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地獄への道…10

こんな人生、終わってしまいたい。そうずっと思っていた。その度に「自分には子どもがいる」と言い聞かせてきた。私の感情など、どうでもいい。この子たちが「幸せ」であればそれでいい。私の役目はこの子たちを自分のような惨めではなく「幸せな人生」を送らせてあげること。それだけしか「私の価値」は要らないし、価値すらない。息子が「支援学校」に通えるようになるまで、家にいたが、それを心配した支援学校の校長先生から電話が度々きていた。「息子くん、どうしてますか?もしよかったら、転校手続きが終わるまで、少し学校にきませんか?」と言ってくれた。私は、涙が出るほど嬉しかった。私は「ありがとうございます。息子は今外で遊んでいます。息子に話してみて、もし希望があればお伺いさせていただきます!」と答えた。その日の夕方、息子が帰ってきた時、早速聞いてみた。そしたら息子は「え!!いいの!?行きたい!」と飛び跳ねて喜んでいた。私もそれを見てとても嬉しくなった。翌日、早速学校に電話した。校長先生に代わってもらい、息子が行きたいと言っていたことを伝えたら「いつでもお待ちしています!」と言ってくれた。息子は「明日にでも行きたい!」という感じだったし、この電話で行くことを伝えた。「学校の都合が良ければ、明日にでも伺いたいのですが…」というと「もちろんです!明日は学校の方も特別な行事がないので、ぜひ!先生にも話しておきます!」と言ってくれた。そのことを息子に伝えると息子は張り切っていた。まだ、転校できるとは決まっていなかったが、それでも「学校にいく」ということは子ども心に嬉しかったのだろう。お姉ちゃんや妹も誰も責めたりはしな
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地獄への道…8

2時間かかろうが、「息子の診断」をしっかりしてくれるところならどこでも診察してもらいたかった。藁にもすがる思い、とはこのことかと思うくらいだった。私は元々「地図」が苦手なので初診ということもあり電話して場所を聞いた。それでも想像は付かなかったが、「近くまで行ったらまだ電話してもいいですか?」と聞いたら快く受けてくれた。秋田市内すらあまり詳しくないが、そこを越していくとなると本当にわからない…。息子を乗せて長時間の運転に耐えられるだろうか…。その当時、私の車にはテレビがみれるようなものもなく、DVDを見せたいが、そうするとカーナビの地図が見れなくなる…。私は息子が退屈しないように話しかけたりして運転していた。その病院は、大きい病院のように「数か月待ち」という状態ではなかったため初診でもすんなり受付をしてもらえた。もちろん、発達障害の検査は時間を要するだろうが、まずは診察から…。数時間走っていくと、もう少しのところで道に迷ってしまった…。病院に電話するか…。電話してみると、丁寧に教えてくれた。「わかりずらいですよね、安全運転でいらしてください」と言ってもらえた。やっとの思いで着いた、その病院は周りには何もなく、道を挟んだところに喫茶店のようなものがポツンとあるだけ…。周りは木々に囲まれていた。建物は新しい作りになっていた。いよいよ診察である。受付に行くと笑顔で「遠くからお疲れさまでした」と言ってもらえた。待合室という「物々しい」感じはなく、まるで「別荘」を思わせるような造り。待っている人は置いてある本を読んだりしていたが、そんなに多くの人はいなかった。数分待っていると「こんなに早い
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DVは遺伝する?

皆さんこんにちは!ゆき夫婦問題専門アドバイザーです!相談される中で悩みの一つとして『親がDVなら子供もDVになってしまうのではないかと心配しています。』という声です。今回は私の経験からこのことについてのブロブを書きたいと思います。私の父は母に対してお酒を飲むとDVを行っていました。私は子供ながらに母を守らなければいけないと思い母を外に連れ出すことも度々ありました。父も歳をとるにつれてお酒を控えるようになり、母へのDVも少なくなってきましたが、何十年とその光景を見てきて私はもとより兄弟もパートナーに対してDVをしたことは一切ありません。反面教師なのかもしれませんが、私がふと思った事は、母は私たち子供に対して父の悪口を一切言った事はありませんでした。むしろ父親として立てる事を子供たちに見せたいました。私の夫もDVでした。なので私も当然ながら子供が父親と同じようになるのではないかと心配したいました。ですが子供もパートナーに対して一切DVをしたことはありません。思えば、私も子供たちに対して父親の悪口を言ったことがありませんでした。私に対しては悪い夫でも子供たちに対しては、たった一人の父親だからです。これはあくまでも私の持論ですが夫としてはDVをしてしまう男性でも、母親が夫(父親)の悪口を子供の前では言ってはいけないのではないでしょうか。子供は、自分の周りで起こることを「自分のせいだ」と思ってしまいやすい傾向があります。そのため、両親の不仲についても自分を責めてしまいがちです。そういった感情を子供に持たせないためにも、父親としたの良い面を子供に見せていくのも良い事なのではないでしょうか。
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わたしだけじゃない!と思えた試練

