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地獄への道…10

こんな人生、終わってしまいたい。そうずっと思っていた。その度に「自分には子どもがいる」と言い聞かせてきた。私の感情など、どうでもいい。この子たちが「幸せ」であればそれでいい。私の役目はこの子たちを自分のような惨めではなく「幸せな人生」を送らせてあげること。それだけしか「私の価値」は要らないし、価値すらない。息子が「支援学校」に通えるようになるまで、家にいたが、それを心配した支援学校の校長先生から電話が度々きていた。「息子くん、どうしてますか?もしよかったら、転校手続きが終わるまで、少し学校にきませんか?」と言ってくれた。私は、涙が出るほど嬉しかった。私は「ありがとうございます。息子は今外で遊んでいます。息子に話してみて、もし希望があればお伺いさせていただきます!」と答えた。その日の夕方、息子が帰ってきた時、早速聞いてみた。そしたら息子は「え!!いいの!?行きたい!」と飛び跳ねて喜んでいた。私もそれを見てとても嬉しくなった。翌日、早速学校に電話した。校長先生に代わってもらい、息子が行きたいと言っていたことを伝えたら「いつでもお待ちしています!」と言ってくれた。息子は「明日にでも行きたい!」という感じだったし、この電話で行くことを伝えた。「学校の都合が良ければ、明日にでも伺いたいのですが…」というと「もちろんです!明日は学校の方も特別な行事がないので、ぜひ!先生にも話しておきます!」と言ってくれた。そのことを息子に伝えると息子は張り切っていた。まだ、転校できるとは決まっていなかったが、それでも「学校にいく」ということは子ども心に嬉しかったのだろう。お姉ちゃんや妹も誰も責めたりはしな
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地獄への道…9

保育園から受けてきた「発達検査」。息子は小学5年生になっていた。それでもまだ自分の「名前」さえ漢字では書けなかった。決して複雑な書体ではない。名前だけでも画数は20。マンガを買ってみたが、見ているのはマンガの「絵」だけ。内容は理解できていない。マンガもその当時流行っていたアニメで、わかりやすいかと思い購入した。それでもペラペラとめくって終わった。「面白くないの?」と聞いてみたが「よくわかんない!」で終わってしまった。一緒に読もうか、と誘っては見たものの断られてしまった。だが、息子の「コミュニケーション能力」は、他の姉妹より長けていた。どこでも「友達」になれる。それは凄いことだと思った。そこを伸ばしてやりたい。いい意味でも悪い意味でも「KY」なのだ。いつだったか、学校の先生に言われたことがある。「息子君ね、すごいよ」と笑いながらだったが話してくれた。先生が廊下を走っていた生徒を廊下で叱っていたそうだ。数人いたそうだが、先生自身も叱ったのはいいが後に引けなかったという。そして次の授業の時間まで怒りを持ちこしてしまい、生徒も先生もどうにも引けなった状態だったという。そんなところに、息子が「♪~♪~」と鼻歌を歌いながら廊下の影の階段から降りてきたそうだ。息子の鼻歌を聞いた先生と生徒は、あまりの可笑しさにお互いに笑ってしまい、その場は納まったというエピソードがあった、という。階段を下りてきた息子は、そんなことはつゆ知らず、シレッとその場を去って行ってしまったと。「お母さん、本来はね、先生が怒っている声なんかを聞くと他の生徒は静かにして当たり障りないようにしていくんですよ、けれど息子君は違
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地獄への道…4

私は出された薬をただ眺めていた。確か…「セルシン、パキシル」という薬だったと思う。その薬にどんな効果があるかなんて、わからず飲んだ。この薬で本当に「うつ病が治るんだろうか…」どれくらいで治るんだろう、そもそも「うつ病」は…家にいると色々なことが頭をよぎる…会社で私は何か先輩たちに「嫌なこと」をしたんだろうか、詐欺師とまで言われなければいけない何かをしたんだろうか…外に買い物に行くと知っているかのように「今日休み?」と聞いてくるのはワザとなのか…私はもう働ける場所なんかないのかもしれない…私は…そうだ…元々「誰からも必要とされていなかった」…もう涙すら出てはくれなかった。「明日…市役所に行こう…」けれど一つ心配なことがあった。それは母親のこと。保護を申請すると「親族に連絡が行く」というのを聞いたことがある。もし…私が保護を受給すると母親は目の色を変えて金銭を取りに来るだろう…アイツはやりかねない。それだったらいっそ、子供たちと死んでしまおうか…保護を申請するのにも凄く悩んだ。もし家がバレたら…またあの地獄のような日々が続く…せっかく女性相談所まで行って逃げたのに…それだけは避けなければ…。なぜ、それほどまでに「母親」の行動に恐怖を感じるのか…それは、やっぱり地元にいると嫌でも母親の話は聞こえてきていた。いかにも「子供を心配しない親はいない」とか「辛い思いをさせてしまった」などとお涙頂戴話をしているようだった。私はそこから母親のことを思い出すだけで「動悸」がするようになった。怒りと恨みと憎しみと…情けなさ…。私は何時間も子供たちが帰ってくる時間までずっとボーっとそんな事を考えていた
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子どもが勉強しない... 中卒の親を持つ僕が大学で成績優秀者に選ばれるまで

はじめにみんさんこんにちは!現在、関西の大学に通っている大学2回生です!「子どもが全く勉強しない。」「何度も勉強しなさいと言っても、言うことを聞いてくれない。」「友達の息子は勉強熱心だけど、どうやって勉強する子に育つのだろう?」このような悩みは子育てをしていく上で避けては通れない道ではないでしょうか?そんな悩みをお持ちの方に、中学生の頃に成績で最低評価をもらい、中卒の親を持つ僕が大学で成績優秀者に選ばれるまでの道のりについてお話したいと思います。幼少期~小学生時代ごく普通の少年だった最低限の勉強をしていたものの、ゲームにドハマりし、数えきれない程のソフトをプレイしてきました。塾に入ることもなく、毎日ゲーム漬けの生活を送っていた自分は成績も徐々に落ち始めていたにも関わらず、全く焦ることはありませんでした。そして、小学校5年生の頃にサッカーを始めました。そして地元の公立の中学校に進学します。中学校時代サッカーのクラブチームに入団し、週6で練習や試合を行う日々を過ごします。そこで人間関係が上手くいかず、うつ状態に陥ってしまいました。現実逃避のために毎日ゲームをするようになり、勉強を疎かにしてしまいます。その結果、定期テストで10点台を叩き出すなど、ほとんどの科目の評定が軒並み成績が急落し、国語の評定が1まで下がる事態に。ほとんどの科目の基礎も全く理解していない状態になってしまいます。中学2年生の1月、当時の先生にこのままだと高校に進学できないと言われ、勉強に専念することを決意。高校受験まで約1年という期間を逆算し、試行錯誤を繰り返しながら自身の勉強法を確立します。そして、定期テストで
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「京アニ放火殺人事件」裁判開始!

