自叙伝「それでも、生きてる(社会人前期編)」

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第一話 「新入社員研修」

晴れて私は、自由の身となった。

長年の私のコンプレックスだった、貧乏な家からの解放である。これからは、私が一社会人として収入を得て、誰にも指図を受けない、充実した生活を送るのだ。まさか、高校卒業と同時に一人暮らしをすることになるとは夢にも思ってなかったが、いざこうして部屋に一人佇んでいると、心の底から希望が湧き起こってくる。

「遂に勝ち取った」

振り返れば、母には川から拾ってきた子共と言われ、転校を繰り返し、義父に怯えながら生活し、家は貧乏で、ほぼ毎日同じ服、学校で使う備品は大抵兄のお下がりか貰い物、給食費の滞納なんてしょっちゅう。中学になると反抗期を迎え、顔を合わせれば母と口論ばかり。それは高校になっても続き、母を憎み、こんな家に生まれた自分を呪ったこともあった。

それが今はどうだ。

備え付けのベッドの上に座り、テレビ、エアコン、ロフト付きで、光熱費込みの、1Kの部屋に、静寂の中ただ一人、佇んでいる。
一人になるのは多少怖いものなのかなとも思っていたが、なんてことはなかった。それよりも、あの家から解放された嬉しさの方が圧倒的だった。

とは言っても、一人暮らしを始めたのも束の間、就職した会社による、一週間程の泊まり込みの研修が始まろうとしていたので、引っ越し早々、私は勤め先の寮に行くことになった。

私が勤めることになったその会社は、今ではかなりの大手になっている。家具や家電、生活雑貨に食品等、幅広く事業を展開し、近年目覚ましい成長を遂げている。
そんな会社に、少しの間でも勤めることが出来た自分を誇りに思う。

そう、私はこの会社を、2年程で辞めることになる。

まぁそれはおいおい書くとして、今は研修の話に戻ろう。

その年の新入社員は、20人~30人程いただろうか。驚いたことに(今考えれば当たり前だが)、全員県内からの内定者と思いきや、そうではなく、全国でこの人数だったようで、男性陣の中には関西弁を話す人が複数いて、本場の関西弁に少々圧倒されていた。東北人で、修学旅行以外に一度も県外に出たことのなかった私にとって、本場の関西のノリは、かなり新鮮だった。言葉の通り、「社会に出た」気分になったのを覚えている。

新入社員の男女比は、半々ぐらいだったと思う。大卒の人も混じっていて、どの人も、いかにも仕事が出来そうな感じだった。高卒部隊はと言うと、私を含め、県内からは男性が3人、女性が4、5人程、県外からの男性は、あの、関西弁を話す人たちが3人いた。

そもそも、なんで関西の人達がいるのだろうと思ったが、恥ずかしながら、その時になってようやく気付いた。

ここが本社だったのだ。

本社なのだから、新入社員は全員ここに集まるに決まってる。
社屋やら、工場やら、寮やら、どおりで立派なわけだ。

私はこれから、この本社で働くのだ。
身が引き締まる思いだ。

それにしても、関西の人達はよくしゃべる。

こうして、私の社会人生活がスタートした。

第二話 「地獄の研修(前編)」

タカをくくっていた。研修などと言っても、新入社員を集めて、レクレーションのようなことをするだけなのだろうと思っていた。

が、その甘い考えは、もろくも崩れ去る。

研修初日は大したことがなかった。施設を見て回ったり、自己紹介をし合ったり、会社の成り立ちや理念などを学んだりした。

まぁ、研修とは言っても、この程度だろうと思っていたが、初日の研修の最後に、研修員から告げられた事に私は驚いた。

「これから毎日、家に手紙を書いていただきます」

とのことだった。

その日に学んだ事や、どういう生活を送っているかなどを、実家に報告しなさいとのことだ。

「囚人?」

と、一瞬思ったが、

まぁ、そういうものなのだろうと思い、手紙を書こうとしたのだが、手紙と言っても、それはそれは丁寧な言葉を使わなくてはならず、手紙と言うより、文書を提出する練習をさせる意味合いがあったのではないかと今になって思う。

それにしても、まさか家に手紙を書くことになるとは。

「母上、元気でお過ごしでしょうか?」

って書けと?

できるかそんなこと!

