自覚⑧

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自覚⑦の続きです。
「竹」ではなく『竹林』をつかった意味を書きてみたいと思います。

地表面に見える「竹」は、1本1本独立して生えているように見えますが、皆さんご存じのように地中では「地下茎」によってつながりあっています。

と、その前に、地表に見える部分が「気持ち」、地中にあり見えない部分が「心」の説明を思い出しておいてください。

「気持ち」と「心」の関係を『竹林』で例えて説明をしていますので、忘れないでくださいね。(笑)

「筍」一つ一つが、別々の「気持ち」だとしても地下茎という「心」でつながりあっているので、「気持ち」は「気持ち」に影響を与えています。

影響を与えているといっても、今生まれた「筍(気持ち)」が次の瞬間に生まれる「筍(気持ち)」に影響を与えているという意味で、過去の気持ちに影響は与えません。

過去の気持ちから今の気持ちに影響が与えられ続けているという感覚です。

と言っても、「心」に「過去」は関係ないので「過去の気持ち」という表現も適切ではないのですが…(笑)
話しが、少し複雑になってきましたね。

複雑になったついでに、「心」に過去がないと説明を一つしてみます。
もし、「心」に過去があった場合、「過去に心が傷ついた」のであれば、その心は永遠に癒されることはありません。

過去に遡れることはないので、過去に傷ついた心は、傷ついたまま残されます。

例えば、1999年1月13日午前10時10分10秒に心が傷ついた場合、次の瞬間には1999年1月13日午前10時10分11秒の心が在りますから、その心は傷一つない新品です。

傷ついた心は、1999年1月13日午前10時10分10秒という時と共にそこに残り続けます。

しかし、過去に傷ついたと思っていた心が「今」癒されることがあります。

「今」癒されるとするならば、それは「過去」ではなく「今」ですよね。(笑)

ということは、心に「過去」はなく、常に「今」しかないと言えます。

それは、そうですよね。

人は、今しか生きられませんし、今しか心を感じることは出来ないのですから。(笑)

と、あたかも「心」が在るかのように書いておりますが、人が認識できるのは「心」ではなく「気持ち」ですよ。

「心」はあるけれど認識できないのですから「心が傷ついた」ではなく「気持ちが傷ついた」と、私は定義しています。

話しがまたまた逸れちゃいましたね。(苦笑)
話しを戻すのですが…

続く!(笑)

かゎら


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