで」と言っていた、なんでこの人は「自分のこと」しか考えられないんだろう…。本当に呆れた。生活費も15万あれば、今まで間に合ってきただろう?とまで言った。…そりゃね…それしかなかったと思ってたからね…私の給料とかをやりくりしてたよね…。その開き直る言葉にもイラついたが、もうこれを出せば「他人」…。「この足で直接市役所持って行く?」と聞くと、「それは俺がいない時に出してくれ」というのだ。なんて勝手なんだろう…。それをまず無視して、私は家計の細かいところを言った。子供たちには「学資保険」などが掛けてあった。その支払いや、今後私たちが住むアパートは自分たちで決めることも…。そして、旦那が自分で決めた15万の生活費を入れる口座なども話しあった。私も仕事がある。いつまでも時間があるわけではない。「離婚届け」いつ出そうか…。と考えていると「下の子供は俺
0
カバー画像

新しい人生の終焉…4

私は決めた。…「離婚する」…。このままでは、不信感しかない、そして、また自分の心を殺して、このまま生きていくのか…。それで子供たちに「素直になりなさい」と言えるのか…。子供たちにどんな顔して毎日を送ればいいのか。親として、妻として…そして一人の女性として…それは果たして「正解」なのか…。色んなことを考えての「決断」だった。私の気持ちは何日経っても変わることはなかった。旦那が帰ってくる日を待った。そして、その日は案外すぐ来たのか、そう感じただけなのかはわからない。そして、子供たちが寝静まった後、旦那に話をした。「もうあなたを信じることはできない…。」と…そうすると旦那は「なんでこれからやり直そうとしているのに、そういうことをいうんだ!」と言ってきたが、その後に「じゃあ別れなくてもよかったじゃん」と…。なにを言っているんだ?この人は?自分の言っていることの意味も今口に出していいことの区別もつかないのか?私はキレそうにもなったが、「もう別れる」と決めた心には怒りなどはなかった。そして、私は淡々と続けた。「離婚するにも証人が必要だから、それはRさんに頼んであるけど、もう一人、あなたの方から出してね、それと慰謝料とか養育費を決めたい」と一気に話した。旦那はここまで言って初めて本気だと思ったのか「どうしたら許してくれるの?」「お前にだって悪いところはあるぞ」などと言ってきたが黙ってただ、反応もせず旦那の言う事を聞いていた。そうすると段々「わかった…もう相手とは別れたし、俺にはお前しかいないから、やり直すという前提で離婚しよう」と言い出した。なんて都合のいい人だ。こんな人だと本当に思っていな
0
カバー画像

新しい人生の終焉

浮気が発覚したのはディズニーランドから帰ってきて、半年も経たない頃だった。その日は、仕事から私も仕事から帰ってきて、子供たちにご飯を食べさせている時に旦那が、「これから帰る」と電話がきた。今までにも急に帰ってくることはあったので、さほど気にしていなかった。ご飯の準備しなきゃな、くらいの気持ちだった。そうして、旦那が帰ってきて色々していた。そうして一通り家事やら子供たちを寝せて一休みしようとしていた時「ちょっと話がある」と言ってきた。今度はなんだろう…。私は、仕事を変えるとかそういう話だと思っていた。「ごめん…好きな人ができた…」と…。私は呆然とした。私はどこか冷静を装っていた。「その人はどんな人なの?どこで知り合ったの?」と聞いた。そうすると旦那は「ゲームアプリで知り合った…最近家にこれなかったのは、その人の家に行っていたから……その人が弱いんだ!お前みたいに強くない!うつ病なんだ!俺がいないと」バアアアァン!!私は旦那の顔を叩いていた。「なに?誰が強いって?誰が弱いって?私もあんたと一緒になる前に病院で『うつ病』って診断されたとき、あんたなんて言った?ふざけんな!!」と怒ったというより、もう怒鳴っていた。旦那は涙目になっていた。「誰が子供産んでくれって頭下げたんだよ!お前に育てられんのか?それともなに、その女に育ててもらうのか?!!」と今までの「我慢」を全部さらけ出した。サラ金を払ったこと、生活費の足りない分をクレジットカードで補っていたこと、一人で育児をしてきたこと全部全部…。それでも旦那は「ごめん!すまなかった!」と土下座をした。それにも腹が立った。よくよく聞くと「毎月の
0
カバー画像

