前回の記事(きっかけ---試行錯誤「自己観察」)からの続きです。
唯一のヒントである「自己観察」という言葉はわかるけど、本質がさっぱりわかりませんでした。
自分の中に、主体と客体を作り出しては、観察してみるのですが、しっくりきません。
しっくりこないからといて、誰か助言をしてくれるわけでもありませんから、結構途方にくれました。(苦笑)
ちなみに、きっかけを与えてくれた、Aさんですが、この方は、気持ちをほぼ見失うことなく生きてこられた人でしたので、気持ちを見失っている状態からどうすれば気持ちにまた戻れるのかの答えを持ち合わせてはいませんでした。(笑)
途方に暮れるのですが、暮れ続けるわけにもいきませんから、唯一のヒント「自己観察」を我流でやり続けました。
ただただ、我流…でたらめな自己観察をやり続けました。
本当に、ただただやり続けました。
このやり続けた期間は、本当に大変でした。(笑)
何が大変かと言いますと、思考が止まらない…洪水のように押し寄せてくるからでした。(汗)
自己観察の本質を見極められていないので、常に「これ自己観察になっている?」と疑念(思考)がありますから、その疑念(思考)から芋づる式のように思考が次から次へと湧き続けます。
それまで、自分の思考などじっくり観察したことなどなかったので、もうびっくりでした。(驚)
どちらかと言えば、思考が自分自身のように捉えていましたから、思考そのものを気にも留めていませんでしたから。(苦笑)
その時には、若干、気が狂うじゃないかと思っていました。(苦笑)
それでも、一度、本来の自分を自覚してしまうと、もう見失った自分では生きたくないですから、必死でした。
自己観察が、間違っていようがいまいが、思考がどんなに湧き続けようが、我流の自己観察を「ただただ継続」し続けました。
まさに、一心不乱でしたね。(笑)
(今振り返ると、修行僧のようでしたね。笑)
不思議なもので、間違っている自己観察を行っていても思いは通じるものですね。
その状態を、3か月ほど続けていましたら、少しずつ少しずつ観えてくるものがありました。
自己観察の本質などが、観えてきたものの一つです。
では、次回は、自己観察の本質について書き綴ってみたいと思います。
かゎら