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地獄への道…8

2時間かかろうが、「息子の診断」をしっかりしてくれるところならどこでも診察してもらいたかった。藁にもすがる思い、とはこのことかと思うくらいだった。私は元々「地図」が苦手なので初診ということもあり電話して場所を聞いた。それでも想像は付かなかったが、「近くまで行ったらまだ電話してもいいですか?」と聞いたら快く受けてくれた。秋田市内すらあまり詳しくないが、そこを越していくとなると本当にわからない…。息子を乗せて長時間の運転に耐えられるだろうか…。その当時、私の車にはテレビがみれるようなものもなく、DVDを見せたいが、そうするとカーナビの地図が見れなくなる…。私は息子が退屈しないように話しかけたりして運転していた。その病院は、大きい病院のように「数か月待ち」という状態ではなかったため初診でもすんなり受付をしてもらえた。もちろん、発達障害の検査は時間を要するだろうが、まずは診察から…。数時間走っていくと、もう少しのところで道に迷ってしまった…。病院に電話するか…。電話してみると、丁寧に教えてくれた。「わかりずらいですよね、安全運転でいらしてください」と言ってもらえた。やっとの思いで着いた、その病院は周りには何もなく、道を挟んだところに喫茶店のようなものがポツンとあるだけ…。周りは木々に囲まれていた。建物は新しい作りになっていた。いよいよ診察である。受付に行くと笑顔で「遠くからお疲れさまでした」と言ってもらえた。待合室という「物々しい」感じはなく、まるで「別荘」を思わせるような造り。待っている人は置いてある本を読んだりしていたが、そんなに多くの人はいなかった。数分待っていると「こんなに早い
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新しい人生の終焉…2

Rさんが、夜にも関わらず、とんできてくれた。もしかしたら、「人の不幸」を興味本位で来たのかもしれない。それでもよかった。そんなことを考えられる余裕などはなかった。Rさんは「二人で話なさい」と子供たちの面倒を見てくれていた。私はRさんが来てくれたので安堵したのか冷静になった…。けれど私の怒りが修まったわけではない。旦那と二人で向き合って話をした。どこで知り合ったのか、いつからなのかなど色々…。知り合ったのは当時流行っていたゲームアプリ。半年くらい前からだそうだ。それって…ディズニーに行くかという話があったあたり…。その間には旦那は「家族ゴッコ」をしていたのか…。私たちと…。もう頭がパニックというか真っ白になった。頭が真っ白というのは、こういうことを言うんだなと、どこか他人をみるように冷静だった。子供たちにもずっと「お父さん頑張って仕事をしているから学校にいけるんだよ」とずっと言い聞かせていた。子供たちの前で一切「自分の稼ぎで」と言ったことはない…。私も前の旦那で少しでも学んだつもりだった。今の旦那に尽くしてきたつもりだった…。仕事中の急なお弁当、給料が少ないと私が借金していたこともある。舅姑、お墓まで全部させてもらったと自負している。旦那の顔は立ててきたつもり…。「うつ病」のことだって何にも言ってくれなかったから病院にもほとんど行ってない。私が何をして「他の女性と一緒になりたい」と思ったのか、そして何を思って家に帰ってきていたのか…。私と子供たちだけが「我慢」していたのか…。どんなにお金がなくても…どんなに子供たちはお父さんに会いたくても…。怒りも沸いたが、虚しくもなった。けれど
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新しい人生の幕開け…43

