地獄への道…8

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2時間かかろうが、「息子の診断」をしっかりしてくれるところならどこでも診察してもらいたかった。

藁にもすがる思い、とはこのことかと思うくらいだった。

私は元々「地図」が苦手なので初診ということもあり電話して場所を聞いた。
それでも想像は付かなかったが、「近くまで行ったらまだ電話してもいいですか?」と聞いたら快く受けてくれた。

秋田市内すらあまり詳しくないが、そこを越していくとなると本当にわからない…。

息子を乗せて長時間の運転に耐えられるだろうか…。

その当時、私の車にはテレビがみれるようなものもなく、DVDを見せたいが、そうするとカーナビの地図が見れなくなる…。

私は息子が退屈しないように話しかけたりして運転していた。

その病院は、大きい病院のように「数か月待ち」という状態ではなかったため初診でもすんなり受付をしてもらえた。

もちろん、発達障害の検査は時間を要するだろうが、まずは診察から…。

数時間走っていくと、もう少しのところで道に迷ってしまった…。
病院に電話するか…。

電話してみると、丁寧に教えてくれた。
「わかりずらいですよね、安全運転でいらしてください」と言ってもらえた。

やっとの思いで着いた、その病院は
周りには何もなく、道を挟んだところに喫茶店のようなものがポツンとあるだけ…。
周りは木々に囲まれていた。

建物は新しい作りになっていた。

いよいよ診察である。

受付に行くと笑顔で「遠くからお疲れさまでした」と言ってもらえた。

待合室という「物々しい」感じはなく、まるで「別荘」を思わせるような造り。

待っている人は置いてある本を読んだりしていたが、そんなに多くの人はいなかった。

数分待っていると「こんなに早いの?」という速さで呼ばれた。

息子は「は~い!」と元気に返事をするが、そんなに広くない待合室に響いてしまった。

その病院は「先生自ら」名前を呼ぶシステムなようで、そこも凄いな、と思う1つだった。

先生は、息子に話しかけながら色々なことを聞いたり、身長体重を測ったりしてくれた。その流れは堅苦しいものではなく、ごく「自然な会話」の流れで行われた。

先生は「大きいね~息子君!スポーツ何が好き~?」などと会話している。

息子は「大学のお兄さんたちと野球やったりしてる~」など、一見トンチンカンな会話にも「お~!野球やるの!すごいね~」などと対話してくれいた。

そして一度息子を待合室で待ってもらい、その間私と話をした。

日常生活のこと、他の病院で何年も診断が付かなかったが言語の理解や色や形の識別などが一致しなことなど…。
落ち着きがないことなど…。

先生は息子に話したようにではなく、真剣に私の話を聞いてくれた。

その上で「お母さん、よく頑張ってここまで来ましたね!早速検査しましょう。今すぐ、とはなりませんが来れますか?」
と言ってくれた。

私は何か「糸」が切れたような安心と、私自身のことも「肯定」してくださった先生に、泣きそうなくらいチカラが抜けた感じがした。

先生と私の話はものの数分だったが、すごく長く感じた。
それだけの内容だった、ということかもしれない。

そして、発達の検査の日を予約することにした。

1か月後…。

平日だったような気がするが、学校よりも検査の方が私には大切だった。

その帰りは、コンビニでお昼ご飯を買い私は運転した。

息子は「集中することや興味があること」があるとお腹が空くのを忘れてしまうくらい集中してしまう。
だから、コチラからご飯の時間をキチンと把握していないと時間よりズレてご飯を取ることになるので、コンビニにした。

本当はどこかのお店でラーメンくらい、とも思ったが、なにせ時間もないし、まず周りになにがあるかもわからない土地勘で、それは避けた。

息子はコンビニで買った「おにぎり」などを食べている。

私は普段は「コンビニご飯」というものをあまりさせたくない性格なのか、自分の母親の子供を見ているせいか、あまり惣菜ものは与えていなかった。

そのせいなのか、息子の特徴なのかはわからないがコンビニのおにぎりを食べるのがとても下手くそだった。
包まれているシートを剥がして与えても「ボロボロ」とこぼしている。

