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自叙伝「それでも、生きてる(社会人前期編)」

第一話 「新入社員研修」晴れて私は、自由の身となった。長年の私のコンプレックスだった、貧乏な家からの解放である。これからは、私が一社会人として収入を得て、誰にも指図を受けない、充実した生活を送るのだ。まさか、高校卒業と同時に一人暮らしをすることになるとは夢にも思ってなかったが、いざこうして部屋に一人佇んでいると、心の底から希望が湧き起こってくる。「遂に勝ち取った」振り返れば、母には川から拾ってきた子共と言われ、転校を繰り返し、義父に怯えながら生活し、家は貧乏で、ほぼ毎日同じ服、学校で使う備品は大抵兄のお下がりか貰い物、給食費の滞納なんてしょっちゅう。中学になると反抗期を迎え、顔を合わせれば母と口論ばかり。それは高校になっても続き、母を憎み、こんな家に生まれた自分を呪ったこともあった。それが今はどうだ。備え付けのベッドの上に座り、テレビ、エアコン、ロフト付きで、光熱費込みの、1Kの部屋に、静寂の中ただ一人、佇んでいる。一人になるのは多少怖いものなのかなとも思っていたが、なんてことはなかった。それよりも、あの家から解放された嬉しさの方が圧倒的だった。とは言っても、一人暮らしを始めたのも束の間、就職した会社による、一週間程の泊まり込みの研修が始まろうとしていたので、引っ越し早々、私は勤め先の寮に行くことになった。私が勤めることになったその会社は、今ではかなりの大手になっている。家具や家電、生活雑貨に食品等、幅広く事業を展開し、近年目覚ましい成長を遂げている。そんな会社に、少しの間でも勤めることが出来た自分を誇りに思う。そう、私はこの会社を、2年程で辞めることになる。まぁそれはおいおい
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自叙伝「それでも、生きてる(中学~高校期)」全三十話

第一話 「中学入学」 暖かな日差し、所々に咲く花、風にそよぐ枝葉、ここぞとばかりに活動を始める虫たち。そんな自然の躍動を感じ始める季節、それが、春…。のはずだ。 が、私はというと、躍動どころか緊張で生命活動が停止しそうである。緊張のあまり、入学当初のことをほとんど覚えていないのだが、一つだけはっきりと感じていたことは、 「先輩怖そう」 だった。当たり前と言えば当たり前だが、小学校とは雰囲気がまるで違っていた。先輩の一部には、髪を茶色に染めていたり、耳にピアスをしていたり、ズボンを腰の辺りで履いていたりと、 「大人になるってこういうことなのか」 と勘違いしそうになるくらい、上級生が大人に見えた。 先輩をジロジロ見るのは程々にして、これから苦楽を共にするであろう同学年に目を移すと、情報通り、クラスのおよそ八割は別学区の小学校の卒業生で、当然、すでに打ち解けている様子だった。少数派の我々は緊張した面持ちで、多数派に入れてもらうべく奮闘した。入学当初から孤立するわけにはいかない。何事も最初が肝心である。最初から浮いてしまっては、イジメの対象になってしまうかもしれない。とにかく暗い奴と思われてはダメだ。小学校で培った、持ち前のお調子者キャラでいこう。と同時に、扱い易い奴と思われてもダメだ。時にはクールに装い、なめられないようにしなくては。 結果、数日後には、何事もなく多数派に仲間入りすることが出来た。 緊張していたのはみんな一緒なのだ。だから打ち解けるのも早い。さっさと打ち解けてしまった方が得なのだ。なにせ、中学生ともなると、教科も難しそうな名前が増え、授業も教科ごとに先生が変わり、生徒
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自叙伝「それでも、生きてる(幼少期~小学校期)」全三十一話