子供たちに伝える前に「日にち」を決めなければ、子供たちに「守れない約束」をしてしまう可能性があるから、日にちを決めることにした。けれど、子供たちが「夏休み」なことと、私たちの仕事に影響を与えない日にちにしなければならなかったが、私の場合はなんとかなる。問題は旦那だ。旦那に電話をした。「ディズニーのことなんだけど…いつ行けそう?決めないとチケットも私の休みも取れないし、あなたも休み取れないでしょ?お盆時期はどうしても混雑するし…小さい子を連れて混雑したところに行くのも子供大変だし…」と…。旦那は「会社に聞いてみる、これははっきりしないと全部だめになるからな」と言ってくれた。旦那は行く前から「ディズニーまでの道順は仕事で何回も通ってるから大丈夫だ」と自信満々に言っていた。そして、数時間後、会社に聞いたであろう旦那から折り返しの電話がきた。「8月の10日から3日休み取れた!そのままお盆休みでいいって」と電話がきた。そういう時だけはちゃんと休み取れるんだな…と、少し腑に落ちないところがあったが、仕方がない…。日にちが決まったところで、子供たちが学校や保育園から帰ってきたら真っ先に報告しよう!子供たちの喜ぶ顔を想像したら嬉しくなってきた!とうとう子供たちを迎えに行く時間になった!そして、みんなが揃ったご飯の時間…。「聞いて!今度ディズニーランドにみんなでいくよ~!!」すると…「ほんと!!??わーい!!(∩´∀`)∩ワーイ!!」とみんなで喜んでくれた!!良かった!この顔を見たかった!それからしばらく「ディズニーランド」の話で盛り上がった!子供たちは興奮状態だった。それからしばらくテレビやな
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新しい人生の幕開け…39

私は、日々が「秒」のように過ぎていった。夜寝る頃には「次の日の朝」をどう早く、的確に、完璧にこなすか…、ということを考えながら眠りについた。もちろん、子供との「会話」もちゃんと聞いてあげたい。そのための時間も必要。私にご飯など食べる時間すらなかった。ご飯を食べるのは、仕事の合間の15時あたり。一日、その一食だけになった。仕事の間に、息子の病院や、PTA、そして仕事に必要な試験の勉強。息子が学校に入学して初めての夏休みの時の話。夏休みは二人とも「学童」に預けていた。そのためお弁当も作らなければならなかった。学童にもお金がかかるが、二人がもう少し大きくなるまでの辛抱だ、と思い入れていた。もちろん私が仕事中、事故などの心配もあったからだ。なんせ旦那の両親はアテにならない。そして、夏休みが過ぎた。一年生の「夏休み」と言えば、みなさんも記憶があるだろうか、「花や野菜を育てるための鉢植え」を持ち帰って毎日観察する、または収穫する、というものだ。息子は夏休みが終わり、そのプランターを持って行かなければならなかったのを何日も忘れていたようで、先生から連絡帳に「お母さんが持ってきてください」と書かれていた。私は息子にも登校時に伝えたが、気づいたら…また忘れている…。これは、私が持って行かなければ…と思い車にプランターを入れ、下の子を保育園に預け、とりあえずは仕事に向かった。朝礼を終えて、学校の休み時間に合わせていこうと思ったが、今度は自分のアポイントの時間と重なることがわかり…。これはどうしようもない、と私は学校に向かった。本当はプランターは一年生のクラスの隣の庭?のようなところにみんなの分が置
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新しい人生の幕開け…38

日常でも、様々な変化もあり、その中でも息子の「障害」のことは、まだはっきりしない診察と診断だった。前に検査したときもまだ「保育園ですからね」などと言われ…はぐらかされてきたように思うが、まだその頃では「発達障害」というものに先生たちすら「知識」がなかったのだと思う。その年の春、息子は1年生になった。保育園の先生からは最後まで「息子君は普通の男の子です!」と言われた…。けれど、私は納得がいかなかった。それは「障がい者」にしたい、ということではなく、やはりどこか「違う」ということが明確ではないが、本に書いてあった行動と思考が同じだったのだ。これは「男の子だから」などで済まされない。なんとも言い難い…説明がしずらかった。入学式にも旦那は出席はしなかった。入学式の準備も私一人で行った。旦那の両親からも「お祝い」などは貰ってもいないしお祝いの言葉すらなかった。上の娘の時の運動会なども旦那は出席はしなかったが、Rさん家族が一緒にいてくれたから少しは気持ちはラクになった。Rさん家族は、その頃「離婚」をしてRさん子供が学区が同じになったのを機に、イベント事には協力してくれた。もちろん旦那の両親などは来ない。私が住んでいる地域は春に運動会をする。なので入学したら初めてのイベントが運動会となる。息子が入学するまでは運動会さえ、娘と私の「二人ばっち」だった。ごめんね…と、つい言ってしまったことがある。けれど娘は「お母さんと一緒だから大丈夫!」と言ってくれた。本当はみんなが羨ましいだろうに…。他の親たちは一生懸命、自分の子供たちの運動会を「ビデオ」に撮っていたが、ウチにはそんな贅沢品はなかった。携帯す
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新しい人生の幕開け…35

