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地獄への道…12

前から雰囲気が悪くなっていた「お隣さん」…。とうとう実害、というか当たりが強くなってきたのと、発言と暴言が多くなっていた。前から少し発言は気になっていたが大家さんに相談していたため、原因はわかっていた。だから、あまり前のようには関わらないようにしてきた。が、その時はあまり深く考えなかったが、夜中にいきなり叫び始めたり。その原因が「私の家の子どもたちがうるさいから」と。とうに子供たちは寝ている時間である。子供たちは21時前後には寝ている。お隣さんが叫ぶのは22時過ぎ…。私自身も22時には寝ている。叫び声で起こされるのだ。それが数日続き、とうとう「子供たち」を怒鳴り始めた。学校から帰ってくる時間を狙っているのか、偶然なのかはわからないが子供たちが家に入る寸前を狙って「お前ら!!毎日うるせぇんだよ!!」と怒鳴り始めたのだ。子供たちもビックリしていた。私もその時はすぐ玄関にいって謝っていたが、これが続くのはもう耐えられなかった。大家さんは当時すでにご年配のため、アパートの管理を大手の管理会社に譲渡していた。そこで、その管理会社に電話することにした。が、明確な対処も得られず…。大家さんからは何も聞いていないという返事だった。これではコチラばかりが「クレーマー」のようになってしまう。そう感じた。どう考えても「子どもが住んでいる」という時点で、コチラが悪くなるのは分かっていた。もう…引っ越すしかないか…。とはいってもすぐに引っ越せるわけもなく…。生活保護を受給している以上、今まで通りにはいかない。まずは「目の前」のことを1つ1つこなしていくしかなかった。上の娘も中学生になり、それなりに学校生
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地獄への道…11

息子はとても美味しそうに食べた。私も久しぶりにまともにご飯を食べたせいか、全部は食べきれなかった。そして、少しそのドライブインで休憩した後、帰ることにした。その帰りは私は、「息子のこれから」のことを考えていた。お腹がいっぱいになったのか、珍しく車の中で息子は寝てしまっていた。息子のことばかり考えられる時間は限られている。上と下の娘のことも考えなければいけなかった。先生からのイジメや友達間のイジメで一時不登校になった娘。私に悩みを言えないでいるのではないか…。子どもたちには私が仕事を辞めたことは言っていなかった。仕事を辞めたことは…「言えなかった」プライドとかそういうものではなく…「お母さんが仕事をしていない」ということが、どれだけ子どもを傷つけるか、私は知っていた。そう自分の…あの「毒母」がそうだったから…。もちろん自分から辞めたくて辞めたのではないということを子どもに伝えても傷つくだけだろう。それでも私がやらなければいけないことは山積みだったから、これで仕事となったら、とてもじゃないが相当大変だったのかもしれない。その後、家に帰りいつものようにご飯などを作り普段の生活に戻っていた。息子は相変わらず、近くの公園に行ったり一人で遊んでいることが多かった。私も遊んであげたいと思ってはいたが…どうにも、朝8時を過ぎると急に体が動かなくなる…。身体に鉛のようなものが覆いかぶさっているかのように…。それと共に「お日様」や明るい場所、テレビの音さえもうるさく感じてなにもできない状態が続いていた。薬は飲んでいる。それでもパニックも動悸も何も治まらない…。私は単なる「甘え」なのか…これはいつ治
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853.ひきこもりの32歳長男、父の死でうつ病悪化…

ひきこもりの32歳長男、父の死でうつ病悪化… 入浴と着替え“週1回”に 社労士が出した“再起への道” 筆者のファイナンシャルプランナー・浜田裕也さんは、社会保険労務士の資格を持ち、病気などで就労が困難なひきこもりの人を対象に、障害年金の請求を支援する活動も行っています。  浜田さんによると、障害年金では、その障害で初めて病院を受診した「初診日」から1年6カ月を経過した「障害認定日」の時点で、法令に定める障害状態になかったとしても、その後、法令に定める障害状態になった場合は、その時点から障害年金を請求することも可能だということです。このような請求方法を「事後重症請求」といいます。  ただし、障害年金の請求時は初診日を証明する必要があり、事後重症請求の場合、初診日から数年が経過しているケースが多く、初診日の証明が難しくなりがちです。その場合、どうすればよいのでしょうか。浜田さんが、ひきこもりの男性とその家族を例に解説します。 保留にしてきた障害年金を請求したいと希望  ある日、ひきこもりの長男(32)の障害年金について相談を持ちかけてきた母親(65)から、私は事情を伺うことになりました。  長男は若い頃からひきこもりの状態で、21歳のときにうつ病で初めて心療内科を受診しました。現在まで月1回の通院を続けています。以前に障害年金の請求を検討したことがありますが、医師からは「障害年金が受給できるくらいの重い症状ではない」と言われてしまい、障害年金の請求は保留にしてきたそうです。  その後もひきこもり状態が改善することはなく、うつ病を抱えながら両親と同居していた長男が32歳
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地獄への道…10

こんな人生、終わってしまいたい。そうずっと思っていた。その度に「自分には子どもがいる」と言い聞かせてきた。私の感情など、どうでもいい。この子たちが「幸せ」であればそれでいい。私の役目はこの子たちを自分のような惨めではなく「幸せな人生」を送らせてあげること。それだけしか「私の価値」は要らないし、価値すらない。息子が「支援学校」に通えるようになるまで、家にいたが、それを心配した支援学校の校長先生から電話が度々きていた。「息子くん、どうしてますか?もしよかったら、転校手続きが終わるまで、少し学校にきませんか?」と言ってくれた。私は、涙が出るほど嬉しかった。私は「ありがとうございます。息子は今外で遊んでいます。息子に話してみて、もし希望があればお伺いさせていただきます!」と答えた。その日の夕方、息子が帰ってきた時、早速聞いてみた。そしたら息子は「え!!いいの!?行きたい!」と飛び跳ねて喜んでいた。私もそれを見てとても嬉しくなった。翌日、早速学校に電話した。校長先生に代わってもらい、息子が行きたいと言っていたことを伝えたら「いつでもお待ちしています!」と言ってくれた。息子は「明日にでも行きたい!」という感じだったし、この電話で行くことを伝えた。「学校の都合が良ければ、明日にでも伺いたいのですが…」というと「もちろんです!明日は学校の方も特別な行事がないので、ぜひ!先生にも話しておきます!」と言ってくれた。そのことを息子に伝えると息子は張り切っていた。まだ、転校できるとは決まっていなかったが、それでも「学校にいく」ということは子ども心に嬉しかったのだろう。お姉ちゃんや妹も誰も責めたりはしな
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地獄への道…9

保育園から受けてきた「発達検査」。息子は小学5年生になっていた。それでもまだ自分の「名前」さえ漢字では書けなかった。決して複雑な書体ではない。名前だけでも画数は20。マンガを買ってみたが、見ているのはマンガの「絵」だけ。内容は理解できていない。マンガもその当時流行っていたアニメで、わかりやすいかと思い購入した。それでもペラペラとめくって終わった。「面白くないの?」と聞いてみたが「よくわかんない!」で終わってしまった。一緒に読もうか、と誘っては見たものの断られてしまった。だが、息子の「コミュニケーション能力」は、他の姉妹より長けていた。どこでも「友達」になれる。それは凄いことだと思った。そこを伸ばしてやりたい。いい意味でも悪い意味でも「KY」なのだ。いつだったか、学校の先生に言われたことがある。「息子君ね、すごいよ」と笑いながらだったが話してくれた。先生が廊下を走っていた生徒を廊下で叱っていたそうだ。数人いたそうだが、先生自身も叱ったのはいいが後に引けなかったという。そして次の授業の時間まで怒りを持ちこしてしまい、生徒も先生もどうにも引けなった状態だったという。そんなところに、息子が「♪~♪~」と鼻歌を歌いながら廊下の影の階段から降りてきたそうだ。息子の鼻歌を聞いた先生と生徒は、あまりの可笑しさにお互いに笑ってしまい、その場は納まったというエピソードがあった、という。階段を下りてきた息子は、そんなことはつゆ知らず、シレッとその場を去って行ってしまったと。「お母さん、本来はね、先生が怒っている声なんかを聞くと他の生徒は静かにして当たり障りないようにしていくんですよ、けれど息子君は違
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地獄への道…8

2時間かかろうが、「息子の診断」をしっかりしてくれるところならどこでも診察してもらいたかった。藁にもすがる思い、とはこのことかと思うくらいだった。私は元々「地図」が苦手なので初診ということもあり電話して場所を聞いた。それでも想像は付かなかったが、「近くまで行ったらまだ電話してもいいですか?」と聞いたら快く受けてくれた。秋田市内すらあまり詳しくないが、そこを越していくとなると本当にわからない…。息子を乗せて長時間の運転に耐えられるだろうか…。その当時、私の車にはテレビがみれるようなものもなく、DVDを見せたいが、そうするとカーナビの地図が見れなくなる…。私は息子が退屈しないように話しかけたりして運転していた。その病院は、大きい病院のように「数か月待ち」という状態ではなかったため初診でもすんなり受付をしてもらえた。もちろん、発達障害の検査は時間を要するだろうが、まずは診察から…。数時間走っていくと、もう少しのところで道に迷ってしまった…。病院に電話するか…。電話してみると、丁寧に教えてくれた。「わかりずらいですよね、安全運転でいらしてください」と言ってもらえた。やっとの思いで着いた、その病院は周りには何もなく、道を挟んだところに喫茶店のようなものがポツンとあるだけ…。周りは木々に囲まれていた。建物は新しい作りになっていた。いよいよ診察である。受付に行くと笑顔で「遠くからお疲れさまでした」と言ってもらえた。待合室という「物々しい」感じはなく、まるで「別荘」を思わせるような造り。待っている人は置いてある本を読んだりしていたが、そんなに多くの人はいなかった。数分待っていると「こんなに早い
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地獄への道…7

生活保護が決定してから2週間くらい経っただろうか、保護のお金が振り込まれていた。少し金銭面的には安心したが、前にも話した通り「人間失格」を張り付けられたような感じがして、どことなく後ろめたさがあった。保護の振込金額は、子供手当などを相殺して振り込まれるが、それでも十分だと思った。車所有の件は、保護の方から「特別許可」という形になった。トントン拍子に物事が決まっていく中、私の体調は反するかのように悪くなっていった…。元々痩せていたわけではないが、体重は減り、とうとう血圧が上80前後になっていた。精神科に通うようになり、慣れない「薬」と合わない「薬」のせいか、脳みそが全く「機能」してくれない。とにかく「眠い」…とにかく下の子を保育園に預ける、というまでが精一杯になっていた。それでも「生活保護受給者」だと思われたくなくて必死だった。そして、「仕事を辞めたこと」も自分の中では消化できていなかった。けれど日を追うごとに「どうせ生活保護を受給するなら、うつ病をしっかり治そう!そして歯医者にも行こう…、行けなかった病院や自分の体を治していこう、それからまた社会復帰すればいい」と思うようになった。そう思えるまでに半年は掛かったと思う。それまでは「会社を訴えてやろうか」、母親のこと、父親の死、全てが「恨み」に変わっていた。母親の宗教、お金のこと、イジメられたこと、サラ金のこと、最初の旦那のこと、元旦那のこと…取られてしまった息子のこと挙げればキリがないほどに恨む要素はたくさんあった。自分は本当に愛されたことはあるのか…子供たちに愛情は与えてられているのか…ただ一つ親だからという「見栄とプライド」
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地獄への道…6

離婚してまだ半年経ったか、経たないかで元旦那からの再婚の電話。反対とかどういう感情よりも怒りや、「やっぱり…」という感情の方が強かった。その電話ついでに「生活保護を受けるかもしれない」ことも話した。そしたら「あ~じゃあこっちも都合がいいや、今までみたいに生活費入れなくて済むし、その話もしたかったから」人間とは思えない発言だった。けれど私はその当時、もう感情などほとんどなかったおかげでキレずに済んだのかもしれない。子供たちとの面会はどうするのか、と聞くと、「ん~今までのようには行けないからな~」と…。私は「じゃあコッチからなんとか言っておくよ」と言った。もう相手に期待しても無駄だと思った。全てを諦めていた。それでも子供たちの問題は待ってはくれない。次は息子だった。療育センターに通っていることも学校に話した上で、「特別学級」に通級していた息子。少しは環境がよくなったかと思っていた。息子は3年生くらいだったと思う。保育園の時から診察を受けていたが、一向に「診断」は付かず…。もう半ば「発達障害」のことは「秋田では診断できないのではないか」と不信感でしかなかった。そのあたりから私は個人で「発達障害専門」の医師を探していた。その最中、時折「学校に行きたくない」とまたいい始めていた。その度に、私は「無理に行かなくていいよ」と言ってきたが、お姉ちゃんの姿を見ると、それも忘れて学校に行ったりもしたが、どうしてもダメな時は休ませていた。そういう時は、なるべく公園に行ったりしていた。息子は「体を動かす」のが得意のようで、スポーツにとても興味を持っていた。ルールなどは覚えられないがゲーム自体は好きなよ
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地獄への道…5

