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対向車にパッシングしないようになったのですか

私は、車の速度の取り締まりを見掛けたら、対向車線の方に教えるようパッシングをしています。これって、警察から注意される行動かもしれないけど、以前は、互いが捕まらないよう各ドライバーがやっていた、慣例的なドライバーのマナーみたいなものだと思います。 最近、取り締まりを見掛けることがありませんでしたが、先ほど、久しぶりに実施していたので、対向車へパッシングをしました。 ドライバーの中には、手を上げて、こちらに合図する方もいましたが、大半のドライバーは、こちらを気にせずに交差していきました。それって礼儀知らずじゃないかと感じました。そう感じるのは私くらいなのですか。 ラジオでは、「どこどこで取り締まりをやっている」との情報を流している番組もあります。警察官には申し訳ないけど、取り締まりで捕まって気分が良くなる人はいないと思います。スピードを落とさせるようにしたいのなら、あちこちでパトカーの赤灯を回し、注意を呼びかければ良いと感じます。 非常識なドライバーに対しても、警察に対しても、腹が立ってきました。そして、イライラして、ついついスピードを上げてしまい、普段より危険度が増していたのです。 何のための取り締まりなんだと怒っている私に対し、「何で、そんなことで怒っているのか」と女将さんが笑っています。彼女はパッシングをしないそうです。非常識なのは、私なのか、女将さんなのか、この後、マスターの意見を聞きに行こうと思います。
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宴会場を間違えた先輩

昨日の新聞で見覚えのある名前をみつけました。20年程前に、私が運営管理を担当した施設のオジサンです。 彼は施設を定年退職していましたが、その後も臨時雇いとして働いていました。その時、既に70歳に近かったと思いますが、施設に必要な資格を持っており、安い賃金で構わないという条件で、OBになってからも長期に雇われていました。 彼は私のことを上司として扱い、とても親しくしてくれました。 あの頃は、温泉で開催される研修会があり、研修後の宴会では、他の施設の方と同席になり、そこで情報を交換していました。 私の歓迎会のとき、私の隣は彼が座りました。互いに酌をして、たわいのない話をしました。 私がトイレに立とうとしたときに、彼が「部屋を間違えるなよ」と言いました。店には、その部屋しかないので、何を心配しているのか不思議に思い尋ねると、彼は、十数年前の研修後の宴会で、トイレに行った後、間違えて違う宴会へ参加したことがあるそうです。当時には、ありがちな話です。研修後の宴会は、初対面の人が多く、間違えていても互いに気づかないのです。 彼は、宴を締める人の挨拶で、自分が部屋を間違えていることに気づき、それでも周りの人と気が合い、そのまま会場に居座り、酔いつぶれたという武勇伝でした。 その年の途中、私には、本部から彼の後釜を見つけるよう指示があり、結局、翌年の夏、彼に退職いただきました。彼は退職するとき、自分のワガママで嫌な役をやらせてしまったと、私に詫びてくれました。 いつも裸足で機械をいじっていた先輩。昭和を生きた豪傑の最後は、認知症も患っていたと聞いています。 天国では宴会場を間違えずに、いや、ま
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コミュニケーション能力が欠如しているのは私なのか

コロナ感染のためオンラインで会議を行うことが増えました。今後、コロナがおさまっても、同様の会議形式になっていくのだと思っています。若者には、コミュニケーション能力が不足していると言われます。それが社会問題化し、コミュニケーションを養うための講義を行う大学があるとかないとか。情けない時代だと感じます。 さて、オンライン会議に問題を感じませんか。知り合いとの打合せなら構わないのですが、初対面なのにオンラインでコミュニケーションを図るというのは難しいと思います。 私は、対面に勝るものはないと思っています。在職中、オンラインで行われる研修会を不快に感じておりました。 そんな私ですが、とうとうパソコンにZoomをインストールしました。採用試験を受けました。千葉県の会社でした。コミュニケーションなど、図れる訳もなく、途中で、こちらから断らせていただきました。 初対面の方とのオンラインによる面談で、コミュニケーションを図ることができない。そういう私のほうが、コミュニケーション能力が欠如しているのかもしれないと感じました。 居酒屋だと初対面の人とも仲良く話せるのですけどねぇ。
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ロッカーに隠したブランデー