妊娠してからはもちろん、「うつ病」の薬は飲んでいない。そもそも「通院」すらまともにしていない。もちろん、「自分がうつ病になるわけがない」とも思っていたけど、だれも親身にはなってはくれなかったし、そこまでまだ「うつ病」が認知されていなかった。日々過ごしていると「病院に行く」というのは子供主体になってしまい、自分はギリギリまで「病院」というところにはいかなかった。旦那が帰ってきて、名前を決めよう、という話になった。もう時間がない。色んな案が出たが、女の子なのに?という感じの名前になった…。私はあまり賛成ではなかったが、何時間も話しても埒が明かなかった…。お互い離れていても子供の名前の漢字や画数や意味などは考えていると思っていた。けれど旦那は「もうこれでいいんじゃない?」なんてことを言い出す始末。「名前は一生ものなんだよ!」と言っても…「俺の名前も適当だった」だの「爺さんが付けた」だの全くお門違いな答えしか返ってこなかった。夕方までには出さないと、明日にはまた旦那が仕事にいってしまう…。私が出してもいいけど、出生届けくらいは旦那に出してほしかった。出産したことがある人ならわかるかもしれないが、出産したからといって自動的になんでも手続きができるわけではない。健康保険の加入の手続きやたくさんの書類などがあった。今はどうかはわからないが…。そして、出産一時金…。これが問題となった。これは、もちろん私は旦那の扶養になっていたから旦那の社会保険から支給されることになる。その当時の金額は35万円くらいだったと思う。そのお金を…「少し貸してほしい」と言い出したのだ。はい??また始まった。このパター
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新しい人生の幕開け…30

いよいよ「出産」も間近になってきた。退院してからの準備もできた!いつでも「入院できる」準備は整った!あとは待つだけ…。予定日はまだだったが、少し落ち着きたかった。が、なんだか腰?お腹が張っている…少し休もう…。そう思って私は座った。少し休んでいるとちょっと治まった。良かった…そんな時間を過ごしていると、Rさんが突然やってきた。珍しい、突然くるなんて。家にあがってもらい、少し話をしていた。「もう産まれてもいい時期だよね~」なんて話ていた。そうするとまたお腹が張ってきた!「痛い…」というと、Rさんは「それって陣痛じゃないの?」と言った。予定日よりはちょっと早い…しかもその日に限ってお腹の痛みが頻繁にきていた。病院に電話したら?というので電話してみたら「いつ産まれてもいい時期だから心配だったら病院にきてください」とのことだった。私はすぐ旦那に電話をした。「ちょっと早いけどいよいよかもしれない、もしかしてこのまま入院なったら子供たちのことお願いします」と…旦那は「わかった!俺もこれから会社に電話したり親父に電話したりするから気を付けていってこいよ」というので「車はRさんにお願いする、たまた居てくれたから」というと「わかった」とだけ言って電話が切れた。Rさんにお願いの一言もないのか…。ちょっとがっかりしたが、今はそれどころではなかった。定期的に痛みがくるようになった。時間を測ると「10分置き」…。上の子供たちも案外安産だったのもあって少し早いかもしれない、Rさんに伝えると「病院に行こう」と言ってくれた。まだ子供たちが帰ってくる時間ではなかったが、後のことは旦那に任せよう…そう思った。そん
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新しい人生の幕開け…27