新しい人生の幕開け…45

ディズニーランドに入場した瞬間、子供たちはとても喜んでいた!「うわぁ~~!!ジャスミンだ~!!」などとはしゃいでいた!旦那はなんだがグチグチ言っていたがあえて無視をした。せっかく楽しい時間を嫌な時間にしたくなかった。旦那にしれみれば、そんなに楽しいところではなかったかもしれないが、一緒に楽しんでほしかった。けれど子供というのは何かを感じたのか、それとも子供ながらの純粋さなのか、「お父さん!こっち!こっち!」などと言って手を引っ張って連れ出していた。パレードをみたり、ディズニーおなじみの「ポップコーン」を自分の好きなキャラクターの入れ物を選んで首から下げて楽しそうだった。ベビーカーを押して子供の手を引きながらは大変だった。旦那は、ちょっと離れたところから付いてきている感じ。疲れているのはわかってるけどね…。子供たちも楽しんでるんだから…もうちょっと楽しそうにしてくれてもいいじゃん…。ふと周りに目をやると、お父さんが肩車をしていたり、お父さんがベビーカーを押していたり…。幸せそうな…「幸せ」を絵にかいたような、というのはこのことをいうんだろうな、と思える家族がたくさんいた。全員ではないことはわかっているつもりでも…。私たちも「そう在りたかった」…。それは「無理」な…「難しいこと」だったのか…。私が高望みしすぎているのか…。私は子供たちの嬉しそうな顔を見ながら…少し寂しい気持ちになった。それから、少し色んなところを回って、「隠れミッキー」を探したり、キャストの方たちから色んなサービスをしてもらったりして子供たちは大喜びだった。下の娘は、あんなに行きたがっていた「ディズニーランド」なの
0
カバー画像

新しい人生の幕開け…39

私は、日々が「秒」のように過ぎていった。夜寝る頃には「次の日の朝」をどう早く、的確に、完璧にこなすか…、ということを考えながら眠りについた。もちろん、子供との「会話」もちゃんと聞いてあげたい。そのための時間も必要。私にご飯など食べる時間すらなかった。ご飯を食べるのは、仕事の合間の15時あたり。一日、その一食だけになった。仕事の間に、息子の病院や、PTA、そして仕事に必要な試験の勉強。息子が学校に入学して初めての夏休みの時の話。夏休みは二人とも「学童」に預けていた。そのためお弁当も作らなければならなかった。学童にもお金がかかるが、二人がもう少し大きくなるまでの辛抱だ、と思い入れていた。もちろん私が仕事中、事故などの心配もあったからだ。なんせ旦那の両親はアテにならない。そして、夏休みが過ぎた。一年生の「夏休み」と言えば、みなさんも記憶があるだろうか、「花や野菜を育てるための鉢植え」を持ち帰って毎日観察する、または収穫する、というものだ。息子は夏休みが終わり、そのプランターを持って行かなければならなかったのを何日も忘れていたようで、先生から連絡帳に「お母さんが持ってきてください」と書かれていた。私は息子にも登校時に伝えたが、気づいたら…また忘れている…。これは、私が持って行かなければ…と思い車にプランターを入れ、下の子を保育園に預け、とりあえずは仕事に向かった。朝礼を終えて、学校の休み時間に合わせていこうと思ったが、今度は自分のアポイントの時間と重なることがわかり…。これはどうしようもない、と私は学校に向かった。本当はプランターは一年生のクラスの隣の庭?のようなところにみんなの分が置
0
カバー画像

新しい人生の幕開け…38

日常でも、様々な変化もあり、その中でも息子の「障害」のことは、まだはっきりしない診察と診断だった。前に検査したときもまだ「保育園ですからね」などと言われ…はぐらかされてきたように思うが、まだその頃では「発達障害」というものに先生たちすら「知識」がなかったのだと思う。その年の春、息子は1年生になった。保育園の先生からは最後まで「息子君は普通の男の子です!」と言われた…。けれど、私は納得がいかなかった。それは「障がい者」にしたい、ということではなく、やはりどこか「違う」ということが明確ではないが、本に書いてあった行動と思考が同じだったのだ。これは「男の子だから」などで済まされない。なんとも言い難い…説明がしずらかった。入学式にも旦那は出席はしなかった。入学式の準備も私一人で行った。旦那の両親からも「お祝い」などは貰ってもいないしお祝いの言葉すらなかった。上の娘の時の運動会なども旦那は出席はしなかったが、Rさん家族が一緒にいてくれたから少しは気持ちはラクになった。Rさん家族は、その頃「離婚」をしてRさん子供が学区が同じになったのを機に、イベント事には協力してくれた。もちろん旦那の両親などは来ない。私が住んでいる地域は春に運動会をする。なので入学したら初めてのイベントが運動会となる。息子が入学するまでは運動会さえ、娘と私の「二人ばっち」だった。ごめんね…と、つい言ってしまったことがある。けれど娘は「お母さんと一緒だから大丈夫!」と言ってくれた。本当はみんなが羨ましいだろうに…。他の親たちは一生懸命、自分の子供たちの運動会を「ビデオ」に撮っていたが、ウチにはそんな贅沢品はなかった。携帯す
0
カバー画像

