絞り込み条件を変更する
検索条件を絞り込む
有料ブログの投稿方法はこちら

すべてのカテゴリ

257 件中 1 - 60 件表示
カバー画像

あなたは伝えていますか?

みなさま、こんにちは☺️💕こんばんは💕ライフサポーターのあいらです❀突然ですが、、、あなたは普段から自分の気持ちを言葉にして出していますか?態度や表情でわかってもらおうとしていないですか?上司や同僚、友人たちに嫌なことを頼まれたとき、お客様や取引先から理不尽なクレームやお願い事をされたとき、夫・妻・彼氏・彼女・家族の言葉にイラッと感じたとき、などなど..誰かに言われたときに感じた違和感や何気ない一言に、ん?と思ってしまったときの、その違和感無視していませんか?少しでも心当たりがあったら/危険かも(*_*)❗️注意よ❗️\実は今日、職場で社長が外国人スタッフに頼み事をしたんですね。そしたらですね・・・「なんで私がやらないといけないんですか?」「んー・・・それ私の仕事じゃないです。。」「それはやりたくありません。」「それをやるためにこの会社に入ってきていません、、、」ぇえええ!!!それ言っちゃうの?!🙀🙀🙀🙀🙀← 社長も一瞬こうなったよね。いまこれを読んで、あなたはどう感じましたか?もし自分が上司や社長にやりたくない仕事を頼まれたら、どう返答しますか?「(えー、いま忙しいんだけど...)・・わかりました。」「(うわぁ,,,めんどくさいなぁ...)・・かしこまりました」「(いやだなぁ..責任重いなぁ...)・・はい、承知しました」本心はやりたくないのに、でも「仕事だから」という理由で、何でもかんでもすべての頼み事を受け入れていませんか?仕事に対する姿勢、取り組み方は人それぞれポリシーあると思いますが私は、この外国人の方を”なんて素直な子!”と思いました。しっかり回避能力が備わっている
0
カバー画像

きっかけ---気持ちを見失っていた時の出来事⑤

今回のお話は、屋根施工職人をしていた時の出来事です。 当時、私が主に屋根施工の仕事を頂いていた瓦工事店(A社)は、経営が少し傾いていました。 私も、そのままA社専属で仕事をしていたのでは、「やばい」と思い、専属をやめることをA社社長に伝えました。 すると、A社社長から、瓦工事店の改革を会社内部からやってもらえないかと打診されました。 それまでも、瓦工事店と職人さんたちの間に入り、結構意見など伝えていましたので、外部(職人側)からではなく、内部から意見を出し実際に変えていってもらえないかということでした。 このまま職人をしていても、先は暗く感じていたのと、少し「面白いかも」と思い、受けることにしました。 この時は、気持ちのままに選択したものと、気持ちを見失ったまま選択したものがかなり入り乱れました。(あくまでも、気持ちに気付いている今から観た判断です。) その時に、一番ポイントになる場面で、私は気持ちを見失っていましたので、A社社長の依頼を承諾し、後々、ひどい目にあいます。(苦笑) 一つ目に遭遇したのは、「はしご外し」でした。 私は、社長の後押しがあると思っていたから、従業員さんや職人さん達と真正面から向き合い、従業員さんや職人さんが聞きたくないことも伝え続けて前に改革を前に進めていました。 よく「なんで自分がここまで嫌われ者にならなければならないのか…」と、思っていましたが、やり始めたことなので最後までやり通さなければと踏ん張っていました。 そして、一つ目の重要ポイントとなる場面がやってきました。 従業員全員から私に対しての不満が頂点に達し、社長に直談判が行われました。 私は、
0
カバー画像

心の鎧?

受講者の方から、質問というか、私の意見を求められた時のお話です。 受講者の方をAさんとします。 Aさんが、ある時、ラジオを聞いていました。 あるお医者さんがパーソナリティをしていて、リスナーの方の質問などに答える15分程度の番組だったそうです。 その中で、以前、パーソナリティの方が「子供のころにいじめにあって、自分を守るために『心に鎧』をまとっていた。そして、その鎧で自分を守っていた」というような感じのことをリスナーの方が聞き、自分の子供(幼稚園生)にその「心の鎧」の話をし、子供にも心の鎧を着させてあげたいのですが、どのように伝えればよいのかアドバイスをお願いします。というような内容だったそうです。 Aさんは、パーソナリティ方が答えている内容を聞いても、よくわからなかったので、私に質問というか、意見を求めてこられました。 そこで私は以下のようにお答えしました。 そもそも、心に鎧を着せるのは、いじめなどに遭遇した時に自分が傷つかないようにするためです。 ということは、いじめられることが前提での「心の鎧」ですから、私でしたら「心の鎧」の話を子供にはしません。 いじめられることを前提ということは、日常生活の中で「いじめ」を意識して過ごすようになります。 意識して過ごすということは、「いじめ」を引き寄せる可能性が格段高くなります。 私は、子供に「いじめ」を引き寄せて欲しくはないのでそういうことはしません。 でも、「いじめ」にあう可能性はやはりあります。 ですから、子供には、「嫌なこと」「悲しかったこと」「辛かったこと」などがあれば、いつでもお話をしてほしいと伝え続けると思います。 そし
0
カバー画像

きっかけ---気持ちを見失っていた時の出来事④-1

前回のブログ記事を書き終わってから少し思い出した感覚を今回はサクッと書き綴ってみたいと思います。 気持ちを見失っていた時期でも、そこそこ仕事は上手くいっていた時が多くありました。 もちろん、力業で強引に上手くいかせていた時が多かったのですが…(苦笑) そんな中で、力尽きて上手くいかなくなるのではなく、まだ余力があるのに上手くいっている仕事を辞めることが何度かありました。 この時の感覚を思い出しました。 例えば、製麺会社で自分の希望通りの条件で働けるようになったのに、辞めてしまった時がそうでした。 希望が叶うと同時に、心に何かポッカリと「穴」のようなものが空くのです。 すると、その「穴」から言いようのない「不安」なようなものを感じます。 そうなると、希望がかなった現実が、本当は間違っているのではないかと思え始めます。 この「穴」は、なぜか日に日に大きくなり続けますので、「不安」も大きく感じるようになります。 あまりにも不安が大きくなるので、「ここに居るのは、間違っている」と思え、「辞めます」となります。 このパターンを、何度か体験をしました。 希望通りの現実なのに、その現実から背を背ける。 「自分はいったい何をしたいのだろう?」と、幾度となく思い悩みましたね。(苦笑) 若い時はまだ、時間があるからまだ良いと思えるのですが、年を重ねると良いとは思えなくなります。 すると、焦りが生じ始め、さらに思い悩むようになり、それを忘れたいがために、気を紛らわせるためにいろいろな事に手を出します。 そういえば、スキーにスキューバダイビング、ジェットスキー、ウィンドサーフィン、マウンテンバイク、バ
0
カバー画像

きっかけ---気持ちを見失っていた時の出来事④

今回は、仕事での出来事です。 私は、アルバイトも含めると、本当に多くの仕事に就きました。 この多くの転職も、気持ちを見失っているからこそなせる業でしたね。(苦笑) そんなたくさん就いた仕事のうちの一つ、「製麺会社」での出来事です。 今回お話しする「製麺会社」とは、主にスーパーなどで販売されている「うどん」「そば」などを製造している会社となります。 「うどん」「どば」意外にも、ラーメンの麺も製造していました。ラーメン専門店の要望に応えた麵を製造したり、新規にオープンするラーメン店のオリジナル麺のアドバイスや製造もおこなっていました。他にも、スーパーの総菜コーナーの一角を借り受け、中華の総菜を製造販売、小中学校へのソフト麺の製造納入も行っていました。 私は、友人の紹介で、時給がそこそこ良かったこともあり、働くことにしました。 最初は、スーパーやラーメン店、ファミレスなどに、麺などを配送することを担当していました。 配送の仕事は、朝5時から始まります。 配送する商品を確認し、配送車に積み込み各お店に決められた時間通りに配達していきます。 初めての職種なので、わからないことが多くありましたので、よく質問をしていました。 すると、少し働いていると、常務や専務、社長に気に入られるようになりました。 小さな会社でしたので、社長に専務、常務、経理一人と、10数名ほどのパートアルバイトの方で仕事は回されていました。 気に入られるようになることで、おいしいことがありました。(笑) まず、早朝に会社に行くと、釜揚げうどん食べ放題! これは、たまりませんでした。(笑) スーパーなどに納入する麺をゆでる
0
カバー画像

きっかけ---気持ちを見失っていた時の出来事③

今回は、恋愛がらみの出来事を書き綴ってみたいと思います。 24歳くらいの時に付き合っていた彼女との出来事です。 もちろん、気持ちを見失っていた時の出来事なので、結末はうまくいかなかったお話です。(苦笑)彼女とは、付き合い始めの頃は、楽しく良好な関係でした。 当時、私は女性と付き合い始めると、すぐに将来のこと(主に結婚)を考えてしまいました。 すると、結婚するためにお金が必要、家族が増えればお金がさらに必要、万が一のためにお金が必要などと考え、今の仕事ではそんなに稼げないからもっとしっかり稼げる仕事に就かなければと、考え転職をしていました。 仕事の話は、また別の機会に書き綴りますが、今回の女性と付き合っている時も転職をしました。 (この時は、転職というよりも、独立でした。) その時の、私の頭の中は、「彼女のために、彼女の幸せのために、もっと良い仕事を、もっと良い稼ぎを」でいっぱいでした。 転職する前は、休日などは、彼女とデートなどをし楽しく過ごしていたのですが、転職をしてからは、休日なしの働きづめでした。 彼女は、働きづめの私を見て、最初は何も言わずに理解してくれようとしましたが、仕事がなかなかうまくいかなかったので少しずつ、私の仕事に対する姿勢に対して、コミュニケーションを取ろうとしてくれていたのですが、私は彼女の伝えようとすることに耳を貸すことはありませんでした。 それどころか、「なぜ、俺がこんなに頑張っているのをわかってくれないのか」「誰のためにこんなに頑張っていると思っているのか」と内心憤りを感じていました。 そんな生活が半年ほど続き、仕事も何とか目処がつき始めようとして
0
カバー画像

きっかけ---気持ちを見失っていた時の出来事②-2

前回の続きです。 始めて購入した、車の最終章といったところでしょうか。(笑) もっとも、気持ちを見失っていた時の出来事のワンシーンでしかありませんが…(苦笑) なんとか車の修理も終わり、手元に車が返ってきました。 そして、数日が過ぎ、高校の卒業式の日でした。 式も無事に終わり、開放感に浸りながら、深夜まで友達の家で寛いでいました。 すると、一人の友達が、「ゼロヨンをやりに行こう!」と、言い始めました。 深夜の2時ころでした。 私は、眠いのと、事故を起こしたばかりだったので、気乗りがしなかったので最初は断っていました。 かなり、断っていた記憶があるのですが、友達がとてもしつこく誘い、挑発してくるもので、最後にはその誘いに乗ってしまいました。 友達の家からゼロヨンが可能な場所までは、少しタイトな山道を通って行かなければなりませんでした。 お互いに車に乗り込むときに、また友達が挑発してきます。 「山道、ついてこれるかな?」と。 その言葉に、カチンときた私は、「絶対ついて行ってやろう!」などとヒートアップしていました。(もう、この時点で、気持ちの見失い方が暴走状態でしたね。苦笑) さて、結末を先に言ってしまうと、私の車は「廃車」となります。 大きな大木に真正面からノーブレーキで突っ込み、車フロント部分がⅤの字に凹み、ラジエターはもちろん、エンジンまで終わっていました。 今の私から観れば、原因は「気持ちを見失い続けたこと」とシンプルな答えになるのですが、当時の気持ちを見失っている私からすれば、答えは違ってきます。 まず、「ゼロヨンに誘った友達」が最初に浮かびます。 「俺は最初、断っていた
0
カバー画像