妊活8年!タイミング・人工授精・体外受精をするも、不育症!で流産6回妊娠2か月でパニック障害を発症こんな私の経験から妊活時の気づき体質改善・食の大切さ日頃の出来事などを書いています◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇私は8年間の不妊症との戦いを乗り越え、そして今ぶっ飛んだ娘を片目をつぶりながら育てています。今は冷静に物事を見れるようになってるけど、妊活当時は周りも見えず、自分だけがつらいつらいって感じになってたんです。孤独感や絶望感に苦しむこともあり「なんで自分だけ・・・」そういう気持ちに何度もなってました。でも、友達やいろんな人と知り合い、いろんな話をする中で私だけが試練に立ち向かっていたわけではないことを知りました。だから、乗り越える壁の種類は違うけどひとそれぞれが抱える課題や試練があるんだなと思えてつらい思いをしているのはわたしだけじゃなくみんな同じなんだと思えたんです。そうみんな幸せそうに見えるだけで、いろんな悩みを持っていたんです。1度目の結婚→離婚離婚時に子どもを手放さざるをえなくなった。2度目の結婚→離婚夫の借金を払いながら、今度は子どもは手放さないと決めシングルマザーで育てている友達。2回も結婚式に参列させてもらったんだけど、このような結果幼少期に父親に虐待をうけ、両親離婚。母親が彼氏をつくり、施設に預けられていたが、中学の時に飛び出し、水商売で生計をたてた友人。親毒を受けた友達は、家庭内での心の傷を抱えていて、長い間苦しんできたんですが、50代になり精神的な成長を遂げ、現在自分自身を取り戻す過程にいます。そんな話を聞いていると彼女たちの強さに感銘を受けました。子ど
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地獄への道…2

私は子供たちに「仕事を辞めた」ことを隠していた。いつものようにスーツを着て、保育園にいつも通り送った。けれど、その後から行くところがない…。そのまま家に帰る…。私は気分転換に友達を呼んだ。今まではあまり関わりのない友達?知人といったほうが当てはまるのか…。その知人Yちゃんに連絡してみたところ、快く遊びに来てくれた。何も聞かず、ただ他愛のない話をしたりして過ごした。多分スーツを着ているから仕事の合間に会っているのだろうと思っていたと思う、Yちゃんは3勤3休の仕事をしていたため、ただタイミングがよく会えたのだ。それから何回か会う機会があった。私は、他の仕事をしないと!!と思いつつも…買い物にスーパーに出ても「あれ?今日お仕事お休み?」と保険屋で出会ったお客さんに話しかけられる。私は「あ~…はい…」と言葉を濁す。「辞めた」とは言いたくなかった。辞めたくて辞めたんじゃない!!そう叫びたかった。その瞬間!!今まで味わったことのない「動悸」がしたのだ。もう立っていることすらできず、しゃがみこんでしまった。なんだ?!これ!!誰かが話掛けてくれたと思うが、声があまり聞こえてこなかった。しゃがんで少し経ったら落ち着いた。立ち眩みだったんだろう…。そう思った。さすがにビックリした。血圧もそんなに高いわけではない、むしろ「低いほう」だったから「たちくらみ」だと思った。買い物を済ませ帰宅したとき、また激しい動悸…。なんだろう…。そういえば、仕事を辞めてから、ご飯…食べていない…。何日経っただろう…。そう、私は家ではあまりご飯を食べていなかった。そもそも。朝は子供たちの準備や家事で食べずに出社していた、
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地獄への道…1