私はとことん「今まで」のことができなくなっていた。 それでも必死に子供達には気づかれないように過ごした。 その間も、上の娘は小学5年生になり、息子は小学生2年生くらいにはなっていたと思う。 卒園から「療育センター」に通院していたものの、「発達障害」の診断は確定されることはなかった。 通級しながら学校に行く息子に異変も起きていた。 そして、上の娘にも異変が‥。 私は子供達を引き取ってからずっと「子供達の話はちゃんと聞いてあげよう」というのは心がけていた。自分の当時のことを思い出すと「会話」はとても「大切だ」とつくづく思ったからである。 自分の小学生時代は多分、親とのコミュニケーションが成り立たなく、友達との距離感や話し方、色んなことが欠如してたと思う。 大人になってからもとても苦労した。 その経験があるから「会話」は大切にしてきた。 上の娘の様子が変だと思い、「最近学校どう?」とそれとなく聞いてみた。 すると、娘は何やら言いたそうな言いたくなさそうなそぶりをしていた。 少し待って見ると娘が口を開いた。 「この前ね‥学校で2時間目の時に先生に机教室から出された‥私だけ廊下で勉強してた」 という。 はい?どういうことだろう‥。 私は、「何かしたの?」と聞いてみた。 私は自分の子供の話は聞くが「全部鵜呑み」にするのは違うと思うのだ。 話を聞くと、どうやら 「隣の席の子が何かを落としたのを拾ってあげたら、その瞬間に先生が見つけ、『遊んでいるなら教室から出ていきなさい!』と言われた」 というのだ。 娘もその子も先生のあまりの大きい罵声に驚いて、何も言えなかったそうだ。 それからどうしたか、
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地獄への道…4

私は出された薬をただ眺めていた。確か…「セルシン、パキシル」という薬だったと思う。その薬にどんな効果があるかなんて、わからず飲んだ。この薬で本当に「うつ病が治るんだろうか…」どれくらいで治るんだろう、そもそも「うつ病」は…家にいると色々なことが頭をよぎる…会社で私は何か先輩たちに「嫌なこと」をしたんだろうか、詐欺師とまで言われなければいけない何かをしたんだろうか…外に買い物に行くと知っているかのように「今日休み?」と聞いてくるのはワザとなのか…私はもう働ける場所なんかないのかもしれない…私は…そうだ…元々「誰からも必要とされていなかった」…もう涙すら出てはくれなかった。「明日…市役所に行こう…」けれど一つ心配なことがあった。それは母親のこと。保護を申請すると「親族に連絡が行く」というのを聞いたことがある。もし…私が保護を受給すると母親は目の色を変えて金銭を取りに来るだろう…アイツはやりかねない。それだったらいっそ、子供たちと死んでしまおうか…保護を申請するのにも凄く悩んだ。もし家がバレたら…またあの地獄のような日々が続く…せっかく女性相談所まで行って逃げたのに…それだけは避けなければ…。なぜ、それほどまでに「母親」の行動に恐怖を感じるのか…それは、やっぱり地元にいると嫌でも母親の話は聞こえてきていた。いかにも「子供を心配しない親はいない」とか「辛い思いをさせてしまった」などとお涙頂戴話をしているようだった。私はそこから母親のことを思い出すだけで「動悸」がするようになった。怒りと恨みと憎しみと…情けなさ…。私は何時間も子供たちが帰ってくる時間までずっとボーっとそんな事を考えていた
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地獄への道…2

私は子供たちに「仕事を辞めた」ことを隠していた。いつものようにスーツを着て、保育園にいつも通り送った。けれど、その後から行くところがない…。そのまま家に帰る…。私は気分転換に友達を呼んだ。今まではあまり関わりのない友達?知人といったほうが当てはまるのか…。その知人Yちゃんに連絡してみたところ、快く遊びに来てくれた。何も聞かず、ただ他愛のない話をしたりして過ごした。多分スーツを着ているから仕事の合間に会っているのだろうと思っていたと思う、Yちゃんは3勤3休の仕事をしていたため、ただタイミングがよく会えたのだ。それから何回か会う機会があった。私は、他の仕事をしないと!!と思いつつも…買い物にスーパーに出ても「あれ?今日お仕事お休み?」と保険屋で出会ったお客さんに話しかけられる。私は「あ~…はい…」と言葉を濁す。「辞めた」とは言いたくなかった。辞めたくて辞めたんじゃない!!そう叫びたかった。その瞬間!!今まで味わったことのない「動悸」がしたのだ。もう立っていることすらできず、しゃがみこんでしまった。なんだ?!これ!!誰かが話掛けてくれたと思うが、声があまり聞こえてこなかった。しゃがんで少し経ったら落ち着いた。立ち眩みだったんだろう…。そう思った。さすがにビックリした。血圧もそんなに高いわけではない、むしろ「低いほう」だったから「たちくらみ」だと思った。買い物を済ませ帰宅したとき、また激しい動悸…。なんだろう…。そういえば、仕事を辞めてから、ご飯…食べていない…。何日経っただろう…。そう、私は家ではあまりご飯を食べていなかった。そもそも。朝は子供たちの準備や家事で食べずに出社していた、
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地獄への道…1

アパートに引っ越してから3か月くらいだろうか、仕事も順調だった。次々と業績も上がり、自分でいうのもなんだか、私が入社したときは営業員が私を含め4人しかいなかった営業部も25人にもなっていた。ほぼ私の「部下」と言われる人たちである。全国入賞も何度もした。実際、成績を挙げているという感覚がなかったので、特別偉ぶったりることはなかったように思う。よく「保険屋」というと名義貸しであったり、架空契約などがまだあった時代ではあった。けれど私の場合は契約をするのはお客さんの「職場」か自分の会社に来てもらう、というスタイルが9割を占めていた。会社に来てもらうことで上司とも面談できる。全ては「不正な契約ではない」という証明にもなるのだ。「押し付けない営業」が功を奏したのか営業員も増えていった、というのが今となっては成績に繋がったのだと思う。そして、そうしている間に一度だけ、旦那がアパートにきた。それは何でもない日だったが、アパートまでの場所を教え、子供たちに「お父さんがくるって」というと、喜ぶのかな、と思ったが予想とは反して「ふ~ん…」だった。あれ?私旦那の悪口とか言ったかな…態度に出たかな…なんだろう…と少し心配になったが、来ることが決まっていたので来た時の態度やその後の気持ちを子供たちに聞いてみようと思った。旦那はアパートの玄関…といってもすぐキッチンなので丸見えなのだが「こんなところに住んでるのか…狭くないか?」と言ってきたが「大きければいいということではないから十分です」といった。そして、子供たちが部屋から出てきた。リビングとは呼べないようなところで少し会話をしたりしていたが、どこかぎこ
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新しい人生の終焉…7

私は早速、その大家さんに電話してみた。人の良さそうな人でとても優しかった印象を受けた。そして空いているかを聞いたら、「リフォームしてないけどそれでもいいなら入れるよ」と言ってくれた。どうせ、子供たちから汚される(-_-;)私は「大丈夫です、見せてもらえますか?」と聞くと快く快諾してくれた。翌日、仕事の合間を縫って物件を大家さんと一緒に見に行くことにした。2DKとはいうものの1部屋が広かったのでとても良かった。小さくではあるけど「小屋」も付いていた。隣の人の間に小屋が挟んであったので「防音」という意味もあるのかもしれない。そう思ったら、とてもいい条件だった。車も止められる。そして、なにより…アパートの前がとても「急坂」だった。これが「いい条件」な話はまた後で話そうと思う。大家さんは「こんなボロだからお子さんとかいるなら敷金とかいらないよ!」と言ってくれた。私は凄く親切な大家さんと思ったよりいい物件で「即答」した。大家さんはおじいちゃんではあるがとても元気そうな人だった。「さすがに今は契約書はないから来月入居の契約書作ってくるけど、入るなら今月の分はいらないから~鍵だけもう渡しておくね~荷物とかたくさんあるでしょ~」ととても気さく?というか、コッチが堅苦しいのおか?というくらい気さくな大家さんだった。そして私は、「そうすれば今月からお願いします」と言って、お互いその場を後にした。私はその日にもう旦那に言うことにした。とりあえず、仕事を終わらせ、子供たちを迎えに行きご飯とお風呂を済ませて、子供たちが寝るのを待って旦那に電話をした。「もうアパート見つかったから後は手配よろしくね」と。そ
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新しい人生の終焉…6

その日は何もできない、と言われ点滴を打たれたまま気を失ったように寝ていた。翌朝起きたら、看護師さんが「体調どうですか?」などと言いながら血圧や体温を測ってくれていた。お腹に違和感はあったものの昨日ほどではない感じがしたので、「もう大丈夫です」というと看護師さんは血相を変えて「あんた!なんでここのナースセンターの前の病室にいると思ってんの?あんた昨日死にそうだったんだよ?血圧も上60もなかったし!」と怒られてしまった。血圧なんて普段測ることもないから、それが異常なのかなんなのかすら分からなかった。病院のご飯を食べていると、旦那から電話がきた。「あれ?起きてるの?子供たちのことが全然わからなくて…保育園に何を持たせればいいの?朝ご飯はどうしてたの?」という電話だった…。私は「入院している場合ではない、もう帰ろう」と思った。過去にもあった…同じことが…。そして過去にも2日で退院してきている。医師のいうことも無視して…私に「休んでいる時間」も「体を治す時間」もないのだ。ましてやこれから「離婚しよう」としているのに…。この弱みに付け込んで離婚がなかったこと、になるのも、すごく嫌だった。もしかしたら「プライド」だったのかもしれない。けれど、私は「引き返す」選択肢はなかった。その電話を切った後、点滴などを変えにきた看護師さんが「午後から診察ありますからね」と言って去っていった。今日のところはまず保育園や学校に行くとどうにかなるだろう…子供たちが帰るころには家に帰っていなければ、子供たちも心配するし、ご飯や洗濯や…などと考えていた。もう私の中では「今日中に退院」すると決めていた。旦那がお見舞い
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新しい人生の終焉…4

私は決めた。…「離婚する」…。このままでは、不信感しかない、そして、また自分の心を殺して、このまま生きていくのか…。それで子供たちに「素直になりなさい」と言えるのか…。子供たちにどんな顔して毎日を送ればいいのか。親として、妻として…そして一人の女性として…それは果たして「正解」なのか…。色んなことを考えての「決断」だった。私の気持ちは何日経っても変わることはなかった。旦那が帰ってくる日を待った。そして、その日は案外すぐ来たのか、そう感じただけなのかはわからない。そして、子供たちが寝静まった後、旦那に話をした。「もうあなたを信じることはできない…。」と…そうすると旦那は「なんでこれからやり直そうとしているのに、そういうことをいうんだ!」と言ってきたが、その後に「じゃあ別れなくてもよかったじゃん」と…。なにを言っているんだ?この人は?自分の言っていることの意味も今口に出していいことの区別もつかないのか?私はキレそうにもなったが、「もう別れる」と決めた心には怒りなどはなかった。そして、私は淡々と続けた。「離婚するにも証人が必要だから、それはRさんに頼んであるけど、もう一人、あなたの方から出してね、それと慰謝料とか養育費を決めたい」と一気に話した。旦那はここまで言って初めて本気だと思ったのか「どうしたら許してくれるの?」「お前にだって悪いところはあるぞ」などと言ってきたが黙ってただ、反応もせず旦那の言う事を聞いていた。そうすると段々「わかった…もう相手とは別れたし、俺にはお前しかいないから、やり直すという前提で離婚しよう」と言い出した。なんて都合のいい人だ。こんな人だと本当に思っていな
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新しい人生の終焉…3