もうあれから4年かな?放火なんていう言葉にほど遠い場所、「アニメーション・スタジオ」じゃ。「夢の創造工房」、どれだけの人がアニメという’天使’に救われたか・・。ボクだって、アニメはコドモの頃から大好きじゃ。^^「オバケのQ太郎」や「鉄腕アトム」、「魔法使いサリー」、「リボンの騎士」・・・もう、いっぱいあって書き出せないぜよ・・・アニメは必須じゃね。ボクにとって「歌」、「アニメ」、「ダンス」は無くてはならないもの。その「アニメ」の城を潰された!;;ワケもわからずいきなり「焼かれ」、「一酸化炭素中毒で息もできずに逝った」夢実現のアーチストたち。あのときは、「世界中が泣いた」と記憶している。(;;そう、もう「日本」だけのモノではない「ジャパン・アニメ」じゃね。アニメの世界で何かあれば、もう速攻で世界に知れ渡るのじゃ!前から日本のアニメは、「世界で愛されていた」存在だった。しかし、「コロナのパンデミック」もあり、「世界が日本のアニメを欲求し、愛した」んだ。日本は世界から「ジャポニズム」という言葉で昔から表現され「蒔絵」、「古伊万里」、「浮世絵版画」という3大美術が有名だよね。^^特に「浮世絵」なんてくしくも、「京都」の庶民生活が起源といわれている。もう大昔から「京都」ってアニメの聖地だったんだね。「浮世」って「今現在」という意味だし。まさに「現代京都事情?」という江戸時代の「アニメ」かな?!ところで、その「聖地」を汚し抹殺した犯人「青葉真司」。なにやら「ウラミ」があったらしい。以前に自分の書いた「原稿?」を「京アニ」に送り、その内容をパクられたとのことじゃ。やれやれ・・。ま、その前に「
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新しい人生の終焉…3

それから半年の時間が過ぎた…。私もなるべく「自然」に振る舞うようにした…。夜の性生活は、その中でも「地獄」だった…純真と、そんな綺麗なことを言う気はないが…結婚する前の女性のことをどうの言うつもりは到底ないが、夫婦でいて…その間も私との行為もありながら、影でも誰かと行為をしている…。どうしてもそういう想像が私を苦しめた。もう別れたとはいいつつも…不信感しかない…。かといって、性生活を断って、それを理由にまた浮気されるのか、という恐怖が私を襲った。旦那はそんなことは「なかった」かのようにしてくる…。私は、あのおぞましい過去を思い出した…そう、母親に「売られた時」のこと…。感情を殺した、あの時のこと…。同じ感じがした。それからというもの、私は「性生活」を拒むようになってしまった…。私の中では、もう「離婚」という文字が頭にあったのかもしれない。別れたとて、給料が戻ったわけではなかった…それも「不信」の原因だった。本当に「別れたのか…」もう何もかも信じれなくなった…。けれど、その反面、私の仕事は順調だった。成績も伸びて、グングン昇格もしていった…。私を認めてくれる場所は「会社」になっていた。息子の診断はまだ、明らかにはならなかったが、自分には「やるべき事」がたくさんあった。その中で、たくさんたくさん考えた。自分の気持ちと向き合った。何度も書いているけど、子供たちを引き取れたのは今の旦那のおかげで、その感謝ももちろん忘れてはいない。それは到底、私一人のチカラでは成しえなかったこと…だけど、それとこれとは「別問題」であって、だからといって「やっていいことと悪いこと」の区別くらいしてほしかっ
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新しい人生の終焉…2

Rさんが、夜にも関わらず、とんできてくれた。もしかしたら、「人の不幸」を興味本位で来たのかもしれない。それでもよかった。そんなことを考えられる余裕などはなかった。Rさんは「二人で話なさい」と子供たちの面倒を見てくれていた。私はRさんが来てくれたので安堵したのか冷静になった…。けれど私の怒りが修まったわけではない。旦那と二人で向き合って話をした。どこで知り合ったのか、いつからなのかなど色々…。知り合ったのは当時流行っていたゲームアプリ。半年くらい前からだそうだ。それって…ディズニーに行くかという話があったあたり…。その間には旦那は「家族ゴッコ」をしていたのか…。私たちと…。もう頭がパニックというか真っ白になった。頭が真っ白というのは、こういうことを言うんだなと、どこか他人をみるように冷静だった。子供たちにもずっと「お父さん頑張って仕事をしているから学校にいけるんだよ」とずっと言い聞かせていた。子供たちの前で一切「自分の稼ぎで」と言ったことはない…。私も前の旦那で少しでも学んだつもりだった。今の旦那に尽くしてきたつもりだった…。仕事中の急なお弁当、給料が少ないと私が借金していたこともある。舅姑、お墓まで全部させてもらったと自負している。旦那の顔は立ててきたつもり…。「うつ病」のことだって何にも言ってくれなかったから病院にもほとんど行ってない。私が何をして「他の女性と一緒になりたい」と思ったのか、そして何を思って家に帰ってきていたのか…。私と子供たちだけが「我慢」していたのか…。どんなにお金がなくても…どんなに子供たちはお父さんに会いたくても…。怒りも沸いたが、虚しくもなった。けれど
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新しい人生の幕開け…46

ディズニーランドを地図を見ながら色々回ってみたけれど、一生懸命回ったつもりが、ほんの一部なことに驚いた(笑)そして、いよいよお土産を買うことにして、お土産屋さんが立ち並ぶところに向かった。もう、どれがどれなのかわからず(笑)。色々見たいけれど、それどころじゃない人混み!!お土産、なんてものはそもそも「旅行」をしたことがないのだから、なにを買ったらいいかもわからなかった。お土産っていったいどんなのがいいんだろう…。まずそこからだった。ミッキーのかわいい缶に入ったクッキー…飴…は溶けそうだからやめようか…ぬいぐるみは…小さいのでも結構な値段がした。一か所で決めれず、他のお店もみることに…。けれど「なんの違いがあるのか」もわからなかった。子供たちも「これが欲しい!」「あれも~」で、ゆっくり選ぶなどという時間とか、「楽しむ」ということがうまくできなかった気がする。自分のお土産のセンスがないのと人混みと子供たちの声で私はなぜか焦っていた。けれど旦那は、人混みを避け、私たちとあまり会話をしようともしない。だから、旦那に相談したり楽しく話したりしてお土産を選べなかった。私は旦那のお義母さんたちにももちろんお土産を買っていきたい気持ちがあったから、なにがいいのか聞きたくても、そばにいない…。一度、店を出てから「お義母さんたち、なにがいいんだろう?」と聞くと旦那は「親父は酒でもいいんじゃね」と…なんでディズニーにまできて「お酒」なんだよ…。と思いつつも…、ディズニーのラベルかなんかのお酒があるかなど探してみたが見つけられなかった。もう15時くらいになって夜のパレードも見たかったが「帰り」のことを
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新しい人生の始まり…44

思ったより「ディズニーランド」までは遠かった(笑)なんでも県外に行くのは修学旅行などでしか行ったことがない。高校にもなれば、色々あったかもしれないけど、高校にも行けてなかったから、そんな体験をする機会もなかった。車だったから子供のトイレや空腹などに対応が臨機応変にできた。本当にこれだけはよかった。旦那も休み休み運転をしていた。子供たちもいい加減飽きてきたりもしてきたが、ほぼ寝ていたり、車に付いていたテレビなDVDなどをみて過ごした。本なども持ってきたが「車酔い」が起こってしまい中断した。そもそもこんなに長い時間、車に乗っていることがない。そんなこんなで、やっと近くまで来たのは「朝方」5時くらいだったと思う。近くになっても子供たちは起きてこなかったし、開場までまだ時間があったから駐車場で私たちも仮眠をとった。2時間も寝ただろうか。少しまぶしくなった光で起きた。周りに目をやると、もうすでに少しづつ車は増えていた。朝方に来た時は「東京ドームシティ」などディズニーランドのホテルなどが立ち並んでいたのがあまり見えなかったが、明るくなるとすごく立派なホテルが見えた。あぁ…私のボーナスがもっと多かったらな…と少し落ち込んだ…。チケットを取って、ガソリン代と、食事代などだけで精一杯だった。色々ディズニーに関して色んな人に聞いたら「お土産だけでうん万いくよ」などと言われていたから、少し構えていた(笑)子供たちに楽しんでもらいたい!私が楽しむというのも一理あったが、2歳くらいの子供をベビーカーに乗せて2人の子供を連れて、尚且つ「自分も楽しむ」などいう器用なことはできなかった、というか「初めて」の体
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新しい人生の幕開け…40