きっかけ---気持ちを見失っていた時の出来事②-1

前回の続きからですね。 私自身、お金は持っていませんでしたし、親も私の車を購入するようなお金は持っていませんでしたから、車購入に必要な諸経費代金もすべてローンに組み入れてもらいました。 私が欲しい車種の車を購入したのではなく、私が何とか購入できる車までダウングレードし、自分を何とか納得させた車でした。 それでも、購入できたことの喜びはとても大きかったと記憶しています。(笑) 今思えば、ローンの審査が通ったのは、車屋さんの裏技だったと思います。 4月からは収入が入ってくるとは言え、まだ収入のない状態の私が、60万円ほどのオートローンを組めたのですから、裏技でしかないと思えるのです。 そう言えば、当時は利率も高く、年利15%ほどだった気がします。 毎月2万円強のローンを3年程支払った記憶があります。 月収7万円くらい(月給ではなく、日給だったので、夏の閑散期には給料は5万円ほどしかなかった記憶があります。苦笑)の中で、車のローンを支払い、車の保険や維持費を支払うと…などとは、気持ちを見失っているので、頭をよぎることはあっても完全に無視です。(汗) 「欲しい!」の一点勝負ですから。(大汗) 気持ちを見失っているからこそ、できる芸当ですね。(苦笑) さて、車が手に入れば、当然、走らせたくなりますよね。 車が手に入ったときには、もう学校も卒業式までは休みになっていましたので、母親の仕事の手伝い(アルバイト)をすることにして、そのアルバイト先の現場に行くのに、私の車で行くことを提案し、了承を得て車で行くことになりました。 車が納車されてから、数日のことでした。 その日は、私の地元でも年に数
0
カバー画像

きっかけ---気持ちを見失っていた時の出来事②

気持ちを見失っていた時の出来事として、前回は、15年間ほどで30数台買い替えたことを書き綴りました。 今回は、最初に購入した車のことを書き綴りたいと思います。 もちろん、気持ちを見失い続けていた時なので、結末は悲惨でした。(苦笑) では、気持ちに気付いた今だからこそ良く理解できる当時のことを書き綴りたいと思います。 最初の車を購入したのは、高校を卒業する前でした。 (もうこの時点で、気持ちをとても見失っています。汗) 車を購入しよと思うまでに至る前の経緯は省略しますが、もちろん、省略期間も気持ちは見失っていました。(笑) 4月から地元の被服会社(主に学生服を製造販売していました。)で働くことは2月の初めには決まっていました。 給料は、月に7万円程度だったと記憶しています。 中学を卒業して働き始めていた仲の良い友達たちは、すでに車も購入していて私に自慢げに見せつけられていたので、私も車が欲しくて欲しくてどうしようもなかったのを記憶しています。 小さな子供が、友達の持っているおもちゃを見せられると、自分も欲しくたまらなくなるのと同じ感覚ですね。(苦笑) 購入資金もないのに、車を欲しがるのですから、オートローンを組むしか方法が見つからないのですが、まだ会社にも就職していない(定期収入のない)私が、普通ならオートローンなど組めるはずもないのですが、私は欲しくて欲しくてたまらなかったので、知り合いの人に相談をしまくっていました。(この時点で気持ちを見失っているだけでなく、見失った暴走は始まっていました。汗) すると、母親の知り合いの知り合いの人だったかなぁ、その方が懇意にしている車屋さん
0
カバー画像

きっかけ---気持ちを見失っていた時の出来事①

気持ちが不安定な人生とは、言い換えれば、「気持ちを見失った人生」と言えます。 生きる上で、何が最も大切なのかを、私なりに気付いたのが37歳から38歳にかけてでした。 「何が最も大切なのか」の答えは、もちろん「気持ち」になります。 そこから20年弱かけて、現在に至るのですが、少し、気持ちに気付く前の人生を振り返ってみたいと思います。 私自身、気持ちが大切だと気付いてからは、過去を振り返ることはほぼしませんでした。 それは、未来を作るうえで、過去はほぼ関係ないと認識しているからです。 (この過去を振り返る必要がほぼないと思える理由は別の機会で書き綴ってみたいと思います。) しかし、視点を少し変えて、気持ちに気付いた視点で過去を振り返ることも、これから気持ちに気付いていこうとされる方には、「きっかけ」としては有効でなんじゃないかなと思いましたので、書き綴ってみることにしました。 記憶にある37年間を、気持ちで振り返ってみると、なぜあの時にあの言動をとったのか、とても良く理解できます。 例えば、私が初めて車を購入したのは、19歳の時だったのですが、そこから15年間ほどで30数台、車を買い替えました。(苦笑) 高校を卒業すると同時に、働き始めたのですが、給料は安く月収7万円ほどでしたが、どうしても車が欲しくて無理やりローンを組んで購入しました。(もう、この時点で気持ちを見失っていますよね。汗) その最初に買った車も、2週間ほどで事故で廃車にするのですが、そのエピソードは別に機会にします。 あの時のことはとても良く記憶していて、気持ちを見失っての行動の最たるものの一つです。(苦笑) 話を戻
0
カバー画像

きっかけ---気持ちの一つの特徴

自覚を続ける中で一つ気付いたことがあります。 それは、気持ちの(一つの)特徴です。 どんな特徴かと言いますと、「ゆっくり」です。 意味が分かりませんよね。(笑) 少し表現を変えると、気持ちには「即効性がない」と言えます。 例えば、気持ちに気付けば「劇的」に現実が変わるかと言いますと、劇的には変わりません。 「ゆっくり」「ゆっくり」としか変わりません。 それは、現実が劇的に変わると、また気持ちを見失いやすくなるからです。 「きっかけシリーズ?」(笑)の最初に書き綴ったブログ記事に、私自身が気持ちに気付いたけどまた見失い始め、そこからまた自己観察(自覚)を継続することで、今日に至ることをお伝えしているように、気持ちそのものには一瞬で気付くことは可能ですが、気づき続けることの方が大切(難しい)なので、気づき続けることができるように、「ゆっくりゆっくり」と現実を変えていきます。 いつも感じるのですが、自分は自分にとても優しいですよね。(笑) 受講される方には、劇的な変化を求められる方がおられるのですが、いつもお伝えさせていただいています。 「劇的な効果はないですよ。」と。 他にも「ゆっくり」に意味があります。 それは、「自分に無理をさせない」ために、ゆっくりになっています。 何かを劇的に変えようとすると、当然そこに費やすエネルギーは相当なものになります。 無理や我慢をしなければならない時が多々あるのですが、数回くらいであればそれも可能でしょうが、「多々」と書いてある通り、時にはかなりの回数無理や我慢を自分に強いらなければなりません。 自分に強いるだけなら良いのですが、当然のように周りに
0
カバー画像

きっかけ---気持ちにある一つの性質(補足③)

気持ちにある一つの性質の補足説明の記事を2つ書き綴ってきました。 補足①で、気持ちの「より良く」は、本能で、気持ちを見失うことで「より良く」が分離し不安定になる。 補足②で、心と気持ちはコインの表裏のような関係で、心と気持ちがワンセットで「本来の自分」と言える。 今回は、さらに補足説明の③「不安定を嫌う気持ち」を書き綴ってみたいと思います。 気持ちを見失った時点で、気持ちは不安定になるのですが、その不安定な状態を詳しく観ると、気持ちの性質「より良く」が「より」と「良く」に分離するとお伝えしました。 「より良く」で在るからこそ、安定した気持ちなのですが、「より」と「良く」に分離してしまうと不安定な気持ちにならざるを得ません。 では、不安定な気持ちのままで過ごせるかと言いますと、とても居心地が悪いので過ごせません。 気持ちがざわついていたり、落ち着かない状態の時は、やはり落ち着かせたいと感じますよね。 気持ちは、不安定を嫌い、安定を好みます。 しかし、気持ちを見失っている状態では、分離した「より」と「良く」をワンセットにはなかなか戻せません。 (少し詳しく説明すれば、元々、「より良く」は気持ちをどんなに見失っても分離することはないので、元に戻すことは出来ません(必要はありません)。分離していないのですから当たり前ですね。笑 つまり、分離しているように見えるだけで分離はしておらず、「より」もしくは「良く」が見えなくなっているだけです。) それでも、気持ちを見失っている状態でも本能は機能していますから、気持ちを安定させようとします。 気持ちを見失って、「より」と「良く」に分離した時に、
0
カバー画像

きっかけ---気持ちにある一つの性質(補足②)

前回の続きですね。 「心」と「気持ち」の関係を書き綴ってみたいと思います。 関係と言っても、私個人的に「心」と「気持ち」という言葉をどのように定義し、どのように区別しているかという説明ですので、本当の意味での「心」と「気持ち」の解釈ではないかもしれませんので、ご留意ください。 まず、「心」と「気持ち」の違いから始めます。 心とは、表現できないもの。 気持ちは、表現できるもの。 ここから始まります。 心そのものは、無色透明でなにものにも影響されるが影響されない。 (矛盾していますが、私はこの矛盾した表現で心をとらえています。定義しています。) 気持ちは、その心で感じたものを表現するためのもの。 すなわち、心だけでは、何も表現できないが、気持ちがあることで心を表現できる。 そのように感じ、定義しています。 一枚のコインで例えるのであれば、コインには、表と裏があってコインとして存在できる(表現される)わけで、表と表では、それはコインとして存在(表現)できません。 心と気持ちは、このコインの表(気持ち)と裏(心)のような関係だと定義しています。気持ちだけでも、心だけでも、コインにはなり得ない。 では、コインの存在は、裏と表のワンセットで、「コイン」となりますが、気持ち(表)と心(裏)のワンセットではそこに何が存在するのでしょうか? お察しいただけている方もおられると思いますが、それは「自分」となります。 心と気持ちがワンセットで、本来の自分自身と、私は定義しています。 この心と気持ちの関係(定義)がハッキリ(自覚)していないと、色々と不都合なことが生じます。 例えば、私が他人からネガテ
0
カバー画像

きっかけ---気持ちにある一つの性質(補足①)

前回の記事で、私の過去の不安定な人生を書き綴ると言っていたのですが、前回の記事を読み返してみて、少し補足をしておきたいと思いましたので、補足を先に書き綴っておきます。 少し話はそれますが、そういえば、過去の記事に「次回は〇〇を書きます。」と言っておきながら、書かずに放置されているものがありますね。(汗)折を見て書き綴ってみたいとは思っています。思っています。(苦笑) では、「気持ちにある一つの性質」記事の補足です。 記事の中で、「より良く」は、「本能のような気がする」と書きました。 私的には、「本能」だと認識しています。 ここで言う本能は、気持ちを見失っていても、常に在り続けるものと解釈してください。 呼吸をしていることを意識していなくても呼吸をし続けるように、心臓を動かすことを意識していなくても心臓が動き続けるように、生まれた時から備わっている機能くらいに思っていてください。 ですから、気持ちを見失っていても、見失っていなくても関係なく「より良く」は、在り続けるのです。 ただ、気持ちを見失ってしまうことで、この「より良く」が不安定になります。 どう不安定になるかと言いますと、ワンセットだった「より良く」が、「より」と「良く」に分離してしまいます。 例えば、調理をする時に、食材をカットしようとするとします。 左手で、食材を抑え、右手に握った包丁でカットすることで安定して食材をカットできるのと思いますが、左手を使わないで右手に持った包丁だけでカットしようとすると、とても不安定になり、思うように食材をカットできないと思います。 それと同じように、気持ちを見失うことで、「より良く」の
0
カバー画像