アパートに引っ越してから3か月くらいだろうか、仕事も順調だった。次々と業績も上がり、自分でいうのもなんだか、私が入社したときは営業員が私を含め4人しかいなかった営業部も25人にもなっていた。ほぼ私の「部下」と言われる人たちである。全国入賞も何度もした。実際、成績を挙げているという感覚がなかったので、特別偉ぶったりることはなかったように思う。よく「保険屋」というと名義貸しであったり、架空契約などがまだあった時代ではあった。けれど私の場合は契約をするのはお客さんの「職場」か自分の会社に来てもらう、というスタイルが9割を占めていた。会社に来てもらうことで上司とも面談できる。全ては「不正な契約ではない」という証明にもなるのだ。「押し付けない営業」が功を奏したのか営業員も増えていった、というのが今となっては成績に繋がったのだと思う。そして、そうしている間に一度だけ、旦那がアパートにきた。それは何でもない日だったが、アパートまでの場所を教え、子供たちに「お父さんがくるって」というと、喜ぶのかな、と思ったが予想とは反して「ふ~ん…」だった。あれ?私旦那の悪口とか言ったかな…態度に出たかな…なんだろう…と少し心配になったが、来ることが決まっていたので来た時の態度やその後の気持ちを子供たちに聞いてみようと思った。旦那はアパートの玄関…といってもすぐキッチンなので丸見えなのだが「こんなところに住んでるのか…狭くないか?」と言ってきたが「大きければいいということではないから十分です」といった。そして、子供たちが部屋から出てきた。リビングとは呼べないようなところで少し会話をしたりしていたが、どこかぎこ
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新しい人生の終焉…2

Rさんが、夜にも関わらず、とんできてくれた。もしかしたら、「人の不幸」を興味本位で来たのかもしれない。それでもよかった。そんなことを考えられる余裕などはなかった。Rさんは「二人で話なさい」と子供たちの面倒を見てくれていた。私はRさんが来てくれたので安堵したのか冷静になった…。けれど私の怒りが修まったわけではない。旦那と二人で向き合って話をした。どこで知り合ったのか、いつからなのかなど色々…。知り合ったのは当時流行っていたゲームアプリ。半年くらい前からだそうだ。それって…ディズニーに行くかという話があったあたり…。その間には旦那は「家族ゴッコ」をしていたのか…。私たちと…。もう頭がパニックというか真っ白になった。頭が真っ白というのは、こういうことを言うんだなと、どこか他人をみるように冷静だった。子供たちにもずっと「お父さん頑張って仕事をしているから学校にいけるんだよ」とずっと言い聞かせていた。子供たちの前で一切「自分の稼ぎで」と言ったことはない…。私も前の旦那で少しでも学んだつもりだった。今の旦那に尽くしてきたつもりだった…。仕事中の急なお弁当、給料が少ないと私が借金していたこともある。舅姑、お墓まで全部させてもらったと自負している。旦那の顔は立ててきたつもり…。「うつ病」のことだって何にも言ってくれなかったから病院にもほとんど行ってない。私が何をして「他の女性と一緒になりたい」と思ったのか、そして何を思って家に帰ってきていたのか…。私と子供たちだけが「我慢」していたのか…。どんなにお金がなくても…どんなに子供たちはお父さんに会いたくても…。怒りも沸いたが、虚しくもなった。けれど
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新しい人生の始まり…44

思ったより「ディズニーランド」までは遠かった(笑)なんでも県外に行くのは修学旅行などでしか行ったことがない。高校にもなれば、色々あったかもしれないけど、高校にも行けてなかったから、そんな体験をする機会もなかった。車だったから子供のトイレや空腹などに対応が臨機応変にできた。本当にこれだけはよかった。旦那も休み休み運転をしていた。子供たちもいい加減飽きてきたりもしてきたが、ほぼ寝ていたり、車に付いていたテレビなDVDなどをみて過ごした。本なども持ってきたが「車酔い」が起こってしまい中断した。そもそもこんなに長い時間、車に乗っていることがない。そんなこんなで、やっと近くまで来たのは「朝方」5時くらいだったと思う。近くになっても子供たちは起きてこなかったし、開場までまだ時間があったから駐車場で私たちも仮眠をとった。2時間も寝ただろうか。少しまぶしくなった光で起きた。周りに目をやると、もうすでに少しづつ車は増えていた。朝方に来た時は「東京ドームシティ」などディズニーランドのホテルなどが立ち並んでいたのがあまり見えなかったが、明るくなるとすごく立派なホテルが見えた。あぁ…私のボーナスがもっと多かったらな…と少し落ち込んだ…。チケットを取って、ガソリン代と、食事代などだけで精一杯だった。色々ディズニーに関して色んな人に聞いたら「お土産だけでうん万いくよ」などと言われていたから、少し構えていた(笑)子供たちに楽しんでもらいたい!私が楽しむというのも一理あったが、2歳くらいの子供をベビーカーに乗せて2人の子供を連れて、尚且つ「自分も楽しむ」などいう器用なことはできなかった、というか「初めて」の体
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#40 Respect