私のパート先の方が先に撤退するということで、撤退する作業が行われた。そこではもう使わない食器などを持って帰っていい、とのことだったので、使えそうなものをもらって帰ってきたりしていた。最後には本社の人たちも来て、昼間の短時間ではあったが「お疲れ様会」が行われた。撤退作業はたった1日で終わった。人数が結構いたので、すぐ終わったのだ。高校生のバイトの子たちも…パートの人たちも、最後には笑顔で迎えられた。みんなに私のお腹を気遣ってもらったり優しい人たちだった。けれど、そのフードコートの中でもたくさんのトラブルはあった。お金が盗まれた、勝手に店のものを食べた…など。犯人はわかった時もあったが最後までわからなかったこともある。けれど、印象的な件を一つ。パート・アルバイトの募集は随時ハローワークに出していたらしく、時々「面接」の電話はきていた。その中で「はい、○○です!」と電話を出ると、声と話し方だけでも、結構なお年寄りの声がした。「お宅さんで、アルバイトの募集をしているときいたので…」と女性。「はい、募集しております!面接のご希望ですか?」と聞くと「はい…だと思います」と…。思います??おかしいな…と思いながら「○○様が面接のご希望でしょうか」と聞くと「あたしゃもう年よりだから、息子に働いてもらいたいと思って」というのだ。え??親が、というよりもう成人しているであろう息子の面接を親がする、という行為に驚いた。「すみません…アルバイトされる息子さんからもう一度お電話いただけるようお伝えください…」と返した。本人ではないのに「面接の予定」は入れられないのだ。高校生でも「自分」で面接の電話は自分
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新しい人生の幕開け…14

突然の出張の話。なんで出張になったかと聞くと、「なんか成績上げれない人に限定して講習会?みたいなやつやるんだって」と…。アポの一件もまだとれていないのか…。そこは口には出さず、「どこに出張なの?」と聞くと「宮城の仙台」と言った。期間は2週間くらいだと言っていた。週明けから行くらしい旦那は「初」の出張という経験をする。聞くと、講義室に缶詰め状態らしい。旦那は不安になっていた。「俺缶詰め状態苦手なんだよな…」と…。そして見送った朝。子供たちは寂しがっていたが、旦那からは何も連絡はなかった。多分相当疲れているだろうな、と推測していた。こちらから電話をすることもしなかった。そういう会社はほぼスケジュール管理されていることを知っているからだ。泊まるところはビジネスホテルだと聞いた。そうして次の日、電話がきた。「俺、こんなんだとは思わなかった。缶詰状態に耐えられない…」と弱音を吐いていたが、「そうだね、けどもう少しだから…」と励まして電話を切った。それから数日後の夜、その日は珍しくI子さんが家に泊まりに来ていた。それは旦那にも報告していた。久しぶりに会ったのと子供たちのことを心配してくれていたのとで話が弾んだ。子供たちも大喜びだった。が、寝る時間になり、息子が熱をだした。多分はしゃぎ過ぎかと思われたが、I子さんを残して病院にも行けず、咳もなかったため様子を見ようということになった。が…電話が鳴った。夜の9時過ぎだ。なんだと思い携帯を見ると「旦那」の表示。電話をとると「俺、もう無理だ…お金もないし、車もないから帰れない、どうしよう、けどもうあの会社には居たくない!辞めてきた!もうやだ!」と本
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新しい自分へ…21