きっかけ---気持ちにある一つの性質

「きっかけ---気持ち深まるとは」の続きです。自己観察(自覚)し続けることで、自分の中で「気持ち」がハッキリと認識できはじめ、さらに自覚し続けると「気持ち」の性質のようなものが観えて(気付く)くるようになりました。 それが「すべて」というわけではなく「すべての中の一つ」くらいの感覚です。 ただ、すべての性質に占める割合は強い気はします。(現時点では。ですからこの先深まれば認識は変わるかもしれません。) その性質は、「より良く」というものです。 今この瞬間が「良い」ものであれば、次の瞬間の気持ちは、今よりもさらに良くしようとしています。 ここで、「より良く」を少し詳しく説明しておきます。 「より良く」の前提にあるものは「良い」です。 良いものをさらに良いものへとしようとする状態を「より良く」とここでは定義しています。 良いを基準に、さらに良くしようとする状態を「より良く」。 悪いを基準に、良くしようとする状態であればそれは「良く」。 ここでは、そう認識しておいてください。 気持ちには、「良いものをより良くさせる」性質がある。 もちろん、悪いものを良い方向へ向かわせることも可能ですが、それでは気持ちが持つ本来の能力を活かし切れていません。 表現を変えるならば、「宝の持ち腐れ」みたいな感覚です。(笑) 気持ちは、今の瞬間を「良くする」「より良くする」と同時に、次の瞬間には「良くなったものをさらに良くする」「より良くなったものをさらに良くする」、そういう性質があります。 自覚し続けることで、常に「より良く」生きようとする自分に気付くようになります。 これは、本能のような気がしています。
0
カバー画像

きっかけ---気持ち深まるとは

前回のブログ記事の続きです。 前回のブログ記事の最後に「ここまで気付け始めると、さらに面白い現象が起き始めます。(気付き始めます。)」と書き綴りました。 AおにぎりとBおにぎりを、ありのままに観続ける(映し続ける)と、AとBの違いが観えてくると書きましたが、「AおにぎりとBおにぎり」を「気持ちと気持ち以外」に戻しますと、「気持ち」と「気持ち以外」に違いが観えてくるようになります。 「気持ち」と「気持ち以外」…「気持ち」と「思考」「感情」etc。 気持ちと思考(厳密には、気持ちを見失った思考)の違い。 気持ちと感情(厳密には、気持ちを見失った感情)の違い。 気持ちとetc(厳密には、気持ちを見失ったetc)の違い。 この違いが観えてくると、AおにぎりとBおにぎり、どちらが先に握られたかが観えてくるようになります。 全く同時にAおにぎりとBおにぎりが目の前にあったのではなく、Aおにぎりが先に握られたと判るようになります。 おにぎりで言えば、おにぎりの表面温度がAの方がほんの少しだけ低いから、先に握られたなどですね。 Aおにぎりという「気持ち」、Bおにぎりという「思考」どちらが先に湧く(握られた)のか、判るようになります。AとBの違いが判ると、次にAとBどちらが先かが観えてくる(気付く)ようになります。 すると、Aを言動に移した時と、Bを言動に移した時に、起きる現象(現実)で、どちらが自分にとっても周りにとっても好ましいのかが判断できるようになります。 ここでも、ありのままに現実を映し出すことで判断は容易にできるようになります。 ここまでくれば、もう気持ちのままにしか生きられなくなり
0
カバー画像

きっかけ---自己観察の本質

では、自己観察の本質について書き綴ってみたいと思います。 3か月ほど、我流の自己観察を続けていますと、何となく自己観察とは何なのかが観えてきました。 自己観察とは何なのか…本質は「自覚」ではないか、と思えてきました。 ハッキリと「わかった!」という感覚ではなく、思えてきた程度でした。(笑)主体と客体での観察では、傍観者となり、本来の自分とそうでない自分との区別はなかなかわかりづらかったのですが、「自覚」という感覚であれば、本来の自分とそうでない自分の区別がわかり始めました。 今でこそ、自己観察の本質は「自覚」だと、確信していますが、その当時は「思える」くらいの感覚でした。 なんとも危ういですね。(苦笑) ただ、この「思える」くらいの感覚だったからこそ、その後も(現在も)しっかりと自覚して過ごすことができたと感じています。 危うい感覚ですから、自分から目を離すことができません。 一瞬たりとも目を離すことができないから、自覚して過ごすことができる。 なんとも絶妙だと後々、感心しました。(笑) では、自覚とはどういうものなのかですが、今までブログ記事でかなり説明してきたのですが、大切なポイントですから、ここでも説明をしておきたいと思います。 例えるなら、自覚とは、「鏡」のようなものだとも言えます。床屋さんに行けば、椅子に座ったときに正面にある「鏡」です。(笑) 自分の前に鏡を設置すれば、鏡に自分が映ります。鏡には、今の自分がありのままに映ります。 自覚も、鏡に映る自分の姿のように、今の自分をありのままに映します。鏡は、ありのままに映すだけで、何も判断しません。(判断とは、考えたり、批
0
カバー画像

きっかけ---試行錯誤「継続」

前回の記事(きっかけ---試行錯誤「自己観察」)からの続きです。唯一のヒントである「自己観察」という言葉はわかるけど、本質がさっぱりわかりませんでした。 自分の中に、主体と客体を作り出しては、観察してみるのですが、しっくりきません。 しっくりこないからといて、誰か助言をしてくれるわけでもありませんから、結構途方にくれました。(苦笑) ちなみに、きっかけを与えてくれた、Aさんですが、この方は、気持ちをほぼ見失うことなく生きてこられた人でしたので、気持ちを見失っている状態からどうすれば気持ちにまた戻れるのかの答えを持ち合わせてはいませんでした。(笑) 途方に暮れるのですが、暮れ続けるわけにもいきませんから、唯一のヒント「自己観察」を我流でやり続けました。 ただただ、我流…でたらめな自己観察をやり続けました。 本当に、ただただやり続けました。 このやり続けた期間は、本当に大変でした。(笑) 何が大変かと言いますと、思考が止まらない…洪水のように押し寄せてくるからでした。(汗) 自己観察の本質を見極められていないので、常に「これ自己観察になっている?」と疑念(思考)がありますから、その疑念(思考)から芋づる式のように思考が次から次へと湧き続けます。 それまで、自分の思考などじっくり観察したことなどなかったので、もうびっくりでした。(驚) どちらかと言えば、思考が自分自身のように捉えていましたから、思考そのものを気にも留めていませんでしたから。(苦笑) その時には、若干、気が狂うじゃないかと思っていました。(苦笑) それでも、一度、本来の自分を自覚してしまうと、もう見失った自分では生きた
0
カバー画像

きっかけ---「自己観察」の補足

少し話がそれますが、「自己観察」は、本質を理解して行わないと、少し面倒なことになることをお伝えしておきたいと思います。 「観察」には、観察する側の「主体」と観察される対象の「客体」は必要だとお伝えしました。 そこで、「自己観察」をしようとしたときに下記のように考え取り組んだとします。 『観察するには、観察する側の「主体である自分」と、観察される対象の「客体である自分」が必要なので、「ただ見ている自分(観察者)」と「見られている側の自分(対象)」がポイントになる。よし、客観的に自分を観るようにしよう。』 自分の中で、自分を分離するわけです。 この分離は、とても危険となります。 自分が何か言動をしても、もう一人の自分がただ観察しているような感覚になるのですが、少し想像をしてみてください。 自分(主体)が朝顔(客体)を観察している時に、朝顔を自分だとは思いませんよね? 朝顔は、自分ではなく、朝顔(自分以外のもの)でしかありません。 自分の中に「主体」と「客体」を作ってしまうと、自分であって自分でない自分という認識に、無意識に陥ります。 すると、自分のことであるにも関わらず、他人事のように捉えてしまうようになります。 そうすると、「観察者」だったはずが「傍観者」になってしまいます。 自分とは関係ない傍観者で、いくら自分を観ていても何も気づけません。 自分が苦しんでいるにもかかわらず、他人事のように自分を観ている。 何かトラブルが起きているにも関わらず、他人事のように捉えている人をたまに見かけませんか? そういう人は、自分の中に主体と客体を作り出し、傍観者になっている場合が多いです。 も
0
カバー画像

きっかけ---試行錯誤「自己観察」

さて、前回からの続きです。 「気持ち」がとても重要だと気付いた当時(考えるのをやめた瞬間の頃)は、まだ「気持ち」という表現には至っていなく、「本当の自分」とか「本来の自分」とか「源」などと表現していました。(「気持ち」という表現に行き着くまでに、10年くらいはかかりました。苦笑) 考えるのをやめた瞬間に、本当の自分に気付く(目覚める)のですが、時の経過とともに、「今、本当の自分で過ごせているのだろうか?」「また、本当の自分を見失っているのではないか?」などと、疑念が生じ始めました。 なぜ、疑念が生じ始めたかと言いますと、前回のブログ記事でお伝えした「不思議な感覚」が薄れてきたからです。 「不思議な感覚」が薄れる理由は、前回のブログ記事に書き綴りましたので省略しますが、「不思議な感覚=本当の自分」という思い込み(錯覚)が、その時、無自覚に生じていました。 ですから、不思議な感覚が薄れると、本当の自分ではないのではないか?と思えてきました。 今でこそ、当時の様子をこのように詳細に書き綴ることができますが、その当時には、誰もこのようなことを教えてくれることもなかったですし、当然、私自身も理解していませんから、思いっきりこの疑念の落とし穴にはまり込んでしまいました。(苦笑) ただ、この落とし穴から抜け出せるヒントが一つだけありました。 それは、「自己観察」という『言葉』でした。 『方法』ではなく『言葉』だけでした。(笑) なぜ、「方法」ではなく「言葉」だけなのかを少し説明をしますね。 「自己観察」と言われて、皆さんは「自己観察」をどのようにされますか? 夏休みの宿題で「観察日記」などを
0
カバー画像

きっかけ---長続きしない不思議な感覚

前回のブログ記事の中で「不思議な感覚」と表現しました。 とても心が軽く、明るくほっこりとした穏やかな感じでした。 それと同時に、今まで自分が探し求めてきたものがわかったような気がしました。 なぜ物事がうまく運ばないのか、日に日に大きくなる焦燥感の正体もわかりました。 「ああ、これから楽に生きられる。。。」と、しみじみ実感していました。(笑) ところが、その「不思議な感覚」も2週間ほどで消滅してしまいました。(汗) この時は、とても焦りました。(苦笑) ここから試行錯誤が始まるのですが、この試行錯誤の話は、またの機会にします。 のちに、この「不思議な感覚」が続かない理由がわかります。 それは、「不思議な感覚」は『一時的な現象』でしかないからでした。 例えば、右手でも左手でも構わないので、拳を思いっきり握りしめてみてください。 数分拳を握りしめた後に、握っている力を緩めてみてください。 ちょっとした、開放感が得られると思います。 私が感じた「不思議な感覚」は、この解放感と似ています。 この解放感は、拳を握り締め続けた後にしか味わえないものです。 私が「考えることをやめた瞬間」から、私は拳を握り締めることをしなかったわけですから、当然その後、その解放感(不思議な感覚)を味わえるわけはないのです。(笑) しかし、その時には、そんな原理原則は知らない(気付いていない)ものですから、その解放感はずっと続くと勘違いしていました。(苦笑) そして、こうも思いました。 拳を数分握りしめて味わえる解放感は、数秒で終わりますが、私が味わっていた解放感(不思議な感覚)は、2週間程度続いていたわけですか
0
カバー画像

