前回のブログ記事の続きです。
前回のブログ記事の最後に「ここまで気付け始めると、さらに面白い現象が起き始めます。(気付き始めます。)」と書き綴りました。
AおにぎりとBおにぎりを、ありのままに観続ける(映し続ける)と、AとBの違いが観えてくると書きましたが、「AおにぎりとBおにぎり」を「気持ちと気持ち以外」に戻しますと、「気持ち」と「気持ち以外」に違いが観えてくるようになります。
「気持ち」と「気持ち以外」…「気持ち」と「思考」「感情」etc。
気持ちと思考(厳密には、気持ちを見失った思考)の違い。
気持ちと感情(厳密には、気持ちを見失った感情)の違い。
気持ちとetc(厳密には、気持ちを見失ったetc)の違い。
この違いが観えてくると、AおにぎりとBおにぎり、どちらが先に握られたかが観えてくるようになります。
全く同時にAおにぎりとBおにぎりが目の前にあったのではなく、Aおにぎりが先に握られたと判るようになります。
おにぎりで言えば、おにぎりの表面温度がAの方がほんの少しだけ低いから、先に握られたなどですね。
Aおにぎりという「気持ち」、Bおにぎりという「思考」どちらが先に湧く(握られた)のか、判るようになります。
AとBの違いが判ると、次にAとBどちらが先かが観えてくる(気付く)ようになります。
すると、Aを言動に移した時と、Bを言動に移した時に、起きる現象(現実)で、どちらが自分にとっても周りにとっても好ましいのかが判断できるようになります。
ここでも、ありのままに現実を映し出すことで判断は容易にできるようになります。
ここまでくれば、もう気持ちのままにしか生きられなくなります。(笑)
例え世界中のすべての人が、自分の気持ちと逆のことを言ってきてもブレたり流されることはありません。
(現実的には、すべての人が自分とは反対になることはありません。気持ちに気付き気持ちで生きている人は他にもおられます。ただ、少数であることは間違いありません。苦笑)
さて、ここからが今回のブログ記事の本題です。
前回のブログ記事で、「さらにありのままに観続けると、Aおにぎりの米粒一つ一つの大きさや形の違いにも気付けるようになります。」と書き、「ここまで気付け始めると、さらに面白い現象が起き始めます。(気付き始めます。)」と書きました。
今回の記事で「Aおにぎり=気持ち」と表現しました。
つまり、Aおにぎりを構成する、米粒一つ一つの大きさや形が観えてくる(気付く)ようになることで、気持ちを構成する何かの大きさや形が観えてくる(気付く)ようになるということです。
気持ちは気持ちでしかないと思われる人もいると思いますが、実際には、気持ちはいくつものパーツで構成されていて、そのパーツもさらにいくつものパーツで構成されていると言えます。
「気持ちが深まる」とは、このパーツをどこまで観続ける(気付き続ける)ことを意味しています。
本当に面白いのは、この立ち位置に立つことです。
ここから書くことは、これかで書き綴ったことと、少し矛盾した表現になると思いますが、そのまま読み進めてくださいね。(笑)
「本当に面白い、この立ち位置」に到達しますと、先ほど「Aおにぎり=気持ち」すなわち「Bおにぎり=気持ち以外」と区別したものが「Aおにぎり=気持ち=Bおにぎり」と変化(進化?)してしまいます。
認識的には、「Aおにぎりは、気持ちを直接的に表現している」となり「Bおにぎりは、気持ちを間接的に表現している」という感覚になります。
Bは、気持ちを間接的に表現しているので、気持ちがわかりづらいですが、わかりづらいだけであって、Bに気持ちがないわけではありません。
さきほど、「面白い立ち位置」と表現しましたが、面白い立ち位置に到達すると観察する能力はかなり磨かれています。
観察する能力が磨かれるということは、洞察力も同じように磨かれます。
すると、Bのように気持ちを間接的に表現されても、気持ちに触れやすく(気付きやすく)なります。
(触れる・気付くというよりも、共感しやすくなるという表現の方が適切かかもしれません。)
相手が、気持ち見失っていようがいまいが関係なく、気持ちに共感できるようになります。
相手の気持ちに気付こうとすることなく、気づけてしまう。
そんな立ち位置となります。
Aおにぎり、Bおにぎり、Cおにぎり、どんなおにぎりでも、ほかのおにぎりと比較することなく本質を観る(気付く・共感する)ことができ、さらにその本質の中に本質を観る(気付く・共感する)ことができる立ち位置、面白いと思いませんか?(笑)
さて、この面白い立ち位置からさらに自己観察(自覚)を続けてみたのですが、気持ちにはある性質があることに気付きました。
それは、次回以降に書き綴ってみたいと思います。
かゎら