地獄への道…6

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離婚してまだ半年経ったか、経たないかで元旦那からの再婚の電話。

反対とかどういう感情よりも怒りや、「やっぱり…」という感情の方が強かった。

その電話ついでに「生活保護を受けるかもしれない」ことも話した。
そしたら「あ~じゃあこっちも都合がいいや、今までみたいに生活費入れなくて済むし、その話もしたかったから」

人間とは思えない発言だった。
けれど私はその当時、もう感情などほとんどなかったおかげでキレずに済んだのかもしれない。

子供たちとの面会はどうするのか、と聞くと、「ん~今までのようには行けないからな~」と…。

私は「じゃあコッチからなんとか言っておくよ」と言った。

もう相手に期待しても無駄だと思った。

全てを諦めていた。

それでも子供たちの問題は待ってはくれない。
次は息子だった。

療育センターに通っていることも学校に話した上で、「特別学級」に通級していた息子。

少しは環境がよくなったかと思っていた。

息子は3年生くらいだったと思う。

保育園の時から診察を受けていたが、一向に「診断」は付かず…。

もう半ば「発達障害」のことは「秋田では診断できないのではないか」と不信感でしかなかった。

そのあたりから私は個人で「発達障害専門」の医師を探していた。

その最中、時折「学校に行きたくない」とまたいい始めていた。
その度に、私は「無理に行かなくていいよ」と言ってきたが、お姉ちゃんの姿を見ると、それも忘れて学校に行ったりもしたが、どうしてもダメな時は休ませていた。

そういう時は、なるべく公園に行ったりしていた。

息子は「体を動かす」のが得意のようで、スポーツにとても興味を持っていた。ルールなどは覚えられないがゲーム自体は好きなようだった。

ところが、年齢を追うごとに「自分の言いたいこと」が周りに伝えられず「叩く」などの暴力に現れることもあった。
それでよく学校から連絡がきたりした。

私は「発達障害」という障害を知るまでは「なんで叩くの!」と怒っていたような気がするが、発達障害かもしれない、と気づき始めてからは「どうして叩いたのか」などじっくり「聞いてみる」ということ、そして言葉がわからない時は、一緒に考えてみたりもした。

それでも「かんしゃく」を起こすこともあった。

そういう日々の中でも、私には「やらなければならないこと」が山積みだった。

・自己破産の手続き
・生活保護の申請
・息子の療育センター通院
・自分の病院
・家事

自己破産の手続きは、なるべくお金を掛けないために家庭裁判所からもらってきた大量の資料を全部「一人」で書いた。
わからないところは裁判所の人に聞きに行ったりもした。

裁判所の人はところどころ、私が書いてある内容を読んでくれたりしていた。
裁判所の人は「え…これ全部自分の負債ではないってことですか?」と驚いていた。

私は「そうです」と答えた。
裁判所の人も首を傾げながら、どういう経緯でサラ金などから借りたのかの理由も必要だと言うのだ。

私は、自分の18歳の誕生日の時の話から母親の話なども全部、「事実」であることを話した。そのために「女性相談所」に行ったことも…。

サラ金だけの話ではないことなど…。
それを聞いた裁判所の担当の方は、「これだけされると運が悪いかっただけでは済まされないね…、免責期間、短くなると思うけど、もう親とは言えども…これはひどいわ…」と絶句していた。
もちろん、どんな理由であれ、「自分の名義」なのだからしょうがない。

ただ、自分で借金をしたなら、それは「自分が悪い」と納得できて誰になにを言われてもどうしようもないとも思う。

けれど…。私は…。

自分の私利私欲のために使ったわけでも、なんなら借金なんかしたくなかった。
自分の父親も相当な借金をしていたもの知っていたから…。

色々、資料を書いていると悔しくなったり、情けなくなったり…
ここまでして自分の子供苦しめるのが楽しいんだろうな、と母親のことを相当恨んだ。

自分の子供を「金づる」でしかみれなかった、あの親…。

裁判所で悔しくて泣きながら書類を書いたときもあった。

私だけなら死んでもいい。

けど、私には子供たちがいる。

私はもう「一人じゃない」

そう自分を奮い立たせるので精一杯だった。

そして、その足で、市役所に行き「自己破産の手続きをしている」という申請書も書いた。

私のメンタルや体調は崩れていく一方だった。

仕事をしていた時ですら「お昼」のご飯しか食べなかったのに、仕事を辞めてからは、タバコとコーヒーの生活。

ご飯などの固形物はほぼ口にしなかった。

保護を勧めてくれた友達なども足が遠のいていた。

毎週だった飲み会が2週間に1回くらいになっていた。

そして色んな手続きなどをしているウチに段々、飲み会も無くなっていった…。

私の周りに「友達」と呼べる人はいなくなったように感じた。

携帯電話(当時まだガラケー)の電話帳を見ても、会社の同僚や上司、お客さんなどしかいなかった。

私は会社関係の人のアドレスは全部消した。

消したら、学校や保育園…プライベートの名前は…なかった。

もう…色々疲れたな…

家に帰ると一人、ベットの上で子供たちが帰ってくるまで横になっている時間が増えた。

食欲もない…というか食欲に関しては、前歯を全部折られた時から「食」というものに興味がなくなっていた。
なにを食べても美味しいとか、そういう感情ではなく、
「食べること」=歯を見られること
が凄く苦痛になっていた。