きっかけ---「考えるのをやめた瞬間」を読んでのメッセージ

受講者の方から、メッセージが届きましたので、それに対する回答を書き綴ってみたいと思います。 その方のメッセージをまとめますと、「友人と話をしていて、その友人の現状が大変な状況にある時に、どう励ましてあげようかと考えて考えて言葉を伝えようとするのですが、良い言葉が思いつかないことがある気がします…。」というような内容でした。 考えて考えて言葉を選んだにも関わらず伝わらなかった場合、とても疲れたりしますよね。 もともと、考える行為そのものがエネルギーを使うので疲れるのですが、自分の思う結果に結びつかないことでさらに疲れます。 では、この場合、「なぜ考える」と思いますか? 答えは、友人の話をきちん(しっかり)と聞けていないからです。 もし、友人の話をきちん(しっかり)と聞けているのであれば、“考えることなく”友人に伝える言葉が自然と口から出ています。 それも、今の友人に必要な言葉…激励かもしれませんし、励ましかもしれませんし、𠮟責かもしれません。 もちろん、言葉はなく、ただただ寄り添うだけかもしれません。 それは、今の友人にとってとても助けになるものになります。 「何を伝えれてあげればよいのか…」と、考えた瞬間に、すでに友人の話はきちんと聞けていません。 聞けていないから、聞けていない部分を補うために、“考えなければならない”ようになります。 「励ましたほうが良いのか?」 「叱ってあげたほうが良いのか?」 「同情してあげたほうが良いのか?」etc… 色々と考えてしまいます。 今回の内容は、「考えるのをやめた瞬間」記事とは、少し違う視点での「考える」の考察になりますね。 考察と言っても
0
カバー画像

きっかけ---考えるのをやめた瞬間

「きっかけ」の続きですね。 私が今の状態になる(気付く)「きっかけ」になったのは、『考えるのをやめた瞬間』です。 ある美容室の経営者の方と縁ができ、その方と毎月1回飲み会をしていました。 経営者の方をAさんとしますと、Aさんの知り合いの方数名と、私の知人数名での飲み会でした。 このAさん、その当時、地方都市で6店舗の美容室を経営していて、6店舗とも売り上げが右肩上がりで、一度も売り上げが下がったことがないと言われていましたので、どうすればそのような経営ができるのか知りたくて、飲み会の最中に色々と質問をしていました。 色々と質問をするのですが、この質問に対する返答と返答に対する返答が、なんともかみ合わない。(苦笑) 例えば、右肩上がりの売り上げに対する質問をしました。 私「どうすれば、全店舗、右肩上がりで売り上げが伸びるのですか?」 A「えっ?なんでそんな質問するの?」 私「だって、6店舗とも売り上げが下がることなく右肩上がりって普通ないでしょう?」 A「えっ?そうなの?」 私「えっ?!」 A「売り上げが下がるなんて、考えたこともなかったから知らなかった♪」 A「売り上げって、伸びるものだとしか思ったことなかったから」(笑) とまあ、一事が万事、このようなやり取りが飲み会をするたびに続いていました。(苦笑) 何回目かの飲み会の時に、この時も「今日こそは何か得るものを!」を意気込んで参加していたのですが、例のごとく玉砕していました。(笑) この時の飲み会は、いつもの飲み会よりも早い時間から始めていたので、私の質問するエネルギーも早々と枯れ始めていました。 考えて質問し、返答に対して
0
カバー画像

きっかけ

今、私は、「気持ちコーチ」という名称で活動をしてますが、以前は、カウンセラーのような活動(今も・笑)もしていました。 かれこれ、16年程活動をしているのですが、その「きっかけ」となった出来事と出来事の前後を中心に、今までを振り返って書き綴ってみたいと思います。 まだ書き始めですが、振り返って「16年程…」と書いてみると、結構長く活動をしてきたのだなぁ~としみじみ感じています。(笑) 私は受講者の皆さんからは、「かわらちゃん」と呼ばれているのですが、これは、16年前の当時「瓦職人」をしていたので「瓦職人」の「瓦(かわら)」をハンドルネームにしていたことからきたものです。 54歳のおじさんが「かわらちゃん」ですから、知らない人からすると少し変ですよね。(笑) ただ、「かわらちゃん」と呼んでいただくことにも少し意味があります。 初めて受講される方には「先生」と呼ばれることもあるのですが、この「先生」と呼ぶ瞬間に受講者の方が少し(ほんの少し)へりくだる感覚を私自身感じてしまいます。 へりくだることそのものは悪い行為ではないのですが、へりくだる瞬間に私と受講者の方の間に、壁と言いますか段差を生じさせている感覚を感じます。 私が受講者の方にお伝えしたいものは、寄り添うことでしか伝わらない、気づけないものなので、いきなり壁や段差を生じさせるとマイナスからのスタートになってしまいます。 ですから、背負い込まないでよいマイナスは背負い込まないでスタートさせるために「かわらちゃん」と呼んでいただいています。 もちろん、私も受講者の方を「〇〇ちゃん」と呼ばせていただいています。(笑) この効果は絶大
0
カバー画像

何のための訓練?

先日、受講者の方から質問がありました。 「空を見る訓練や、花まるの訓練をしていれば、気持ちがわかるようになるのでしょうか?気持ちと思考の区別ができるようになるのでしょうか?」というような質問でした。 回答としては、「NOであり、YES」となります。(変な表現ですね。笑) ご説明しますと、私がお伝えしている訓練法を行っていても、“直接的”には、気持ちに気付けることはありません。 ですから、「NO」となります。 しかし、“自覚”は必ず強くなります。 また、自覚の意味も理解できます。 自覚が強くなった結果として、気持ちに気付きやすくなり、気持ちと思考の区別もできるようになります。 結果としては、「YES」となります。 訓練法では、あくまでも、どこまでも“自覚が強くなる”ことしか得られません。 訓練法は、自覚を強くすることが目的です。それ以外の目的はありません。 そして、目的(自覚が強くなる)を達成し“続ける”さらなる結果として、気持ちはどこまでも深まります。 カメラで例えると、訓練はピントを合わせるようなものです。 撮影したい被写体(気持ち)が目の前にあるのだけれど、カメラのピントが合わなければきちんと被写体(気持ち)が撮影できない(気付けない、わからない)。 ピント(自覚)が合っていなければ(なければ)、いくら被写体(気持ち)を撮影(気付こうと)しても、いつもボヤけた(どれが)撮影(気持ち)しかできません(気付けない、かわかない)。 ピント(自覚)を合わせるには、訓練が必要です。 実際カメラのピントを合わせようとすれば、訓練が必要ですよね。それと同じです。 「オートフォーカスはない
0
カバー画像

花まる(訓練法10)

今回の訓練法も、シンプルなものです。 自分のある一定の言動に「花まる」を付けていくというものです。 例えば、仕事で営業をしている人であれば、「お客様に対する挨拶」について花まるを付けていく。 お客様に対して、自分が今できる最高のあいさつができれば「花まる」。 一日の最後に、今日いくつ「花まる」がつけられたかを確認して終了。 今日一日を、いくつの「花まる」で過ごせたかを日々確認して過ごします。 これだけで、自覚は強くなっていきます。 注意点は、「花まるを増やそうとしない」ことです。 「花まる」が増えようが減ろうが自覚の強さには全く関係ありません。 ひたすら「花まる」を付けて、一日の最後に「花まる」の数を確認するだけです。 これだけで、自覚は必ず強くなります。 副産物としては、ある程度続けていますと「花まる」の数が自然と増える(増やそうとしていないのに勝手に増えていく)と同時に、明るく過ごせるようになり、周りからの評価も良くなってきます。 あくまでも、「副産物」ですから、これを目的にはしないでくださいね。(笑)慣れてきますと、お客様に対する挨拶だけにではなく、家族や会社の同僚などへのあいさつも「花まる」対象にしてみてください。 さらに慣れてくれば、「挨拶」だけではなく「会話」も対象にしてみてください。 「会話」を一つとしてとらえるのでなく、会話の中でのあらゆる場面を「花まる」の対象にしてください。 3分程度の会話で10以上の「花まる」がつけられるかもしれませんね。(笑)もちろん、さらに自覚は強くなります。 この訓練法も、ぜひお試しください。 かゎら
0
カバー画像

不備ノート

70歳を超えて保険の営業をされている方がいます。 その方をAさんとします。 Aさんは、契約書類などによく不備があり、会社から指摘されることがあります。 そこで、「不備ノート」を作ってみてはどうかと提案してみました。 Aさんもそれなりに不備のないようにがんばってはいるようですが、なかなか不備がなくならないので提案をしてみました。 書類で不備があった場合、不備の箇所と不備を訂正した内容を書き溜めていくノートです。 不備と言っても、書類だけでなく、書類以外でも不備(不手際など)があった場合にも書き込むようにアドバイスをしました。 それから、半年ほど経った時に、Aさんが書類の不備がまたあったことをお話ししてくれました。 そこで、「不備ノートは活用されていますか?」と尋ねますと、「えっ?不備ノートって何ですか?」と尋ね返されたので半年ほど前に書類の不備が続いたときに書き始めたノートだと説明をすると「あ!あ~~~…」と思い出されました。 今は使ってなく、どこかに片づけてはいるけど、どこに片づけたかわからない状態でした。(苦笑) なので、再度、不備ノートを始めるようにお伝えさせていただきました。 そして、毎日、仕事を始める前に30分読み返すようにすることもアドバイスをしました。 この不備ノートは、もし、書き溜めていくことが出来ましたら、さらに活用できるようになります。不備ノートには、書類の不備、営業トークの不備、契約者へのフォロー不備、アポイント時の不備、新規訪問時の不備など、いろいろな場面の不備を書き込みます。 そこで、次に、色々な場面をひとまとめにして書き綴ったものを、場面ごとにまとめま
0
カバー画像

少しずつは、広がりやすい

前回の続きです。 「少しずつ、少しずつ」には良い意味があることを前回お伝えしました。 そして、さらに良いことがあると、最後に書きました。 その「さらに良いこと」について今回はお書きします。 実際に「少しずつ、少しずつ」を行っていただければわかるのですが、「少しずつ」の範囲が微妙に広がっていきます。 私の場合であれば、掃除開始当初は、上縁面だけをクエン酸入りシートで拭き取っていたのですが、2か月ほどで継続していますと、エプロン部分の水垢が気になり、そこも上縁面と一緒に拭き取るようになりました。 まだ、目に見えてきれいになったという実感はありませんが、数か月もすれば実感も感じられるようになるのではないでしょうか。(笑) 別段、エプロンを掃除しなければと思ったのではなく、ふとエプロン部分が気になりそのまま拭き取り始めただけですから、面倒に感じることもありません。 上縁面と同じで「サクッと」拭き取っているだけです。 このように、少しずつは1回でさほど労力を使わないので、隣りが気になると手を伸ばしやすい特徴があります。 そう、少しずつは広がりやすいのです。 あと、質も高まりやすいです。 毎日サクッと拭き取るのですが、この拭き取り方も右側から行っていたものを左側から行ってみたり、利き手で行っていたものを反対で手行ってみたりと、別段、質を高めようと思っていないのですが、試行錯誤を勝手に始めて結果的に手際よく効率的に行うようになっています。 サクッと拭き取るのですから、20秒もかかりません。 20秒もかからないのに、その20秒の中で、勝手に試行錯誤している自分がいるのに気づくと、プッと笑えたり
0
カバー画像