それから半年の時間が過ぎた…。私もなるべく「自然」に振る舞うようにした…。夜の性生活は、その中でも「地獄」だった…純真と、そんな綺麗なことを言う気はないが…結婚する前の女性のことをどうの言うつもりは到底ないが、夫婦でいて…その間も私との行為もありながら、影でも誰かと行為をしている…。どうしてもそういう想像が私を苦しめた。もう別れたとはいいつつも…不信感しかない…。かといって、性生活を断って、それを理由にまた浮気されるのか、という恐怖が私を襲った。旦那はそんなことは「なかった」かのようにしてくる…。私は、あのおぞましい過去を思い出した…そう、母親に「売られた時」のこと…。感情を殺した、あの時のこと…。同じ感じがした。それからというもの、私は「性生活」を拒むようになってしまった…。私の中では、もう「離婚」という文字が頭にあったのかもしれない。別れたとて、給料が戻ったわけではなかった…それも「不信」の原因だった。本当に「別れたのか…」もう何もかも信じれなくなった…。けれど、その反面、私の仕事は順調だった。成績も伸びて、グングン昇格もしていった…。私を認めてくれる場所は「会社」になっていた。息子の診断はまだ、明らかにはならなかったが、自分には「やるべき事」がたくさんあった。その中で、たくさんたくさん考えた。自分の気持ちと向き合った。何度も書いているけど、子供たちを引き取れたのは今の旦那のおかげで、その感謝ももちろん忘れてはいない。それは到底、私一人のチカラでは成しえなかったこと…だけど、それとこれとは「別問題」であって、だからといって「やっていいことと悪いこと」の区別くらいしてほしかっ
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新しい人生の終焉…2

Rさんが、夜にも関わらず、とんできてくれた。もしかしたら、「人の不幸」を興味本位で来たのかもしれない。それでもよかった。そんなことを考えられる余裕などはなかった。Rさんは「二人で話なさい」と子供たちの面倒を見てくれていた。私はRさんが来てくれたので安堵したのか冷静になった…。けれど私の怒りが修まったわけではない。旦那と二人で向き合って話をした。どこで知り合ったのか、いつからなのかなど色々…。知り合ったのは当時流行っていたゲームアプリ。半年くらい前からだそうだ。それって…ディズニーに行くかという話があったあたり…。その間には旦那は「家族ゴッコ」をしていたのか…。私たちと…。もう頭がパニックというか真っ白になった。頭が真っ白というのは、こういうことを言うんだなと、どこか他人をみるように冷静だった。子供たちにもずっと「お父さん頑張って仕事をしているから学校にいけるんだよ」とずっと言い聞かせていた。子供たちの前で一切「自分の稼ぎで」と言ったことはない…。私も前の旦那で少しでも学んだつもりだった。今の旦那に尽くしてきたつもりだった…。仕事中の急なお弁当、給料が少ないと私が借金していたこともある。舅姑、お墓まで全部させてもらったと自負している。旦那の顔は立ててきたつもり…。「うつ病」のことだって何にも言ってくれなかったから病院にもほとんど行ってない。私が何をして「他の女性と一緒になりたい」と思ったのか、そして何を思って家に帰ってきていたのか…。私と子供たちだけが「我慢」していたのか…。どんなにお金がなくても…どんなに子供たちはお父さんに会いたくても…。怒りも沸いたが、虚しくもなった。けれど
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新しい人生の終焉

浮気が発覚したのはディズニーランドから帰ってきて、半年も経たない頃だった。その日は、仕事から私も仕事から帰ってきて、子供たちにご飯を食べさせている時に旦那が、「これから帰る」と電話がきた。今までにも急に帰ってくることはあったので、さほど気にしていなかった。ご飯の準備しなきゃな、くらいの気持ちだった。そうして、旦那が帰ってきて色々していた。そうして一通り家事やら子供たちを寝せて一休みしようとしていた時「ちょっと話がある」と言ってきた。今度はなんだろう…。私は、仕事を変えるとかそういう話だと思っていた。「ごめん…好きな人ができた…」と…。私は呆然とした。私はどこか冷静を装っていた。「その人はどんな人なの?どこで知り合ったの?」と聞いた。そうすると旦那は「ゲームアプリで知り合った…最近家にこれなかったのは、その人の家に行っていたから……その人が弱いんだ!お前みたいに強くない!うつ病なんだ!俺がいないと」バアアアァン!!私は旦那の顔を叩いていた。「なに?誰が強いって?誰が弱いって?私もあんたと一緒になる前に病院で『うつ病』って診断されたとき、あんたなんて言った?ふざけんな!!」と怒ったというより、もう怒鳴っていた。旦那は涙目になっていた。「誰が子供産んでくれって頭下げたんだよ!お前に育てられんのか?それともなに、その女に育ててもらうのか?!!」と今までの「我慢」を全部さらけ出した。サラ金を払ったこと、生活費の足りない分をクレジットカードで補っていたこと、一人で育児をしてきたこと全部全部…。それでも旦那は「ごめん!すまなかった!」と土下座をした。それにも腹が立った。よくよく聞くと「毎月の
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新しい人生の幕開け…46

ディズニーランドを地図を見ながら色々回ってみたけれど、一生懸命回ったつもりが、ほんの一部なことに驚いた(笑)そして、いよいよお土産を買うことにして、お土産屋さんが立ち並ぶところに向かった。もう、どれがどれなのかわからず(笑)。色々見たいけれど、それどころじゃない人混み!!お土産、なんてものはそもそも「旅行」をしたことがないのだから、なにを買ったらいいかもわからなかった。お土産っていったいどんなのがいいんだろう…。まずそこからだった。ミッキーのかわいい缶に入ったクッキー…飴…は溶けそうだからやめようか…ぬいぐるみは…小さいのでも結構な値段がした。一か所で決めれず、他のお店もみることに…。けれど「なんの違いがあるのか」もわからなかった。子供たちも「これが欲しい!」「あれも~」で、ゆっくり選ぶなどという時間とか、「楽しむ」ということがうまくできなかった気がする。自分のお土産のセンスがないのと人混みと子供たちの声で私はなぜか焦っていた。けれど旦那は、人混みを避け、私たちとあまり会話をしようともしない。だから、旦那に相談したり楽しく話したりしてお土産を選べなかった。私は旦那のお義母さんたちにももちろんお土産を買っていきたい気持ちがあったから、なにがいいのか聞きたくても、そばにいない…。一度、店を出てから「お義母さんたち、なにがいいんだろう?」と聞くと旦那は「親父は酒でもいいんじゃね」と…なんでディズニーにまできて「お酒」なんだよ…。と思いつつも…、ディズニーのラベルかなんかのお酒があるかなど探してみたが見つけられなかった。もう15時くらいになって夜のパレードも見たかったが「帰り」のことを
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新しい人生の幕開け…45

ディズニーランドに入場した瞬間、子供たちはとても喜んでいた!「うわぁ~~!!ジャスミンだ~!!」などとはしゃいでいた!旦那はなんだがグチグチ言っていたがあえて無視をした。せっかく楽しい時間を嫌な時間にしたくなかった。旦那にしれみれば、そんなに楽しいところではなかったかもしれないが、一緒に楽しんでほしかった。けれど子供というのは何かを感じたのか、それとも子供ながらの純粋さなのか、「お父さん!こっち!こっち!」などと言って手を引っ張って連れ出していた。パレードをみたり、ディズニーおなじみの「ポップコーン」を自分の好きなキャラクターの入れ物を選んで首から下げて楽しそうだった。ベビーカーを押して子供の手を引きながらは大変だった。旦那は、ちょっと離れたところから付いてきている感じ。疲れているのはわかってるけどね…。子供たちも楽しんでるんだから…もうちょっと楽しそうにしてくれてもいいじゃん…。ふと周りに目をやると、お父さんが肩車をしていたり、お父さんがベビーカーを押していたり…。幸せそうな…「幸せ」を絵にかいたような、というのはこのことをいうんだろうな、と思える家族がたくさんいた。全員ではないことはわかっているつもりでも…。私たちも「そう在りたかった」…。それは「無理」な…「難しいこと」だったのか…。私が高望みしすぎているのか…。私は子供たちの嬉しそうな顔を見ながら…少し寂しい気持ちになった。それから、少し色んなところを回って、「隠れミッキー」を探したり、キャストの方たちから色んなサービスをしてもらったりして子供たちは大喜びだった。下の娘は、あんなに行きたがっていた「ディズニーランド」なの
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新しい人生の始まり…44

思ったより「ディズニーランド」までは遠かった(笑)なんでも県外に行くのは修学旅行などでしか行ったことがない。高校にもなれば、色々あったかもしれないけど、高校にも行けてなかったから、そんな体験をする機会もなかった。車だったから子供のトイレや空腹などに対応が臨機応変にできた。本当にこれだけはよかった。旦那も休み休み運転をしていた。子供たちもいい加減飽きてきたりもしてきたが、ほぼ寝ていたり、車に付いていたテレビなDVDなどをみて過ごした。本なども持ってきたが「車酔い」が起こってしまい中断した。そもそもこんなに長い時間、車に乗っていることがない。そんなこんなで、やっと近くまで来たのは「朝方」5時くらいだったと思う。近くになっても子供たちは起きてこなかったし、開場までまだ時間があったから駐車場で私たちも仮眠をとった。2時間も寝ただろうか。少しまぶしくなった光で起きた。周りに目をやると、もうすでに少しづつ車は増えていた。朝方に来た時は「東京ドームシティ」などディズニーランドのホテルなどが立ち並んでいたのがあまり見えなかったが、明るくなるとすごく立派なホテルが見えた。あぁ…私のボーナスがもっと多かったらな…と少し落ち込んだ…。チケットを取って、ガソリン代と、食事代などだけで精一杯だった。色々ディズニーに関して色んな人に聞いたら「お土産だけでうん万いくよ」などと言われていたから、少し構えていた(笑)子供たちに楽しんでもらいたい!私が楽しむというのも一理あったが、2歳くらいの子供をベビーカーに乗せて2人の子供を連れて、尚且つ「自分も楽しむ」などいう器用なことはできなかった、というか「初めて」の体
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新しい人生の幕開け…43

子供たちに伝える前に「日にち」を決めなければ、子供たちに「守れない約束」をしてしまう可能性があるから、日にちを決めることにした。けれど、子供たちが「夏休み」なことと、私たちの仕事に影響を与えない日にちにしなければならなかったが、私の場合はなんとかなる。問題は旦那だ。旦那に電話をした。「ディズニーのことなんだけど…いつ行けそう?決めないとチケットも私の休みも取れないし、あなたも休み取れないでしょ?お盆時期はどうしても混雑するし…小さい子を連れて混雑したところに行くのも子供大変だし…」と…。旦那は「会社に聞いてみる、これははっきりしないと全部だめになるからな」と言ってくれた。旦那は行く前から「ディズニーまでの道順は仕事で何回も通ってるから大丈夫だ」と自信満々に言っていた。そして、数時間後、会社に聞いたであろう旦那から折り返しの電話がきた。「8月の10日から3日休み取れた!そのままお盆休みでいいって」と電話がきた。そういう時だけはちゃんと休み取れるんだな…と、少し腑に落ちないところがあったが、仕方がない…。日にちが決まったところで、子供たちが学校や保育園から帰ってきたら真っ先に報告しよう!子供たちの喜ぶ顔を想像したら嬉しくなってきた!とうとう子供たちを迎えに行く時間になった!そして、みんなが揃ったご飯の時間…。「聞いて!今度ディズニーランドにみんなでいくよ~!!」すると…「ほんと!!??わーい!!(∩´∀`)∩ワーイ!!」とみんなで喜んでくれた!!良かった!この顔を見たかった!それからしばらく「ディズニーランド」の話で盛り上がった!子供たちは興奮状態だった。それからしばらくテレビやな
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新しい人生の幕開け…42

後日、銀行から旦那に仮審査の結果の電話がきたようだった。旦那から私が仕事中に電話が来た。「仮審査…ダメだって」とひどく落胆した声だった。私は正直ホッとした。「そっか…残念だね…でもしょうがないよね」とは言ったが。まず一つ肩の荷が下りた感じがした。本当は「家を建てる」ってもっとウキウキしたり、楽しんだりして建てるものという感覚だったから…。けれど、その当時の私はとても楽しめるというような気持ちではなかった。これで家を建てることが実現してしまったら、とてもじゃないけど家計が続かないとわかっていた。その当時の旦那の給料は15~18万…。今の時代は可能かもしれないが、その当時はダメだった。そのうえに子供が3人ともなれば銀行も貸さないだろうなと。私が働いてはいるものの「連名」ではないから尚更だろう。さて、まずは一件落着というところですか…。旦那も諦めたというか諦めざる終えなかったので。そうして、そんな忙しい日々を送って数か月が過ぎた。ある日、下の娘が「ディズニーランドに行きたい」と言い出した。そういえば…私も行ったことがないな~とぼんやり考えていた。私がないということは上の子供たちも行ったことはなく…。近々私のボーナスが出る…そのボーナスの金額で行けたら連れていきたいなぁ…くらいに考えていた。それで旦那に夜子供たちが寝静まってから電話をしてみた。「もしさ、ボーナスがよかったらディズニー連れてってくれない?子供たち行きたがってたし…まぁ…いくら貰えるか次第だけど」と…。そうしたら旦那は開口一番「ボーナスがある会社でいいな」と嫌味を言われた。旦那だって最初はボーナスがある会社にはいたのだ。そ
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新しい人生の幕開け…41