過去記事でも綴りましたが、恋愛をする上で、私がとても大切に感じるのは、相手をリスペクトする気持ちですそこに年齢や立場や社会的地位は関係なく、本当にただ「人として」、尊敬出来る部分があるかどうかそれを教えてくれたというか、そのことを私に気付かせてくれた、彼がいました(それは後になって、私の中で深い意味を持つことになります)私の方が少し歳が上で、当時彼がまだ20代、私は30とちょっとだったかな‥?彼は‥とてもハイスペックなヒトで音楽をやっていて、楽器はなんでも弾けて、歌も上手くて、海外留学の経験があり、当然英語も堪能で、野球もバスケもサッカーも好きで‥とにかく色んなことに精通していました そして物凄いオマケとして、 全盛期の頃の河村隆一に似ていましたww 平たく言うとイケメンです(-"-)そんな彼は、性格もクールで、喧嘩らしい喧嘩をした記憶がありませんなんとなく、どこか遠慮があったような、聞きたいことをなんでも聞けないような、ちょっといつも不安なような‥「切ない」という感情を目一杯味わうようなwそんなお付き合いをしていました例えば、一緒にいる間は楽しくて、ご飯もお酒も美味しくて、デートはいつも充実しているんだけど、いざ「じゃあまたね」って別れると、途端に心配になる感じw多分、愛されてる自信が、その彼に対しては持ててなかったんだと思いますモテそうだし、誘惑も沢山あるだろうし‥って、なんか気後れがありました好きとか愛してるとか、そういうわかりやすい愛情表現はなかった人でしたし、何より「対等ではないかも」な感じが、常にあったんですよねなんとなくどこか下に見られてるというか、私ごときには満
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新しい人生の幕開け…30

いよいよ「出産」も間近になってきた。退院してからの準備もできた!いつでも「入院できる」準備は整った!あとは待つだけ…。予定日はまだだったが、少し落ち着きたかった。が、なんだか腰?お腹が張っている…少し休もう…。そう思って私は座った。少し休んでいるとちょっと治まった。良かった…そんな時間を過ごしていると、Rさんが突然やってきた。珍しい、突然くるなんて。家にあがってもらい、少し話をしていた。「もう産まれてもいい時期だよね~」なんて話ていた。そうするとまたお腹が張ってきた!「痛い…」というと、Rさんは「それって陣痛じゃないの?」と言った。予定日よりはちょっと早い…しかもその日に限ってお腹の痛みが頻繁にきていた。病院に電話したら?というので電話してみたら「いつ産まれてもいい時期だから心配だったら病院にきてください」とのことだった。私はすぐ旦那に電話をした。「ちょっと早いけどいよいよかもしれない、もしかしてこのまま入院なったら子供たちのことお願いします」と…旦那は「わかった!俺もこれから会社に電話したり親父に電話したりするから気を付けていってこいよ」というので「車はRさんにお願いする、たまた居てくれたから」というと「わかった」とだけ言って電話が切れた。Rさんにお願いの一言もないのか…。ちょっとがっかりしたが、今はそれどころではなかった。定期的に痛みがくるようになった。時間を測ると「10分置き」…。上の子供たちも案外安産だったのもあって少し早いかもしれない、Rさんに伝えると「病院に行こう」と言ってくれた。まだ子供たちが帰ってくる時間ではなかったが、後のことは旦那に任せよう…そう思った。そん
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新しい人生の幕開け…29

