さて、前回からの続きです。
「気持ち」がとても重要だと気付いた当時(考えるのをやめた瞬間の頃)は、まだ「気持ち」という表現には至っていなく、「本当の自分」とか「本来の自分」とか「源」などと表現していました。(「気持ち」という表現に行き着くまでに、10年くらいはかかりました。苦笑)
考えるのをやめた瞬間に、本当の自分に気付く(目覚める)のですが、時の経過とともに、「今、本当の自分で過ごせているのだろうか?」「また、本当の自分を見失っているのではないか?」などと、疑念が生じ始めました。
なぜ、疑念が生じ始めたかと言いますと、前回のブログ記事でお伝えした「不思議な感覚」が薄れてきたからです。
「不思議な感覚」が薄れる理由は、前回のブログ記事に書き綴りましたので省略しますが、「不思議な感覚=本当の自分」という思い込み(錯覚)が、その時、無自覚に生じていました。
ですから、不思議な感覚が薄れると、本当の自分ではないのではないか?と思えてきました。
今でこそ、当時の様子をこのように詳細に書き綴ることができますが、その当時には、誰もこのようなことを教えてくれることもなかったですし、当然、私自身も理解していませんから、思いっきりこの疑念の落とし穴にはまり込んでしまいました。(苦笑)
ただ、この落とし穴から抜け出せるヒントが一つだけありました。
それは、「自己観察」という『言葉』でした。
『方法』ではなく『言葉』だけでした。(笑)
なぜ、「方法」ではなく「言葉」だけなのかを少し説明をしますね。
「自己観察」と言われて、皆さんは「自己観察」をどのようにされますか?
夏休みの宿題で「観察日記」などを書いたことがあると思うのですが、その時の「観察」は、観察する対象があったと思います。
例えば、「朝顔」であれば、朝顔が観察する対象で、自分が観察者となりますよね。
自分が観察者という「主観(主体)」になり、観察する対象の朝顔は「客観(客体)」となります。
ということは、主体と客体が分離していることで「観察」が成り立ちます。
自分(主体)と朝顔(客体)が同化していては観察はできませんよね?
すると「自己観察」は、いったいどうやって行うのか???
当時、私には言葉はわかっても、内容はさっぱりわかりませんでした。(汗)
主体である自分(観察者)を、客体である自分(観察される対象)が観察できるわけがありません。
分離されていないのですから。(苦笑)
落とし穴から抜け出せる唯一のヒントである「自己観察」。
言葉はわかるが、いったいどうやるの???(汗)
まず、この時点…始まりから試行錯誤でした。(苦笑)
かゎら