少しの間は、息子も元気に学校に行ってくれていた。娘も、弟のことに関して、たまに愚痴は言うものの友達と遊んだりしているようだった。その間、「家を建てる」という話は平行線状態だった。旦那が銀行に行く時間がない、というのだ。土地ももう決まったような状態で、買う坪数は「100坪」田舎の特権なような坪数(笑)私が無知のまま、「簡単でいいから設計図」を書いてと言われて書いた家の設計図も完成していた。その次のステップにいっていないのだ。散々急かせておいて、自分はこれだ…。その銀行の「仮審査」に行けない。電話越しに、ここまでやってんなんでなの?と聞いてみた。旦那は「銀行って15時までだろ?都合よくいかないんだよ」などと言っていたが、家を買う時点での時間は取れていたのに、一番肝心な時間が取れないのは別の理由があるのだと思った。だから少しつっこんで聞いてみた。そうすると旦那は「断られたらどうしようとは思ってる」と本心がでてきた。今更?「それ、私も言ったよね、家の話の時に…。ブラックだったし、いくら一括で返したとしてもリストには載ってるって…それでも大丈夫なの?って聞いたよね」というと、旦那は沈黙した…。やっぱり直前になって困ったんだ…。怖いんだ…。きっとサラ金のこともお義父さんには言っていないから勝手にドンドン話を勧めたんだろう…。けれど自分で話を持ってきたからには自分でケジメを付けてほしい。私だってもう日々の時間がギリギリで生活している。金銭面も…。けれど、もう何も理由なくして、この話を「なし」にすることはできない。大家さんでもある不動屋さんも乗り気だからだ。どうするのか…。少し沈黙の後、旦那は
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新しい人生の幕開け…40

それでも息子は毎日学校へ登校していました。何度教えてもわからない算数、何度書いても書けない漢字。それでも私は怒ったことはありません。なぜなら…。「この子には生きる術を教えるのが一番いい」と思っていたからです。なので家でのお手伝いなどを率先してやらせてあげました。どうやら「料理」が好きなようで、目玉焼きが上手くできるととても嬉しそうにしていました。それから数か月の時が経ち…。何回も療育センターに通い、それでも発覚せず…。ただ「辛い思い」をさせているのではないか、という心配の方が大きかったように思う。その頃、上の娘が「もう弟と学校に行きたくない!」と言い始めた。理由を聞くと「恥ずかしい行動をする」というのだ。大声で叫んだり、誰彼構わず声を掛けたりすると、一緒にいると恥ずかしいが、姉弟という関係も生徒にはバレているから、どうしようもない、と…。そうか…。そんなことがあったんだ…。娘も我慢してきたんだな…、私はその話を聞いて「ありがとう。そっか、そういうことがあったんだね。息子は元気すぎるからね!お姉ちゃんも心配だったでしょ。見守ってくれてありがとう。弟が悪いことしたら、ちゃんと怒っていいからね!けどね?ダメ!だけではわからないから、『なんで悪いことなのか』を教えてくれたらお母さんがありがたいな、そしてなにかあったら、ちゃんとお母さんに言ってね」と…。それでも娘は最初こそ、一緒に登校などしなかったが、それを責めることもしなかった。娘は娘の友達などの「世界」がある。それを弟とはいえ、家庭の中でのことで壊してほしくなかったし、先生たちも理解できないようなことを子供たちに理解してもらおうなど
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新しい人生の幕開け…39

私は、日々が「秒」のように過ぎていった。夜寝る頃には「次の日の朝」をどう早く、的確に、完璧にこなすか…、ということを考えながら眠りについた。もちろん、子供との「会話」もちゃんと聞いてあげたい。そのための時間も必要。私にご飯など食べる時間すらなかった。ご飯を食べるのは、仕事の合間の15時あたり。一日、その一食だけになった。仕事の間に、息子の病院や、PTA、そして仕事に必要な試験の勉強。息子が学校に入学して初めての夏休みの時の話。夏休みは二人とも「学童」に預けていた。そのためお弁当も作らなければならなかった。学童にもお金がかかるが、二人がもう少し大きくなるまでの辛抱だ、と思い入れていた。もちろん私が仕事中、事故などの心配もあったからだ。なんせ旦那の両親はアテにならない。そして、夏休みが過ぎた。一年生の「夏休み」と言えば、みなさんも記憶があるだろうか、「花や野菜を育てるための鉢植え」を持ち帰って毎日観察する、または収穫する、というものだ。息子は夏休みが終わり、そのプランターを持って行かなければならなかったのを何日も忘れていたようで、先生から連絡帳に「お母さんが持ってきてください」と書かれていた。私は息子にも登校時に伝えたが、気づいたら…また忘れている…。これは、私が持って行かなければ…と思い車にプランターを入れ、下の子を保育園に預け、とりあえずは仕事に向かった。朝礼を終えて、学校の休み時間に合わせていこうと思ったが、今度は自分のアポイントの時間と重なることがわかり…。これはどうしようもない、と私は学校に向かった。本当はプランターは一年生のクラスの隣の庭?のようなところにみんなの分が置
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新しい人生の幕開け…38

日常でも、様々な変化もあり、その中でも息子の「障害」のことは、まだはっきりしない診察と診断だった。前に検査したときもまだ「保育園ですからね」などと言われ…はぐらかされてきたように思うが、まだその頃では「発達障害」というものに先生たちすら「知識」がなかったのだと思う。その年の春、息子は1年生になった。保育園の先生からは最後まで「息子君は普通の男の子です!」と言われた…。けれど、私は納得がいかなかった。それは「障がい者」にしたい、ということではなく、やはりどこか「違う」ということが明確ではないが、本に書いてあった行動と思考が同じだったのだ。これは「男の子だから」などで済まされない。なんとも言い難い…説明がしずらかった。入学式にも旦那は出席はしなかった。入学式の準備も私一人で行った。旦那の両親からも「お祝い」などは貰ってもいないしお祝いの言葉すらなかった。上の娘の時の運動会なども旦那は出席はしなかったが、Rさん家族が一緒にいてくれたから少しは気持ちはラクになった。Rさん家族は、その頃「離婚」をしてRさん子供が学区が同じになったのを機に、イベント事には協力してくれた。もちろん旦那の両親などは来ない。私が住んでいる地域は春に運動会をする。なので入学したら初めてのイベントが運動会となる。息子が入学するまでは運動会さえ、娘と私の「二人ばっち」だった。ごめんね…と、つい言ってしまったことがある。けれど娘は「お母さんと一緒だから大丈夫!」と言ってくれた。本当はみんなが羨ましいだろうに…。他の親たちは一生懸命、自分の子供たちの運動会を「ビデオ」に撮っていたが、ウチにはそんな贅沢品はなかった。携帯す
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新しい人生の幕開け…37

もう、この仕事でずっと頑張ろう!そう思って入社を考えた。子供たちのPTA、運動会、色々な行事や病気などに柔軟に対応してくれるし、なおかつ、学歴などその頃はあまり重要視していなかったようだった。一時預かりの手続きも終わり、保険屋さん入社説明会のようなものに行ったりで、久しぶりに「忙しい」毎日がきた。仕事をこんなにしていない時期もなかなかなかったが、仕事をしない時期というのは、逆に忙しかったりもする。私はその頃になると、一日置きに床掃除、トレイ掃除、草むしり、障子の張替えなどをしていたため、「自分の時間」というものが全くといっていいいほどなかった。突然帰ってくる旦那のお弁当作りや、買い物。一日のルーティーンとしてはとてもハードだった。そして、その上「ワンオペ」である。それでももしかしたら、その時が一番「幸せ」だったのかもしれない。私は、前に使っていたスーツがあったから、それをそのまま使うことにした。なるべくお金は掛けれないし、掛けたくない。しかも「一時保育」には9時から15時までで、約3千円くらい…。そして、保険屋から日払いで頂くお金が3千円…。全くプラスにはならなかったが、マイナスにならないだけいいとしなければ…。保育園の先生たちも、仕事が決まって入園まで少しだからと、頑張ってくれている。1か月くらいで入園が決まり、その頃には私も無事試験に合格して、入社となっていた。その頃の朝のルーティーン5:30 起床(洗顔、歯磨き)5:45 掃除(リビング・トイレ・廊下)洗濯を回す     床ふき・玄関・前日の茶碗の片付けなど6:00 子供たち起床(着替え・洗顔をさせる・下の子の着替え)6:
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新しい人生の幕開け…36

「学歴」…。私は行きたくなくて行かなかったわけではない。けれど、それは相手の会社には全く関係のないこと。それに同情してほしいとも思わなかったが、こんなにも「学歴」に関して言われることがなかった。私の中で「学歴」はコンプレックスになっていった…。何もできない資格もない…。当然、仕事をしないと「保育園」に入園できない、という負のループだった。息子は「育児」という名目で通園できているが、それも1年くらいしたらもう通じないだろう…。息子だけの問題ではない。働かないと生活ができない…。どうしよう…。そうして、下の子が1歳になろうとした時、前職の保険屋さんが訪問にきた。「どうしてる~」と。その時の私には輝いて見えた…。生き生き仕事してるな~と…。玄関先で世間話を少ししていた。その元上司は「そういえば仕事なにしてるんだっけ」と言ってきた。私は、ことの経緯を説明して、今仕事がない状況なことと、やっぱり子供が保育園に入れられないことなど、色々話した。そうすると…「あら!じゃあ丁度よかった!ウチにまたおいでよ」といってくれたのだ!!私には願ってもいない話だった。出戻りになるし、ちょっと行きづらいな、とも思ったが、そんな悠長なことは言っていられない。「え!?いいんですか?」と口から出てしまった。と、なぜかトントン拍子に仕事が決まってしまった。私は嬉しくなった。よし!またこれで頑張れる!しかも子供がいても、気にしないで子供のために時間も作れるし、土日休みだし!!学歴も関係ないならもってこいだ!私は早速旦那に連絡をして、報告した。そうすると旦那は「また保険屋やるの?仕事、そんなに焦らなくてもいいんじゃな
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新しい人生の幕開け…35

妊娠してからはもちろん、「うつ病」の薬は飲んでいない。そもそも「通院」すらまともにしていない。もちろん、「自分がうつ病になるわけがない」とも思っていたけど、だれも親身にはなってはくれなかったし、そこまでまだ「うつ病」が認知されていなかった。日々過ごしていると「病院に行く」というのは子供主体になってしまい、自分はギリギリまで「病院」というところにはいかなかった。旦那が帰ってきて、名前を決めよう、という話になった。もう時間がない。色んな案が出たが、女の子なのに?という感じの名前になった…。私はあまり賛成ではなかったが、何時間も話しても埒が明かなかった…。お互い離れていても子供の名前の漢字や画数や意味などは考えていると思っていた。けれど旦那は「もうこれでいいんじゃない?」なんてことを言い出す始末。「名前は一生ものなんだよ!」と言っても…「俺の名前も適当だった」だの「爺さんが付けた」だの全くお門違いな答えしか返ってこなかった。夕方までには出さないと、明日にはまた旦那が仕事にいってしまう…。私が出してもいいけど、出生届けくらいは旦那に出してほしかった。出産したことがある人ならわかるかもしれないが、出産したからといって自動的になんでも手続きができるわけではない。健康保険の加入の手続きやたくさんの書類などがあった。今はどうかはわからないが…。そして、出産一時金…。これが問題となった。これは、もちろん私は旦那の扶養になっていたから旦那の社会保険から支給されることになる。その当時の金額は35万円くらいだったと思う。そのお金を…「少し貸してほしい」と言い出したのだ。はい??また始まった。このパター
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新しい人生の幕開け…34