娘を引き取ってから初めての「登園」。事前に保育園の先生や園長先生からはとても温まる言葉をもらっていて、本当に救われた。「お母さん、よく頑張ってきましたね…、これからはお母さん一人で頑張らないように私たちを頼ってくださいね!」と…。保育園の準備はまだ完璧とまではいかなかったが、先生たちは「少しづつでいいから」と言ってくれていた。登園当日、娘はやや緊張していたようだが、なにか様子が変だ…。娘を保育園に預けて仕事に向かおうとすると、娘は急に「行かないで!」と泣き出したのだ。先生もビックリした様子だったが、「そうか…ここも施設と同じだと思っているのか…。」とすぐに察することができた。だから私は「ちゃんと夕方迎えにくるよ!約束!」といい、指切りをして、まだグズグズ泣いている娘を先生に預け、私は仕事に行った。私は「しばらくは保育園の迎えの時間を早い時間にしよう」と思った。幸い、「保険屋」は時間の自由は効く会社だ。けれど一応、上司にも相談して早めに帰宅させてもらえることになった。心配だけれど、それでも一緒に進んで行くしかない!本当は1週間くらい仕事を休もうか悩んだが、まだ下の息子のこともある…。早めに迎えに行って「本当に迎えに来てもらえる」という安心を持ってもらうのが精一杯だった。その日は15時で会社を出て娘を迎えに行った。保育園に入ると1番に私を見つけて「おかぁさ~ん!」と半分泣きながら走ってきた。「ほら、ちゃんと迎えに来たでしょ(*^^*)」というと娘もホッとした様子で「うん!」とうなずいた。先生に少し様子を聞いたが、みんなの前では泣いたり困らせることはなかったと…。娘ながらに周りに気を
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新しい自分へ…19

娘を引き取る準備はできている。アパートに帰って足りないものの見直しをして、準備万端!彼は帰ってきてもそんなに家にいる時間は少なかったが細かい気遣いをしてくれてた。引き取りの日も一緒に迎えに行ってくれるという話になった。引き取りまで時間はすぐ過ぎた。引き取りの朝、私は今日は娘の好きなものをたくさん食べさせてあげよう!そして、好きなことをさせてあげよう!彼の車で娘を迎えに行った。娘は面会部屋で施設の人と待っていた。娘は走って私に駆けつけてきた!私は「帰ろうね」といい抱きしめた。彼はほんの少ししかない娘の「荷物」を車に積んでくれていた。私は施設の人に挨拶をし、お礼をいい、施設の外観を少し振り返りながら施設の門を閉めた…。娘と手を繋いで…。彼と娘はもう仲良くなっていたから、なんの抵抗もなかった。そして、娘に「なにが食べたい?」と聞くと「お母さんの料理!」と言った…私はファミレスなどを想像していたからビックリしたけど嬉しくなった。「じゃあ、何が食べたい?お母さん作るから!」というと「ポテトサラダと煮物!」と答えた。家に材料がなかったからみんなで買い物に行くことにした。
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新しい自分へ…18

慌ただしく日常が過ぎていった…。Rさんはたまに連絡くるくらいで、アパートにはあまりこなくなった。けれど、電話では「娘をいつ引き取るのか」などと聞いてきたりした。引っ越しもようやくひと段落が着き、保育園に入園の面談や色々聞いてこなくてはいけない。仕事をしながら地元と秋田市内を行き来するのは大変だったが、今一時のことだ。そして、市役所の人などとも「引き取りの時期」の話を明確にしなければならない。市役所、児童相談所の人も「居住の確保ができたこと、入園できる保育園があること、そして私に仕事があること、今の交際相手と婚約状態にあること」などからすんなりokを出してくれた。そして、次は児童養護施設…。私は軽い足取りで施設に向かった。施設に着くと、部屋に通された。施設の人は「こんなに短い期間で引き取る人はいませんよ!」と半ば機嫌を悪くしていたが、そんなことは私には関係ない。私は「〇月〇日に引き取りに伺いますのでそれまでお願いします」とだけいい、少し娘に会っていくことにした。そして、娘が面会部屋にきて、いつものように抱き合った。「今日はね、嬉しい報告があるんだよ!あのね!もうすぐ一緒に住めることになったんだよ!」というと、娘はとっても嬉しそうに泣いた。私たちは抱き合って泣いた。こんなに心が温かくなったことがあっただろうか…。面会時間ずっと泣いていた。面会が終わる時間になったが、今までよりも清々しい気分になった。
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新しい自分へ…17