第一話 「拾われた子供」 「ママお金ある?」 貧乏な家に生まれた私は、小さい頃どうしても欲しい物がある時に、母にいつもこうお伺いを立てていた。 その度に、母に言われた。 「金欲しいんだったらオマエの親父に言え」 私の父親は、物心がつく頃には既にいなかった。一、二歳の時に、母の腕に抱かれ、父親が車で去ってくのを見送った様な、そんな映像がわずかながら記憶に残っている。母は私を抱きながら、何かを言っていた。何を言っていたのかは覚えていないが、声のトーンと表情で、この人は怖いことを言っていると思った。母と父の間に何があったのか詳しくは知らないし知りたくもないが、当時の母は相当私の父親を憎んでいたと思う。その憎しみは、当然私にぶつけられた。 「オマエの親父は…オマエの親父は…」と、事あるごとに私に言ってきた。今で言うなら立派な精神的虐待だ。母にそう言われても、小さかった私にはどうしようもなく、見たことのない父親の悪口を延々と聞かされるのだった。 当時私は、母と、七つ上の兄と、ぼろい平屋の貸家に三人で住んでいた。いや、三人で住んでいたのかが曖昧な程、三人での記憶がほとんどない。唯一、家の前で兄と遊んでいた時に撮ったであろう写真が記憶に残っているが、それも今となってはどこかにいってしまった。それほど、当時の兄との思い出は無い。7つも歳が離れていれば当然なのだろう。ただ、写真の中の私と兄は、ピースサインをして、最高の笑顔をしていた。 そんな兄と私は、父親が違う。このことを理解したのはいつなのだろう。わからないが、いつの間にか知っていた。私が母に聞いたのか、母が自ら話してきたのか、どうりで七つも
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50代からの成功法則~本は人生を変える~

こんにちは!今日からブログを始めました いわもんです。少しだけ自己紹介を。。。ちょっとジェットコースターのような人生ですがお付き合いください。10代 中学卒業後は美容師になると決めていた為、一切勉強せず、受験もそっちのけでホコ天で踊っていました。案の定つけが回りすべて落ちました。が・・・1週間後、めでたく繰り上げ合格となりました。どうやら頭脳明晰の方々は私立へ移られたようです。その後オヤジがギャンブルで大借金。返すことが出来ず、自己破産。家中、赤札を貼られました。そこからオヤジとは会っていません。その後、母親は不倫に走り私は逃げるように家を出ました。生きるためにバイトの日々。寿司屋、焼き肉屋、ガソリンスタンド、引っ越し、レンタル機器、営業、ケーキ屋、喫茶店、ディスコ、バンド演奏、弁当屋、宅配など。20代はプロミュージシャンとして10年間活動しました。まあ若い若い((´∀`))ケラケラそれからバンドを辞めてからが結構厳しい時代に突入。自分でイベント会社を起ち上げるも仕事はゼロ。そりゃそうです、バンドしかしていない人間は社会的、仕事的には信用ゼロです。一人でやるのは諦めました。イベント会社に席を置きました。月給総支給13万円。これじゃあ生活できませんよ。でも、仕事が出来る幸せの方が先でした。ここから私の人生は180度変わっていきました。続きは次回に!告知です!自叙伝専門に電子書籍を作っています。既に1件契約いただきました!ありがとうございます   
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【「やっくん」久木弥九蔵:著 第7回】

 今月末まで、過去のブログを一部修正を  施した上で再掲載とさせていただきます。  本日は、初期の名作、久木弥九蔵自叙伝  「やっくん」全7回の最終回となります。  前回のブログも併せてご覧くださいませ。 ──────────────────── その後、これからの自分を真剣に考えた。  いつまでもこのまま勤め続けていられる  ものではなし、既に五十に手が届く年齢  になっている。五十を過ぎてこんなこと  の繰り返しでは、先が見えない。それに、  これからは、企業にしがみつかずに死ぬ  まで働けるようにしておかないといかん。  第一、これだけ行く先々で従業員の心の  健康が守られていないことを目の当たり  にしては、その改善や傷ついた人の治療  にあたるのが同じ痛みを知る自分の務め  ではないか。どれだけのことがやれるか  分からんが、これからはメンタル関連の  勉強に力を入れ、資格も取ろうと決めた。 ────────────────────  それから、メンタルヘルスマネジメント  検定の3種と2種を皮切りに、メンタル  ケア・アドバイザー、心理カウンセラー  と学び続けていった。まあ、人並みには  勉強したつもりだが、人より抜きん出て  いるとは言えず、どの程度実力がついた  のかも分からない。それでも偉いもので、  試験を受けたらみんな合格してしまった。  おかしいとは思ったのだが、文句を言う  理由もないから、有り難く受けておいた。 ────────────────────  誰に対してでも自分が受けてきたような  仕打ちはあってはならないと思ったから、  現在の道(メ
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【「やっくん」久木弥九蔵:著 第6回】