そういえば、あの後、お義母さんたちは本当に「歩いて」家に帰ったんだろうか。ふと思い出して、旦那に電話した。旦那はすぐ出た。まだトラックを走らせているようだった。「おう!どうした?」という相変わらずの応答だったが、事情を説明した。そしたら「なんだってな…。役に立たない奴らだな…。俺になんにも連絡きてないから、どうせ親父に迎えに来てもらったんだろ、どこかで」という返事だった。「悪いけど、私もそれどころじゃなかったし、止めけどどうにもならなかったし…。あとであなたから連絡してみて。なにかあったら大変だし。」と。「わかった」と言ってくれたが…「それと…赤ちゃんの名前、もうそろそろ決めなきゃいけないんだけど…いつ帰ってくる?」と聞くと「おう!そうだな!明日帰る予定だ!その時決めて、市役所に出しに行かなきゃだろ?」というので「うん、そうだよ。子供たちも名前ないと呼びにくいし、この子もかわいそうだよ」と…。そうすると旦那は「俺も考えてはいるから帰ったら二人で決めよう」ということになった。今までどの子も「私が付けた」とか「二人で話し合って決めた名前」という子がいない。裁判で取られた息子も元旦那の親と義姉さん。娘もそう…。手元にいる息子は、憎いあの母親。そう、勝手に名前を決められて出生届を出された。私の入院中に…。だから、せめて「二人」で決めたかった。全部自分の思い通りにとは言わない。二人で…。そして、ようやく寝ることにした。3人で寝ていると子供の成長がすごくわかる。体が大きくなったな…寝相が悪くなったな(笑)…そうしていると、赤ちゃんがミルクの時間で泣き始めた。最初は子供たち起きるかな?と心配
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新しい人生の幕開け…33

まずは赤ちゃんが寝ていてくれている間、そして子供たちが帰ってくる前に家の掃除からだった。…産後はゆっくりしたかった…。そういう約束だったよね…。自分の気持ちがぐちゃぐちゃだった。けれど協力してくれる人が一人でもいてくれて心強かった。二人で掃除をするとすぐに片付いた。やれやれ…。私はRさんにお礼をいい、コーヒーを入れた。Rさんは、旦那の両親に対する文句は止まらなかった。それはそうだ。それは私も同感だったけど、赤ちゃんにも、子供にも罪はない。そう、全部私が悪いのだ。Rさんとは色んな話をしていたけど「お前、退院してすぐなんだから少し寝ろ、学校は帰ってくるだろうけど保育園は私が行くから!保育園に電話しておいて!まだ時間あるけど、軽くご飯も作っていくから、少し寝な!」と言ってくれた。私は申し訳なさ過ぎて、寝れるわけもないが、少し横になった。そうしているうちに赤ちゃんが起きた。ミルクを作ったり、オムツを変えたりしたがなかなか寝てくれない…。けれど赤ちゃんの顔を見ると本当に癒される。この頃、まだ名前は決まっていなかった。普通は入院している間や、産まれる前に夫婦で決めたりするものだろうけど、なにせ、旦那もいない。電話やなにかで決められるようなものではない。旦那は明日帰ってくるとのことだった。本当に、私は旦那に愛されているのだろうか…。愛されているつもりになったんだろうかそれとも勘違いなのかそもそも「愛されるってどういうことなんだろう」以前からも感じていたことが、またふと頭をよぎる。けれど、子連れの私と結婚するなんて愛情がないとできないよね…同情だけで結婚とはならないよね…。私は必死に考えた。そ
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新しい人生の幕開け…32

一人病室にいると、旦那が看護師さんと一緒に入ってきた。「おう!やっと帰ってきたぞ!」と呑気な言葉と共に入ってきた。イラっとした。それでも病院では怒るわけにもいかず…。一人で悶々としていた。そして、お義母さんたちのことを言うと、「それは大丈夫だから!」と言い放つ…。「そういってこの間だって帰ろうとしたじゃん」というと「ちゃんと言って聞かせたから!」と…。もう言い合いにもなりなくなくて、私からはもう何も言わなかったが、旦那が帰ってきたならもう子供たちも大丈夫かな、とも思った。そして、3日目。旦那に電話すると…なんと!仕事に行っている!「え?入院している間は子供たち見てくれるんじゃなかったの?」というと「いつまでも休めないよ…」と…それはそうだけど…自分の親がどれだけのことをしたかわからないのか…まだ小さい子供にご飯も食べされられないのに…。そうしてまた、毎日子供たちに電話をした。ちゃんと学校に行けたか、保育園に行けたか、迎えはきたか、ご飯は食べれているか、お風呂は入ったか…。学校でなにがあったか、保育園でどんなことをしたか…。そんな電話の途中でさえ、お義母さんが「毎日電話うるさい!」などと聞こえてくる…。腸が煮えくりそうなのを必死で我慢した。子供たちには「もうすぐで赤ちゃんと一緒に帰るからね!」と言って安心させることしかできなかった。Rさんはたまに病院に来てくれた。赤ちゃんと私と話をしに…。Rさんは「あの親じゃだめだな…、私が子供たちを見ようと思ったけど、『あんた誰』って言われたし」と…。なんてことを言うんだろう。本当に「非常識」。そんな感じでとうとう「退院」の日がやってきた!私は
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新しい人生の幕開け…31

夕方になり、Rさんが息子を保育園まで迎えにいってくれた。Rさんがいなかったらどうなっていただろう…。本当に感謝と申し訳なさしかなかった。最初は反対していたRさんだけど、いざとなるとこうやって協力してくれる…。けれど甘えてばかりはいられない。5日間、どうすればいいのか…。それだけが心配だった。Rさんには「今旦那の親がこっちに向かっているらしいから」ということは伝えたが、病院にくる気配はなかった。そして、18時頃になりRさんに電話をしてみた。そうすると「家に旦那の親がいたから子供たちそのまま置いてきたよ、けど大丈夫かな」と心配の様子だった。明日になれば旦那も帰ってくるだろうし…。と思ったが…。私は家に電話を掛けてみることにした、そうすると娘がでた「おばあちゃんたち来てる?大丈夫?」と聞いたら「来てるよ!けど私たちなに食べるかわかんないってゆってまだなにもご飯食べてない、お腹空いた~」と…。なんだって??どういうことだ?どうする気でいるんだ?もうパニックだった。娘には「もうちょっとでお母さん退院するから待っててね、ご飯はあると思うから、卵掛けご飯でいいから食べてね!弟にもあげてね!」といい、切りたくない電話を一度切った。旦那に今度は電話をした。「どうなってんの?子供らお腹空かせてるけどなんにもご飯作れないって…、私は5日間退院できないし、どうするつもりでいるの?」と本当に腸が煮えくりかえるような思いで旦那に言った。「ごめん~だってしょうがないだろ!俺だって仕事だし、頼める人いないんだから!」と…。それを言われれば私は何も言えない。自分にまともな親がいたら、こんなことにはなっていないだ
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新しい人生の幕開け…30

いよいよ「出産」も間近になってきた。退院してからの準備もできた!いつでも「入院できる」準備は整った!あとは待つだけ…。予定日はまだだったが、少し落ち着きたかった。が、なんだか腰?お腹が張っている…少し休もう…。そう思って私は座った。少し休んでいるとちょっと治まった。良かった…そんな時間を過ごしていると、Rさんが突然やってきた。珍しい、突然くるなんて。家にあがってもらい、少し話をしていた。「もう産まれてもいい時期だよね~」なんて話ていた。そうするとまたお腹が張ってきた!「痛い…」というと、Rさんは「それって陣痛じゃないの?」と言った。予定日よりはちょっと早い…しかもその日に限ってお腹の痛みが頻繁にきていた。病院に電話したら?というので電話してみたら「いつ産まれてもいい時期だから心配だったら病院にきてください」とのことだった。私はすぐ旦那に電話をした。「ちょっと早いけどいよいよかもしれない、もしかしてこのまま入院なったら子供たちのことお願いします」と…旦那は「わかった!俺もこれから会社に電話したり親父に電話したりするから気を付けていってこいよ」というので「車はRさんにお願いする、たまた居てくれたから」というと「わかった」とだけ言って電話が切れた。Rさんにお願いの一言もないのか…。ちょっとがっかりしたが、今はそれどころではなかった。定期的に痛みがくるようになった。時間を測ると「10分置き」…。上の子供たちも案外安産だったのもあって少し早いかもしれない、Rさんに伝えると「病院に行こう」と言ってくれた。まだ子供たちが帰ってくる時間ではなかったが、後のことは旦那に任せよう…そう思った。そん
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新しい人生の幕開け…29

療育センターに着いた。色々日頃の生活などを聞かれたりして、その日は終わった。次の診察の日に「診断テスト」というものをするらしい。息子は終始、何事もなく居たためあまり先生からハッキリとわかるようなことはなかったからかもしれないが「男の子は女の子より発育が遅いですからね」などと言われてしまった…。お子さんをお持ちの方なら一度は経験があると思うが、家では熱を出してグッタリしていたのに「病院に着くと元気になる」、あの現象ですね。片道1時間もかけて診察にきたのに診察はたった5分くらいだった。子供には丁寧かと思っていたが…。やっと家に帰ってきたころにはもう夕飯の時間だった。その頃旦那はまた「無職」になっていたが、さすがにこの数か月でいろんな体験をしたのだと思う。高校卒業してから、少し地元の会社にいたようだが、「大型免許」を取ってからずっと「長距離運転手」だったらしいので、今まで見下していた仕事にも何も言わなくなった。だからといって「家事」などができる人ではないため、ひたすらハローワーク通いをしていた。そんなある日、「やっぱり俺、長距離に戻るわ、悪いけど」と言った。まぁ…いろんな経験もしたし、これから子供が産まれるしな…。私も仕事できないし…。と思って「うん、わかったよ」と言った。そして私が続けて「この子が産まれるときには立ち会えるように会社に話してちょうだいね、それだけ」と言った。私は、もう旦那もいるのにお産の時「一人でいる」というのがとても怖いというか寂しかった…だからそれだけはしてほしかった。旦那は「それはする!出産が近くなったら地元周りさせてもらうようにする」と言ってくれた。本当にそ
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新しい人生の幕開け…28

ドタバタだった引っ越しも終わり、前の不動産屋とも前のように揉めることもなく終わった。子供たちは新しい家の近くに早々に友達を見つけたらしい。その間、息子の検診があった。確か5歳児検診だったと思う。子供たちには日頃から「本の読み聞かせ」はしていた。娘は黙って聞きながら眠りにつくが、息子は、例えば昔話のお決まりの「昔、昔あるところに…」と始まりますよね。そうすると「昔っていつも昔??!あるところってどこ??」など質問攻めに合うこと多々ありました(笑)けれどそれは、「興味」の一つだと思っていたからそんなに深く考えたことはなかった。検診の時、保健婦さんと息子と私とで話や色々なことをしていると、保健婦さんが「息子君、この色な~に?」と問いかけた。そうすると息子は「あお!」…明らかに「赤」だった。そして次の質問「この色は?」「きいろ!」…「青」だった。テーマは変わって男の子なら興味があるであろう「車」のことについて聞き始めた「これは?」と指を指す保健婦…「パトカー!」…救急車だ…。あれ?こんなに私教えてこなかったっけ…。と疑問を抱いた。子供むけの本も毎月買っていた。そこには救急車やパトカーなど散々書いていたし見せていたけど…確かに興味がなかったかもしれない…。保健婦さんは…少し考えた様子で「お母さん…息子さん…もしかしたら『発達障害』かもしれません…。専門医に一度診察してもらったほうがいいかもしれません」と言われた。初めて聞く言葉だった。「私は、そうですか…、どこにいけばいいですか?」と聞いた。「秋田市にいかないといけませんが、予約がないと受診できないのでコチラで予約とっても大丈夫ですか」と
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新しい人生の幕開け…27

私のパート先の方が先に撤退するということで、撤退する作業が行われた。そこではもう使わない食器などを持って帰っていい、とのことだったので、使えそうなものをもらって帰ってきたりしていた。最後には本社の人たちも来て、昼間の短時間ではあったが「お疲れ様会」が行われた。撤退作業はたった1日で終わった。人数が結構いたので、すぐ終わったのだ。高校生のバイトの子たちも…パートの人たちも、最後には笑顔で迎えられた。みんなに私のお腹を気遣ってもらったり優しい人たちだった。けれど、そのフードコートの中でもたくさんのトラブルはあった。お金が盗まれた、勝手に店のものを食べた…など。犯人はわかった時もあったが最後までわからなかったこともある。けれど、印象的な件を一つ。パート・アルバイトの募集は随時ハローワークに出していたらしく、時々「面接」の電話はきていた。その中で「はい、○○です!」と電話を出ると、声と話し方だけでも、結構なお年寄りの声がした。「お宅さんで、アルバイトの募集をしているときいたので…」と女性。「はい、募集しております!面接のご希望ですか?」と聞くと「はい…だと思います」と…。思います??おかしいな…と思いながら「○○様が面接のご希望でしょうか」と聞くと「あたしゃもう年よりだから、息子に働いてもらいたいと思って」というのだ。え??親が、というよりもう成人しているであろう息子の面接を親がする、という行為に驚いた。「すみません…アルバイトされる息子さんからもう一度お電話いただけるようお伝えください…」と返した。本人ではないのに「面接の予定」は入れられないのだ。高校生でも「自分」で面接の電話は自分
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新しい人生の幕開け…25