少しずつ、少しずつ

前々回の記事で「上縁面」を題材に書き綴ってみました。今回は、その続きです。 前々回の記事の最後に「少しずつ、少しずつにも意味があります。」と、書きました。 その意味とは、例えば、浴槽の上縁面の清掃をもうヘロヘロになるまで一生懸命に行った結果、新品同様にまできれいになったとしましょう。 そして、その翌日、皆さんは浴槽を清掃するでしょうか? たぶん、することはないと思います。 こんな思考もわいてくるでしょう。 「また、少し汚れてからでいいよね。」 「昨日、あんなに頑張って掃除したのだから、今日くらいはしなくても良いね。」 などなど。(笑) 次の日に続きにくい、続かない。 それに比べて、「少しずつ、少しずつ」は、サクッとできることを毎日、何か月も続けて行います。 1回の清掃を無理をすることなく、そして、何か月も継続するので、習慣化されます。 例えば、掃除を始めて3か月後に浴槽がきれいになったとしましょう。 その間に、サクッと清掃が習慣化してしまい、何も考えることなく当たり前のように行うようになっていた場合、浴槽がきれいになったからと言ってやめてしまうと思うでしょうか? 多くの人は、そのままサクッと清掃を続けると思います。 続けようと思い続けるのではなく、ごく自然に続けると思います。 これから先ずっときれいな浴槽に入り続けられる、とても良いと思いませんか?(笑) 気持ちよく過ごせる時間がサクッと増える、素敵ですよね。 「少しずつ、少しずつ」には、そういう意味があります。 「一度に、一気に」は、持続性はあまり期待できません。 達成感や、やった感は得られますが、達成した時点でゴールなので終
0
カバー画像

上縁面

長年使っているお風呂の浴槽の掃除をする機会がありました。 浴槽の上縁面に水垢がしっかりと付着していました。 浴槽専用の洗剤や、クエン酸などを使い一気にきれいにしようとしたのですが、素人がすることなので教科書に書いているようにはきれいにはなりませんでした。(苦笑) 少し時間をさかのぼりまして、浴槽の清掃する数週間前に、洗面台も同じように掃除をする機会がありました。もちろん、洗面台も同じように水垢は一気にはきれいに落とすことはできませんでした。 ただ、洗面台はその日から毎日一度、クエン酸入りの不織布シートでふき取り清掃をしていました。 水垢を落とすというよりも、表面を水拭きするような感じで行っていました。 すると、水垢が少しずつ落ち、洗面台がきれいになっていきました。 ですから、浴槽の上縁面も同じようにクエン酸入りの不織布シートで毎日拭き取りをしてみました。 浴槽の上縁面は、洗面台の水垢よりもかなりきつかったので、「これで果たして水垢が落ちるのか?」などと疑いながら1か月ほど続けてみました。 すると、少しずつ少しずつ水垢が落ち、きれいになってきました。(嬉) この時に感じました。 自覚の意味を知り、自覚を強くする訓練法も、浴槽の上縁面をきれいにするのと同じようなものだと。 「こんな訓練法で、本当に自覚が強くなるの?何かが変わるの?」と、日々、疑念はわき続けるでしょうが、行い続ければある時「あ、本当に自覚の意味が分かった♪自覚が以前よりも強くなった♪」と、気づき嬉しく感じる時がやってきます。 上縁面の清掃は、訓練法にも良いかもしれませんね。(笑) そうそう、「少しずつ、少しずつ」にも
0
カバー画像

挨拶をする(訓練法9)

今回の訓練法は、「挨拶をする」です。 この訓練法も、とてもシンプルです。 誰でも簡単にできるのですが、注意してほしいポイントが2点あります。 ①言葉をハッキリと相手に伝える。 ②最後の一文字が相手に届けられたことを確認する。 この2点です。 一文字一文字をハッキリと口にし、相手に伝え、最後の一文字(感覚的には「。」が良いですね。)が相手に届けられたことを確認することまで行います。 ※ここで表現している「挨拶」は、下記のようなものも含みます。 「おはよう」「おはようございます」「こんにちは」「こんばんは」「失礼します」「ありがとう」「ありがとうございます」「すみません」「ごめんなさい」「おやすみ」「おやすみなさい」「いってきます」「ただいま」「おかえりなさい」などなど。 自覚の意味を知り、自覚がしっかりすると同時に、副作用として、人とのコミュニケーションが円滑になりやすく、自分の気持ちを表現しやすくなり、届けやすくもなります。 まずは、一週間試してみてください。 副作用の方が早く実感できると思います。(笑) かゎら
0
カバー画像

心の安定

心が安定しない(落ち着かない)時に、つい安定させるために何かをしてしまうのですが、それで本当に心が安定する(落ち着く)かと言いますと、安定はしないと思います。 一時的な安定(落ち着き)は、可能でしょうが、またすぐに不安定になります。 一時的な安定は、本当の意味での安定とは違います。 何かをすることで、本当の意味で安定するのであれば、それは一時的なものではなく続かなければなりません。 では、本当の意味での心の安定を得るためには何が必要なのでしょうか? 答えは、「何も必要ない」です。 心は、本来、安定しているものです。 その安定を崩し、不安定にさせている「何か」があります。 その「何か」によって心が不安定になっているのですから、その「何か」をやめれば、心は自然と安定します。 わざわざ、心を不安定にすることを自分自身が行っているのですから、その行いをやめれば(何もしなければ)、心は安定するしかなくなります。 これを理解するために必要なのが、「自覚」になります。 心を安定させるためには、何も必要ない(余計なことをやめる必要はありますが、必要ないことをやっているのですから「なにも必要ない」と表現しています。)のですが、この「何も必要ない」を理解するためには「自覚」が必要になります。 本当の意味での、心の安定が理解できると良いですね。 かゎら
0
カバー画像

空を見る(訓練法7)

今回の訓練法は、「空を見る」です。 ただ、「空を見る」だけなので、誰でも簡単にできます。 公園のベンチに腰を掛けてでも良いですし、家の窓からでも結構です。 ただただ「空を見る」。 空を見ている時に、「空を見ている自分」を感じたり、「空に吸い込まれそうな自分」や「空に溶け込むような自分」を感じたりすると思います。 それは、自分の意識状態を感じていることになります。 「空を見ている自分」を感じている時には、意識が自分にあり、「空に吸い込まれそうな自分」の時は、意識が自分から離れ空に向かっている時であり、「空に溶け込むような自分」を感じるときは、意識が空と同化(つながっている)している時です。 しっかりと、自分の意識を確認してみてください。 これだけで、自覚は磨かれます。 あと、副産物として、ストレスなどが和らぎます。 特に「空に溶け込む」感覚の時には、ストレスも一緒に空に溶け込んで解消されるような感覚になると思います。 一度、お試しください。 かゎら
0
カバー画像

「良くなってきた」と「少し戻ってきた」

体調不良で療養している方がいました。 その方は、少し良くなってきたと感じると、身体を動かし始めるのですが、すぐに具合が悪くなります。 これを何度も繰り返していました。 この方は、本当に良くなっているのでしょうか? 良くなっているとは、言えないのではないでしょうか。 体調の悪い状態を基準にするなら、「良くなってきた」と言えるとは思いますが、体調を崩す前を基準にするなら「良くなってきた」ではなく「少し戻ってきた」が正確なのではないでしょうか。 「少し戻ってきた」だけの認識であれば、身体をすぐに動かすこともしないと思います。 まだ良くなっている状態ではないのですから、身体を動かすにしても慎重に動かすと思います。 何を基準に今の自分を認識するかで、言動は大きく変わってきます。 同じところをグルグル回り繰り返すのか、それとも着実に前に進むことができるのか。 自覚して過ごしたいものですね。 かゎら
0
カバー画像

順境

訓練法を始めてみると、物足りなさを感じると思います。 「こんなことで本当に自覚磨かれるの?」などと思考が出てくると思います。 ここが、第1段階のポイントになります。 「こんなことで本当に自覚が磨かれるの?」といった思考は、訓練が順境だからこそ生じてくるものです。 ですから、この順境にある意味「耐える」必要があります。 なぜ、耐えなければなないのかと言いますと、順境に慣れていないので順境を順境と理解(実感)できずに順境から離れて(やめて)しまうからです。 例えば、仕事が上手くいっている時に、「いつかは上手くいかない時が来るのでは…」などと、魔が差す思考を感じたことはないでしょうか? また、周りの人から、「今の状態(うまくいっている状態)は、そんな長続きはしないよ。」と、悪魔のささやきを言われて「そうだよなぁ~」と思ったことないでしょうか? これらは、すべて順境に慣れていないがための出来事で、順境を自分や他人の言動でとめてしまうきっかけとなっています。 せっかく物事が順調にうまく運んでいるにも関わらず、そこから離れてしまう。 もったいないですね。 第1段階のポイント、ここ重要です。 自覚を磨くと同時に、順境に慣れる…順境が当たり前なことに気付くポイントになります。 個人的には、この第1ポイントが、一番大切なポイントだと感じています。 このポイントさえクリアできれば、後のポイントは楽々クリアできると思います。 踏ん張りどころなので、良い意味で頑張ってくださいね。 かゎら
0
カバー画像

気持ちと心

「気持ちと心の関係は?」と、問いかけられましたら、皆さんは何と答えます? 私は、気持ちと心を区別しています。 例えば、「心が通じ合う」とか「気持ちが通じ合う」と表現した場合、私は、「気持ちが通じ合うのではなく、心が通じ合っている」ととらえています。 人が通じ合うのは、「心」であり、「気持ち」ではない。 では、「気持ちはなに?」となるのですが、「気持ちは、心を表現するための最初の感情」だと認識しています。 人と人は、心で通じ合っているがために、心に色(感情など)はなく、無色透明。 そこに、私という存在は、一人の人として「個性」を持ち存在しているがために、無色透明ではいられない。 心で通じ合い感じたものを表現する最初の感情が「気持ち」というわけです。 ですから、気持ちには個性があります。 気持ちで表現されるものは、多種多様になります。 しかし、心で通じ合っているがために、独りよがりにはならない。 ですが、気持ちを見失うと、心というつながりも見失い、独りよがりになりやすい。 気持ちと心は見失いやすいですが、失われることはありません。 人として、この世界に生きている限りは。 自分を知りたければ、気持ちを知ればよい。 自分らしく生きたければ、気持ちのままに生きればよい。 自分を探したければ、気持ちを探せばよい。 気持ちは、いつもここにあなたと在るのですから。 かゎら
0
カバー画像

0.5倍速(訓練法6)