それでも息子は毎日学校へ登校していました。何度教えてもわからない算数、何度書いても書けない漢字。それでも私は怒ったことはありません。なぜなら…。「この子には生きる術を教えるのが一番いい」と思っていたからです。なので家でのお手伝いなどを率先してやらせてあげました。どうやら「料理」が好きなようで、目玉焼きが上手くできるととても嬉しそうにしていました。それから数か月の時が経ち…。何回も療育センターに通い、それでも発覚せず…。ただ「辛い思い」をさせているのではないか、という心配の方が大きかったように思う。その頃、上の娘が「もう弟と学校に行きたくない!」と言い始めた。理由を聞くと「恥ずかしい行動をする」というのだ。大声で叫んだり、誰彼構わず声を掛けたりすると、一緒にいると恥ずかしいが、姉弟という関係も生徒にはバレているから、どうしようもない、と…。そうか…。そんなことがあったんだ…。娘も我慢してきたんだな…、私はその話を聞いて「ありがとう。そっか、そういうことがあったんだね。息子は元気すぎるからね!お姉ちゃんも心配だったでしょ。見守ってくれてありがとう。弟が悪いことしたら、ちゃんと怒っていいからね!けどね?ダメ!だけではわからないから、『なんで悪いことなのか』を教えてくれたらお母さんがありがたいな、そしてなにかあったら、ちゃんとお母さんに言ってね」と…。それでも娘は最初こそ、一緒に登校などしなかったが、それを責めることもしなかった。娘は娘の友達などの「世界」がある。それを弟とはいえ、家庭の中でのことで壊してほしくなかったし、先生たちも理解できないようなことを子供たちに理解してもらおうなど
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【ほのぼの日記通信♡第631号】入学式や入社式で新しい門出を迎えたみなさん♡

おはようございます♡みなさん、いかがお過ごしでしょうか♡今日も、お仕事や、家事、がんばってくださいね♡朝いつもの時間に起きて、外を見上げる✨青空が一面に広がってる☺️朝6時10分軽く朝散歩にできます✨6時10分はいつも散歩で家を出る時間です*写真はイメージです私の近くには海がないけどなんだか、波の音が聞こえそう(なんじゃそりゃそれだけとっても静かな朝なんです✨ほんと、空がきれいで空気が美味しい✨今日も良い1日になりそう*写真はイメージです4月の新しい週になりましたね✨あれかな?昨日は入学式や入社式でしたよね✨本当に新しい門出にスタートできましたね♪私は入社式に参加したことがないのでどんな様子なのか妄想するしかありませんがきっと、緊張の1日ですよね✨*写真はイメージです社長さんや校長のよくためになる長い話を聞くのかな?(笑)なーんて、言ってたら怒られますねこれから新しい人生の時間を進む方にほんのちょっとお言葉を申し上げると「時間を大切に過ごしてほしい」ってことですかね✨*写真はイメージですどうしても、会社や学校のために、捧げようって思うかもしれないけど捧げなくても大丈夫✨会社や学校から得られるものを思いっきり吸い込んで自分の人生に活かせば良いと思います✨会社もあなたもwin-winだからねなーんて、ちょっと偉そうにいう本当に、今日を迎えられたみなさん一緒にがんばりましょうね✨*写真はイメージです新しい門出に出かけるみなさんを窓から見ながら私は青空を見上げる✨「私も新しい門出に出かけようかな✨」なーんて想像しながら今はリラックスしてますよ✨*写真はイメージです今日の新しい門出に臨む
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新しい人生の幕開け…30

いよいよ「出産」も間近になってきた。退院してからの準備もできた!いつでも「入院できる」準備は整った!あとは待つだけ…。予定日はまだだったが、少し落ち着きたかった。が、なんだか腰?お腹が張っている…少し休もう…。そう思って私は座った。少し休んでいるとちょっと治まった。良かった…そんな時間を過ごしていると、Rさんが突然やってきた。珍しい、突然くるなんて。家にあがってもらい、少し話をしていた。「もう産まれてもいい時期だよね~」なんて話ていた。そうするとまたお腹が張ってきた!「痛い…」というと、Rさんは「それって陣痛じゃないの?」と言った。予定日よりはちょっと早い…しかもその日に限ってお腹の痛みが頻繁にきていた。病院に電話したら?というので電話してみたら「いつ産まれてもいい時期だから心配だったら病院にきてください」とのことだった。私はすぐ旦那に電話をした。「ちょっと早いけどいよいよかもしれない、もしかしてこのまま入院なったら子供たちのことお願いします」と…旦那は「わかった!俺もこれから会社に電話したり親父に電話したりするから気を付けていってこいよ」というので「車はRさんにお願いする、たまた居てくれたから」というと「わかった」とだけ言って電話が切れた。Rさんにお願いの一言もないのか…。ちょっとがっかりしたが、今はそれどころではなかった。定期的に痛みがくるようになった。時間を測ると「10分置き」…。上の子供たちも案外安産だったのもあって少し早いかもしれない、Rさんに伝えると「病院に行こう」と言ってくれた。まだ子供たちが帰ってくる時間ではなかったが、後のことは旦那に任せよう…そう思った。そん
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新しい人生の幕開け…25

引っ越しできる「貸家」があったようだ。色々考えてはみたが、物件が他にないのでまずは見てみることにした。数日後、引っ越し先の物件を「内覧」することにした。子供たちを学校や保育園に送った後、旦那が電話をしていた。その相手はこれから行く物件の方の不動産屋さんだった。時間は今すぐどうぞ、とのことだったので、すぐ二人で向かった。その家はすぐ着いた。今の家から車で5分ほど。着くと玄関で不動産屋さんらしい人が立っていた。とても人の良さそうな感じがした。建物の外観は…今の家と比べると、それはやっぱり古く見えた。そして軽く挨拶をして中を見せてもらうことになった。玄関は広いな…すぐ右はお座敷か…真っすぐがリビング!!すごい広い!!換気扇もリフォームされてる!窓も大きくていいな!続き間があるのね。便利そう。そして二階や色んな所をみて最後に「お風呂とトイレ」だった。不動産屋さんも申し訳なさそうに「工事したいんですけどね…ここは住宅街で簡単にできないんですよ…」などと言っていた。最初から水洗は可能らしいが、その工事も住宅が密集していると簡単ではないらしい。お風呂はよくアパートなどで使われているタイプの「手動」のガスの「追い炊き機能」そして、洗い場は「石畳」だった。お風呂のドアは「木」でできていた。昭和の木の枠に擦りガラス。その向かいにトイレがあるから擦りガラス越しに誰が入っているのかがわかる。そして旦那と不動産屋さんはとても仲良く話をしているが…パッと私の顔を見ると「キッチンや水場は奥さんのお城ですからね」などと不動産屋さんは話しかけてきた。そうよ、旦那なんかほとんど家事しないし朝晩だけいる人じゃん…と
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新しい人生の幕開け…16

旦那の次の仕事場はトラックにも乗りながら集団で作業をするというものだったが、順調に進んでいるようだった。そんな中、私の会社で不穏な空気が流れていた。それは、私より少し前に入社した女の子だったけど年は私よりも若くて可愛らしい女の子だった。名前はYさんと呼ぶことにします。数か月前にYさんから相談を持ち掛けられていた。それは…会社の営業部長の「セクハラとストーカー行為」だというのだ。最初、聞いただけでもゾッとしたけど、真実は分からなかった…。Yさんの相談内容は「しつこく電話がくる、二人で食事に行こう、服装のことに関して『もっと胸元を開けて』、仕事中にドライブに行こう」などなど、本当に彼女は怖くなったりしていたようだった。私や他の人にはもちろん同じことはしてないだろうが、私もその相談を受けてから上司には気を付けてみていた。うん、確かに面談の時間が長すぎる。そして私と出先でYさんと相談を受けている間にも頻繁に電話が鳴るようになっていた。電話に出なければ出るまで電話が鳴っている、という状況を目の当たりにした。私にできることはないか、とYさんに言ったけど「これはどうにもできないし、私も辞めれればいいんだけど…そうもいかなくて…」と諦め加減だった。Yさんの家庭事情も複雑だったので、なにも言い返せなかった。もちろん、そんな話は誰にでもできるわけがないと思っていたし、Yさんも私にしか相談していない、ということだったから私も誰にも相談できなかった。が、しかし…。ある朝、私が出社すると営業部長が私を見た途端、呼び出した。なんだろう、と思い部長の席の前に座った。「おはようございます…」と挨拶する間も与え
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新しい人生の幕開け…13