引っ越しできる「貸家」があったようだ。色々考えてはみたが、物件が他にないのでまずは見てみることにした。数日後、引っ越し先の物件を「内覧」することにした。子供たちを学校や保育園に送った後、旦那が電話をしていた。その相手はこれから行く物件の方の不動産屋さんだった。時間は今すぐどうぞ、とのことだったので、すぐ二人で向かった。その家はすぐ着いた。今の家から車で5分ほど。着くと玄関で不動産屋さんらしい人が立っていた。とても人の良さそうな感じがした。建物の外観は…今の家と比べると、それはやっぱり古く見えた。そして軽く挨拶をして中を見せてもらうことになった。玄関は広いな…すぐ右はお座敷か…真っすぐがリビング!!すごい広い!!換気扇もリフォームされてる!窓も大きくていいな!続き間があるのね。便利そう。そして二階や色んな所をみて最後に「お風呂とトイレ」だった。不動産屋さんも申し訳なさそうに「工事したいんですけどね…ここは住宅街で簡単にできないんですよ…」などと言っていた。最初から水洗は可能らしいが、その工事も住宅が密集していると簡単ではないらしい。お風呂はよくアパートなどで使われているタイプの「手動」のガスの「追い炊き機能」そして、洗い場は「石畳」だった。お風呂のドアは「木」でできていた。昭和の木の枠に擦りガラス。その向かいにトイレがあるから擦りガラス越しに誰が入っているのかがわかる。そして旦那と不動産屋さんはとても仲良く話をしているが…パッと私の顔を見ると「キッチンや水場は奥さんのお城ですからね」などと不動産屋さんは話しかけてきた。そうよ、旦那なんかほとんど家事しないし朝晩だけいる人じゃん…と
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新しい人生の幕開け…24

この家をどうしようか…選択肢はほぼない。引っ越すしかないのだ。不動産屋とも揉めているし、これからの家のことも考えると、この先は考えられない。そう話し合った。けれど私は「妊婦」だ。一人で荷物をどうのこうのすることには限界がある。かといって、どこに引っ越すのかもまだ決まっていない。娘が小学校に入学しているのもあって、学区を変えたくはなかった。それは、旦那にも伝えて同意してくれた。それから数日、家探しをしていた。けれどそうそう学区内にある「貸家」はなかった。アパートは子供がまだ小さいせいもあって近隣の人に迷惑をかけると思ってアパートは除外。貸家に絞っていた。子供は伸び伸び育てたい。それはやっぱり児童相談所で育ててしまった自分に責任があると思っている。保育園や学校でも子供なりにストレスを感じて過ごしてると思えば、家では「自分」をちゃんと出してほしかった。少しくらいうるさくても怒られない空間に居てほしかった。子供でも「我慢をしている」私は痛いほど知っている。「していい我慢と」「しなくてもいい我慢」子供の時しかできないことをたくさんさせてあげたい。私自身、父親に「強制的に習い事」をさせられたこと母親に「理不尽や暴力を振るわれたこと」これは、子供であっても「我慢しなくていい」し、誰かに助けてほしかった。けれど誰にも言えなかった。金銭的な贅沢はさせてあげれないけど、それでもできる限りのことはしてあげたい。私は父が亡くなってから「自分の居場所は自分で作る」ずっとそう思ってきた。なんだかんだ考えて毎日が過ぎた。本当に時間や色んなものが足りなかったと思う。そんなある日。パート先に行くと、Rさんたちが
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新しい人生の幕開け…23

卒園式の日は、旦那は出席しなかった。なぜなのか…。それはわからない。仕事でもそういう「式」には参加してほしかった。周りは旦那どころか「祖父母」まで参加していた。また襲ってくる「孤独感」せっかく再婚したのに…。私と一緒にいることが「恥ずかしい」のだろうか子供といることが恥ずかしいのだろうか…。なんだろう。今までの保育園の行事にも参加することはなかった、「運動会」や「夕涼み会」など…。私はいつも「一人」で参加していた。もちろん自分の子供だから苦痛ではないし、成長を見れるのは嬉しい行事。なんだかいつも「シングルマザー」の気持ちでいた。それでもいい、「自分で決めたんだ、この結婚も妊娠も…」そうやって自分に言い聞かせて…。卒園式が終わり家に帰り、息子はそのまま保育園に預けて娘と二人で過ごした。もうすぐ小学校の入学式に向けての準備だ!卒園式から入学式って結構短いですよね💦前から準備は少しずつしていた。自分と同じようにならないように、巾着袋はキャラクターにしたり、なるべく「みんなと同じ」を意識した。入学式の服もその当時は高かったし、もちろんお下がりもない。ランドセルはまだ安いのがあったから1万円くらいのを購入していた。けれど、みんなは結構高いランドセルに驚いた祖父母がいる、って強いな、本当にそう思った。今では色んな色とデザインがあるが、その当時は安いランドセルと高いランドセルの差が大きかった。それでも娘は何も言わなかった…。遠慮していたのだと思う。「言えなかった」が正しいのだと思う。そうして家の問題もあったが時間は止まらず、娘は入学した。入学式は旦那は参加した。けれど、他の親御さんたちに「挨
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新しい人生の幕開け…22

私は決意した。「この子を産む!」それはお義父さんが帰った次の日に旦那に言った。旦那は嬉しそうに「ありがとう!俺も協力するから!絶対今までのようにはさせない!」と強く言ってくれた。そして、私は仕事に行った。Rさんに伝えなければ…。その日は私は早番だった気がする。Rさんは私と一時間シフトが被っていた。その時Rさんに「この間のことなんだけど、病院に行ったらやっぱり妊娠してた…それで私も迷ったんだけど、お義父さんもきて頭下げられちゃって…。今までのようにはさせないって言葉、信じてみようと思うし、旦那の子供が初めてだから産もう思ってる。迷惑かけるかもしれないけどよろしくお願いします」と伝えた。Rさんは「もし今の子供たちと比べられたらどうすんの」などと言われたが、それも説明した。Rさんはなんだかんだいいつつも「わかった。けど臨月ギリギリまで働いてもらうから」と言った。「それは大丈夫です」と答えた。そんなに家計だって余裕があるわけではない。少しでも働いていた方がいい。雇ってもられるなら私としても助かることだった。その日の仕事からは本当に辛かった。つわりが襲ってきて、フラフラしながら仕事をしていた。その日やっとの思いで仕事を終え、少し休んでから子供たちを迎えに行った。その夜、旦那が帰ってきたのを見計らって、子供たちにも報告した。「ねぇねぇ!○○たち!お姉ちゃん、お兄ちゃんになるんだよ!」というと、上の娘は「やった~!!女の子がいいな~!」と喜んでくれた。下の息子はあまりわかってない様子だったが、お姉ちゃんが喜んでいるのをみて喜んでいるようだった。けれど、それからも旦那は「家事」をしてくれるよう
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新しい人生の幕開け…21

私は勇気を出して「トイレ」にいった。判定は…。「陽性」…。え…。今仕事始めたばかりなのに、まだ旦那は子供たちとそんなに多くの時間を過ごしてないのに…。どうしよう…。パニックになった。その話はすぐにRさんに報告した。仕事のこともあるからだ。Rさんは「やっぱり…。おかしいと思ったよ。で、堕すんでしょ?」と当然のように聞いてきた。え?なんで他人からこんなこと言われなきゃいけないんだろう。やっぱりRさんは苦手だ。「ちょっと考えるし、旦那にも相談しなきゃだから」と濁した。「仕事は出てもらうからね」といい、Rさんは電話を切った。溜息しかでなかった。嬉しいことだけど、今じゃないような気がする。けれど私ももう28歳だ。多分これが最後の妊娠となるだろう。まずは旦那に相談だ!夜になり、子供たちが寝静まってから私は旦那に切り出した。「あのね…最近体調が悪かったんだけど…調べたらね、妊娠してた」と。旦那は「まじ?ホント?おう!そうか!やった~!」と喜んでいたが「ん、でもね、ちょっと考えてる…今の子供たちだけでも大変でしょ、経済的にも色々…それに私、息子の産後の時も無理してしまってるから体力的にも自信ないんだよね」と気持ちそのままを伝えた。「え?それっておろすってこと?1人くらい増えたって変わらないだろ!せっかくの命なのに…それに俺にとっては初めての子だし…」と。確かにそうだ。今の子供たちは旦那の子供ではない、だからこそ、もっと今の子供たちと触れ合ってほしかったし、「自分の子供はかわいい」みたいに産まれたら、今の子供たちへの態度が変わってしまうんじゃないか、という不安もあった。それも伝えた。けれど旦那は
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新しい人生の幕開け…20

来年、上の娘が小学校に入学する。そんな時、私の急な体調不良…それでも仕事に行っていた。なんだろう…。熱もないしな…。私は幼少期から熱を出すということがあまりなかった。祖母がいうには「うち熱」といって、体温計には出にくい熱を出すそうだ。それでふと、思い出した。「あ、私、そういえば何年か前に『うつ病』って言われたんだ…、そのせいかもしれない」と、私は近くの精神科を受診した。診断された病院はもう遠い。しかもその時は「私がなるわけない」と思ったり、当時彼だった旦那もそんなに気にも留めていなかったから忘れていた。現に、「うつ病」と言われる症状はでていなかったと思う。母親のことや元旦那のこと、色んなことでたまに思い出して動悸がすることはあったけど、それが「うつ病」の症状だとは思いもしなかった。病院に行ったが、精神科は物々しい雰囲気で、病院内は薄暗く居心地がいいとはとても言えなかった。先生に前にうつ病と診断されたことなどを伝えたが、先生は私の顔をみるなり「今までの育成環境」を聞いてきた。はっきりいって、「げっ!」と思ったが、そのまま簡単に伝えた。黙って先生は聞いていた。そして「よく生きてこれましたね」と…。私は「はい?」とキョトンとしてしまった。どういうことだろう…。診察が終わり、薬を出されたが「眠くなるかもしれない」と言われ眠くなられたら…仕事はおろか、子供のことができない。そう思い、薬はその時は飲まなかったと記憶している。けれど、目まいと吐き気が辛くなり、休みの前の日だけ飲んでみた。気持ち悪さや目まいは治まったように感じたが、眠気がすごかった…。車なんて運転できない、と思うほどだった。怖
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新しい人生の幕開け…19

旦那も新しい職場で慣れてきた1か月くらい経ったであろうか。旦那も私も「新しい仕事」に対して、一生懸命だったと思う。時間も休みもバラバラになってしまったが、みんなが顔を合わせる時間は増えたと思う。もちろん会話も増えた。会話が増えると共に「喧嘩」も増えてきたと思う。そんな大きい喧嘩ではなかったと思う。喧嘩の原因は、やっぱり「金銭問題」だった。それまでは旦那が35万前後、私も同じくらいの収入があった。二人で65万以上の収入があったわけだが、旦那も新人というのもあってか、旦那の収入は15万ほど…私はパートだから6万ほどに落ちていた。それでも保育料は二人で月5万、家賃5万、車のローン5万、公共料金3万、携帯料金二台3万(昔は高かったです)。もう無理ですね…。まずは「保育料」を今の収入を市役所に提示して保育料を下げてもらったりした。そんな話もしているのに旦那は、あっけらかんとしている。ちょっと話そうもんなら「無言」を貫いていた。貯金もそんなにない…。前回の無職の時などで使ってしまっていた。失業期間にも補填してきた。旦那のお義父さんにもお金を借りたりした。……もうだめか…。そう思ったが、旦那に相談してもどうにもならない。お金の問題だけは誰にも相談できない。どうしよう…。一人で悩む日々…それでも日常は止まることなくやってくる。子供たちにもたべさせなきゃいけない保育園に行くには車も使わなければいけない。もうガソリンさえままならないくらいに貧困状態になっていた。そこでハッと気づいた。旦那は自分のファミリーカーで仕事に行っている。それを私の「軽自動車」で通勤してくれないか、と提案した。ガソリンだって
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新しい人生の幕開け…18