それを横目に、私はまた車を走らせていた。

帰りというのは「行き」よりも短く感じたが、やはり馴れない道は疲れるが、一度家に入ったらもう車を運転できないような気がして、そのまま下の娘を保育園に迎えに行った。

下の娘の保育園も息子と同じなので、ついでに保育園の先生にも息子の顔を見せに行った。
先生たちはとても喜んでくれた。

息子はその当時から「人には恵まれている」と感じていた。

一部の先生は「息子君は障害なんてない!」と反対していた先生もいたが…。

帰って夜ご飯の準備をしよう…。

家に帰ると、その頃は「生活保護の資料」「自己破産の資料」…
そして、いきなり態度が変わった隣人のこと…

そして自分の病気のこと…

積まれた問題は山ほどあった。

その中でもパニックは起きる。
それでも子供たちにそれを見せることはなかった。

子供たちに「心配」を掛けたくなかったのだ。

上の娘はそれでなくても、私と離れることにまだ抵抗がある。
トイレとか家の中でも、ということである。

私は娘に対してはものすごく「罪悪感」があった。
自分だって「お母さんがいなくて寂しかったじゃないか、それなのに自分の子供までなんてことをしてしまったんだ…」
と…。
たかが1年半…されど1年半。

子供の1年はとても大きい。

もちろん自分の意志ではないが、それでも離してしまったことには変わりない。

元旦那がいなければ引き取れなかったという惨めさも同時に出てきた。

そして今また「生活保護」を受給している。
母親よりも酷い生活をしているのではないか…。

私は母親と会ってから恨みと憎しみの「塊」のような人生だった。

もちろん祖父母には感謝はしているが、結局みんな

「私を誰一人必要としていなかったんだ」
という確信。

もう色んな感情が混ざり、ノイローゼになりそうだった、いやなっていたのかもしれない。

一人の時間が欲しいと思っていても一人の時間がとても怖かった。

子供たちがいれば気を張って「明るいお母さん」でいれるが、学校や保育園に行った途端、もう外を見たくない、出たくない、電気の音ですらうるさく感じた。

そして薬を飲む…。

薬はみるみるウチ増えていった。

前回も書いたかもしれないが、その当時の血圧は89/40脈拍120…
めまいなのかふらつきなのか、さっぱりわからないことが頻繁にあった。

ご飯など食べたくもない…。

ご飯を「美味しい」と思ったことがなくなった。
「入れ歯」になってから。
思いっきり「笑う」ことも怖かった。
入れ歯がバレるのが怖くて

そしてRさんにも「お前は笑うな」「化粧したらオカメみたいだ」と言われてからプライベートの化粧は一切していなかった。
仕事していた時は、「それなり」の化粧しかしなかった。

痩せたからと言って「服」など買う余裕もなければ服に執着がないというか…。

「どうせ私は何着ても笑われるし似合わない」
と諦めていた。

同じ年代の女性をみるととても輝いていたように見える。

私はなにをしても「認められない存在なんだ」とということは自分が一番感じていた。

子供たちにはそういう人生は送ってほしくない、それだけは、そこだけは強く思って接していた。

子供たちのことを全て「肯定」する、ということは私には至難の業だった。

なにせ言われたことがない…。
褒めることはできていたかもしれない、それはあくまでも自分の感覚であって子供たちはどう感じていたかは分からない。

習い事や部活も「本人が望まないものはさせない」
本人が望んだら快く受け入れ応援しよう。

私は「全て自分の経験」から得た感覚で子供を育てるしかなかったが、子供を育てる上でこれだけは!という、いわゆる「マイルール」のようなものがあった。

!、叩くときは人を傷つけた時・万引きや犯罪を犯したとき
2.怒鳴らない
3、悪いことをしたときは「なぜそうしたか」をキチンと聞く
4、箸の持ち方をきちんとする(利き手はどっちでも)
5、自分(子供)の話を「後で」と言わない
6、子供の嫌がる「習い事」などは一切強要しない
7、テストの点数だけで判断しない

これくらいだろうか。
後は年齢によって遊びに行くときの「どこで誰と遊ぶか」の連絡だけあればいいと思った。

子供の世界もあるよな、私もそうだった。

父親がN〇Kしか見せてもらえず、話題のドラマの話など一切できなくて仲間外れにされたこともあった。

テストの点数ばかり気にしている父親がいたから
「頑張りを認める」ということもしてあげれたのかもしれない。

自分だって立派どころか「中卒」でも生きてる。

学歴だけではない、ということも自分がよくわかってる。

だからこそ息子の発達障害の診断が付けば支援学校の「生きるための教育」が受けられると思ったのだ。
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