 今月末まで、過去のブログを一部修正を  施した上で再掲載とさせていただきます。  本日は、初期の名作、久木弥九蔵自叙伝  「やっくん」全7回の第6回目をお届け。  前回のブログも併せてご覧くださいませ。 ──────────────────── 以後、自分を磨くために、仕事一辺倒の  姿勢を捨てて、様々な活動を通して他者  との交流を深めて、スキルを高めながら、  人のあるべき姿を模索してきた。某劇団  に加入したのもその一環で「久木弥九蔵」  は、その際に考えた芸名である。離婚後、  とあるきっかけでクッキーを焼くように  なっていたことと洒落っ気のある芸名に  したかったことから「クッキー焼くぞ⇒  久木弥九蔵(くきやくぞう)」になった。  言ってみれば、「よし、行くぞ⇒吉幾三  (よしいくぞう)」のようなものであり、  他にもいくつか考えた中から、最終的に  当時交際していた彼女に決めてもらった。  すると劇団の歌の先生が私を「やっくん」  と呼び始めた。何でも、「この呼び方が  いい。じゃなきゃ嫌ぁ~」なのだそうだ。  シブがき隊じゃあるまいし、「やっくん」  でも「ふっくん」でも勝手に呼ぶがいい。  頼まなくてもそういう可愛いイメージで  見てもらえると手間がかからなくていい。 ────────────────────  その劇団や、障害者雇用での再就職先で、  他の者を尊重しない、自分を振り返って  反省しない、という多くの人の在り方が、  無意識に他者を傷つけている現実を目の  当たりにして、職場環境の整備や人の心  に寄り添うことの必要性を改めて感じた。 ──
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【「やっくん」久木弥九蔵:著 第5回】

 今月末まで、過去のブログを一部修正を  施した上で再掲載とさせていただきます。  本日は、初期の名作、久木弥九蔵自叙伝  「やっくん」全7回の第5回目をお届け。  前回のブログも併せてご覧くださいませ。 ──────────────────── 三十を過ぎてから婚活し、まあ人並みか  どうか分からんが結婚した。妻との仲は  別段悪くはなかったが、家庭より仕事と  実家を優先する妻との間に夫婦の生活と  呼べるものは存在しなかった。そのため、  時には苦言も呈したが、もし、あの頃の  自分に今と同じ学びが身に付いていれば、  妻との関わり方も違っていた筈だろうし、  最悪の事態を迎えることもなかったかも  知れないのだが、結局、この結婚生活は、  四年と十カ月で破綻した。結婚している  間だけは、守らねばならない家庭がある  という意識で職場でも心を抑えられたが、  折しも、家庭の崩壊と職場との衝突とが  同時に訪れ、家庭と仕事を一度に失った。 ────────────────────  離婚後、ある人の希望で支援を受け起業  することになった。気は進まなかったが、  過去の関係上断れなかった。遺憾ながら、  開業前に空中分解し、人間関係の崩壊と、  多額の財産を誤魔化されたという事実が、  苦い思い出として残ることになったのだ。 ────────────────────  一度に多くの不幸に見舞われた心労から、  次の勤め先で、遂に精神疾患を発症した。  医師の診断と指導で、「双極性感情障害」  とされ、精神障害者保健福祉手帳所持者  となり、故に不利な立場に置かれている。
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【「やっくん」久木弥九蔵:著 第4回】