Rさんが働くところでバイトをすることになった。時間は朝8時~14時・10時~18時のシフト制だった。朝の8時はちょっとキツイかなと思ったが保育園も7時から開園していたので、その辺は子供たちを少し早く保育園に連れていくことにした。ということは…私の家事をする時間を早めなくてはいけなかったが、それもどうにか時間の逆算をして、なんとかしようと思っていた。時間が早い分、早く終われるから、その時間少し休もうか…などと考えていた。そこのフードコートでは、「ラーメン・パスタ・アイス・クレープ」などを提供していた。全ての工程を、そこの人達でやらなければいけないような感じだった。覚えることがたくさんあるなぁ…。体力も相当必要だった。お昼のピーク時にはたくさんのお客さんがきた。もちろん初日の私にはサポート的なことしかできなかったが、それでも終わったころには、息もできないくらい疲れていた。その職場では、若い人も年配の人も混じっているせいか、あまり「もめ事」のようなものか感じられなかったが、油断はできない。数週間たって、やっと仕事にも慣れてきた。土曜日は保育園にお願いして日曜日だけ、旦那にお願いしていた。その日曜日…、事件は起きた。私がいつも通り、旦那に子供を預けて仕事に行った、お昼のピークになり、忙しくなった。そんな時、旦那が血相を変えて私が働くフードコートに駆け込んできた!!「大変だ!息子がいなくなった!!」とフードコートの目の前で叫んだ。私は咄嗟のことで、「え!なになに?どういうこと?」とパニックになったが、すかさずRさんが「他のお客さんに迷惑だから、ちょっと待って」と促した。待ってもいられなか
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ブログを読んでくださる皆様へ…

日頃、私のブログを読んでくださりありがとうございます。今までも何度もSNS等でお知らせはしてきましたが、私のブログは「ノンフィクション」です。当時の秋田県で本当に私が経験したことだけを書いています。作ったり、盛り上げようなどとは一切しておりません。むしろ「忘れている」」ことの方が多いかもしれません(笑)誤字や脱字、拙い言葉で伝わりにくい部分もあるかと思います。それでも読んでくださる方いらっしゃるおかげ様でブログを書くことができています(*^^*)最近ではSNS等からメッセージを頂くことも多く、本当に嬉しいです(*^^*)返信させていただくのですが、「え!?返信くれるの?」なんて言ってくださる方もしばしば(笑)私はそんなに有名人でもないし、本当にそこら辺にいる「母」であり「カウンセラー」なので、頂いたDMなどに対しては返信させていただいております(*^^*)ブログ自体の年齢から言うと、まだまだ色んなことがありました。ブログを書くことで、当時に自分を振り返ることもたくさんありますが、その当時は「それが精一杯の自分だったんだな」と客観的に見れている自分もいます。ちなみにフラッシュバックような症状は一切ありませんのでご安心ください☺私が「カウンセラー」になるまで、たくさんの人と経験、そして別れを繰り返してきました。それはこれからも続くと思いますが、その分、みなさんに「寄り添えるカウンセラーでありたい、どこにも属さないクライアント様最優先でいたい」という気持ちは全くブレることはありません。これからもどうぞこのブログとみなさん一人ひとりと「今」を生きていきたいと思いますので、よろしくお願い
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新しい人生の幕開け…17

Rさんから突然の電話…。私が会社を辞めたことを誰かに聞いたのだろうか、ちょっとめんどくさいな、と思いながら電話に出た。「久しぶり~!何してた?」と、しらばっくれたような電話だった。「特になにもしてないよ」と当たりさわりのない返事をした。そしたら案の定…「保険屋、辞めたんだって?仕事探してるの?」と言ってきた。「あ~話早いね(笑)」などと話をしていたが、Rさんは思わぬことを私に言ってきた。「いや~実はさ、私今、あの近くのスーパーのフードコートで働いているんだけど、人手が足りないのよね」と。「あ~そうなんだ~」と聞き流していたら「どうせあんた暇でしょ!私ここのフードコートの責任者になっているから面接は私だけど求人票欲しいから早く取ってきて~」と。「ありがたいけど、土日休みじゃないでしょ?」というと「土日は高校生のバイトもいるし、年配の人もいるから完全に土日休みとはいかないけどなるべく休んでいいから」と…。「うん、ありがとう、わかった、旦那に相談してみるね」というとすかさず「旦那なんかアテになんないんだし、自分で決めればいいでしょ」と言われてしまった。そうだけど…一応、相談しないと、という耳は一切聞かず、「今もう面接来てるしあんたのシフトのところ空けておくからハローワーク行ってきて!」といい、電話は切れてしまった。確かにいい話ではある。そこのスーパーはその当時、できたばかりでいろんなフードコートが入っていた。家からも近い…。選択肢などなかった。自分で探しても仕事などなかった。子供のこともわかってくれる人が責任者なら、それはそれでありがたい。Rさんは最近音沙汰なかったと思ったら、そこで
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新しい人生の幕開け…16

旦那の次の仕事場はトラックにも乗りながら集団で作業をするというものだったが、順調に進んでいるようだった。そんな中、私の会社で不穏な空気が流れていた。それは、私より少し前に入社した女の子だったけど年は私よりも若くて可愛らしい女の子だった。名前はYさんと呼ぶことにします。数か月前にYさんから相談を持ち掛けられていた。それは…会社の営業部長の「セクハラとストーカー行為」だというのだ。最初、聞いただけでもゾッとしたけど、真実は分からなかった…。Yさんの相談内容は「しつこく電話がくる、二人で食事に行こう、服装のことに関して『もっと胸元を開けて』、仕事中にドライブに行こう」などなど、本当に彼女は怖くなったりしていたようだった。私や他の人にはもちろん同じことはしてないだろうが、私もその相談を受けてから上司には気を付けてみていた。うん、確かに面談の時間が長すぎる。そして私と出先でYさんと相談を受けている間にも頻繁に電話が鳴るようになっていた。電話に出なければ出るまで電話が鳴っている、という状況を目の当たりにした。私にできることはないか、とYさんに言ったけど「これはどうにもできないし、私も辞めれればいいんだけど…そうもいかなくて…」と諦め加減だった。Yさんの家庭事情も複雑だったので、なにも言い返せなかった。もちろん、そんな話は誰にでもできるわけがないと思っていたし、Yさんも私にしか相談していない、ということだったから私も誰にも相談できなかった。が、しかし…。ある朝、私が出社すると営業部長が私を見た途端、呼び出した。なんだろう、と思い部長の席の前に座った。「おはようございます…」と挨拶する間も与え
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新しい人生の幕開け…15

やっとの思いで家に帰ったときはもう日付は過ぎていた。私は子供たちを部屋に運び布団へと寝せた。そしてI子さんも、なにも言わずに寝た。旦那はまだ泣いている。「明日どうしよう…」と…。そんなことまで私が指示しないといけないの?とほとほと呆れてしまった。そして「明日も早いから」と言い残して私の寝た。次の日の朝、私はいつも通り家の掃除をし朝ごはんを作っているとI子さんが起きてきた。「昨日はお疲れさん」と慰めの言葉をくれた。こっちこそ、本当は楽しませてあげたかったのに…と申し訳ない気持ちだった。子供たちを保育園に送って帰ってくるとまだ旦那は家にいた。もう出勤の時間だ。旦那はガクッと肩を落とし、「会社になんて言おう…」とブツブツ言っていた。それを見たI子さんは「こら!男だったらしっかりしなさい!!」と叱ってくれたが本人はボーッとしているだけだった。そうしているうちに会社から電話がきたようだ。そりゃそうだよな…出張先からいなくなったんだもんな…。旦那はビクっとしながらも電話にでた。色々話していたようだが、ただ「はいはい…」としか答えない旦那。そして何を話したのか「もう自分はできません…辞めさせてください」と言っていた。電話を切った後、「なんていってた?」と聞くと「自分のものを取りにいくのと退職届だしに行ったりしなきゃいけない…会社行くのいやだなぁ…」と子供のようなことを言っていた。私は「事務処理とかもあるからいかなきゃだよ」とチクリと言った。私は多分、その頃から旦那に対しても色々な考え方が変わったように思う。旦那が渋々会社に行くのを見届けてから、私はI子さんを家に送って行った。I子さんは帰りの
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新しい人生の幕開け…14

突然の出張の話。なんで出張になったかと聞くと、「なんか成績上げれない人に限定して講習会?みたいなやつやるんだって」と…。アポの一件もまだとれていないのか…。そこは口には出さず、「どこに出張なの?」と聞くと「宮城の仙台」と言った。期間は2週間くらいだと言っていた。週明けから行くらしい旦那は「初」の出張という経験をする。聞くと、講義室に缶詰め状態らしい。旦那は不安になっていた。「俺缶詰め状態苦手なんだよな…」と…。そして見送った朝。子供たちは寂しがっていたが、旦那からは何も連絡はなかった。多分相当疲れているだろうな、と推測していた。こちらから電話をすることもしなかった。そういう会社はほぼスケジュール管理されていることを知っているからだ。泊まるところはビジネスホテルだと聞いた。そうして次の日、電話がきた。「俺、こんなんだとは思わなかった。缶詰状態に耐えられない…」と弱音を吐いていたが、「そうだね、けどもう少しだから…」と励まして電話を切った。それから数日後の夜、その日は珍しくI子さんが家に泊まりに来ていた。それは旦那にも報告していた。久しぶりに会ったのと子供たちのことを心配してくれていたのとで話が弾んだ。子供たちも大喜びだった。が、寝る時間になり、息子が熱をだした。多分はしゃぎ過ぎかと思われたが、I子さんを残して病院にも行けず、咳もなかったため様子を見ようということになった。が…電話が鳴った。夜の9時過ぎだ。なんだと思い携帯を見ると「旦那」の表示。電話をとると「俺、もう無理だ…お金もないし、車もないから帰れない、どうしよう、けどもうあの会社には居たくない!辞めてきた!もうやだ!」と本
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新しい人生の幕開け…13

旦那は翌日ハローワークに行って面接の日どりを決めてきたようだ。旦那は求人票を私に見せてきた。……。「職種/営業・外壁のリフォームのアポイントのルート営業」「給与/35万以上可」私はバカにされている気分だったから「やれるやらやれば?」と言った。旦那は結構浮かれている感じだった。そして、面接当日、旦那はいつもは作業着だったのだが面接にはスーツで行った。ネクタイの結び方すらおぼつかない手つきで…。数時間経ってから旦那が帰ってきた。「俺、あんな会社の面接は初めてだ!みんなスーツ着てるし現場にも車で送迎だって!」と息巻いていた。結果は数日後にきた。「採用」旦那はすごく喜んでいた。今までやったことのない職種なことと給料、そして「ラク」な仕事だと思っているし、スーツを着る仕事など初めてらしい。ウキウキしていた。仕事初日…どんよりした顔で帰ってきた。まず子供たちのことをしてから旦那の話を聞くことにした。私は二階から降りて旦那のところにいった。旦那は難しい顔をして、紙を見ていた。なになに??「ロープレしてこいって言われた…。」「あ~そうなのね!営業なら普通だからね」とチクリと言ってやった。そして旦那が見ていた紙を見ると…。A4サイズにちょこっとだけ書かれた営業用の挨拶やアポイントを取るための言葉が並べられていた。「じゃあ、それ読んでみて」というと、ぎこちない言葉で話し始めた。そして「会社の人、これ暗記してこいっていうんだよ、いくら見ても覚えれない!」とダダをこね始めた。「え、これくらい普通だし逆になんで覚えれないの?少ないくらいだけど」と言った。そして何度かロープレをしたがとてもじゃないけど、営
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新しい人生の幕開け…12