療育センターに着いた。色々日頃の生活などを聞かれたりして、その日は終わった。次の診察の日に「診断テスト」というものをするらしい。息子は終始、何事もなく居たためあまり先生からハッキリとわかるようなことはなかったからかもしれないが「男の子は女の子より発育が遅いですからね」などと言われてしまった…。お子さんをお持ちの方なら一度は経験があると思うが、家では熱を出してグッタリしていたのに「病院に着くと元気になる」、あの現象ですね。片道1時間もかけて診察にきたのに診察はたった5分くらいだった。子供には丁寧かと思っていたが…。やっと家に帰ってきたころにはもう夕飯の時間だった。その頃旦那はまた「無職」になっていたが、さすがにこの数か月でいろんな体験をしたのだと思う。高校卒業してから、少し地元の会社にいたようだが、「大型免許」を取ってからずっと「長距離運転手」だったらしいので、今まで見下していた仕事にも何も言わなくなった。だからといって「家事」などができる人ではないため、ひたすらハローワーク通いをしていた。そんなある日、「やっぱり俺、長距離に戻るわ、悪いけど」と言った。まぁ…いろんな経験もしたし、これから子供が産まれるしな…。私も仕事できないし…。と思って「うん、わかったよ」と言った。そして私が続けて「この子が産まれるときには立ち会えるように会社に話してちょうだいね、それだけ」と言った。私は、もう旦那もいるのにお産の時「一人でいる」というのがとても怖いというか寂しかった…だからそれだけはしてほしかった。旦那は「それはする!出産が近くなったら地元周りさせてもらうようにする」と言ってくれた。本当にそ
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新しい人生の幕開け…20

来年、上の娘が小学校に入学する。そんな時、私の急な体調不良…それでも仕事に行っていた。なんだろう…。熱もないしな…。私は幼少期から熱を出すということがあまりなかった。祖母がいうには「うち熱」といって、体温計には出にくい熱を出すそうだ。それでふと、思い出した。「あ、私、そういえば何年か前に『うつ病』って言われたんだ…、そのせいかもしれない」と、私は近くの精神科を受診した。診断された病院はもう遠い。しかもその時は「私がなるわけない」と思ったり、当時彼だった旦那もそんなに気にも留めていなかったから忘れていた。現に、「うつ病」と言われる症状はでていなかったと思う。母親のことや元旦那のこと、色んなことでたまに思い出して動悸がすることはあったけど、それが「うつ病」の症状だとは思いもしなかった。病院に行ったが、精神科は物々しい雰囲気で、病院内は薄暗く居心地がいいとはとても言えなかった。先生に前にうつ病と診断されたことなどを伝えたが、先生は私の顔をみるなり「今までの育成環境」を聞いてきた。はっきりいって、「げっ!」と思ったが、そのまま簡単に伝えた。黙って先生は聞いていた。そして「よく生きてこれましたね」と…。私は「はい?」とキョトンとしてしまった。どういうことだろう…。診察が終わり、薬を出されたが「眠くなるかもしれない」と言われ眠くなられたら…仕事はおろか、子供のことができない。そう思い、薬はその時は飲まなかったと記憶している。けれど、目まいと吐き気が辛くなり、休みの前の日だけ飲んでみた。気持ち悪さや目まいは治まったように感じたが、眠気がすごかった…。車なんて運転できない、と思うほどだった。怖
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新しい人生の幕開け…14

突然の出張の話。なんで出張になったかと聞くと、「なんか成績上げれない人に限定して講習会?みたいなやつやるんだって」と…。アポの一件もまだとれていないのか…。そこは口には出さず、「どこに出張なの?」と聞くと「宮城の仙台」と言った。期間は2週間くらいだと言っていた。週明けから行くらしい旦那は「初」の出張という経験をする。聞くと、講義室に缶詰め状態らしい。旦那は不安になっていた。「俺缶詰め状態苦手なんだよな…」と…。そして見送った朝。子供たちは寂しがっていたが、旦那からは何も連絡はなかった。多分相当疲れているだろうな、と推測していた。こちらから電話をすることもしなかった。そういう会社はほぼスケジュール管理されていることを知っているからだ。泊まるところはビジネスホテルだと聞いた。そうして次の日、電話がきた。「俺、こんなんだとは思わなかった。缶詰状態に耐えられない…」と弱音を吐いていたが、「そうだね、けどもう少しだから…」と励まして電話を切った。それから数日後の夜、その日は珍しくI子さんが家に泊まりに来ていた。それは旦那にも報告していた。久しぶりに会ったのと子供たちのことを心配してくれていたのとで話が弾んだ。子供たちも大喜びだった。が、寝る時間になり、息子が熱をだした。多分はしゃぎ過ぎかと思われたが、I子さんを残して病院にも行けず、咳もなかったため様子を見ようということになった。が…電話が鳴った。夜の9時過ぎだ。なんだと思い携帯を見ると「旦那」の表示。電話をとると「俺、もう無理だ…お金もないし、車もないから帰れない、どうしよう、けどもうあの会社には居たくない!辞めてきた!もうやだ!」と本
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新しい人生の幕開け…12