 今月末まで、過去のブログを一部修正を  施した上で再掲載とさせていただきます。  本日は、初期の名作、久木弥九蔵自叙伝  「やっくん」全7回の第4回目をお届け。  前回のブログも併せてご覧くださいませ。 ──────────────────── 就職は随分悩んだ。自分の如き昔気質の  不器用者に普通の勤め人など務まる筈も  なく、一度きりの人生、平凡な生き方を  したくないという気持ちも大いにあった。  できれば、舞台の上で何かやりたかった。  だが、結局は、夢と飯を秤にかけて飯を  取り、「親が今まで子を育ててきたのは、  そのためではない」と自分に言い訳した。 ────────────────────  そうまでして普通の勤め人にはなったが、  やはり、不本意な人生を送っているのだ、  という気持ちがいつもあるため、何かが  あると抑えられず、何故だか数年おきに  何らかの衝突が訪れる度に、私は留まる  選択を避けた。そこまでして守るものが  なかった。最初の就職先で後輩の女性に  愛されているのを知りながら、子供の頃  からの自己肯定感の低さ故に恋愛にまで  進めなかったことと、上層部との衝突が  時期的に一致して、これ以上こんな目に  遭い続けていてはいけないと強く思った  ことで五年かけて築いた地位をあっさり  捨てたということがあったが、ここでの  展開が違ったものであったら、その後の  人生は、全く変わっていた筈なのである。 ────────────────────  今宵はここまで。続きは明日のブログで。 ────────────────────  駄文の御閲
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【「やっくん」久木弥九蔵:著 第2回】

 今月末まで、過去のブログを一部修正を  施した上で再掲載とさせていただきます。  本日は、初期の名作、久木弥九蔵自叙伝  「やっくん」全7回の第2回目をお届け。  前回のブログも併せてご覧くださいませ。 ──────────────────── 中学一年の夏休み明けに自転車で転んで  右肩の鎖骨を折り、その夜、即入院して  手術を受けた。約一カ月間学校を休んだ  所為で二学期にあまりに下がった成績の  遅れは三学期で取り戻し、汚点は消した。  だが、右肩の手術の跡は死ぬまで消えぬ。  中学三年で転校し、夏休みには一年生の  問題集からやり直すという、恐らく我が  学生時代最大の猛勉強をして実力をつけ、  どうにか進学校に合格することができた。 ────────────────────  高校・大学では、演劇・放送の部活動に  かまけてろくに勉強などした記憶がない。  その割には、国語のテストで学年1位に  なったり、実力テストでもクラス1位に  なったりしたこともあったが、それより、  NHKFMの番組に出演したり、自分で  脚本を書き、主演もしたラジオドラマが  KBS京都で流されたり、厚生年金会館  大ホールでMCをやれたり、という経験  をしたことの方が私はよほど嬉しかった。 ────────────────────  今宵はここまで。続きは明日のブログで。 ────────────────────  駄文の御閲覧、心より感謝申し上げます。
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四柱推命との出会い

占いクンセラーを目指そう!と決めても、タロット占いと手相占いの独学しかしてこなかった自分としては力不足だと思い、ずっと尊敬していた心理占星術研究家の鏡リュウジ先生と同じように占星術を学びたいと考え、占い学校で学ぶことを決心っした私。早速、東京都内の通学できる範囲の占い学校の資料をいくつか取り寄せ検討。その中でデビューまでしっかりサポートしてくれて、占いサロンも運営されてる学校があったので、そちらの見学を申し込んだ。見学日が近ずいたある日、偶然にもその占い学校がテレビで紹介されていたのだ。授業の様子や、生徒さんたちの様子、運営している占いサロンの様子など良く分かる内容だった。しかしそれを見て何故か違和感を感じた私。何が悪いというわけではないのだけれど、自分が行くところではない気がしてしまった。けれど実際に訪れて自分の目で確かめ他方が良いと思っていた矢先・・・見学日数日前にその日は大雪という予報また満員電車でなかなか電車に乗れず、行き帰り大変な思いをするのは避けたかったこともあり、何故かスムーズに運ばない自分の計画に問題ありと判断し見学は断念。縁がないのだわ。またイチから占い学校探しを始めた時、すぐに自分の思い描く条件にあったところを発見した。それが四柱推命を教えてくれる学校でした。四柱推命???その時まで四柱推命という存在すら知りませんでした。とにかく一度見学説明会に参加することにしました。続く
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