在職中の職場に、ラーメンをご馳走してくれた上司がいた話を以前掲載しました。先日、彼と馴染みのバーで出くわしました。 退職日に、私は彼のロッカーに密かにブランデーを入れておきました。口に合ったか尋ねたところ、彼は、何のことか意味が分からない様子でした。彼は、職場のロッカーを滅多に開けないそうなのです。私が退職したのは6月末で、それ以降、一度も開けていないようです。 彼は、酔っていませんでしたが、少し疲れているように感じました。退職にあたり開いていただいたセレモニーでは、彼が司会を務めてくれました。私は不覚にも言葉に詰まってしまったので、「恥ずかしいところをお見せした」と言ったところ、彼が怒ったように「俺の気持ちも知らないで」と言葉を残し、店を出ていきました。 気づきませんでしたが、そこも彼が支払ってくれていました。 翌日、ご馳走になったお礼を言うために彼に電話をかけました。ロッカーを開けたかと尋ねましたが、彼は何のことか分からなかったようで、そのうちに「バーでロッカーのことを話したのか」と問いかけてきたのです。彼は、軽い記憶障害を起こしているのだろうと思います。 考えてみると、以前から、指示する内容が2日程経つと変わっていたことや、約束の時間を間違えていたことがあったので、医者で検査を受けるよう勧めましたが、私の言葉を受け入れる人ではないので、きっと、受診しないと思います。 もうじき定年を迎える彼と、悠々自適に温泉にでも行けるよう、元気でいてくれることを願っています。
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皆既月食をご覧になりましたか

先日の皆既月食は、多くの地域で見ることができたそうです。羨ましい。私がいた場所では、月が雲に隠れて見ることができませんでした。 それほど、見たかったわけではありませんが、写真を撮りたいと思っていました。 テレビでは様々な方の写真が紹介され、評論している番組もありました。そのなかで、出演者の「建物や風景と一緒に撮影することで、そのときの思いを感じることにつながる」という言葉が心に残りました。 【これは私が撮影したものではありません】私は、これまでに写真を撮影するとき同じような点を気にしたことがあります。川の写真を撮るときに橋を入れ、コンテストに応募したことがあります。そのときの評論は「川がテーマです」でした。廃鉱になった炭鉱の施設を撮影しているカメラマンの知人がいます。彼の作品は、廃墟と化した炭鉱の施設と一緒に月や花、樹木、動物などをおさめているものが多く、私は素晴らしいと感じており、今も部屋に飾っています。 ところでテレビでは、ハムを月にみたてている写真も紹介されていました。世の中、いろんなことを考える人がいるものです。 来年の10月には部分月食が見られると聞きました。そのときは、少しだけ食べたハムが撮影されるかもしれません。続編に期待しています。
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長野と書いて何と読みますか

私は小学校のときに野球部に入っていました。体が大きかったからなのか肩が強く、入団テストのキャッチボールで監督の目にとまり入部できました。中学からはサッカー部に入りました。そのころ、少年団やクラブチームはなく、サッカーができるのは中学に入ってからでした。 中学に入ってからも野球は好きで、テレビ観戦をすることが多く、特にジャイアンツが好きでした。当時、北海道には地元チームがなく、周りの多くはジャイアンツファンでした。 今では、日本ハムファイターズが北海道に勇気と感動、ときには笑いを与えてくれており、多くの道民の心を掴んでいると思います。しかし、ジャイアンツに育てていただいた私は、今でもジャイアンツファンです。 5年程前までは、背番号「7」のユニフォームを着て応援していました。それは、広島カープへ移籍してしまった長野選手のユニフォームでした。その後、なかなか推しを見つけられず、昨年までテレビ観戦するときには、背番号のついていないユニフォームを着ていました。今年は、そのユニフォームにも袖を通しませんでした。 私は今年、家を処分して小さなアパートへ引っ越すにあたり、大量の荷物を捨てなければならなくなり、正直なところ背番号「7」のユニフォームも候補にあがりました。でも捨てられませんでした。 先日、長野選手がジャイアンツに戻ってくるとニュースで知り、ジャイアンツファンの仲間に「やったぜ」と一言だけメールすると、「よかったな」と返事がきました。長野選手のことなど書かなくても私たちは通じ合えるのです。これを「ジャイアンツ愛」と呼びます。 さて、野球をよく知らない方は「長野」を何と読みますか。「な
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初雪の夜は熱燗