アパートを契約して、さぁ!引っ越しだ!という時に、Rさんから電話がきた。内容はいつもの通り、こちらの様子を伺う電話。引っ越しを内緒にして、もし、なにも知らずに今のアパートに来られたら…。私は不本意ではあるけど、Rさんに引っ越しの日を教えることにした。そしたらRさんはやっぱりノリノリで「引っ越しを手伝う!」といい始めた。やっぱり…。仕方ないから引っ越しの日どりを教えた。そして、その事を彼にも伝えた…。もちろん彼はいい顔はしなかった。ただ「手伝ってくれる」という言葉にうかうか乗ってしまったのである。そうして迎えた引っ越し当日。Rさんは張り切って自分のワンボックスカーに乗ってきた。そして彼の持っていたワンボックスカーと二台で往復したりして引っ越しを終えた。それで必然的にRさんに新居がバレてしまったのである…。地元に戻ってきたけれど、私はすでに仕事も決まっていたし、子供たちの保育園も決まっていた。Rさんとは引っ越し以来会うことが少なくなっていた。あとは息子を引き取ること、と、彼と入籍することだけになった。彼の両親に会うのは気が引けたが、挨拶や礼儀はちゃんとしないといけない。最低でも、あの母親のようにはなりたくなかった。彼は相変わらず「長距離運転手」をしていたが、帰ってくると子供たちと遊んでくれたりしていた。新居は狭いが綺麗なアパートだ。入籍をして落ち着いたら中古住宅でも買うか、などとも話していた。私は「こんなに幸せでいいのだろうか」と不安になるくらい順調だった。こんな「人並み」の幸せですら、今までの生活では考えられなかった。息子は上の娘の保育園が順調に登園出来て娘の気持ちも安定したら、
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新しい自分へ…13

次の日もバイトだった。休みの日を利用して、市役所行ったり、児童養護施設に行って娘と面会や外泊…。外泊のときはなるべく彼も一緒にいることにした。彼は特別、娘に気に入ってもらおうともせず、普通に接してくれていた。まるで、「今までなにもなかったか」のように…。とても「自然」に触れあってくれた。下の息子にも同じだった。息子は何もわからない年齢(12か月くらい)だったが、ぐずることにも何も言わず嫌な顔をすることなくあやしてくれた。そんな姿や光景をみて、「あぁ…これが『普通の家族』なんだなぁ」と感じていた。こういう「普通」がなによりほしかった。彼は特別何かをしているわけではないが、それもまた嬉しかった。晩御飯を買いにスーパーに行くときも自然に娘の手を取り歩いていた。なんだろう…すごく胸が熱くなるのを感じた。「このまま幸せが続けばいいのに…」そう思わずにはいられなかった。バイト仲間も彼の存在を知り始めてきてくれて、「頑張ってね!次は幸せになるんだよ!」などと声を掛けてくれた。そんな中…事件は起きた…バイトを終えた私はアパートに帰った。次の日バイトに行くと「店長」から呼び出しがあった。「なんだろう…」と控室に行った…。「お前、エアコンの電源落としていかなかっただろ!」と…。そこの店はそういう細かいところにうるさかったため、たかだか10分休憩のときなどエアコンは使っていない。「え、私ではありませんけど…。しかも私がエアコン使わないの知ってますよね…」というと「お前しかいないんだよ!なんで認めないんだ!」と…。普段店長とは良好な関係が築けていたと思っていたから、そんな風に言われるのは驚いた。冗談も
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新しい自分へ…8