今回の訓練法もシンプルです。 日常の動作をいつものスピードの0.5倍速(半分)にするというものです。 いつのの動作スピードを1とした場合、その半分の動作スピードで行います。 簡単に言えば、「できる限りゆっくり行う」です。(笑) 歩くスピードを、ゆっくり行う。階段を上るスピードを、ゆっくり行う。 ご飯を食べるスピードを、ゆっくり行う。 日常の色々な場面を、ゆっくり行うようにします。 最低5回くらいは行うようにしたいですね。 回数が多ければ多いほど良いです。 訓練ですから。(笑) でも、1回でも構いません。 1回でも、行っている時は意識(自覚)はしていますのでOKです。 後は、継続です。 最低でも、1年は続けてください。 どの訓練法にも共通していますが、継続は必須です。 訓練法そのものはシンプルですが、継続が難しいと思う方は、記録をつけられると良いですよ。 スマホのメモアプリでも、ノート(紙)でも良いので毎日記録していきます。 動作、動作スピード、時間、感想など記録すると良いですね。 そして、1週間、2週間、1か月、3か月、半年、9か月、12か月と読み返す。 自分の自覚の変化がよくわかると思います。 ちなみに、私のおススメ記録媒体は、ノート(紙)です。 理由は、、、実際ご自身で行ってみて頂ければわかります。(笑) お試しあれ。 かゎら
0
カバー画像

決断

ある受講者の方とお話をしている時に、「決断」について思うことがありましたので、少し書き綴ってみようと思います。 気持ちで生きることの大切さに気付いてから、気持ちのままに生きるようにしていると、決断をすることがほぼなくなったように記憶しています。 今、54歳ですから、37歳の時に気付いて17年ほど生きていますが、この期間、決断をした記憶がありません。 37歳以前はどうかと言いますと、結構決断をして生きていたと記憶しています。 客観的に、37歳までの出来事と、37歳からの出来事を比較しますと、37歳からの出来事の方が大きく、人生の転換点を何度も超えています。 ですから、決断は、37歳からの方が多くしているはずなのですが、記憶(感覚的)には、決断はほぼありません。 何が違うのでしょうか? それは、気持ちを見失っている時には、見失っていることで「決断しなければならない」と感じたり、また、決断(意志をハッキリと決定)しなければならない状態まで放置していたから、決断したという記憶(感覚)が残っている。 気持ちを見失っていなければ、見失っている時に感じる決断は、気持ちのままに行っている日々の何気ない自然な言動でしかなく、また、決断しなければならない状態にまでなることがない(常に気持ちのままに言動している)ので、記憶(感覚)に残っていない。 そのように、私は感じています。 受講者の方から、「よくそんな決断ができましたね。」と言われることもあるのですが、私的には、気持ちに従ったまでで、ごく自然なことなので決断というほどの感覚はないのです。(笑) 「後のことを考えたら、怖くなかったですか?」と、言
0
カバー画像

手を伸ばさない(訓練法5)

今回の訓練法は、「手を伸ばさない」です。 これもとてもシンプルです。 例えば、椅子に座っているとします。 そして、消しゴムを使いたいけど、消しゴムが手を伸ばさなければ届かない時に手を伸ばすのではなく、身体そのものを移動させ、消しゴムを取るようにします。 料理をしている時も、手を伸ばせばお皿が届くとしても、手を伸ばさずに、身体をお皿の前まで移動しお皿を取るようにします。 これも、意識(自覚)していなければできません。 日常の中で、かなり手を伸ばす場面がありますから、しっかりと訓練ができます。(笑) あと、ちょっとした運動不足解消にもなります。 他にも、腰をいたわることにもなります。 気が向きましたら、お試しあれ。 かゎら
0
カバー画像

腰を落とす(訓練法4)

今回の訓練法も、シンプルです。 「腰を落とす」です。 どういうことかと言いますと、例えば、床に置いてあるものを取ろうとするときに、腰を曲げて取ることが多いと思うのですが、それを腰は曲げず、腰を落として(膝を曲げて)取るようにするのです。 床に落ちたゴミなどを拾う時も、腰を落として拾うようにします。 椅子に座っている時であれば、あえて椅子から立ち上がり、腰を落として拾います。 その時に、できる限り、動作はゆっくりと行います。 ゆっくり腰を落とし、ゆっくり腰を上げる。 腰を曲げる動作は、一日の中でかなりあると思います。 それをできる限り、ゆっくり腰を落とし上げる動作にします。 これだけで、自覚は磨かれていきます。 ポイントは、「できる限りゆっくり」です。 一度試してみてください。 副産物として、脚力も鍛えられます。 かゎら
0
カバー画像

あ~、え~、あの~

会話中に、「あ~」「え~」「あの~」などの言葉を多用する方がおられました。 本人に自覚はなく、自然な会話ができていると思っているようでした。 本人にそれを指摘しても、改善されることはなかったのですが、自覚がしっかりとし始めると、自分で気づかれるようになりました。 「あ~」「え~」「あの~」と、表現する自分に。 それも、かなり多用していることにも気付かれ、自分の会話がとても不自然だとも気付かれに苦笑いされていました。 では、どうすれば「あ~」「え~」「あの~」などと表現しなくなるのか。 それは、「何もしない」ことです。 何もしないといっても、「あ~」「え~」「あの~」などと表現する自分にはしっかりと気付いて(自覚して)いくことは必要です。 不自然な会話を(言葉を表現)する自分を、ただ自覚し続けるだけです。 あえて、言わないようにしたり、改めて意識をしないことです。 ただ、自覚(気付き)し続けるだけで、「あ~」「え~」「あの~」などを表現しなくなっていきます。 不自然な自分に気付けば、本来の自分が不自然を自然に変えていって(修正して)くれます。 本来の自分に任せれば、大丈夫です。 逆に、言わないように自分でコントロール(修正)しようとすると、なかなか修正できません。 修正できたとしても、そちらに意識を奪われ、会話そのものが不自然なものになったりもします。また、コントールしたものは、コントロールし続けなければならないので大変ですが、気づいて自然に戻るものは、戻ってしまえば、さらに何もしなくても、持続されます。それが自然なのですから。(笑) コントロール、修正しようとする行為そのものが
0
カバー画像

唯一

気持ちに気付く唯一の方法が「自覚」とお伝えしているのですが、ここで表現する「唯一」は、「絶対」ではありません。 どういうことかと言いますと、「唯一」というのは、範囲が限定されている状態の中でという意味であり、範囲が限定されていない無条件という意味ではないからです。 私が、「唯一の方法」としての自覚を表現しているのは、私が気付いている(知っている)範囲の中でという意味なので、私が気付いていない広大な世界では、自覚を磨きハッキリさせる方法は他にもあるかもしれません。(多分、あります。笑) もっと言えば、気持ちに気付く方法を必要としない、ダイレクトに気持ちに気付くことが可能なのかもしれません。 なぜ、このような話をするかと言いますと、「唯一」と表現すると、「それしかない」と「決めつけ」てしまいがちですが、実際は「決めつけられない」ということをお伝えしたかったからです。 これが、理解できますと、人とのコミュニケーションがとても良好なものになります。 それは、相手の話をよく聞けるようになるからです。 人は、人と話をするときに、相手の話を自分の価値観や概念で判断することが多いです。 これは、無意識・無自覚に行っています。 相手が自分と同じ価値観や概念を持っているのであれば問題ないのですが、まず、同じ価値観や概念を持っている人はいません。似たような価値観や概念は持っているでしょうが、同じ価値観や疑念は持ってはいません。 相手の話を無意識・無自覚に自分の価値観や概念で処理してしまうと、そこにはすれ違いが生じます。 そのすれ違いも、すぐに修正できれば良いのですが、なかなかできません。 それは、そ
0
カバー画像

お腹に手を当てる(訓練法3)

今回紹介する訓練法は、「お腹に手を当てる」というものです。 と言っても、四六時中お腹に手を当てるとこはできませんので、まずは、人と会話をしている時に、可能な限り行います。 右手でも、左手でも構いませんから、手をお腹に当てます。 手がお腹に当たっている感覚を感じて(自覚して)ください。 手がお腹に当たっている感覚や温かい感覚などです。 そして、その感覚を自覚したままで、会話をするようにしてください。 慣れないうちは、手がお腹に当たっている感覚を見失いやすいと思いますが、見失っていることに気付いたら、すぐにまた感覚を自覚するようにしてください。 会話以外の時間でも、可能であれば、お腹に当たっている感覚を自覚して過ごしてみてください。 テレビを見ている時なども良いですね。 これも、継続することで自覚がハッキリし強くなります。 副産物として、相手の話をしっかり聞けるようになります。 一度、お試しください。 かゎら 気持ちのままに 心のままに 想いのままに ありのままに
0
カバー画像

ゆっくり歩く(訓練法2)

次に紹介する訓練法は、「ゆっくり歩く」です。 どの程度ゆっくり歩くのかと言いますと、1mを1分間で歩くくらいです。 普通に歩くのであれば、1秒もかからない距離1mを1分かけて歩きます。 歩く自分をかなり意識(自覚)していなければ、このスピードでは歩けません。 「このスピードは歩いているとは言えないのでは?」と、突っ込まれそうですが、ベースは「歩く」動作をゆっくり行うことなので、突っ込まないでください。(笑) このスピードで10分間歩きます。(10m歩く) これを、最低でも1日1回、できれば3回以上が望ましいですが、1回でも十分です。 注意する点は、「~しながら」は、NGです。 「音楽を聴きながら」「テレビを見ながら」などはダメです。 足の指先、裏、かかと、この3点をしっかりと意識(自覚)して歩いてください。 継続して取り組まれれば、自覚がハッキリとしてきます。 あと、副産物の一つとして、集中力も磨かれます。 かゎら 気持ちのままに 心のままに 想いのままに ありのままに
0
カバー画像

時間記帳(訓練法1)

自覚をハッキリさせる訓練法は、とても多くあります。 多くあるのですが、すべてに共通する点があります。 それは、「今を認識する」という点です。 自覚は、「今」にしか在りませんので、「今」を「認識」することでハッキリし磨かれます。 ここでまた、若干?が生じてくる人もいると思います。 「今」といわれると「今ね。うんうん。」と一瞬は思うのですが、少し時間がたつと、「今っていつ???」と、今が分からなくなってきたりします。 そう、それは、自覚がない証拠となります。(笑) 少し話がそれはじめましたので、戻しまして、すべての訓練法に共通する「今を認識する」は、一つのポイントになりますので、気に留めておいてください。 では、たくさんある訓練法を一つ一つ紹介していきたいと思います。 まずは、「時間記帳」です。 時間記帳とは、ある一瞬の言動を記帳していきます。 言葉で説明するよりも、実物を見てもらったほうが良いと思いますので、画像をアップします。 上記の時間記帳は、私が「飲食」した瞬間を記帳したものです。 すべてを記帳するのは無理なので、テーマを決めて記帳するようにします。 私は、「飲食」をテーマに記帳していきました。 日付、飲食した時間、飲食する前の感覚、飲食物、カロリー、飲食した時の反応など、飲食前後の満腹感を記帳していきました。 ここまで、項目数を多くする必要はないと思いますが、私の場合、少し太っていたので、摂取しているカロリーと運動をより自覚できるようにと思い、項目数を増やしてみました。 注意していたのは、項目数を増やしても、継続して記帳できるように色々と工夫をしていました。数値で記帳でき
0
カバー画像