天気予報で雪が降るといわれていた昨日、旭川では雪が積もったようです。私の住む町は、天気予報に気づかったかのような感じで、申し訳なさそうにチラチラを霙が降りました。予報を的中させた気象庁は、昨日の天気に感謝してあげて欲しいと思います。それとともに気温が下がり寒気を感じたので晩酌は熱燗にしました。熱燗を飲むことは久しぶりでした。 飲みながら、私の父が、よく熱燗を飲んでいたことを思い出しました。子どものころ、時折、お酌してあげると喜んでくれました。私は神道の家系で、宮司は亡くなった父のことをよく知ってくれています。父が亡くなったとき、宮司から父の祭壇に私が飲みたいと思う酒を祀り、その後で私が飲むように勧められていたのですが、私はすっかり忘れていました。 今日は出かけるため、家で晩酌ができません。先ほど、明日の夜は私が飲みたいと思った酒を祭壇に祀ることを父に約束しました。何を飲むことになるか楽しみに…。 それでは行ってきます。
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実はオムライスが好きです

甘いものが苦手で、酒ばかりの私ですが、実はオムライスが好きです。でも、私のような者が1人でレストランに入りオムライスを注文するのは、とても勇気がいるものなのです。 女性の中には、1人で牛丼屋やラーメン屋に入ることをためらう人がいると思います。私は、その逆バージョンだと思います。洒落た店に入ることに抵抗があります。店の雰囲気を壊してしまわないかとか、他の客からの視線に耐えられるだろうかと不安になります。 在職中は、職場の近所にある定食屋でオムライスを食べることができました。この定食屋でオムライスを頼むのは私くらいで、多くの客は「〇〇定食」や「〇〇ラーメン」を注文していました。私は40年近く通い、大抵はオムライスを食べていました。 先日、退職してからオムライスを食べていないことに気づきました。そうなると無性に食べたくなるものです。だけど1人で入れそうなレストランを知りません。情けないのですが、そういう一般的なことが分からない生活を送ってきました。 先日、妻から、少し離れた場所にあるラーメン屋にいってみたいと誘われました。その店に私は何度か入ったことがあり、美味しかった記憶がありました。私たちは、妻の休日にそのラーメン屋に行きましたが、残念なことに設備が故障しているようで営業していませんでした。 口の中はラーメンを欲しています。少し離れていますが、他にも美味しいラーメン屋を知っていたので、そちらへ向かおうとしたときに妻が「オムライス食べようか。」と言いました。 そういえば、この間、オムライスを無性に食べたくなったことを思い出しました。こういうことですら忘れてしまう自分に少し驚きました
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社会の常識を決めたのは私たち社会全体だと思います

【この記事を不快に感じる方も多いと思います。その点をお詫びします。しかし、私は、この記事のような思考を持っている、ごくごく普通の高齢者なのです。何卒、お許しください】昨日、立ち寄った居酒屋に知人のカップルを囲む団体客がいました。 入籍祝賀会とのこと。彼は30歳台半ば、彼女は10歳程年下です。彼女には新しい命が宿っているとのこと。幸せ倍増の様子です。実にめでたいことなので、一杯、振舞おうと思いましたが女将さんから静止されました。 子どもを授かって結婚するケースは近年では一般的なことかもしれませんが、それで良いのでしょうか。私が二十歳の頃なら、こういうケースの場合には親に勘当されることもあったと思います。幸せなことは分かりますが、どこか自由を履き違えているように感じ、私の中で「二人の幸せ」に違和感が生まれました。 結婚するまでの仲になっているのであれば、何故、結婚していないのかが引っ掛かり始めました。古い考えかもしれませんが、その点が気にならなくなった世の中の変化が、後世に甘えを与えてしまっているのかもしれません。 若い方から「一般的とか常識って誰が決めた」と文句を言われそうですが、それを分からないうちは社会に順応できないと言い返したいです。 一般的とか常識とは、誰かが決めたのではなく社会全体で導いた結果だと考えています。結婚してから子作りするのが常識で、結婚していないのに妊娠してしまうのは避妊ができない幼稚な人間ということだと思います。 そんなことを一人で考えて盃を傾けているうちに祝賀会が終わりました。 店を後にする彼らに対し、私は常識を語ることもなく拍手を送っていました。このよ
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寝不足になるとラーメンを食べられません