それから彼からはしばらく連絡はなかった。私は、バイトや子供たちのことに専念していた。けれど実際問題、お金が貯まるなど何年先になるかわからない状態が現実だった。それでも「諦める」という考えはなかった。児童養護施設では最低2年施設に入所してもらう、というのが条件だったが、私はそれより早く子供を引き取りたかった。気づけばもう1年が経とうとしていた。小学校入学前までには…一緒に生活していたい…。今のバイトでは無理だ…。その頃の秋田県はパートでもアルバイトでも「副業」ということが原則「禁止」されていた。そのころ、ちょうど「某牛丼チェーン店」は「牛肉輸入制限」かなにかで肉が入ってこなくなる事態に陥り、店は混雑、シフトも人数も増やして対応していた。帰るのは、シャワーを浴びに帰るだけの日々が2週間くらい続いた。これでは「副業」どころの話ではない…。体力的にも限界に近かった。忙しかったせいもあり、色んなことを忘れて仕事に打ち込むことができた。そして、牛肉がなくなりシフトも通常に戻った…やっと休める…それを見計らったかのように「彼」から電話がきたのである。私はハッとした…。そうだ、返事も返していない。返事だけはしようと電話にでたそうすると相変わらず何事もなかったかのように接してきた。そうか、ただの気の迷いだったんだな、私はあの話には触れないようにしていた。そうして、今までの仕事のことや彼の仕事のことなど他愛もない話をしていたそうすると「それで、考えてくれた?あの話」と…え?私はどうやって返していいのか分からなくなった。断る、ということをしたことがないからどうやって断ったらいいのか分からなかった。黙
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新しい自分へ…3

離婚裁判から一か月くらいが経った。そろそろ「慰謝料」などが振り込まれてもいい時期だ。私はどういうルートで慰謝料が振り込まれるかわからなかった。直接…ということは私の口座を相手が知っていなければならないし、裁判所経由で振り込まれるのか、それとも弁護士さんから振り込まれるのか…、私は、弁護士さんの事務所の近くに丁度用事があってきていたので、行ってみることにした。弁護士さんはいなくても事務の人がいるから、どういう状況かくらいは教えてくれるかな、と思い寄ってみた。玄関を入ると、受付で事務の方が私のことを覚えていてくれて「あら、こんにちは、今日どうしたの?」と話しかけてくれたので「慰謝料の件なんですが、いつ頃振り込まれるでしょうかと思って…」というと事務の人はいきなり険しい表情になり、「慰謝料は振り込まれましたが、あなたに振り込まれるだけの金額ではありません!こっちがマイナスなくらいです!!」とピシャリと言われた。私は「え?私にはこないということですか?」あまりの言い方に私は聞き返してしまった。事務「そうよ!こっちが逆に欲しいくらいだわ!わかったらもう帰って!先生も忙しいのよ!」と言われてしまった。あっけに取られているうちに目の前から誰もいなくなり、私はうつむきながらその事務所を後にした…。いくら慰謝料が振り込まれたのか、いつ払われたのか、なぜ私には連絡がこなかったのか、裁判に勝っても私が全部払わないといけないのか…。今のように携帯電話もそこまで詳しく教えてくれるわけでもない。周りに詳しい人がいるわけでもない。どれが本当でどのようにすればよかったのか、全く分からなかった。ただ「離婚が成立
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新しい自分へ!

離婚裁判が終わり、I子さんのところへ報告に行った。I子さんは「あとは少しずつ頑張って子供たちを迎えにいかなきゃね!」と励ましてくれた。i子さんは、本当に「母親」みたいな存在だった。時には厳しい言葉をかけてくれて、時には励まし、一緒に喜んだり、ご飯を食べたり…。それは多少は遠慮や気遣いもしたけど、本当の子供のように接してくれた。そして、私の新しいバイト先が決まった。某牛丼チェーン店だ。バイトを始めてから、とても楽しい日々が続いた。覚えている人も多いと思うが、その牛丼屋さんは「オーダー表」のようなのもはなく、「すべて頭の中で記憶」しておく必要があった。お客さんの順番、メニュー、サイドメニュー、全て…。最初は見事なまでにテンパってしまった。お昼などは本当戦争のようだった。今まで牛丼屋さんには来たことがなく、どれだけ混雑するのか全くわからなかった。私の地元にはその牛丼屋さんはまだ来ていなかったから食べたり、行く機会がなかったのである、もちろん、自分にお金もなかったのだが…。それでも店長をはじめ、みんな親切に教えてくれた。大学生などもバイトにくるため、控室は活気に溢れていた。私はありがたいことに9時から14時の時間帯でバイトしていた。土日は大学生などが入ることが多いため土日もたまに休めたりしていた。14時に終わり、i子さんの家に行ったり、土日は娘に会いに行ったり。平日は息子。それでも夜は一人でいることが苦しかった。それでまた携帯で男性を探したりして寂しさを埋めていた。そんなある日、バイトから帰ると私の元に一通の手紙が…。差出人は「元旦那のお姉さん…」嫌な予感がする…。裁判が終わってから2
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離婚まで…39