自覚という鏡

自覚をハッキリさせるための訓練法を書き綴る前に、自覚をもう少し別の例えで表現してみたいと思います。 気持ちは、ある意味「自分自身」なのですが、例えば、自分自身の姿を見ようとしたときに、鏡などの映し出すものがなければ姿を見ることができません。何もなければ自分自身の姿を見ることはできません。 手などで部分的に確認することはできますが、姿を見ることはできません。自分自身の姿を見るために自分自身の姿を映し出す鏡は必要です。 自覚とは、鏡のようなものだと言えます。 気持ちは、自分自身と書きましたが、自分自身の姿を見るために鏡が必要なように、気持ちを見る(知る・気付く)ために鏡という「自覚」が必要となります。 そして、この鏡ですが、常に磨き続けていなければ、自分の姿をしっかりと映し出してくれません。 実際、鏡が埃で覆われていたり、汚れていたりしては、自分の姿をハッキリと確認することはできませんよね。 鏡(自覚)をしっかり磨き(訓練し)続ければ、自分が(気持ちに)よく見え(気付け)てきます。 そして、面白いのが、ある一定のところまで鏡を磨き続ければ、そこからは鏡を磨こうとしなくても自動的に磨かれていくようになります。(笑) 嘘のように聞こえますが、本当です。 私は、実際現時点では磨こうとはしていませんが、磨かれている自覚(感覚)はあります。(笑) こればかりは、経験と体験をしていただかなければ説明のしようがないのが残念です。 では、次回より鏡(自覚)を磨く(ハッキリさせる)方法(訓練法)について書き綴っていきたいと思います。 かゎら 気持ちのままに 心のままに 想いのままに ありのままに
0
カバー画像

大切と大事

私がお伝えしていることには、ポイントがあります。 それは、 「大切なのは、気持ち」 「大事なのは、自覚」 ということです。 表現を変えるならば、1番のポイントは「気持ち」ですが、その気持ちに気付くために必要不可欠なのが「自覚」と表現できます。 気持ちに気付いている人からすれば、気持ちに気付くことは容易いのですが、どれが気持ちかがわからない人からすると、気持ちには気付きにくい現実があります。 そこで、気持ちに気付ける唯一の方法が「自覚」となります。 「唯一」と表現したのは、私の感覚的なものですが、これは、後々説明していきたいと思います。 さて、気持ちに気付く唯一の方法である「自覚」ですが、この「自覚」も改めて意識してみると、これもなかなか厄介なものだとわかります。(笑) 受講者の方に「自覚を説明してください」と問いかけると、何となくは説明できますが、ハッキリと説明できる方は、ほぼおられません。 気持ちに気付く唯一の方法である自覚が、曖昧ですから、気持ちはさらに曖昧になっても致し方ないわけです。 そこで、唯一の方法(自覚)を、唯一の方法とハッキリさせるための訓練法が必要となります。 この「訓練法」をこれから少し書き綴っていきたいと思います。 かゎら 気持ちのままに 心のままに 想いのままに ありのままに
0
カバー画像

打消し

「なりたくない自分」は、とても分かりやすいですね。 例えば、親がお金にだらしなかったのを「嫌だな」と思っていた場合、 「こんな親のようにはなりたくない、ならないぞ。」と、わかりやすいです。 そこで質問をします。 では、「なりたい自分」は? 「お金にだらしなくない自分」と答えられます。 「お金にだらしない」を『打消し』て、「なりたい自分」を答えるのですが、 少し長い目で見ると、親と同じような「お金にだらしない自分」で過ごしている人が多いです。 あんなに嫌だった親と同じような自分に嘆き、「これは遺伝子だからしょうがない」などと、自分に言い聞かせていたりする人ともおられます。しかし、本当に遺伝子が原因でしょうか? 多くの人を見てきて、私は遺伝子はそんなに関係ないととらえています。 「なりたい自分」を「なりたくない自分を打ち消して」表現するときに、 常に意識しているのは、「どのような自分」でしょうか? 少しわかりやすく表現しますと、1枚の画用紙に、なりたくない自分の絵を描きます。例えば、お金を散財している自分の絵を描いたとします。 その描かれた散財する自分を「打ち消す」にはそこに何を描きますか?ある人は「×」であり、ある人は「黒く塗りつぶす」かもしれませんが、 新しい自分を描く人は、ほぼいないはずです。 散財する自分の絵の上に大きく「×」を描いた絵を見てみてください。 そこに見えるのは、散財する自分と×しかありません。 どんなに散財する自分と×を描き続けても(なりたい自分だと意識し続けても)、本当になりたい自分は、そこには描かれていません。描かれている(意識する)のは、「散財する自分」
0
カバー画像

自覚⑨

自覚⑧の続きですね。 筍一つ一つが別々の気持ちだとしても、地下茎でつながりあっていると書きました。 つながりあっているので、影響を与えている(されている)とも書きました。 ここで、またまた、話がそれまして、補足説明をしておきます。 自覚⑧で「心」は傷つかないと表現していますが、「本当に心は傷つかないのか?」と尋ねられますと、「傷つくかもしれませんね。」と答える時もあります。 また、複雑になってきましたね。(苦笑) でも、複雑な話ではありません。 人は、自分が感じて表現したいものを「言葉」で表現するには、現在ある言葉では全然足りないと私は感じています。 例えば、表現したいことが「1万」あるのに使える言葉が「1」しかないくらいの感覚です。 (実際には、もっと開きがあるのと思います。) 1万に対して、1しか使えないのですから、表現するのはとても大変です。 例えば、まだ、言葉を話せない赤ちゃんが自分の伝えたいことを表現しているのを思い出していただければよく分かると思います。 泣き声だけで、いったいどのくらいたくさんを表現しているのか…。 言葉をかなり覚えた大人でも、私は赤ちゃんと同じくらいだと思っています。 ですから、一つの言葉を表現する時に、出来る限りその言葉に自分が「何を含めているのか」を感じ取って表現するようにしています。 「心」という言葉一つ使うにしても、その時その時でそこに「含むもの」は変わってきます。 もちろん、相手がいる場合には特に変わってきます。 相手が表現される「心」という言葉が意味しているものが、自分が表現する「心」と同じとは限りません。 というよりも、まず間違いな
0
カバー画像

自覚⑧

自覚⑦の続きです。 「竹」ではなく『竹林』をつかった意味を書きてみたいと思います。 地表面に見える「竹」は、1本1本独立して生えているように見えますが、皆さんご存じのように地中では「地下茎」によってつながりあっています。 と、その前に、地表に見える部分が「気持ち」、地中にあり見えない部分が「心」の説明を思い出しておいてください。 「気持ち」と「心」の関係を『竹林』で例えて説明をしていますので、忘れないでくださいね。(笑) 「筍」一つ一つが、別々の「気持ち」だとしても地下茎という「心」でつながりあっているので、「気持ち」は「気持ち」に影響を与えています。 影響を与えているといっても、今生まれた「筍(気持ち)」が次の瞬間に生まれる「筍(気持ち)」に影響を与えているという意味で、過去の気持ちに影響は与えません。 過去の気持ちから今の気持ちに影響が与えられ続けているという感覚です。 と言っても、「心」に「過去」は関係ないので「過去の気持ち」という表現も適切ではないのですが…(笑) 話しが、少し複雑になってきましたね。 複雑になったついでに、「心」に過去がないと説明を一つしてみます。 もし、「心」に過去があった場合、「過去に心が傷ついた」のであれば、その心は永遠に癒されることはありません。 過去に遡れることはないので、過去に傷ついた心は、傷ついたまま残されます。 例えば、1999年1月13日午前10時10分10秒に心が傷ついた場合、次の瞬間には1999年1月13日午前10時10分11秒の心が在りますから、その心は傷一つない新品です。 傷ついた心は、1999年1月13日午前10時10分10
0
カバー画像

自覚⑦

さて、「心」と「気持ち」を『竹林』を使って説明したのですが、「竹」でなく「竹林」と「林」としたのにも意味があります。 今回は、その意味を説明してみたいと思います。 と、思ったのですが、その前に竹を使って、「気分(感情)」と「思考」を説明したいと思います。(笑) 自覚⑥で、「心」と「気持ち」の関係を説明しました。 あ、現時点では、自覚⑤の最後に書いた「気持ちはどこから湧き上がってくるのでしょう」の答えは、「心から」ということになります。 ただ、この答えも「現時点」での答えですので、ご注意くださいね。(笑) さて、話を少し戻しまして、「気持ち」は、竹で言えば、地表で見える部分と書きましたが、これは正確ではありません。 「気分(感情)」と「思考」を説明するとなると、「気持ち」は『筍』となります。 「筍」が時の経過とともに水や日光の影響を受けることで育ち、「竹稈」や「枝」や「葉」へとなっていきます。 この「竹稈」や「枝」や「葉」などが「気分(感情)」や「思考」にあたります。 『筍』は、まだ地表面の影響は受けていませんが、竹稈や枝葉は、地表面(水や日光など)の影響を多大に受けます。 気分(感情)や思考は、環境や状況に多大に影響を受けます。 雨が降れば、気分が良くなったり悪くなったり… 晴が続けば、いつまで晴が続くのかと考えたり、雨が降らないかと考えたり… と、地表面の影響を受けて「育つ」のが、「気分(感情)」や「思考」ということになります。 環境や状況によって、変な気分になったり、変な思考にはまったりするでしょう?(笑) その点、「気持ち」には関係ありません。 地中から、ひょっこり頭を出
0
カバー画像

自覚⑥

自覚⑤の続きです。 「自覚シリーズ」として書き綴っていますが、内容はもはや自覚とはかけ離れてしまいました。(笑) ただ、「なぜ、自覚が大切なのか」は、含み続けていますので、自覚タイトルで続けてみたいと思います。 「気持ち」は、「智慧」であり「知恵」でなく、「気分(感情)」でも、「思考」でもないを説明してきました。 では、「気持ち」は、どこから生じてきているのでしょうか? それは「心」と、私は位置付けています。 ここで、「心」の説明(私の定義)を少ししておきます。 たとえ話ばかりで申し訳ないのですが…(苦笑) ここに、竹林があったします。 竹が、山一面に生えていたとします。 地表に見える部分(竹稈など)が「気持ち」だとしますと、地中にあり地表からは見えない部分(根など)が「心」になります。 人が認識できるのは地表に見える部分「気持ち」で、「心」にあたる地中部分は認識できません。 あくまでも私の定義ですが、「心」は認識できない部分として定義しています。 その認識できない「心」を、認識できる形にしたものが「気持ち」になります。 ですから、「心」を知りたければ、「気持ち」を知ることが重要になります。 単純に「心」ってなに?と聞かれても答えに窮すると思うのですが、「気持ち」ってなに?と聞かれた方が答えやすいと思います。 ---続く かゎら 気持ちのままに 心のままに 想いのままに ありのままに
0
カバー画像

自覚⑤

自覚④の続きですね。 「気持ち」を知るために、気持ちとよく似た感覚の説明をしているのですが、「思考」も、よく気持ちと混同して使われています。 (ここでも、あくまでも私が定義していることの説明となります。) 「気持ち」と「思考」の大きな違いは、何もないところから湧き出るものが「気持ち」で、何かあるところから連なるものが「思考」という点になります。 例えば、「しりとり」がわかりやすいと思います。 しりとりの初めは、何もないところから最初の言葉が始まりますよね。 「こぶた」から始まるとすると、「こぶた」の前には何もありません。 「こぶた」の前に「ねこ」があったわけでなく、何もないところから「こぶた」が始まります。 この「こぶた」が「気持ち」にあたります。 しりとりが「こぶた」から始まると次の人は「こぶた」の最後の文字「た」から始まる単語を考えます。(思考する) そして「たぬき」を言ったとします。 この「たぬき」は、「た」から始まる単語という条件のもとに考え見つけた単語です。 これが「思考」にあたります。 しりとりが続くとすると、最初の単語「こぶた」が「気持ち」となり、「たぬき」以降の単語は、すべて「思考」となります。 「気持ち」は、何もないところから湧き続けますが、「思考」は、何もないところからは湧き続けません。 「思考」は、何かあるものからつながり続け、そのつながりはどこまでも続きます。 少し話は逸れますが、「思考のループ」にはまってしまうと、なかなか抜け出せません。 しりとりにはルールが存在するので、同じ単語が表現されることはありませんが、「思考」にはルールが存在しないので、「こ
0
カバー画像