居場所

結婚式はやらない事になった。 私は親しい人だけを集めて小さな結婚式をやりたかったのだが、テルは 「盛大にやりたいからお金を貯めて子供もいっしょの結婚式をあげる」 と譲らなかった。 【赤ちゃん産めるしその部分はテルの意見を尊重するか…】 実際問題、金銭的に式どころでは無かった。 まず新居を借りるお金も無いのだから… その頃、祖母の家に引っ越した私の両親は又マンションに戻る事になっていた。 叔父との暮らしを邪魔された祖母の怒りの矛先は父に向けられたのだ。 その結果ほんの数か月でリタイア。 そんな祖母の家に私は5年間も預けられていたなんて… 溺愛しすぎてる叔父との暮らしに割って入れば例え孫であろうが容赦無かった。 そりゃあ何としても自分の本当の居場所を求めるというものだ。 しかし新居を構えられなきゃ居場所もクソもない。 仕方無くテルの両親に頭を下げた。 「2人で頑張ってお金貯めて部屋を借りるので、それまで置いて下さい」 と。 それに対する返事はこうだった。 「近所の目があるからここに住まれちゃ困る…お金は出すから部屋を借りて2人で住みなさい」 【ええーーっ?私がテルの子を産む事をこの両親は恥ているのーー?】 かなりビックリしたが子供さえ産めれば他は我慢出来た。 17歳の私は『結婚・出産』の決定で幸せを手に入れたと思い込んでいた。 ひたすら浮かれていたのだ。 そして幸せへの準備に取り掛かったのだが… 何か… 何かが違っていた…
0
カバー画像

17歳の母性

本音を言えば妊娠をテルには喜んでもらいたかった。 せめて、お腹の子の父親にだけは… でもそんな願いは叶いそうにないので諦めた。 しかし赤ちゃんを諦める事だけは出来ない。 なぜか…それは、もちろん早く自分の家庭が欲しいというのもそうだが妹や弟があまりにも可愛かったから… 子供の可愛さを知ってしまった以上、中絶なんて無理だ。 さっきまでお腹の中にいたのに、目が覚めたら居なくなってるなんて想像しただけでも耐えられない。 【なんとしても赤ちゃんは私が守る!!】 心に誓ったのである。 【テルさえ納得させれば親も納得する…】 しかし、こんな大切な事そう簡単に納得させられない。 本気で 【死にたい…】 と思ったのはこの時が初めてだ。 しかし、自分が死んだらお腹の子も…そう考えると何も出来ない。 むしろ体に良い物を意識して食べる。 このつらい状況の中、1人だけ私の応援団がいた。 それは先輩のオカちゃんだ。 彼女だけは 「頑張って産みな!」 と言ってくれた。 だから私は頑張れたのかも知れない…
0
カバー画像

妊娠検査薬

体調はますます悪くなりタバコも吸えなくなった。 さすがに不安になり『妊娠検査薬』を買って来た。 尿をつけた途端にサァーと変色した。 疑いようも無く『陽性』だった。 継母に結果を言うと 「やっぱりね…近いうちに産婦人科へ行かなきゃダメだよ」 と。 テルは病院での結果を聞くまでは信じられない様だった。 実際に体に異変が起き具合が悪いのは私であってテルでは無いから実感も無かったのだろう。 その点、私の方はもぅお腹の赤ちゃんの事で頭がいっぱいになっていた。 父には話さないでいた。 ちょうどその頃、父の店の売り上げが悪くて店をたたむ話が出ていた。 マンションの家賃も払えないので祖母の家に引っ越すと言う。 「アンタどうする?」 と聞かれたがまた祖母の家で暮らすなんて考えられなかった。 そんな時に妊娠するなんて… 継母は 「お父さんには言えない…」 と言っていた。 それでも私はお腹の赤ちゃんの事で頭がいっぱいで気持ちはもぅ『お母さん』だった…
0
カバー画像

みちゃん、体育祭したってよ!!!

みなさんこんにちは!女子高校生みちゃんです( ˙꒳​˙ )みなさんはどうお過ごしですか??さいきん本格的に暑くなってきてミニ扇風機を買いました!!やっとJKらしいものを手に入れて舞い上がってます( ⑉¯ ꇴ ¯⑉ ) みなさんは熱中症にならないよう十分に気をつけてください!!!!!さて皆さんは最近何かできごとがありましたかー??私は学校で体育祭をしました〜!!!イェイ⸜( ´ ꒳ ` )⸝💕とは言っても某ウイルスによって一年生は1種目しか出来ませんでした><かなしかった〜๐·°(৹˃ᗝ˂৹)°·๐でも今年はできたみたいでよかったです!!私たちは大玉をやりました!!!ぶっちゃけ落としそうっておもったけど私たちのクラスは優秀で記録が14秒でした!!!すごく早いですよね(笑)他のクラスの人は20秒とかだったり落としてたりしてて、その中の14秒だったのでとても嬉しかったです🥰💕来年は大縄らしいので頑張りたいと思います!!!他にも私は出てないんですけど応援団があってその見せ物がとても良かったです!!私たちの応援団はダンス部が多くてキレッキレっのダンスを見せてくれたのですごくかっこいいなって思いました!!!来年になったら応援団入りたいなって思いました🤔💭💓全然ダンスとかキレッキレッに踊れないけど挑戦してみようと思います!!2年生になったらもう少し種目ができますように〜(。>人<。)最後までみてくれてありがとうございます( ⁎ᵕᴗᵕ⁎ )❤︎ブログをお気に入りにしてくれると嬉しいです!!また次のブログでお会いしましょう〜😌💕୨୧┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈୨୧
0
21 件中 1 - 21
有料ブログの投稿方法はこちら