と思ったが、書かないことには研修が終わらない。渋々、歯が浮くような言葉を書き、提出した。具体的にどんな内容を書いたかははっきり覚えていないが、
「就職出来たのは支えてくれた母のおかげです」
みたいなことは書いたと思うが、もちろん、そんなことは少しも思っていない。自分が就職出来たのは、無論、私が勉強したからだ。それ以上でも以下でもない。母に感謝など、できるか。

そんな想いを抱えつつ、偽文書を書いて提出した。これを、研修中は毎日提出するそうだ。

やれやれ。先が思いやられる。

その上、悲報がもう一つ。

関西弁の人達と、寝泊まりする部屋が一緒だった。
私はてっきり、一人一人部屋が用意されるものだと勝手に思っていたが、そんな好待遇な訳が無く、少々うるさいくらいのノリの男達と、昼夜を共にせねばならず、落ち着いて眠れない日々が続くのである。

暑苦しい男達がひとたび同じ部屋になろうものなら、それはもう、気分は修学旅行である。ああでもない、こうでもないと、関西の人の話は終わらない。どんな話をしていたかは覚えていないが、何一つ覚えていないということは、そういうことだろう。

そんな風にして、やや不穏な空気を感じつつも、無事に研修の初日を終えたのである。

そして、ここからが地獄だった…。

第三話 「地獄の研修(後編)」

二日目から、雰囲気がガラッと変わった。
結構な早起きをさせられ、布団をたたみ、すぐ身支度をして、研修場所に走り、大声で号令をして…といった感じで、まさにそれは、囚人のそれである。

研修員は、人事部の人達が4、5人で担当していたのだが、どの人も、昨日より表情が険しい。昨日はあんなにくだけた感じだったのに。
朝食の間も、私語厳禁である。食器の金属音だけがこだまする異様な空気の中、我々新入社員は、昨日と打って変わってのこの状況に戸惑い、互いに目を合わせ合っていた。

二日目の研修内容など、辛過ぎて記憶から消去してしまったのだが、明らかに初日より研修員の態度が変わったのは確かだった。
今思うと、最初からそういう研修プランだったのだろう。初日は油断させておいて、二日目から、社会の厳しさを教えるみたいな作戦だったのだろう。

そんな中、その日も家に手紙を書き、夜になると、またも関西のノリに付き合わされ、しんどいと思いつつ、日中の厳しい研修によるストレスもあったせいか、話が盛り上がり、就寝時間が遅くなってしまった。

そして次の日、
案の定、寝坊である。私の部屋の全員が寝坊をしてしまった。
私たちは慌てて着替え、猛ダッシュで集合場所に向かう。寝泊まりしている寮から研修を行う建物までは、ちょっとした坂を上って行かねばならず、寝起きにこの坂はキツいと思いつつ、寝坊しているのに起こしてくれないんだとも思いつつ(まぁ当然だが)、坂を駆け上がった。

途中、男の研修員が現れ、「早く走れ!」と怒号を飛ばす。

何度も言うが、囚人になった気分だった。

その日の夜から、早目に就寝するようになったのは言うまでもない。

そこからはもう、記憶が研修最終日にまで飛ぶ。

この最終日が、消したくても消せない程、今も強烈に記憶に刻まれている日だった。
最終日の最終、集大成とも言うべき研修内容は、

「社会人としての目標を大声で言う」

というものだった。

(なんだそんなこと。たしたことないじゃん)

と、侮るなかれ。
これを、大声で言うって所がポイントなのだ。

少し広めのフロアに我々新入社員が一列に並び、一人ずつ、30メートル程も離れた所に立っている研修員に対して、目標を大声で叫ぶのだ。そして、研修員に声が小さかったり内容が薄いと判断された場合は、

「不合格!」

と言われ、列の最後尾に回されるのだ。

新入社員「私は社会人として…」
研修員「不合格!!」

みたいな感じだ。みなまで言わせない。問答無用である。

これを、合格するまで延々と続けるのである。一発合格する者などいなく、ことごとく、

「不合格!次!不合格!次」

のループである。

もちろん、私も瞬殺で不合格だった。そんなループを繰り返しているうち、
あまりの過酷さに、女性が一人泣き出してしまった。

すると、堰を切ったように次々みんな泣き始めた。冗談ではなく、本当に、一斉に泣き始めるのである。
人間は、逃げ場の無い状況に身を置いていると、絶望のあまり泣き出すようだ。しかも、最後の最後に最も過酷な研修内容を用意されたものだから、絶望度合いもすさまじく、研修会場は阿鼻叫喚に陥った。

あの、息まいていた関西人のみんなですら泣いていた。
あいつらですら泣くのだから、私なんて、号泣である。

途中、声がかすれて出なくなってしまう者も現れ始めた。それでも、
「不合格!」
を突き付けてくる。容赦ない。

そして、その地獄の研修がどうやって終わったのかも思い出せず、涙と鼻水で視界がぼやけ、意識朦朧となった私たちは、ただただ辛かったということだけを記憶して、研修生活を終えるのである。

研修から解放されたのち、全員が真っ先に話した内容は、

「あの研修ヤバかったね」

である。

今もあの研修やってるのだろうか…。

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