仕事を辞めようと思う…。それは突然のことだった。「え?なんで?」と聞くと、『どうやら給料が足りない(長距離の運転手の相場がわからないが以前よりは下がっていた)し、こんなに寝ないで走って帰ることもできないし、なにより社長にイライラしてきた。』ということらしい…。確かに最近の電話は愚痴が多くなってきてはいた。それは感じていたが…。「自分には運転手しか向いていない」とも言っていた。たまに従業員同士のいざこざは聞いていたが、聞いていれば特に旦那は「板挟み」状態のことも多かった。私は反対も賛成もできず「次はどこの会社とかもう決めているの?」と聞いてみた。どの業界もそうかもしれないが、「情報網」みたいなものは回っているらしく今までも色んなトラック会社の名前を聞いていた。すると旦那は「いや、毎日家に帰れる仕事がしたい」という。私はビックリしたが、嬉しかった。それが現実になるかどうかは別として…。旦那はそれから相当悩んだと思う。今仕事を辞めたら…家を買うということも遠くなる。けれど、それは言えなかった。私の仕事は順調だったが、旦那の借金を返済したため「貯金」はほぼない状態だった。もう半年くらいで娘が小学校に入学する時期に、タイミングが悪い…。もう旦那の両親に期待はできないし、そもそも期待してはいなかったから世間的にいう「ランドセルはおじいちゃん、おばあちゃんから買ってもらう」ということはできなかった。子連れの再婚がこんなにも辛いものだなんて…。私の親とは絶対つながりを持ちたくないから何も言えないけど。子供たちに「おじいちゃん、おばあちゃん」という存在を持たせてあげたかったのは自分のエゴかもしれ
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新しい人生の幕開け…11

その日は本当に疲れてしまった。次の日の仕事が休みで本当によかった。その夜は子供たちは「おばあちゃん、おじいちゃんがきた!」や「新しい家ひろ~い!」などと楽しんでいたが、お義母さんは「おばあちゃんじゃない!」と娘に強く否定した。なんなんだろう、この人…。その光景を見た旦那がやっと「うるさい!ババアは黙ってろ!」と言った。怒鳴ってくれたことで私の怒りは少し和らいだが、それを言われた娘は悲しかったと思う。絶対にこの親たちとは仲良くなれない、と確信した。翌朝、私はいつも通り5時に起きて掃除をしていた。私はいつも起きてから家の掃除をする。これは多分、元旦那の姑から「朝飯前の仕事をしろ」というのが染みついているせいだと思う。その習慣は今でも変わってはいない。そして洗濯を回しながら朝ごはんの支度をしていた。もちろん、舅姑の分も。そうしているうちに子供たちが起きてきた。ご飯を食べ、テレビを見ていると、舅が先に起きてきた。舅は割と子供たちと仲良くしてくれていた。そしてもう9時になろうとしているころにノコノコと姑が起きてきた…。ありえない…。「あら~朝早いのね~、お腹すいちゃった!ご飯食べる!」とあたかも当然のように言ってきた。「そこにできてます」というと「あら!あなたたちもう食べたの?」とシレッとしていた。旦那の話には聞いていた。お義母さんが料理ができないこと、自分のお母さんの味(おふくろの味)というものが分からないこと。全部おばあちゃんがしてくれたことなど…。聞いてはいたが、ここまでとは…。子供たちは、近所の子供たちが遊びに来てくれたので外に遊びに行った。旦那は車庫の中を片付けたりしていた。旦
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新しい人生の幕開け…10

新婚、のような初々しさはなく、ただ淡々と時間だけが過ぎていった。旦那の借金を全額返済し、数年したら家を買う。その一心だった。そして、旦那が帰ってきた時にお世話になっている不動産屋さんに一緒に向かった。そして、不動産の人は何も知らないのでしかたなかったが、旦那は乗り気で引っ越しの話や家賃の話、色々していた。もう話は完全にあの戸建てに引っ越す話になっていた。そこで引っ越しの日どりなどの話が進んでいた。私はわざと「え、引っ越しって私一人でやるの?」というと、旦那は「実家からも手伝いに来てもらうし俺もいるようにする」と言われたので、反対する理由もなかった。引っ越し当日。引っ越しといっても、そもそもあまり「物」がなかったせいもあって案外スムーズに行ったが、来ると言っていた「旦那の両親」が来ていなかった。遠いせいもあるだろうと思ってあまり気にしてはいなかったが、引っ越し先も伝えなければならないのでは?とも思った。なんでこの人(旦那)はこんなにのんびりしているんだろう…。引っ越しは旦那と不動産の人が手伝ってくれた。トラックも出してくれた。そのおかげで1往復と少しで荷物の搬入は終わった。天気も良くて引っ越し日和だった。その物件にあった物などは使わないものは不動産で持って行っていく、というので差し当たり見た感じで使えなさそうなものは持って行ってもらった。さて、やりますか!子供たちが帰ってくるまでにでかさないと大変だ!と、ふと気づくとまだ旦那の両親はこない。旦那に聞いてみた。「あれ、お義父さんたちは?」と、それで気づいたのか、それともわざとなのかわからないが、「あれ?そういえばこないな、電話してみ
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新しい人生の幕開け…9

入籍を済ませ、新しい苗字になった私と子供たち彼のことは、これからは「旦那」とココでは呼びます。旦那の実家は離れているため、あまり顔を合わせることがなかった分、気が楽だった。そして、同じ市にいる「母親」ともすれ違うことすらなかった。バレていないのだろうか…。不安ではあったが、それは考えないことにした。そして、たぶんこのブログを読んでくださっている皆さんは「あれ?借金は?」と思っている人もいるかと思います。あれほど毎日借金取りの催促や勧告の手紙やハガキが来ていたのが、女性相談所にいってからパタリと来なくなっていた。そして私もでこかでは気にはしていたものの、触れずにいた。そうして半年の月日が流れた。ある日、このアパートを管理している不動産屋さんから電話があったという電話が旦那からされた。家賃の滞納はしていない。騒音でもなさそう…。けど「話がしたい」ということで、旦那の時間の取れる日に不動産屋さんに行くことになった。アパートのお隣さんは学生さんの一人暮らしで、とても愛想のいい女の子だったし…、なんだろう…そして彼が帰ってきたとき、不動産屋さんに行くことにした。その話とは「家族4人であのアパートは狭いと思うんだよね、これからお子さんも大きくなるし…一軒家の貸家があるから、最初は貸家として貸してよかったらリフォームするとかしてそのまま家を買うのはどうかな?」という話だった。彼は「うんうん!」と乗り気だった。そしてその流れでその貸家を見せてもらえることになった。その家は住宅街にあり、買い物も学校も近いとても立地のいい物件だった。そして中を見ると少し前の人の物は残っていたがそれは好きに使ってい
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新しい人生の幕開け…7

家に着いた。彼は、そそくさとなにか準備し始めた。「これからどこかに行くの?」と聞くと「仕事」と答えた。え?婚姻届け一緒に出しに行ってくれるんじゃないの?という言葉と気持ちを飲み込んだ。「明日出発かと思ったよ…気をつけてね」「うん」とだけいい、彼はさっと仕事に行ってしまった。私だって…一応○○の日記念日だから~とか言ってみたかった。他のカップルと同じように…。それにいつ出してとか、○○日出してとか全く婚姻届けを出す日すら何も言われていないし相談もなかった。これをどうしたらいいんだろう。彼に電話して聞いてみることにした。「一緒に出しに行こう」…その言葉を期待して。彼はすぐに電話に出た。まだ近くにいる時間だ。「あのさ、婚姻届け…どうすればいい?」そう聞くのが精一杯だった。「あ、出してくればよかったなー…。まだ日にち書いてないもんな。俺もまたいつ帰れるかわからないしな…。」「………」無言になってしまった。私が勝手に出すようなものではない。いくら証人が揃っても…。彼の気持ちがわからなくなった。なんのために同僚までお願いして証人を書いてもらったのか。無言でいる私に彼は言った「お前、都合のいい時出しておいて!で、出したら教えて」と…。一番聞きたくない言葉だった。「私が結婚記念日になる日を一人で決めるの?」とちょっと突っ込んで聞いた。「しかたないだろ、俺は仕事休めないし積み下ろしの時間も決まってる。俺が帰ってくる日に役所が開いてるとも限らないし、帰ってからは休みたいし…長距離運転手の嫁はそういうもんだ」と返ってきた。私の知っている限りでは長距離の旦那を持つ人はいなかったからわからなかった。知っ
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新しい人生の幕開け…6

彼に、いつ言おうか迷っていた。電話でする話ではない。私の感情はバラバラだった。ここまで来たのに…。彼も凄く頑張ってくれたのに…。同情だけでは絶対できないことまでしてくれたのに…。やっぱり相手も自分も子供たちも「不幸」にするのはいつも「自分」幸せだった。そんなことを思っていた、その日の夜。彼から電話がきた。私はドキッとした。彼は相変わらず「何してた~?」とノーテンキな話し方をする。私はいつも通りに接することにした。なにせ彼は運転手だ。事故に遭われたら大変だから。普通に日常のことや子供たちの話などをしていると珍しく彼が「そういえば婚姻届けのことなんだけどー」と切り出してきた。私はまたもや「ドキッ」とした。触れないで置こうと思っていたからだ。私は「うん」としか答えられず黙ってしまったが、彼は続けざまにこういった。「俺の運転手の仲間に証人になってくれるって人がいてさ!別にだれでもいいんだろ?親族じゃなくても!」と一気に話された。私は「え?なんで?どういうこと?」と聞き返してしまった。彼は「どういうこともなにも、お前に身内もいないのはわかってるし、今始めたばかりの保険屋で証人になってくれる人いないだろ、だから俺が探しておいた。」というのだ。私は、心底「また迷惑をかけてしまった」と思った。だから私は「ありがとう…けどそれには甘えられないよ。言おうと思ってたけど、入籍諦めようと思ってたんだ…。」と言ってしまった。我慢ができなかった。彼にばかり負担をかけてしまっている自分が惨めで情けなくて、不甲斐なくて迷惑ばかりかけている自分に彼の職場の人まで巻き込むなんて…。それを聞いた彼は「なに言ってんの
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父の死から日常に戻る

父が亡くなり、しばらく本業の仕事はお休みを頂いていましたが、 仕事に戻りました。 まだ、突然の父の死を信じられず、受け入れられない思いは強いです。この7月は、自分の人生の中では 大きな変化があったけれど、 世間では今までと同じように 時間が流れているのだな~と 感じました。 自分は自分のやることを行い 元気に生活していくことが 亡くなった父が喜ぶことだと思うので、 また、日常に戻って 生活していこうと思います。 いつ、人は亡くなるか分からない。 いつ、何か起こるかなんて分からない。 いつまで健康でいられるかなんて分からない。 父の自由な生き方を見て 「ただ忍耐の人」の部分が 大きい自分自身を 「変えていきたいな~」という想いが 自分の中に強く生まれてきました。 父の戒名に「悠然」という 文字が入っていました。 「物事に動ぜず、 ゆったりとおちついているさま」 表面的には落ち着いて見えても内心ではオロオロソワソワしやすいのが実際のところ💦「悠然かぁ…。 そんな自分になれたらいいな」と 思いました😊夫とのつらかった経験は、自分の気持ちの整理のために今後のブログでも書いていきますが、 父の死を経験して 「夫のことは、もうどうでもいいかな」 「なるようになるさ~」という 心境の変化もありました❗まさに、悠然⁉😁悠然への第一歩を 踏み出しつつある私です😄🌈
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父の死:母の落胆

元気だった父が突然、脳梗塞で倒れ、あっという間に逝ってしまった。 皆が突然のことに驚いたが 母も私たち子供も、 母より父が先に亡くなるなんて 思ってもみなかった。 父に頼りきりだった母は 仏壇の前でただボーっとして 時間を過ごしている。 「先に逝くなんて残酷すぎる」 「こんなひどい話ってあるかい」と母。 そして、母のそんな様子を見て、 母の今後が心配でならない子供。 夫が先に亡くなることで 「やっと自由になれる」と かえってイキイキする女性も多い中、 夫を亡くしてこんなに落胆する女性(母)を まさかこんな身近に見るとは思わなかった。 母の兄嫁さんが、 「○○ちゃん(母の名)は、 縁談話が進んでいたのに、 □□ちゃん(父の名)と結婚するって言って 縁談話を蹴って □□ちゃんと結婚したんだったよね~」と 話していた。 母はただ黙って兄嫁さんの話を聞いていた。 母は縁談話の人と結婚していたら 私はこの世には 存在していなかったんだな~と思う。 いろんな縁でこの世は 結ばれているのだと感じた。 母のように強い想いで 結婚できる人は、 いったいどのくらいいるのだろう?と思う。 実は、父の母(私の大正生まれの祖母)は、 同じ村であこがれの存在だった 明治後半生まれ祖父が 東京の大学に進学した時に、 祖母は祖父のいる東京まで追いかけていき 最終的には結婚した。 祖母は亡くなるまで 若い頃の自分の写真と祖父の写真を重ねて バッグに入れていた。 今の時代では好きな人を追いかけて… というのは普通にある話だけれど、 お見合い結婚の家と家との結婚が 当たり前の祖父と祖母の時代に 恋愛結婚をするなんて
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