仕事を辞めようと思う…。それは突然のことだった。「え?なんで?」と聞くと、『どうやら給料が足りない(長距離の運転手の相場がわからないが以前よりは下がっていた)し、こんなに寝ないで走って帰ることもできないし、なにより社長にイライラしてきた。』ということらしい…。確かに最近の電話は愚痴が多くなってきてはいた。それは感じていたが…。「自分には運転手しか向いていない」とも言っていた。たまに従業員同士のいざこざは聞いていたが、聞いていれば特に旦那は「板挟み」状態のことも多かった。私は反対も賛成もできず「次はどこの会社とかもう決めているの?」と聞いてみた。どの業界もそうかもしれないが、「情報網」みたいなものは回っているらしく今までも色んなトラック会社の名前を聞いていた。すると旦那は「いや、毎日家に帰れる仕事がしたい」という。私はビックリしたが、嬉しかった。それが現実になるかどうかは別として…。旦那はそれから相当悩んだと思う。今仕事を辞めたら…家を買うということも遠くなる。けれど、それは言えなかった。私の仕事は順調だったが、旦那の借金を返済したため「貯金」はほぼない状態だった。もう半年くらいで娘が小学校に入学する時期に、タイミングが悪い…。もう旦那の両親に期待はできないし、そもそも期待してはいなかったから世間的にいう「ランドセルはおじいちゃん、おばあちゃんから買ってもらう」ということはできなかった。子連れの再婚がこんなにも辛いものだなんて…。私の親とは絶対つながりを持ちたくないから何も言えないけど。子供たちに「おじいちゃん、おばあちゃん」という存在を持たせてあげたかったのは自分のエゴかもしれ
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新しい人生の幕開け…10

新婚、のような初々しさはなく、ただ淡々と時間だけが過ぎていった。旦那の借金を全額返済し、数年したら家を買う。その一心だった。そして、旦那が帰ってきた時にお世話になっている不動産屋さんに一緒に向かった。そして、不動産の人は何も知らないのでしかたなかったが、旦那は乗り気で引っ越しの話や家賃の話、色々していた。もう話は完全にあの戸建てに引っ越す話になっていた。そこで引っ越しの日どりなどの話が進んでいた。私はわざと「え、引っ越しって私一人でやるの?」というと、旦那は「実家からも手伝いに来てもらうし俺もいるようにする」と言われたので、反対する理由もなかった。引っ越し当日。引っ越しといっても、そもそもあまり「物」がなかったせいもあって案外スムーズに行ったが、来ると言っていた「旦那の両親」が来ていなかった。遠いせいもあるだろうと思ってあまり気にしてはいなかったが、引っ越し先も伝えなければならないのでは?とも思った。なんでこの人(旦那)はこんなにのんびりしているんだろう…。引っ越しは旦那と不動産の人が手伝ってくれた。トラックも出してくれた。そのおかげで1往復と少しで荷物の搬入は終わった。天気も良くて引っ越し日和だった。その物件にあった物などは使わないものは不動産で持って行っていく、というので差し当たり見た感じで使えなさそうなものは持って行ってもらった。さて、やりますか!子供たちが帰ってくるまでにでかさないと大変だ!と、ふと気づくとまだ旦那の両親はこない。旦那に聞いてみた。「あれ、お義父さんたちは?」と、それで気づいたのか、それともわざとなのかわからないが、「あれ?そういえばこないな、電話してみ
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母ひとり子ひとり②