旦那は翌日ハローワークに行って面接の日どりを決めてきたようだ。旦那は求人票を私に見せてきた。……。「職種/営業・外壁のリフォームのアポイントのルート営業」「給与/35万以上可」私はバカにされている気分だったから「やれるやらやれば?」と言った。旦那は結構浮かれている感じだった。そして、面接当日、旦那はいつもは作業着だったのだが面接にはスーツで行った。ネクタイの結び方すらおぼつかない手つきで…。数時間経ってから旦那が帰ってきた。「俺、あんな会社の面接は初めてだ!みんなスーツ着てるし現場にも車で送迎だって!」と息巻いていた。結果は数日後にきた。「採用」旦那はすごく喜んでいた。今までやったことのない職種なことと給料、そして「ラク」な仕事だと思っているし、スーツを着る仕事など初めてらしい。ウキウキしていた。仕事初日…どんよりした顔で帰ってきた。まず子供たちのことをしてから旦那の話を聞くことにした。私は二階から降りて旦那のところにいった。旦那は難しい顔をして、紙を見ていた。なになに??「ロープレしてこいって言われた…。」「あ~そうなのね!営業なら普通だからね」とチクリと言ってやった。そして旦那が見ていた紙を見ると…。A4サイズにちょこっとだけ書かれた営業用の挨拶やアポイントを取るための言葉が並べられていた。「じゃあ、それ読んでみて」というと、ぎこちない言葉で話し始めた。そして「会社の人、これ暗記してこいっていうんだよ、いくら見ても覚えれない!」とダダをこね始めた。「え、これくらい普通だし逆になんで覚えれないの?少ないくらいだけど」と言った。そして何度かロープレをしたがとてもじゃないけど、営
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新しい自分へ…20

初めて3人で買い物に行った。娘はとても喜んでいた。けれど一つ気になったことがあった。3歳くらいの年齢だと「お菓子」や「おもちゃ」をねだるものだろうが、全くねだらなかった。私はふと気になり、わざとお菓子コーナーに向かった。「何か食べたいものある?」と聞くと娘は、黙って「アンパンマンチョコ」を指さした。「チョコかぁ!いいね!カゴに入れていいよ!」というとニッコリしてカゴに入れた。そうか…。施設ではそういうこともできなかったからか…。好きなお菓子がいつでも食べれるわけではない、そして選べるわけでもない。その施設ではある日ご飯に「もずく」がでたそうだ。娘は一口食べて「吐き気」がしたため食べ進めることができなかったそうだが、それを見た施設の人はこっぴどく娘を叱ったらしい。それから「もずく」は家では出さないようにしていた。好きなものの食べられなければ、嫌いなものは怒られる…。子供にとってどんなに苦痛だったろうか…。少し私たちの生活や保育園に慣れるまでは「自分の意見を言える」ように練習させようと思った。そうしてアパートに着き、娘と彼は一緒に居間で遊んでいた。その間私がご飯を作る…。もはや「絵にかいたような家族」だった。もちろん、下の息子のことを忘れているわけではない。確実に前に進んでいる。全員がそろってご飯を食べるまで、もう少し!私はより一層チカラがみなぎった。夜ご飯が出来て3人でゆっくり食べる食事は本当においしかった。テレビを見ながら話しをしたり、娘が「見たい」というアニメを見たり。彼と娘は私のご飯を「美味しいね!」といってペロリと食べてしまった。私が娘に「お風呂入るよ~」というと娘は「お
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新しい自分へ…8

それから彼からはしばらく連絡はなかった。私は、バイトや子供たちのことに専念していた。けれど実際問題、お金が貯まるなど何年先になるかわからない状態が現実だった。それでも「諦める」という考えはなかった。児童養護施設では最低2年施設に入所してもらう、というのが条件だったが、私はそれより早く子供を引き取りたかった。気づけばもう1年が経とうとしていた。小学校入学前までには…一緒に生活していたい…。今のバイトでは無理だ…。その頃の秋田県はパートでもアルバイトでも「副業」ということが原則「禁止」されていた。そのころ、ちょうど「某牛丼チェーン店」は「牛肉輸入制限」かなにかで肉が入ってこなくなる事態に陥り、店は混雑、シフトも人数も増やして対応していた。帰るのは、シャワーを浴びに帰るだけの日々が2週間くらい続いた。これでは「副業」どころの話ではない…。体力的にも限界に近かった。忙しかったせいもあり、色んなことを忘れて仕事に打ち込むことができた。そして、牛肉がなくなりシフトも通常に戻った…やっと休める…それを見計らったかのように「彼」から電話がきたのである。私はハッとした…。そうだ、返事も返していない。返事だけはしようと電話にでたそうすると相変わらず何事もなかったかのように接してきた。そうか、ただの気の迷いだったんだな、私はあの話には触れないようにしていた。そうして、今までの仕事のことや彼の仕事のことなど他愛もない話をしていたそうすると「それで、考えてくれた?あの話」と…え?私はどうやって返していいのか分からなくなった。断る、ということをしたことがないからどうやって断ったらいいのか分からなかった。黙
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離婚まで…37

その間私は、保険屋さんの勉強に通っていた。試験も終わり、さぁ!仕事するぞ!というときになりいきなりの「採用解除」のようなことを言われた…。私は頭が真っ白になった。理由は「車がないこと」だったらしいが、そんなことは面接のときに話していることだ。それも上司に話したが、「本社の決定だから…」しか回答はもらえなかった…。え、これからどうすればいいの?アパートの支払いは?生活は?アルバイトも以前に「車を所有していないと雇用できない」と言われていた。コンビニのアルバイトでさえだ。なぜかというと「夜勤のとき危ないから」だそうだ。本当に地方は「車がない」と仕事もできない。免許はあっても車がない…自転車はあったが、もはや仕事の手段にはならないようだ。早く仕事に就いて子供たちを引き取るんだ!そういう願いも虚しく…。なぜこうも上手くいかないんだろう…シェルターの職員に相談をしに行ったそしたら「生活保護をもらいにいきなさい」と言われた。「生活保護…。」生活保護がどんなものなのかさっぱりわからなかった「とにかく市役所いっておいで!そのままでいいから!」と言われたそして、市役所に行き、言われた通り「保護課」にいった。そうすると「相談室」のような狭いところで色々話を聞かれた若い男性だったと記憶しているが、とても丁寧に相談にのってくれて最後のほうは泣きそうになったが、「ここで泣くのはずるい」と自分に言い聞かせてなんとか抑えた。そうして、何時間か話した後、その男性職員は「すぐ手続きしますね!印鑑は持っていますか?」と聞かれた。今は持っていないことを伝えると、後ででいいので持ってきて、とのことだった。生活保護の仕
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離婚まで…36

