前回の続きですね。
「心」と「気持ち」の関係を書き綴ってみたいと思います。
関係と言っても、私個人的に「心」と「気持ち」という言葉をどのように定義し、どのように区別しているかという説明ですので、本当の意味での「心」と「気持ち」の解釈ではないかもしれませんので、ご留意ください。
まず、「心」と「気持ち」の違いから始めます。
心とは、表現できないもの。
気持ちは、表現できるもの。
ここから始まります。
心そのものは、無色透明でなにものにも影響されるが影響されない。
(矛盾していますが、私はこの矛盾した表現で心をとらえています。定義しています。)
気持ちは、その心で感じたものを表現するためのもの。
すなわち、心だけでは、何も表現できないが、気持ちがあることで心を表現できる。
そのように感じ、定義しています。
一枚のコインで例えるのであれば、コインには、表と裏があってコインとして存在できる(表現される)わけで、表と表では、それはコインとして存在(表現)できません。
心と気持ちは、このコインの表(気持ち)と裏(心)のような関係だと定義しています。
気持ちだけでも、心だけでも、コインにはなり得ない。
では、コインの存在は、裏と表のワンセットで、「コイン」となりますが、気持ち(表)と心(裏)のワンセットではそこに何が存在するのでしょうか?
お察しいただけている方もおられると思いますが、それは「自分」となります。
心と気持ちがワンセットで、本来の自分自身と、私は定義しています。
この心と気持ちの関係(定義)がハッキリ(自覚)していないと、色々と不都合なことが生じます。
例えば、私が他人からネガティブな話を聞いても言われても、ネガティブにならないのは、心を見失わないからです。
先ほどもお書きしましたが、心は無色透明ですので、何色にも染まりますし不透明にもなります。(影響は受けます。)
しかし、無色透明なので、それは染まったように見えるが対象を映し出しただけで、不透明も対象を映し出すことで透明ではなくなったように見えるだけで、無色透明は揺るぎません。
それが、「影響されるが、影響はされない。」という表現になっています。
では、どのように影響されるかと言いますと、できる限り不純なものをろ過した状態で影響されているように感じています。
受講者の方と話をする時に「なぜ、そんなことに気付くのか?」と、尋ねられるのですが、それは、心が影響されながら不純物をろ過するするからだろうと推測しています。
そして、不純なものを取り除き残ったものが、気持ちとして表現されていると感じています。
心だけでは、表現できないので、気持ちを使って表現している形です。
自覚し続けて、ここまで見極めてきました。
もちろん、これがすべてだとは思っていませんので、これか先に解釈(定義)は変わる可能性はあります。
しかし、「心と気持ちって同じなの?」という疑問を持つことで、心と気持ちの違い(区別)がわかるようになることで、心単体、気持ち単体で見極めができるようになりました。
恐るべき、自覚です。(笑)
心と気持ちの関係のお話は、ここまでです。
次回は、補足③「不安定を嫌う気持ち」で書き綴ってみたいと思います。
かゎら