きっかけ---自己観察の本質

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では、自己観察の本質について書き綴ってみたいと思います。

3か月ほど、我流の自己観察を続けていますと、何となく自己観察とは何なのかが観えてきました。

自己観察とは何なのか…本質は「自覚」ではないか、と思えてきました。

ハッキリと「わかった!」という感覚ではなく、思えてきた程度でした。(笑)

主体と客体での観察では、傍観者となり、本来の自分とそうでない自分との区別はなかなかわかりづらかったのですが、「自覚」という感覚であれば、本来の自分とそうでない自分の区別がわかり始めました。

今でこそ、自己観察の本質は「自覚」だと、確信していますが、その当時は「思える」くらいの感覚でした。

なんとも危ういですね。(苦笑)

ただ、この「思える」くらいの感覚だったからこそ、その後も(現在も)しっかりと自覚して過ごすことができたと感じています。

危うい感覚ですから、自分から目を離すことができません。

一瞬たりとも目を離すことができないから、自覚して過ごすことができる。

なんとも絶妙だと後々、感心しました。(笑)

では、自覚とはどういうものなのかですが、今までブログ記事でかなり説明してきたのですが、大切なポイントですから、ここでも説明をしておきたいと思います。

例えるなら、自覚とは、「鏡」のようなものだとも言えます。
床屋さんに行けば、椅子に座ったときに正面にある「鏡」です。(笑)

自分の前に鏡を設置すれば、鏡に自分が映ります。
鏡には、今の自分がありのままに映ります。

自覚も、鏡に映る自分の姿のように、今の自分をありのままに映します。
鏡は、ありのままに映すだけで、何も判断しません。
(判断とは、考えたり、批判したり、評価したりなど2次的な感覚を指します。)

判断しているのは、自分であって、鏡ではありません。
どんなに2次的、3次的な判断をしようとも、すべてそれは自分自身が行っているもので、自覚という鏡は一切行いません。

ただただ、今の自分をありのままに映すだけが鏡であり、自覚となります。

気持ちを見失っていようがいまいが、ありのままの自分を映し続ける(気付き続ける)ことで、観えてくるのが「気持ち」と「気持ち以外」の違いです。

例えば、目の前に「おにぎり」が2つあったとします。
AおにぎりとBおにぎりとします。

AおにぎりもBおにぎりも、味付けは塩だけで、形もおにぎりを作る型にいれて、同じグラム数で作っています。

では、このAおにぎりとBおにぎりの違いはわかるでしょうか?

一瞬、見ただけではわからないと思いますが、ありのままに観続けると違いが観えてくると思います。

米粒一つ一つの向きがAとBで全く同じではなく、すべて違うことが観えてきます。

さらにありのままに観続けると、Aおにぎりの米粒一つ一つの大きさや形の違いにも気付けるようになります。

ここまで気付け始めると、さらに面白い現象が起き始めます。(気付き始めます。)

その続きは、次回に。(笑)

かゎら


追伸
つい先日、受講者の方から「自己観察の本質ブログは、まだ書かないのですか?」と尋ねられました。(苦笑)
ブログ記事は若干「気分次第」で書き綴っているなぁ~と反省し「気持ち次第」を意識してみました。
「気分次第」と「気持ち次第」はどう違うのか?とまた尋ねられそうですが、それは、「気持ち次第」で書き綴るとことに致しましょう。(笑)


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