20万円…。これがあればアパートが借りれる!けれど、シェルターに帰ると、このお金、没収される…。どうしよう…。そして、思いついたのが、知人に預かってもらうことだった。「大金だから怖いけど、アパート決まるまで預かっておくね!」と言ってくれた。シェルターに帰り、職員の人に事の説明をした。そしてそのお金は知人に預かってもらっていることも伝えた。職員の人は「いろんな人がいるから大金をもってたら危ないからね」と言ってくれた。そして、早くアパートを探そうとも言ってくれた。そして、前回見ていた35000円のアパートの物件を見に行くことにした。保証人などが必要だったが、シェルターの職員の人が付いてきてくれて不動産屋さんに話をつけてくれて、大家さんにその場で電話してくれて「貸してくれる」ことになった!よっしゃ!!順調だ!35000円あれば入れる!あとは家電などがリサイクルショップなどで揃えよう!と、そんなとき、シェルターで私に色々してくれたi子さんがシェルターを出るという話を聞いた。その人の行く先は誰にも教えない、教えられない決まりだった。ただi子さんは「このシェルターの近くにはいるから!」とだけ言って翌朝には居なくなっていた…。みんないなくなる…。そんな中、シェルターの上は「母子寮」になっていたことがわかった。全然顔も合わせないからそんな施設が併設されているのは知らなかった。どうやら玄関が違うらしい…。その母子寮に入っていた若いママが話しかけてきた。子供はまだ1歳くらいだったと思う。髪を金髪にして、いかにも「今時のママ」のような恰好をしていた。ハスキーな声で「シェルターいるの?」などと話しかけ
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離婚まで…33

その家は暖かかった…。「家族」というのにふさわしかった。バイトも少しずつ慣れてきて、嫌味を言うお客さんもいたけど、ママも応援してくれて、ぎこちないながらもバイトを続けていた。母親は到底、このA子の家はわかるまい。けれど、もし、また今までのようなことがあったら、この家族に迷惑がかかる…。早くお金を貯めて部屋を探さなければ!毎日5時間働いて5000円…。タダで置いてもらうわけにいかないのでそこから少しA子のお母さんに渡していた。けれど、子供のオムツ、ミルク…。追いつかない…。2週間くらいたっただろうか…。様子がおかしくなった…。A子の様子も…。家族の様子も…。何かぎこちない…そんなある日、A子のお母さんから「話がある」と言われた。「悪いんだけどね…。おばあちゃんが他の家への体裁が悪いっていうのよ…。けど私たちもあなたの状況はわかっているつもり、だからこのまま出て行ってとも言えない。それでね、色々役所の人に聞いたりしたんだけど、『女性相談所』というところがあるらしいの、そこだと守ってもらえるし子供たちも安心できると思うの、それでその方がいいと思ってね手続きしてきたわ、明後日A子に送って行かせるから…。」と言われた。私は、「女性相談所」というところがあるのすら知らなかった。A子のおかあさんに申し訳ない気持ちでいっぱいになった。「ごめんなさい…。そういう施設があるとは知らなくて…。ありがとうございます」と頭を下げた。この数日間、私がバイトに行っている間、みんなを悩ませてしまった…。携帯はとうとう止まってしまった。払えなかった。女性相談所に行くまでは、みんな優しくしてくれた。最後の夜、私は
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離婚まで…32

調停も終わり、一息ついていたある日、なにやら母親の機嫌が悪い…そしていつものごとく「お金がない」と騒ぎ立てる…。母親には再婚した旦那がいるが「長距離運転手」のためほぼ家にいない。長距離運転手の仕事は、たぶん給料はそこそこ良いほうだったと思う。が、しかし、母親は一か月の生活費をその日一日で使うことができるような人…。パチンコ・飲み屋がほとんどだった。あとは私が出会ってからはすでに入会していた宗教にのめり込んでいた。私もその宗教に勝手に入会させられたが、ほとんど参加することはなかった。なんのきっかけだったのかは忘れたが、お金がない理由で機嫌を悪くした母親が、たまたま家にいた私の娘に殴ってきた!私は「やめて!」と止めに入った。泣きじゃくる娘…これはもうこれ以上「この家には居られない」明日にでも出ていこう!そう思った。そしてその夜、保険やさんで知り合った知人にメールした。電話だと母親にバレるかも知れないからだ。そして、母親が明日宗教に行くのを狙って家を出ることにした。よし!これでこの家と、そして母親とはもう会うことはないだろう…。最後の夜を何事もないように過ごした…。そして、次の日、母親がいつものように宗教の教会?のようなところにいったところを知人に伝えたら「すぐ行く!」と言ってくれた。20分くらいだろうか、その間私は最低限の荷物をバックに詰め込み、知人の車に子供と一緒に乗り込んだ!さぁ!出発だ!長男は旦那の親に隠されて手元にはいなかったが、息子も裁判で取り戻そう!と思っていた。今私ができることは下の娘と産まれたばかりの息子をどうにか守りたい。その一心だった。その知人は母親の家から車で
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離婚まで32

裁判所から通知がきた。一回目の調停の日が決まった。私は一回で決まるとは到底思えなかった。旦那はどうゴネてくるのか…。裁判所で、「嫌がらせのために離婚しません」とは言えないだろう…なんといってくるのか。調停の日までは割とすぐにきたように感じた。調停一回目…調停は相手と会わないように配慮がされていたが、運悪く顔を合わせてしまった。その場面を見たとき私はビックリした。なんと親と調停に来ていたのだ。私と旦那は15歳、年が離れている。私ですら一人できているのに…。当時私は24歳。呆れたのと、気持ち悪さを感じた。それも父親と一緒に…。調停が始まろうとしたとき、父親も調停の中に入ってこようとしていたが、調停員に止められていた。調停では、まず調停の主旨などを聞かされ、主旨があっているか確認された。そして、片方ずつの話を聞く場面になった。私が話す番になったから、離婚理由を話していたら旦那が「こいつはこういうやつだ!だからわかるだろ!」などと声を荒げていたが、もちろん調停員に止められた。私は至って冷静だった。そして1時間弱くらいで一回目は終わった。決着はつかないまま終わった。次の調停はまた通知がくるといわれた。はぁ…どこまで引き延ばすんだろう…。しかし、父親を連れてきたのには調停が終わってから笑いが出てきた。大の大人で「自分が悪くない」と主張する割に父親連れてくるなんてなんて滑稽なんだろうと。二回目はなんて言ってくるのか…。家に帰り調停のことを母親に話した。母親は「さっさと別れればいいのにね」と言っていたが、別れた後の「母子家庭手当」目当てなのは見えていた。私は、調停が終わったら友達の家に住まわせ
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離婚まで…31

私は、もうボロボロだったのかもしれない。産まれてきた子供は「チアノーゼ」になったらしく一緒に退院できないかもしれない、と言われた。私のストレスのせいだ…ショックだった。そして、母親の家に来てからロクなものを食べていなかったせいもあるかもしれない。私は何が正解で、何が間違っていたのか…。何をどうすればよかったのか。悩んだけど、あまりいい方法は思いつかなかった…まず、退院してからいろいろ動こう…。ココにいると携帯料金もそのうち払えなくなるのは目に見えていた。その間、保険屋さんで同僚の人たちと連絡を取り合っていた。そしたら、なにかあったらすぐ動けるようにしておくからね!と心強いメールが来た。よし!準備はできた!問題はそれからだ!まず、退院して体調を元に戻さねばならない。退院直前になり、チアノーゼが落ち着いたとのことで一緒に帰れることになった。母親の家に帰り、赤ちゃんの準備などをしていると「私は出産すぐに洗濯とか家事をしたもんだ!やれ!」と言われた。ヨレヨレの体を引きずり、茶碗洗いから始めた。神経が敏感になっているせいか、水道の水すらもピリピリと感じた。おむつすらまともに買えないような生活…早く家を出なければ…。上の娘たちは新しい保育園で友達ができた!と喜んでいた。それだけが唯一の救いだった。そうして、一週間が経とうとしたとき舅が母親の家にきた。「車を返せ」というのだ。そうだ、名義を変えていなかった…。車を取り上げれば家に戻ってくるとでも思っているのだろうか。私は「どうぞ、持って行ってください」といった。母親ですら免許を取らせてくれなかったのだから、その点に関しては感謝もしていた。だか
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結婚生活28