母ひとり子ひとり1話目はこちらキイチ何か月かに一度、キイチという男が家にやってきた。キイチは自分の車にトシコと私を乗せて、街はずれにある中華料理屋に連れて行くのが定番だった。中華料理屋に向かう車中で、いつも不思議に思うことがあった。トシコがたばこをくわえ火をつけると、そのたばこをキイチにくわえさせる。大人になったら、そういうものなのか?幼い私は、その行為の意味を聞くことができないまま、ぼんやりとながめていた。中華料理屋につくと、キイチは「好きなもの頼んでいいぞ」と私に言う。私にとって、唯一お金の心配をせずに、好きな物を注文できる時間だった。なぜ、このおじさんはトシコと私に、ご飯をごちそうしてくれるのだろう?不思議だったが、あまり深くは考えなかった。それを考える事、たずねる事はトシコを困らせることになる。なんとなく、そんな予感がして、それ以上考えないようにしていた。お腹いっぱいに、食べたい物を食べられるのは嬉しかったが、キイチの事はあまり好きではなかった。トシコにとっては親しい人間なんだろうが、私にとっては赤の他人だった。キイチが好きになれなかった、一番大きな理由が酒癖の悪さだった。キイチは車で出かけたにもかかわらず、中華料理屋では毎回酒を注文する。まずレバニラ炒めとビール。そこから1、2時間グダグダと酒を飲む。酔うにつれて、キイチは声がでかくなり、しつこくなり、私の嫌がることを、よくやった。運転中にハンドルから手を放し「ぶつかる!ぶつかる!」と、私を怖がらせて、泣き叫ぶ私を見て、ゲラゲラ笑いながら喜んでいたのは最悪だった。そんなキイチの職業がタクシードライバーだったことは、今で
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結婚生活26

とにかく「逃げたい!もうこの生活は嫌だ!」何かが弾けたような気がした。車に娘を乗せ、急いで家を飛び出た…そうして自分の地元まで走っていたら物凄いスピードで追いかけてくる車が…旦那だ…まるでカーチェイスのようになっていた。こういう時にお巡りさんというものはいない。街中まできてしまったため、信号も多い…どうにかすり抜けたり小道に入ったり…行先など考えていなかったただ、あの家から、旦那から離れたかった…。けれど、所詮軽自動車、乗用車には勝てなかった…追い詰められてしまった…旦那が車から出てきて大声で怒鳴り声をあげる車をたたきつける娘は泣く…地獄絵図だった。その怒鳴り声を聞いて何事かと思った近所の見知らぬおじさんが私たちに近づいてきたそして、旦那となにか話している私たちは車で震えていた。数分…いや何分たったか今でも記憶にないがとても長い時間のように感じたこのまま警察にでも捕まって欲しいとも思った。オジサンが私たちのそばに来たそして、そっと私たちに気遣うように「旦那さんには怒っておいたから、今日は帰りなさい」と言われた。私は誰かもわからない人にこれ以上迷惑をかけるのは申し訳ないと思い「はい」とだけ言った。それからどう帰ったか覚えていない…途中で何度も「今逃げたら逃げ切れるか」としか考えていなかった。そして、家に着いた…家に入るとお義母さんが「生意気なことしやがって」とだけ捨て台詞のようにいってどこかにいってしまった…気が付いたら息子を迎えに行く時間になっていたいつもなら、私が行くのにその日は旦那が行った。また逃げられないように、だと思う。もうその辺りから夫婦としての修復は不可能だったんだ
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望みの波動を放った後は。

前回で「彼辞め」終了させていただきましたが書いていない話のほうが多いくらい笑細かいことは主に活動しているインスタでのライブなどでどんどん配信していこうと思います。重たーい波動を放っていた当時の私ですが今でも生きている限り多少の重たい波動は持ち合わせていないと人間らしく生きられないな。と感じています。私たちスピリチュアルを仕事とする人はよく「軽い波動のほうがいい」とか「でも地に足をつけて」とか「手放すことで望みが叶う」とか伝えたりします。でもこれらを言われてピンときますか?軽いほうがいいといわれたから自分の嫌なことすべて辞めたら仕事がなくなって収入に困っている。地に足をつけるってそもそも何?手放すって、これ以上何を捨てたらいいの?そんなこと思ったことある方はいませんか?どんなに有名なスピリチュアルカウンセラーでもこの地球にいる限り「地球人」として生きることが一番の使命なんです。直感に従ったり心の動くほうに流れるのは地球人としても波動の軽い行動としても手放しの法則にしても一番頼れる方法です。自分を信じることからしか始められない。気づくのが遅かった。があなたにとっての最速の気づき。私だってイケメンで大好きな彼氏だったけれどDVでメンヘラで男気もなかった。気づいてたけど気づけなかった。知ってたけど解らなかった。そんな感じですよね。気づいて自分を信じていればもっと自分のことを大切にできたし相手のこともおざなりにするわけでなく一緒に歩んでいけたのではないかなと思います。私が彼をどうにかしなくっちゃ!自分のこともどうにもできていないのに?まず人のこと?じゃあ私のことは誰がどうしてくれるの?こ
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