みんなの前では普通に食べているつもりでも「分かる人には分かる」ということを経験してから益々食べることが嫌になった。

私という人間は「コンプレックス」の塊でできていた。

大きい口で笑うことも…
食べることも…
歯を磨く姿さえ、子供たちには見せなかった。

「お前の母さん入れ歯なの?」などとイジメの原因になるようなことを自分からはしたくなかった。

そんな毎日の中で、子供たちに「お父さんの再婚」をどう伝えよう…。

私の祖母は私の母親の「悪口」など一度も聞いたことがない…
本来なら、あの時代の人たちは「嫁」の文句など朝飯前のようなモノだったろうが、私には一切言わなかった。
それは「父親」も同じだった。
死ぬ間際まで「母親」の悪口など聞いたことがない。

だから私は子供心でも母親に対して「美化」してしまったところはあると思う。

もちろん、今となっては「離婚してくれてよかった」とすら思うが、それを自分にできるか…。

どうせなら散々文句言った方がスッキリ子供も私も納得できるのではないか…

色々考えた。

けれど、そんな簡単に答えなど出るわけもなく…。

子供たちにはなるべく「変化」を見せないように過ごした。

それが私にできる精一杯だと思った。

私自身の気持ちや体調などは本当に2の次以上に後回しになっていた。
薬も効いているのかわからない…。

ただ、朝は絶対起きて子供たちを見送って…
それから何も用事がない時は、ずっと寝ていた。
お日様が眩しくて…電気の音すらうるさくて…。
布団を頭から被って、全てから「拒絶」していた。

その時も、その「行為」がおかしいだなんて思ってもいなかった。

とにかく、「生きたい」とか「死にたい」の選択もなかったように思う。

ただ、地獄のような毎日だった。

そして、1か月は経たないくらいで、保護課から連絡があった。

「保護の申請が通りました」と…。

私は、安心したのと同時に
「あ、人間の権利を失った」
とも思った。

もう私の「意志」で生きるのではないと…。

生活保護受給者を私は差別をしたことはない。
けれど、周りは「偏見と差別」の対象だった。

あ、また子供たちがイジメられないように行動には気を付けないと保護がバレるとイジメられる…。

自分がイジメられていたため、イジメの「原因」になる些細なことにも細心の注意を払っていた。

私はどんな場所に住んでいても、家にいつ子供の友達が来てもいいように片付けていた。草むしりや子供の履く靴も決して高いくつではないが綺麗に洗ったりしていた。

私はそれまで多分、旦那がいたときはそれなりの収入があったと思うが、生活レベルを上げたことはない。

上も下も見て経験したから。

父親がいたときは、「上」と呼ばれる生活だったと思う。それは私の好みの問題ではなく、一般的に…。

母親の生活が「下」だと認識している。

「下」というとすごく酷い言い方かもしれないが、私の表現する「下」は「人間として」という意味でもある。

人間、いつどうなるかわからない生活をしてきたせいか、「贅沢は敵だ」という考え方だったように思う。

自分の手取りが40を超えても「外食」には行かなかったしブランド物も持たなかった。

まぁ…自分には「似合わない」という概念もあったと思うが。

だから「趣味」もなかった。

小さい頃からやっていた「ピアノ」も、電子ピアノになり、弾いていると「似合わない」などととにかく周りには「否定」されてばかりいたせいか、ピアノも弾く気にはなれなかった。

好きなアーティストの音さえ聞けない…。

そんな虚しさを感じながら「保護受給」の連絡をもらってから翌日、再度連絡があり、「書類や家庭状況なども見たいので伺います」と…。

私は特別見られて嫌なものはなかったので、「お願いします」と言った。

担当の人は凄くいい人そうだった。

「子供3人もいて大変だよね…保護のお金だけじゃ足りないよね」などと言ってくれたが実際、いくら受給できるのかもわからなかったが、丁寧に説明してくれた。
そして、精神科に通っていることも当然申請の時に伝えていたが、その事も凄く理解してくれた。

そして、私が一番心配したのは「車」のことである。

そのことを担当の人に話した。
「うん、そのことなんだけど、子供3人もいて、さっき周り見ながらココに来させてもらったけどバス停もないし…息子さん病院、秋田市内なんでしょ?通院に使うだろうし、当然これは車保有の許可下りるように手続きするから心配しなくていいよ」
と言ってくれた。
私は、本当に安堵した。
付け加えて「お宅の場合、身内や親族もいないし…保護課も鬼じゃないからね」と笑いながら言ってくれた。

それから定期的に訪問に来ることなどを話して書類やら、日常生活に問題はないかなどを見て担当の方は帰っていった。

安心したのか、私は担当の方が帰ってから渡された書類すら見ずに寝てしまった。

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