私は結局何もできない無能だ。子供も守れない自分の思うような育児すらできない子供が欲しがるような服やおもちゃ、食べ物すら与えてあげることができない…。それでも、この家にいなければならない屈辱。洗濯をすればパンツの果てまで嫌味を言われる。育児がわからないから育児書を読んで子育てしようとすると姑は平気で離乳食という名の自分の口の中で食べ物を噛んで子供に食べさせる…。本当に恐ろしい環境で子育てをしなければいけない…。私のすることなすことが本当に気に食わないようだ。私が戻ってからもその生活は変わることはなかった。レジのパートは旦那が店に行って暴れたことでクビを言い渡され…いつだったか声をかけてくれた「保険屋さん」に就職することにした。私は初めてスーツを着る仕事についたのである、その時は「保険」というものに対してほぼ無知だった。そして保険やさんでなんの仕事をするのかさえわからなかった。けれど、化粧をしてスーツを着る仕事、というだけで私の中の「中卒」という学歴コンプレックスが薄れた気がした。田舎というところは怖くて、化粧をしているだけで「男がいる」と言われてしまう。これは、嘘のような話だが、実際に私が経験している。スーツを着て化粧=派手という短絡的尚且つ偏見だ。保険やに対してお義母さんは何も言わなかった。なぜなら「雇用保険」がしっかりしている、土日休みだからだ。文句も言えなかっただろうと思う。けれど、「枕営業」という言葉は知っていたようだ。「保険の営業なんて色ボケがすることだ」とは言われた。お義母さんの中では「縫製工場」や「製造工場」こそが正義だと思っている。知っている人は知っているだろうが
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結婚生活24

息子と娘は、とても仲が良かった。ある日、お義母さんが、居間に置く二人掛けの「ソファー」をかった。テレビショッピングで購入したらしい。まだその頃はネットショップというものが発展していなかった。そのソファーが送られてきた時、息子は物珍しさからテンションが上がった。運送屋さんが設置してくれるとのことで玄関から入れるより、居間にある大きい窓から搬入しようとした。ただそれを「なになに?」と覗き込んだ瞬間…パシン!!と息子の頭を叩いた。運送屋さんもビックリしていた。当然私もビックリした。息子も一瞬のことで、なにで叩かれたのか全く分からず泣きじゃくってしまった。これでは、まずいと思い、咄嗟に私は息子を自分の部屋に逃がした。私はムカついた。なんで人の前で意味も分からない子供に手を挙げるのか…私は息子に「息子は悪くないよ」とずっと慰めていた。私はお義母さんに対して文句の1つでも言おうかとも思った。けれど「こんな時、自分にまともな親がいたらなぁ…」と思った瞬間、なにか虚しさが襲ってきた。私がお義母さんに文句を言ったところで、私の方が全部悪くなる。私の思い通りの育児など何もできていない。そして旦那も頼りにはならない。私には一体なにができるのか…それでも、息子と娘はお互いを思いやる優しい子だった。あ、下の娘の名前も私に権限などありませんでした。息子の時同様、どこぞで話し合われた名前になっていました。そうして一年がたち、娘の保育園も息子と同じところへ入園となり、私はパートに出ることにした。その間も旦那の借金返済の電話や家に来られたことも何度もある。毎朝8時30分になるとサラ金からの電話が何件もくるそして
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結婚生活23

 私は、妊娠している体で子育てし、掃除をし、畑仕事、大姑の世話、姑のご機嫌を取り、毎日が過ぎていった。妊娠5か月のあたりで成人式のお誘いがきた。市からの招待状はきていない。結婚式に来てくれた友達?が私に連絡をくれた。私の卒業した今はどうなっているかわからないが、昔は卒業した中学校の名簿から招待されるようだ。私は行く気がなかった。なにせ、私がいって嬉しい人はいないのだから…。嫌われ者がいったところでまた嫌な思いをするだけだ…。そして、なにより成人式の用意などしているわけがなかった。それをお義母さんから聞いたであろう、また旦那の姉が、口を出してきた。「成人式、言っておいでよ!妊娠してるからスーツのほうがいいと思うけど!用意はこっちでするから!」と…。私の意見など聞くはずもない人たち…なにかを言おうなどとはもう考えていなかった。「わかりました。ありがとうございます」これしか、私が発する言葉の選択肢はない。スーツは、お姉さんのお下がりだった、髪型はお姉さんの近くにある美容院…。私は誘ってくれた、友達と待ち合わせるために会場にいった。そして久しぶりに会う友達と再会した。結婚式のお礼を言いながら会場の中に入ったそしたら、その友達の周りには、知らない人たちが取り囲んでいた。私はあっという間に「孤立」した。友達は、なんで私を呼んだんだろう…。終始、私は一人で席に着き、一人で帰った…周りは成人式のお祭りモード一色だった。私には思った通りの「孤独感」だけが残った。家に帰れば、またあの生活が戻ってくる。けれど私には息子がいる!私には息子しかいなかった。言葉など通じなくても、息子だけが唯一の心の支えだ
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結婚生活22

結婚式が終わり、旦那の方の二次会があると聞いた。私は子供をその場に連れていくわけにはいかないと思い、私は家に帰った。私の方は何もなく多分その場で解散となったと思う。家に帰ると普段の生活に戻っていた。なにか身内でやることもなく…普段の生活に戻っていた。それからしばらくは旦那は朝出かけて夕方帰ってくるという生活になっていた。子供のミルクや色々なものは、旦那に言えばお金はくれたが到底賄える金額ではなかった。家に生活費は入れていないのか、と思う人もいるかもしれませんが、私から旦那にお金の話をすると暴力、暴言で返されるのでなるべく言わないようにしていた。お義母さんからは、そのころはまだ何も言われなかった。私が仕事ができないからだと思う。できない、というより「させない」のほうが正しいのだけれど。日中は子供を連れて、散歩に行ったり車で公園に連れて行ったりして遊んでいた。旦那が帰ってくるようになり、夫婦としての会話らしいものも増えてきた、と思った。が、「今度の日曜日、出かけよう」というので喜んでいた。そうです。また、「サラ金」に連れていかれました。けれど今度は10万円くらいしか貸してくれませんでした。多分前に借りたところに返していなかったんだと思う。私は勇気を出して聞いてみた「仕事してないの?そのお金何に使うの?」と…。そしたら旦那は「仕事してる!返済は俺なんだから勝手だろ!」と怒鳴られた。そして、また旦那は帰ってこなくなった。そうして、3年の月日が流れた。布おむつからは1歳まで使っていた。布おむつを洗う場所は、外にある「山から流れてくる水」の側溝だった。昔話にでてくるような…本当にああゆう風
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結婚生活21

それから、間もなくして旦那が家に帰らない日が多くなってきた。どこにいるのかも不明。それでも、お義母さんたちは旦那のことは一切なにも言ってこなかった。そして、私には、息子が三歳になるまでは家にいろ、という人達だった。結婚式の話は私には全く聞かされない状態で、日々が過ぎていった。私は無理やり絞り出して来てくれるかわからないような人たちを数人名簿に書いて、お姉さんに渡した。それでも旦那側のほうは、なぜか近所の人たちが大勢くるらしい…これが「体裁」か。私の実家といえば、父と住んだ家になるのだろうが、近所の人たちともあまり会話がなかったため近所の人たちも呼ぶことはできない。苗字くらいしか知らないのだ。まして母親がくる結婚式に呼ばれたくないだろう。そうして出した招待状のうち、半分以上の「不参加」の返信がきた。割合でいくと、100%のうち15%が私のほうの参加者、ということになっていた。ただ参加者の席の配置だけは、指定してくれと言われた。その時一度だけ、結婚式関係に関わった。あとは、どうなるかは全く知らない。旦那も家には帰ってこない…どうするのだろうか…結婚式間近になってようやく旦那が家にちらほら帰ってくるようになった。それでも子供のことは一切無関心だった。必要最低限のことしか話さなかった。けれど、お姉さんのことは怖いと思っているのか、お姉さんに歯向かうことはしなかった。結婚式まであと少し、というところで旦那は夜遅くに家に帰ってきて酒を飲み、朝早くどこかへ行くという生活になっていた、生活費など、一度ももらったことがない。借金した返済も遅れているようで、時折家に電話がくるようになっていた。それ
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結婚生活20