睡眠不足で体調不良になる。私の年齢になれば当たり前かもしれません。私の場合は歯槽膿漏のため、寝不足になると歯茎からの出血が始まり、歯茎が腫れ、沢庵など硬いものを噛めなくなります。疲れなどは余り感じませんが、歯茎だけは思い通りになりません。 在職中、上司から終業時間を過ぎているにもかかわらず翌朝までの期限付きで資料を作成するよう求められることがありました。無茶な話です。私なら自分で作成するのですが、私の上司は部下に指示をして先に退社するタイプです。私は、自分の部下に任せるより自分で処理したほうが正確な成果品になるので、徹夜覚悟で自ら対応するタイプです。 翌朝、できあがった資料を上司に確認いただき、交渉先にも同行することになる。これがパターン化していました。そして、そんなとき上司から昼御飯をご馳走になることが多くありました。皆さんにも似た経験があると思います。 上司は麺類が好きでラーメンを食べることが多いのですが、シナチクや、時には立派なチャーシューが入っていると、徹夜をした私は、なかなか噛むことができません。その姿を見て上司は微笑み、私も苦笑いで返します。この瞬間のやりとりは、私と上司にとって欠かすことのできないコミュニケーションだったと感じています。「また、頼むぞ。」「任せてください。」という無言の会話があり、これで私たちは良好な関係を維持できていたのだと思います。 傍から見るとブラック企業と呼ばれそうですが、私は一度もそう感じたことはありません。むしろ達成感に浸るタイプです。 今の時代、ブラック企業と呼ばれることを恐れる経営者の方もいると思います。 達成感を感じられない若者に
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ネコバスって何ですか

馴染みのバーが混むことは珍しく、落ち着いた時間を過ごすことができる。そして、マスターとの僅かな会話が心地良い。私は、いつもカウンターの左端に座ることにしている。このバーは、もともとは別のビルで密かに営業されていたが、そのビルが解体されることになり今の位置に移転した。かつての店では左端の席が狭かったので、私はその席を率先して使うよう心掛けていた。今の店の位置は目立つ場所にあり、一見さんを時々みかけることもある。おそらく観光客だろう。その日、私は居酒屋で女将と二人きりになり互いの子どもや孫の話をしていた。女将の子どもはトトロが好きだという。トトロとは『となりのトトロ』のことだろうが、私はスタジオジブリの作品を余り見ないので、トトロがどういうものかを理解できていなかった。子どもが好きだというのだから可愛いキャラクターだろうと考えていた。 かつて娘と一緒に『火垂るの墓』という映画を見た。とても悲しく悔しい気持ちになった。そして、なぜ、この映画を子どもに見せているのだろうと感じながら、涙があふれた。単なるアニメと思った映画から強いメッセージが感じられ、大人向けの物語だった。スタジオジブリの作品には熱い思いが詰め込められている。そういう作品は、娘が少し大人に近づいてから見るようにしようと考え、それ以降はディズニー作品を多く見たと思う。 女将が私に「ちょっと顔を上げてみて。ほら、やっぱり、ネコバスに似ているよ。少し斜めからみたら、そっくりだよ。」と言い、私のボトル名をネコバスと書き換えた。私は、ネコバスが何かも分からないままバーへ向かった。 バーのカウンターはほぼ埋まり右から2番目だけが空い
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文句を言うだけの大人にならないで欲しいのです