自覚④

自覚③からの続きです。 「知恵」と「智慧」の違いを自覚③でお伝えしました。 「智慧」は、本能的なものともお伝えしました。 わかったようなわからないような「智慧」ですが、もう少しわかりやすい表現があります。 それが、「気持ち」です。 「気持ち」には、「智慧」が含まれます。気持ちのそのものが智慧であり、智慧そのものが気持ちとも言えます。 智慧という表現よりも、気持ちという表現の方がなじみがあると思うのですが、ここで表現する「気持ち」をしっかりと定義しておきたいと思います。(あくまでも私の定義です。笑) 「気持ち」を定義するために「気持ち」によく似たものを説明します。 それは、「気分」です。 気分と気持ち、多くの人は混同して表現されています。 気分とは、環境や状況によって、プラスになったりマイナスになったり、右になったり左になったりと、とてもよく振れます。(ブレます。) 「あの人は気分屋だから」という表現を聞くことがあると思うのですが、コロコロとよく感情などが変わる人を指して使われることが多いですよね。 「気分次第」などという表現も、あまり良い意味では使われませんよね。 そういう気分に対して「気持ち」は、環境や状況によって振れることがありません。(ブレない。) 常にプラスであり、このプラスは、プラスとマイナスがワンセットになったプラスでなく、プラスしかないプラスです。 マイナスのないプラスという表現は、矛盾した表現なのですが、ここは便宜上そう表現させていただきます。 そして常に中道で、右にも左にも振れません。 智慧である気持ちが、絶えずブレると、自分にとって最善の答えを見出すことが出
0
カバー画像

自覚③

さて、今回は、自覚②の続きです。自覚②の最後に「知恵と智慧」を表現しました。 「智慧を見失っている」と書き綴ったのですが、「知恵」でなく「智慧」という表現を使っている理由を少し書いてみたいと思います。 私は、「知恵」は、知識の恵みという感覚で使っています。 これは、知識を習得(勉強などで)することで蓄えたものと定義しています。 これに対して「智慧」は、本能的なものという感覚です。 知識を習得して得るものでなく、初めから知っているものと定義しています。 これは、あくまで私個人が定義しているものなので、辞典に書かれている意味とは違うかもしれません。 が、私の定義で読み進めてください。(笑) 鳥が空を飛ぶのに知識は必要ないですよね。 本能で飛ぶようになりますよね。 鳥が鳥らしく空を飛ぶのに「知恵」は必要ありません。 「智慧」があるから、鳥らしくあるがままに飛べると私は感じています。 もし、鳥が「智慧」を見失っていたらどうなるでしょうか? 果たして、空を飛べることが出来るでしょうか? 私は、飛ぶことはないと思います。 あまり、人以外の動物で話しをすると、逸れて行ってしまうので人に戻します。(笑) 初めから知っている(智慧)から、自分の口から最善の答えが表現されるわけですが、初めから知っている(智慧)ことを見失っていると、最善の答えを最善の答えと気付くことは出来ません。 メガネだと知っているのにメガネだと知っていることを見失っている場合、メガネをメガネだとわかるでしょうか?(笑) 少し、ややこしい表現で、すみません。(苦笑) わかるような、わからないような話が続いて申し訳ないのですが、ま
0
カバー画像

QR.113 かゎらちゃん、こんばんは。 今日、夕食中に子供達がおしゃべりをやめて…

※このご質問は、+VMCで送られてきたものです。受講者の方からご快諾を得て掲載しております。 QR.113 かゎらちゃん、こんばんは。 今日、夕食中に子供達がおしゃべりをやめてくれませんでした。 何度か注意しましたが、しゃべり続けていたので、食べるのをまず止めさせて、「どうしておしゃべりをやめてくれないのか」話し合いました。 ママから食べて欲しい理由を話してて、「どうしたら食べてくれるのか」を話し合いました。 そしたら娘は、今度食事中に話したら100円をママに渡すことになり、息子は一人で2階で食べることになりました。 なんだか、しっくりきません。 A 音声メッセージありがとうございました。 一つ、質問させてください。 ママさんから「食べてほしい理由」を話されたとメッセージにありましたが、具体的に何を話されたのでしょうか? ママさんは、「どうしたら食べてくれるのか」について子供たちと話し合いをされたようですが、話し合いをするポイントは「食べてほしい理由」についてだけだと思います。 「どうしたら食べてくれるのか」は、「食べてくれない」ことを前提にしての話しです。 「食べてくれない」から罰を与えるように100円差し出すとか、一人で2階で食べる話になってしまうのです。 「食べてほしい理由」を子供たちが理解できるまで理解できる表現になるまで何度でも伝えるようにされると良いですね。 かゎら 気持ちのままに 心のままに 想いのままに ありのままに
0
カバー画像

自覚②

前回の続きですね。 前回の記事の中で、自覚はありのままに記録するだけで、何かを修正する力はないというようなことをお伝えしました。 では、自覚を継続して、自覚が深まると何がどうなるというのでしょうか。 それは、「気付きも深まる」ということになります。 では、「気付きも深まる」とは、どういう意味なのでしょうか。 前回の記事でも登場しました、ビデオカメラで説明しますと、自覚が深まるとは、ビデオカメラで言えば、性能がアップするということになります。 例えば、400万画素で録画できていたものが、800万画素で録画できるようになるということです。 400万画素で録画された映像を100インチのテレビで観たとします。 次に800万画素で録画された映像を同じ100インチのテレビで観たとしましょう。 どちらが、繊細に綺麗に観えるでしょうか? もちろん、800万画素で録画されたんのですよね。 400万画素で録画されたものでは観えなかった細部の映像が800万画素では映し出されると思います。 400万画素では、観えなかった…気付かなかったものが800万画素では気付く…観えるようになります。 気付かなかったものに気付くようになる…「気付きが深まる」ということになります。 人の悩みや問題のほとんどは、その人自身がすでに答え(解決策)を持っています。 その答えは、結構な確率で、コミュニケーションの最中に口にしています。 本当です。(笑) 自覚が深まれば、それが自然と観える(気付く)のです。 観えるのですから、お伝えすることができるのです。 どこかから降って湧いてくるものではありません。(笑) ご本人は不思議そ
0
カバー画像

自覚①

少し「自覚」について書いてみたいと思います。 クラスの中でも、よく「自覚が大切」だと表現しているのですが、この「自覚」を皆さんはどのようにとらえているでしょうか。 よく耳にする「自覚」という言葉ですから、「ああ、自覚ね。」とは思われるとは思うのですが、「では、自覚とは何でしょうか?」と、尋ねると、ハッキリとした解答は返っては来ません。 私は、自覚とは、ビデオカメラのようなものとして、認識しています。 ビデオカメラは、カメラの目の光景を「ありのまま」に記録します。もちろん、ビデオカメラの性能により記録(録画)される映像などに優劣はありますが、基本「ありのまま」に記録されます。 「自覚」もビデオカメラと同じように「ありのまま」に記録(認識)していると私はとらえています。 それだけだと思っています。 ですから、「自覚」するだけで、気持ちに気付くことが出来るのかと言いますとそれは無理です。 「自覚」するだけで、何かに気付けるのか、良い方向へ向かうのかと言いますと、それもありません。 ビデオカメラにカメラの前(あなたの見ている)光景を録画しているからと言って、自分の思うような光景には変化しませんよね? それとおなじで、自覚だけでは、何も変わらないのです。 では、なぜ、「自覚が大切」だと伝えているのかと言いますと、自覚をすることで「修正ポイント」に気付きやすくなるからです。 例えば、ゴルフをされる方であれば、自分のスイングをビデオカメラで録画しておけば、後から録画した自分のスイングを確認することで、修正するポイントに気付けたりしますよね。 それと同じで「自覚」することで、気持ちに気付きやす
0
カバー画像

否定的な意見という前向きなエネルギー

少し前に、テレビの番線で、ある街のシャッター商店街を活性化するプロジェクトのようなものをダイジェストに放送していたものを見ました。 少しだけだったので、あまりよく内容はわからないのですが、そのプロジェクトの発起人の方が呼びかけて、多くの商店主の方が集会場に集まってきていました。 プロジェクトの概要を説明し、質疑応答の場面になったときに、多くの否定的な意見が出されていました。 ここまでしか、私は見ていなかったのですが、その否定的な意見を言われている商店主の方々を見ていて、「すごい、やる気に満ちているなぁ~!」と、ちょっとワクワクしてきました。(笑) 私は、否定的な意見をお聞きすると、少しワクワクしてきます。 それは、なぜかといいますと、前向きな姿勢があるからこそ、否定的な意見もあるからです。 前向きな姿勢がなければ、否定的な意見もありません。 否定的な意見が多ければ多いほど、そこには前向きな姿勢…前向きなエネルギーがあります。 多くの前向きなエネルギーを感じるのですから、ワクワクしますよね。 やる気(前向きなエネルギー)のある人ばかりの中に入ると、ワクワクしますよね。(笑) あとは、前向きなエネルギーが少しずれて、否定的な意見として表現されているだけですから、その「少しずれている」箇所を修正する(気付く)だけで、前向きに良い方向へ流れていくだけですね。 テレビのプロジェクトがその後どうなったかは知らない(見ていない)のですが、良い方向へ向かっていることを想像しています。(笑) ちなみに、前向きなエネルギーがない場合、否定的な意見さえも出てきませんし、そもそも集会
0
カバー画像

本来ならば…⑥

前回の続きです。 本来であればもらえないはずのお金ですが、特別にもらえました。本来であれば「間違っている」ことでも、「特別」であればもらえる。 「特別」であれば、例え「間違っている」ことをしても「大丈夫」。 「間違っている」ことをしても「大丈夫」。 ひょっとして、間違っているのではなく、「正しい」ことをしている? 「大丈夫」なのは、「正しい」ことをしているからだ。 こうなってくると、ママさんも子供たちも何が「間違っている」のか何が「正しい」のかがわからなくなってきます。 子供たちが何か間違ったことをしても、ママさんにこう言います。 「ママ、今回だけは“特別”に許して」と。 するとママさんも言います「今回だけ“特別”だからね」と。 この“特別”が何度も続くと、何が特別で何が特別でないのかもわからなくなってきます。 子供たちは、“特別”という言葉が魔法のように思えるようになってきます。 何か悪いことをしても“特別”だと言えば、ママは許してくれる。 許してくれないものならママに噛みついてきます。 「この前は、“特別”に許してくれたのに、なぜ今回は許してくれないのか!」と。 ママは少し抵抗します。 「特別は、そう何度もないから特別なの!」と。 でも、時すでに遅しです。 ここまでに何度も“特別”を使っていますから、何度もあるのが“特別”なのです。 ですから、子供たちは、“特別”を遮られると、さらに反発してきます。 反発がさらにエスカレートして来れば、反抗となります。 とまあ、良くない方向(奈落の底)へと転がり落ちていきます。 ここまで読まれた方で気付かれた方もおられると
0
257 件中 1 - 60
有料ブログの投稿方法はこちら