ちょっと前に時は戻って…妊娠初期の段階で、お義母さんに言われた。「あんた暇ならおしめでも縫ったら?」と…。今の時代、わかる人がいるのだろうか…「布おむつ」…私は、断ることができずに、布おむつを80枚縫った。そして迎えた出産で、あの言葉…。息子に付けたい名前があった。けれど、私の希望は1つも採用されることはなかった。なぜなら、勝手に出生届を出されていて名前が決まっていたのだ。私は後から知らされるという事態になっていた。出産後の入院生活を終え、旦那の家に帰った。そしたら、自分たちの部屋ではなく「座敷」だった。そこには、私の布団と息子の布団が殺風景に置かれていた。そして、「ここからは一か月間、ご飯以外でるな」と言われた。薄暗い、テレビもない当時携帯電話もないそしてお風呂に入ることはもちろん、シャワーを浴びることもさせてもらえなかった。体を拭くだけ…。私が子供を産んだのは、昭和初期でもなく平成9年だ。時代錯誤も甚だしい…。息子と二人きりになった。お義母さんは布おむつを取りに来る以外部屋にはこなかった。その間旦那は、その部屋には一回もくることはなかった。そうして一か月が過ぎた。その間、弱音を吐くことは許されなかった。一か月を過ぎてようやく自分たちの部屋で息子と寝ることができた。夜泣きなどでは旦那は文句は言わなかったが、同じくらい子供に関して関心もなかった。一か月を過ぎ、どうやらお義母さんの通院の日が近づいていたらしい。そうすると、自分を病院へ連れて行ってくれというのだ。車で片道15分くらいのところだ。3月ごろで、まだ外には雪があった。最初は息子も連れて行っていたが、これが2,3回すると「
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社会人17

母親は、いそいそと準備をしている。私は、なにを言うんだろうと鬱々とした気分でいた。そして、ラーメン屋についた。開店前で店主が忙しそうに準備をしているところだった。「おぅ!指治ったか!」といつもの明るい笑顔で迎えてくれた。そうすると、サッと母親が前に出ていき「すみませ~ん、長いこと休んでしまって~」とヘラヘラしてた。あぁ、一応謝るのか、と思ってみていた。店主は、母親の素性を知っているせいか、まともに相手にしなかった。それがカンに触ったのか、「またこの仕事をして指が悪くなるのもねぇ」と言い出した。は?なに言ってんだ?この人!そんな話をしていると店主は「お前はどうしたいんだ?」と私に聞いてきた。私は「続けたい」とボソッといった。それを聞いた母親は、怒り狂ったように「また指をダメにしたいの?!」と叫んだ。店主は、その叫び声にも動じず、「じゃあ、明日待ってるよ」とだけいい「今日は帰りなさい」と言われてしまった。帰り道は、母親にグチグチ言われながら帰ったが、なんとか辞めずに済んだ…とホッとしていた。次の日、ラーメン屋さんに行くと、いつもの変わらない店主が迎えてくれた。そうして、数日が過ぎた。ある日、店主が、ある男性を紹介してくれた。「この人、いい人だから付き合ってみれば?」と笑いながら。私には今までそういうお付き合いなど縁もなかったしなにせ小中と男子にいじめられていたことから敬遠していた。だが、私ももう社会人…。いいかな、と思った。そして、ラーメン屋さんの仲介の元交際をスタートさせた。その男性は私より15歳も上だったけれど、私にはそれくらいがいいのかもしれないと思っていた。最初のデートは、
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社会人17

ラーメン屋さんでは、とても良くしてもらえた。前にも書いた通り、物凄く忙しいお店だった。15時が終わったら、賄を出してくれて御飯中、店主さん夫婦の会話を聞いたり、話たりするのがとても楽しかった。そして17時からも頑張れた。たまに怒られながらも、それでも、そこにはちゃんと「愛情」というのが感じられた。夜遅くなった時は、奥さんが家まで送ってくれたりした。そして、カラオケなどにも誘ってくれたり、私の知らない楽しさを教えてくれたりした。なにせ、お金を取られているから、カラオケやボーリングなどには全く縁がなかったのだ。多分、普通の17歳なら、みんなが経験していることなんだと思う。そして、給料支給日になると、店主はいった「お前の母さんのことは知ってる、だから1万円少なく調整してるから、これ…」といって、私に茶色い封筒を渡した。そこには「一万円」が入っていた。その気持ちがとても嬉しかった。なにを買おうか!と思ったが、何かを買っていくとバレる。咄嗟にそう思った。だからお金を持っていても、なにも買えなかった。服や自分の好きなもの好きなこと自分の好きなことにお金を使えなかった。だから私は、その店の店主夫婦に、プレゼントをすることにしていた。そんな大したものは送れていないが。ビールだったり(当時は未成年でもお酒を買えた)タバコだったり。当時店主さんが好きそうなものをプレゼントしていた。家に帰っても、財布は母親に見つからないようにしていた。ところが…。なにを思ったか、私が寝ている隙に財布を見たらしい。次の日、なんでお金があるのかを聞かれたが、店主さんのことは絶対言わない!と私は口を継ぐんだ。しかし、母親
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社会人16

アイツは会社に電話をしていた。「あの~お宅の会社では、母親が具合悪いのに本人を休ませないのですか?!」と半ばキレ気味に…。会社はなんといったのかはわからない。が、なにか話してから電話が切れた。「ほら、大丈夫じゃないの!」と…。私は、会社の人たちに申し訳がなかった。急に仕事を休まれると困るのに…。まして自分のことではない。死にそうなわけでもない。ただ、私をコキ使いたいだけのために…。それから度々、勝手に会社に電話をしては、私を休ませるようになった。さすがに、上司から呼び出された。ここもクビだな…と感じていた。親のことも散々言われた。私は、どうすることもできなかった。何も会社は悪くない。楽しかった。唯一、私の頑張りを認めてくれた会社だった。パートだけど、それでも周りのみんなが親切で楽しかった。上司の話を聞きながら、私はもう辞めなければいけない気がしていた。迷惑だからだ。色々してもらったのに、母親の電話のせいで何回シフト変更したり、人数を揃えたり、変更があっただろうか…。今はどうかは知らないけれど、昔はサービスカウンターはめちゃくちゃ忙しかった。店の中では「安室奈美恵」の曲が流れていた。同い年なのに…こんなにも人生が違うのか、ふと思った記憶がある。その中でも、そのスーパーの中でも専務という人が、私のことをすごくかばってくれていた。「今仕事辞めても他にいくところはないだろ?頑張ってきたんだし、もう少し頑張ろう!」と励ましてくれた。その専務は、母親のことも知っていながら、他の従業員さんから私をかばってくれていた。私は、改めて頑張ろう!と思った。なるべく期待に添えるようにそうして、半年が過
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社会人14