国の借金が多額になっていることは、ずっと前からの問題です。未だに解決の糸口も見えず、経済対策をスローガンに財政出動を継続しています。そんなこと、誰もが知っていて、事実から目を背けていると思います。一方で、財源を確保するために消費税率を上げようとすると多くの国民が反発します。 台所を苦しめているのは平均寿命が伸びていることにも原因があると思います。現在、年金を受給されている方は、高齢になるほど少しずつ金額が高いようです。この方々の年金を新たに受給される方の金額まで下げるべきだと考えます。これから受給される方に設定されている金額が、この国において最低限の生活を営めると補償されたものなのですから、みんなで苦しみを分かち合いましょう。 先日、消費税増税案に対し「公務員をもっと減らすべきだ。税金の無駄遣いだ。それなのに国民に負担を強いるのは納得いかない」と40台の男性がテレビで叫んでいました。私は、こういうコメントを見ると「あなたが自分の力で問題を解決しようとせず、ただ文句を言っているのでは、あなたの存在も、あなたの言葉も、まさに無駄だ」と言いたくなります。 立派な意見をテレビカメラに向かって発言するのであれば、それなりに行動していただきたい。地域の中で、ゴミ拾い、高齢者や子どもたちへのサポート、公園の草刈りなど社会活動を積極的に行うと地方自治体の支出を抑制できます。国民一人ひとりの行動の積み重ねが、結果として国の台所を助けることに繋がります。聞くところによると、最近は、PTA活動に参加しない親が多いと聞きます。子どもは親を見て育つと言われます。誰かが負わなければならない仕事を背負う恰好
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最後の一葉

先日、早朝の景色を見て『最後の一葉』の物語を思い出していました。私の傍らには葬儀を待つ故人がおり、二人きりで過ごした2日目の朝でした。 『最後の一葉』は、最後の葉が落ちると自分も旅立つと思い込んでいる病と闘う女性を思い、彼女と同じアパートに住む画家が、窓から見えるレンガの壁に葉が1枚だけ付いた樹木の絵を描く。その画家は、いつか傑作を描きたいと願っていた。絵を描いたときは天候が悪く、画家は肺炎を患い亡くなってしまう。女性は奇跡的に回復する。画家にとって、この樹木の絵が傑作となった。そんなストーリーだったと記憶しています。 今日では、スマートフォンで撮影した写真を簡単に加工し画像を編集することができ、引き伸ばした写真を窓の外に貼る手法もあるのだろうと思いながら、果たして『最後の一葉』の絵画や写真は必要なのかと考えていました。そもそも『最後の一葉』は美談なのかと疑問にも感じ始めました。隣で眠る彼は5年程前に体調を崩し、病院へかかりましたが原因は判明しませんでした。このため3年程、調子が悪いまま暮らしていました。昨年の春になり、知人の勧めで診ていただいた医師から摘出不可能な末期がんだと宣告され、それでも病と闘い精一杯に生き抜いたと思います。特に、この半年は入院生活が続き、鎮痛剤の副作用により意識が混濁することが多く、若いころのことを思い出して私に電話をかけてくることがありました。 最後の日、彼は私が手をとると握り返し、私の手をつかんだまま手を上下に振りました。その意味は私には分かりません。痛みがあるのか目を開けることもできずにおりました。私は「また来るからな」と彼に声をかけました。 辛
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サンマ苦いか塩っぱいか

私が通う馴染みの居酒屋ではサンマにこだわり、大き目で脂がのっているものだけを釧路から直送で届けてもらっています。私は、その理由を知っています。 私には、週のうち3回程通っていた寿司屋がありました。秋になるとサンマの「なめろう」を軍艦巻きで出しており人気がありました。大将は一人で店を切り盛りし弟子を取らないことにしていたので、彼の技術は誰にも伝授されていません。 私は大将と一緒に、時折、繁華街に出ました。その居酒屋は大将に案内していただいた店です。その店の女将が大将に「なめろう」の作り方を教えていただきたいと懇願したのが10年程前でした。大将は女将に作り方を教え、その居酒屋でも「なめろう」が振舞われるようになりました。 大将の技術が後世に引き継がれたのは、後にも先にも、この1件だけです。大将は急逝され、それからは、この居酒屋が私のホームグラウンドになっています。女将は、大将への感謝の気持ちを今でも大切にしており、秘伝の「なめろう」は最高のサンマでしか作らないことにしているのです。 それを知った常連客が釧路漁協に勤める息子に依頼して今の形になりました。その常連客も体調を崩して夜の町に出てこないようになりました。 大将とその常連客。私は気の合う飲み友達をこの10年で2人も失くしています。 「なめろう」をしみじみ食べていると、女将が「サンマ苦いか塩っぱいか」と言ってサンマの塩焼きを出してくれました。 『さんま苦いか塩つぱいか』とは佐藤春夫さんの「海辺の恋」の一節で、大将が「なめろう」の軍艦巻きを客に出すときに呟いていた言葉です。 ほろ苦い思い出をしたため、涙で塩味が加わるサンマを静かに
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回っていないお寿司が食べたいです