いよいよ「離婚裁判」にたどり着けそうだ。無料相談に行った際、女性の弁護士が付いてくれるというのでその弁護士さんにお願いすることにしていた。その女性の弁護士さんは、私の話を丁寧に、そして優しく聞いてくれた。母親の虐待の話や、金銭の話、離婚裁判には全く関係のない話だったが、「あなたのことをキチンと知ったうえで裁判をしたい」といってくれた。優しい表情から、時折厳しい表情に変わるときも私は必死になって話した。そして、2時間くらい話した。弁護士さんはなぜか泣いていたそして一通り話終わると「よく生きてこれたね…偉かったね」と言った…。私はこれまで「褒められたこと」など一度もない。邪魔にはされても褒めれれることはなかったまして「生きてきた」ことに対してなど誰も認めてはくれなかった。「普通」のことが「普通」ではない。私は「この弁護士さんならお願いしたい!」そう思った。そして、絶対「息子も養育費も慰謝料も取ってやる!」弁護士さんとそう約束した。そして、「着手金」のお金も渡した…。数日後には旦那のほうに手紙がいくらしい。「裁判を起こしました」という内容のものだそうだ。数日後、打合せのために弁護士さんのところへ行った。前回は旦那や母親のことを中心に話してきたが今度は子供のことや、これからのことなどを話したりした、今後のことは私にとっても重要なポイントとなる。けれど、今「不利な状況だ」という。なぜなら私に「両親がいない」から…それはなにを意味するかというと「息子を引き取れない」ということだった、それには愕然とした。息子…言葉が出なかった…それだけで負けた気がした。なぜ息子が引き取れないか、それにはもう
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離婚まで…38

i子さんとばったり道であった!私は嬉しくなった!そして道端にも関わらず、色々話した。話しているうちにi子さんの家がこの近くだというのだ。私のアパートと歩いて10分くらいの距離にいるようだった。「ついでだからおいで!」と言われて嬉しくなってi子さんのアパートに付いていった。そしたらなんと、風呂トイレ共有のアパートに住んでいた。i子さんは「ここ汚くてね、また私掃除からよ(笑)」などと笑いながらいっていたが部屋はi子さんらしく綺麗にされていた。i子さんは「花」が大好きだ。その部屋にもたくさんの花があった。シェルターから出たときのことや今までの話、色々二人で話した。そして時間も遅くなりそろそろ帰ろうかな、と思っていた時「晩御飯食べていきなよ!私も一人で食べても美味しくないし!」といってくれたので、その言葉に甘えることにしました。i子さんはとても料理が好きな人ならしく、ドンドン料理が出てきました。こんな料理は何年ぶりだろう…暖かいご飯、みそ汁、漬物や焼き魚…サラダ…テーブルに乗せられないくらいの料理が出てきた。どれも美味しく、泣きそうになった…これは美味しくて、もそうだけど、「子供たちに食べさせてあげたかった」という気持ちが強かった。そしてなにより、i子さんの気持ちが嬉しかった。たくさんご馳走になった後、「今度私のアパートにも遊びにきて!」と言って帰った。i子さんは携帯電話ではなく、「家電」を契約したようで家の電話番号もおしえてもらった。そうして、数日が経った…。全く何事も前に進まない時間が過ぎていった。アパートを借りてから2週間ほど経ったとき、私は初めて娘のいる施設にいった。娘は私を見
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