それからの生活はひどいものだった。家に食べ物などない。子供も学校にいかない男性に給与が入ると飲み屋かパチンコだった。そうしているうちに、私にも「働け」というようになった。私は、よし!これでまた離れられる!と思った。しかし私は中卒、簡単に仕事などあるわけがない、そうしていると、先日きた近所のおばさんの旦那さんの行きつけの床屋さんが、住み込みで募集をしているという話が舞い込んできた。私は、どこでもいいから離れて生活し、できれば床屋さんをしてきたのだから同じ仕事がよかった。おばさんの旦那さんの好意で、その床屋さんに住み込みで働けるようになった、そこは小さな床屋さんだった。お店には、働いている女性が二人いた。そして、ある程度、生活の説明や仕事の内容などを聞いた。与えられた部屋は、なにかお店の人の個人のものも置いてある、「物置」のような薄暗い部屋だった。それでも何とかして、自分のスペースを作った。給与は「手渡し」だというのだ。まぁ…小さい個人の店ならあり得るのかな、とあまり深く考えないでいた。そうして、日々の仕事や生活にも慣れてきた日。そう…給料日。茶色い封筒を渡された。もちろん、寮費などが引かれての金額だろうというのは覚悟していた。封筒を手にしたとき「あれ?」と違和感が…。最初「給料明細」だけが入っているのだと思った。そしたら、お店の奥さんが…「あなたの給料ね、お母さんに渡せって言われてるの」と…。!!!!そこまでするか!とも思ったが、するだろうな…と、なぜか腑に落ちてしまった。私は、それでもあの家にいるよりはマシに思えてきたから「そうですか」とだけ言った。封筒には「1万円」が一枚入っ
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社会人13

「探したわよ!!」と、笑顔で玄関に立っている母親を見たときには、ゾッとした…。どうやって見つけたんだ…誰がいったんだ…もう逃げられないのか…私は呆然と玄関に立っていたが、裏に回ってくる同僚などの目が気になり、とりあえず、店を出た…。母親は「家に帰るよ!」といい、そそくさと寮に入り、私の荷物を詰め込み始めた。傍らには、あの男性がいた。男性の車に乗せてきてもらったのだろう…。私の荷物も車にドンドン詰められ…。私はあぁ…私の人生終わったと思った。それくらいショックだった。嫌がらせを受けていても、仕事がハードでも、仕事が楽しかったし、やっと、やりがいや、自分の存在価値などを見いだせていたのに…。またこの人に全部ダメにされた…。私の地元からは、車でも片道1時間はかかる…その中で、一体どうやって探したんだろう…けれど、父親の彼女の時もそうだった。彼女の家や仕事場を今でいう「特定」をするのが、早かった。どういう手段を使ったのかはわからないが、見つかって今、車で母親の家に連れて返させられている…。おばさんがチクったのか…まさかそんなことはないだろう。おばさんも関わりたくないと言っていた。これから先、私は奴隷のように生きていくのかもう私には何もできないのか車の中で色々考えていた。母親は、気分がいいようでずっと話していたが、聞いていなかったと思う。着いたところは、前の団地ではなく新築の家だった。どうやら家を買ったらしい。けれど、家の中は、ものすごく汚かった。玄関を入ってすぐ、下駄箱の上は何かの物で山になっていた。「お母さんたち、家を建てたの!すごいでしょ!入って入って!」と、満面の笑みで言ってくる
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社会人12

おばさんの家をでてから初めて家に帰った。その日はおばさんのみんなも優しかった。私がいなくなって、本当によかったなと感じた。そして、次の日には帰ることにした。寮の門限が夜の10時だったので、片道1時間はかかる距離だった。あまり長居をしない方がいいとも思った。そうして、私は寮に帰り、また十数人との生活が始まった。けれど、今までの生活からしたら、全然楽しかった。先輩に気を使うのは仕方のないことだ。その月だったか、いつだったか、私の通帳を管理している先輩に「お金を引き出してください」と言った。おばさんの家に帰ったり、ピザやらで出費が重なったためだ…そうしたらものすごい剣幕で「なんのために私が管理しているのよ!!」とまた、みんなの前で怒鳴られた…。いかにも、私が人のお金を取っているような雰囲気だった。「すみません…」と小声で言うしかなかった…。私は、先輩から五千円だけを受け取り、部屋に戻った。それから、仕事は順調のように感じた。ところが、先生の態度が一変する出来事が起こった。理容さんや美容さんだと、新人が直接施術できるのは、「シャンプー」だと思う。今はどうかわからないけど。私は「中卒」というコンプレックスから、シャンプーを人一倍頑張っていた。そして、いわゆる「指名」をしてくれるお客さんができたのである。私を指名してくれるお客さんは日に日に増えていき、他の同期の人達を追い抜いていった。だからといって、私にはなんの気持ちの変化や態度の変化はなかったと思う。変化の仕方が分からなかったのだ。今まで無視はされても「指名」はされたことがなかったからだ。忙しくシャンプーをする私を見て先生が、お客さんの
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中学校生活11

私は、おばさんに、今の学校でイジメられているとは、到底言えなかった。自分で決めてココにきたんだ文句もなにも言わないし言えない。おばさんの家には、息子と娘二人が一緒に住んでいたが、よくは思われていないのは、知っていた。もう車を持っていたから18歳にはなっていたと思う。それでも私とはあまり顔を合せなかった。ご飯の時も別々に食べていたと思う。一緒に食べた記憶はない。どこにいっても「自分は嫌われ者」だった。好かれようとして、話しかけたりももちろんした。みんなの持っているものは持てなかったけど話にはついていこうとネットのない時代に必死についていこうともした。身なりは制服だったからさほど変わりはないと思う。髪型だけは、変えられなかったが…。それから高校進学の話がでたが、私はこれ以上迷惑は掛けられないと思った。私が高校に行くという選択肢はなかった。おばさんもあからさまに嫌な顔をしたものある。だから私は「就職」を選んだ。出来れば「寮」のある仕事がよかった。そして県外に行きたかった。学校の先生は、ここぞとばかりに就職の資料を持たせた。おばさんと話し合うように、と私は県外の寮付きの仕事をなんでもいいから探した。そうしたら。おばさんが「県外はだめだ」と言ってきた。あんまり離れるとさすがに心配なのかな、と思って、秋田市内の寮がある美容院に決めた。そして、卒業式を終え、私は当然のごとく空気のような存在で、流れるように式が終わり、感動もなにもないまま、ただ就職したら「別の世界があるはず!」という希望だけが私を支えていた。就職の面接が終わり、美容師になりたいと告げると、その店長さんは「美容師、もう埋まってし
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(4日目)キャリアは積み重ね。(前編)

プロファイルにも書いている通り、今現在は某企業で勤めているしがないリーマンである。高校時代にアルバイトをしていたのが地元のスーパー。それなりに可愛がられるタイプだったので、店長・先輩にはそれなりに気に入られていたと思う。だから、高校中退したと同時に社員にしてもらったの。その話も、もう27年も前の事。そのスーパーはバリバリの体育会系で、今なら訴えられてもおかしくないレベルの出来事は日常茶飯事。当時は当たり前だったし、自分もそれなりに楽しんでいたし。ネクタイ締めて仕事はしていたけど、品出しなんて肉体労働の極みだからね。ブルーカラー仕事だと言っても間違いない。そこで3年近く勤めたけど、転職先は、そのスーパーのテナントに入っていた酒屋チェーン。そこの部長に『うち来ぇへん?』って言われて、『これがスカウトっちゅーやつやん♪』なんて浮かれてホイホイ転職してしまいました。(社員にしてくれた前店長に挨拶と報告をしに行ったんだけど、とても冷たかった。そりゃ仕方ないよな。)まぁ、無事転職して新しい会社にお世話になる事になったんだけど、そこは20代の社員が多くを占める若い会社。今風に言うならスタートアップっぽい雰囲気か。次回は、転職先で今の自分を形作る経験がどのように積み重ねられたか、について深く掘り下げていこうと思う。掘り下げきれなかったら…詫びます。最果ての地で。では、To be continued!!!
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ブログを読んでくださっている皆様へ

いつも、ブログを読んでいただきありがとうございます(*^^*)拙い文章や、誤字脱字にも優しく見守っていただけて本当に感謝しております。今回は、「質問コーナー!!」を設けてみよう!と思いました!文章でわかりずらかった点や、「ココが知りたい!」ということなど、みなさんの質問に答えていきたいと思います!!※ブログのその先の話はお答えできないのでご了承ください。カウンセリングなどで、返信が遅れるかもしれませんが必ずお答えしていきたいと思います(*^^*)
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