証人の欄に書いてもらった後、旦那はモノも言わず、実家から出たが私は、一応、お礼をいい、その場を後にした。
その帰りの車の中では、今後の養育費…というか生活費などの話になり…。
初めは「やり直す前提」という離婚、だった。
私も旦那を信じれる自信がなかったし、その旦那の顔を見て過ごすということや、今まで子供たちに「お父さんが働いてくれてるからだよ」というのがとてつもなく辛い。
別に言わなくても良いかもしれないが、子供たちの中でも「お父さんがいない生活」そして、結局、学校の「保護者の欄」が私に変わるのだ。
到底、隠し通せるものでもない。
子供たちになんて言ったらいいかなどを話した。旦那的には、「どうせ今までも毎日帰る仕事じゃなかったし、たまに顔は出すからそのままで」
と言っていた、
なんでこの人は「自分のこと」しか考えられないんだろう…。
本当に呆れた。
生活費も15万あれば、今まで間に合ってきただろう?
とまで言った。…そりゃね…それしかなかったと思ってたからね…私の給料とかをやりくりしてたよね…。
その開き直る言葉にもイラついたが、もうこれを出せば「他人」…。
「この足で直接市役所持って行く?」と聞くと、
「それは俺がいない時に出してくれ」
というのだ。
なんて勝手なんだろう…。
それをまず無視して、私は家計の細かいところを言った。
子供たちには「学資保険」などが掛けてあった。
その支払いや、今後私たちが住むアパートは自分たちで決めることも…。
そして、旦那が自分で決めた15万の生活費を入れる口座なども話しあった。
私も仕事がある。いつまでも時間があるわけではない。
「離婚届け」いつ出そうか…。
と考えていると
「下の子供は俺が引き取る」などとまたワケのわからないことを言ったが
「それはできない、あなた、兄妹を離していいとでも思ってるの?しかも親の都合で…。しかもどうやって育てるのよ。お義母さんも料理できないのに、お義父さんだって朝から晩まで仕事なのに…」
と、イチイチ私の腹の立つことを言ってくる。
負けじと「トラックに乗せていく」などと言い始めた。
「あまりバカなこと言わないで、疲れる」
とだけ返した。
色々車の中で決めたが、「口約束」だけでは信用できないと思い、自宅に着いてから、ただの「コピー用紙」ではあるが、約束事を書いてもらうことにした。
「誓約書 月に一度、子供たちに会う、誕生日などのイベントには会わせる
この離婚は数年後の再構築に向けて自分(旦那)が信用を得られ
るよう努力する期間とする
毎月15万円を振り込む
平成〇年〇月〇日 旦那氏 印 」
とざっとではあるが、こういう内容だったような気がする。
さて、どうやることやら…。とあまり期待はしないでいた。
それを書いてもらった後、私は「子供たちが帰ってくる前に着替えとか持って行って」
と言った。
そういうところは見せたくなった。
私は旦那が自分の着替えなどをまとめている間、今は旦那の「扶養」に入っている子供たちの保険証のことなどを会社に言わなければいけなかった。
苗字は、「新しい戸籍を作る」にして、そのまま旦那の姓を名乗ることにも承諾してもらった。
仕事や学校、たくさんの弊害があると思ったからだ。
一難去ってまた一難…。
私には休まる時間や気持ちの余裕が全くと言っていいほどなかった。
と…離婚や何やらの話をしていたら…
痛い!!
私は急にお腹が痛くなって崩れるように膝をついた…。
最初は「急に忙しくなったからだ…緊張したせいだ」などと私自身も考え、少し時間を置くと良くなる、そう思っていた。
けれど、気持ちとは真逆に、痛さは加速していき息も荒くなってとうとう冷や汗?油汗?が出るまでになった。
もう立つことも屈んでいることもできなくなっていた。
それを見ていた旦那は「おい!どうした?」と寄ってきた。
私はもう何も言葉にならないくらい、うずくまっていた。
この痛みはなんなの?!息もロクにできない!!
今までにない痛み。
旦那の問いに答えられる余裕はもうなかった。
そして旦那は「救急車呼ぼうか?」と言ってきたが、この住宅街で救急車なんて呼んだら相当な騒ぎになるし、救急車に乗るということ自体に抵抗があった。
それは、過去のブログでも書いていたと思うが、母親が救急車を「タクシー」代わりに使っていた時期もあって、それがどうにも「トラウマ」として残っていたため救急車を呼ぶことはできなかった。
かといって自分で運転していくなど言える状況ではなく…。
謎の腹痛が少し和らいだ時を狙って旦那に病院に連れて行ってもらうことにした…。
病院についても「立つ」ことすらできないくらい激痛だった。
車いすを用意してくれた看護師さんに乗せられ、すぐに診察をしてもらうことができた。
その時にレントゲンや何かたくさん検査をしたと思う。
痛さで、ほぼ覚えていない…。
そして、すぐ「入院」となった。
診断結果は
「急性胃潰瘍」
だった。