寿司屋でお寿司を食べたのは、いつですか。宅配や回っていない寿司屋のお寿司です。私は、小樽や留萌などに出かけたときには寿司屋へ行くこともありますが、地元の寿司屋には、なかなか入らなくなっています。 私が働いていたマチは人口が少なく、就職したてのころに4店舗、今は1店舗しかありません。その頃、隣町には30店舗程あったのが、今は5店舗程しか残っていないそうです。回転寿司に初めて入ったのは23歳だったと思います。東京へ出張した帰りに浜松町の地下街で上司にご馳走になりました。いろいろなネタがあり驚いたことを記憶しています。 その後、この周辺でも誕生し、手ごろな価格とスピーディなことから利用していました。 20年程前からは宅配寿司が普及し、お酒を飲みたいこともあって回転寿司へ行く回数が減りました。 振り返ってみると、馴染みの寿司屋が閉店してからは、ほとんど宅配寿司を食べています。でも、やっぱり寿司屋で職人さんが握ってくれるお寿司は一味も二味も違うように思います。 これから仕事の打ち合わせです。上手く契約できたときには、自分へのご褒美に寿司屋へ行こうかと思っています。 ※ お陰様で契約が成立したので、今日、富良野でお寿司をいただくこととしました。握りが大きなことで有名な寿司屋さんです。美味しいお寿司をありがとうございました。
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手稲山が初冠雪

今朝は寒くて布団から出たくないと感じた方が多かったと思います。札幌気象台は、昨日、手稲山の初冠雪を発表したらしいです。もう冬の到来です。 つい先日まで暑いと騒いでいたと思います。エアコンを設置してから80日程です。嘘みたいなスピードで冬突入になりました。今年は秋を感じる期間が極端に少なかったように思います。先日、雪虫を見かけたので嫌な予感はしていたのですが、冬到来はあまりにも早すぎます。そう思って調べてみると、手稲山の初冠雪は昨年よりも1日遅いらしいです。 人間の記憶はあいまいで、私の場合は希望的観測が先行してしまい、札幌の初雪は12月というイメージだったのですが平均的には11月1日とのことです。 それなら早く来い。寒さなんかに負けません。 そんなふうに強がってみましたが、きっと明日も布団から出るのが悩ましい朝になると思っています。
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鮭の遡上

鮭の遡上の様子は、北海道の秋の風物詩のひとつと言ってよいと思います。有名なところでは千歳のインディアン水車や十勝の千代田堰堤があります。余市川では橋の欄干からたくさんの鮭が遡上してくるのを見ることができますが、余市は観光客が多くなっていて駐車するのが難しいときもあります。 そこで私がお勧めするのは増毛の暑寒別川です。河川敷地に車を止められる広いスペースがあります。タイミングが良いと鮭を捕獲する様子を見ることができます。 私は10年程前に、偶然、捕獲作業を見かけたことがあります。川にショベルローダーが入っていき、川の一部に鮭が一休みする箇所があり、そこにバケットを入れて鮭をすくい上げます。河原にダンプが待っていて、バケットの鮭を架台に落とします。何回かすくい上げて架台に落とすと、クラクションの合図でダンプが発車します。架台から大量の水を排出しながらダンプは加工工場へ向かうのだろうと思います。まるで土木工事のような様子に歓声がわきます。 このダイナミックな光景を、その後は一度も見かけることができていません。先日も増毛を通過したのですが、残念ながら見ることはできませんでした。 札幌の豊平川には毎年1000尾程が遡上しているそうです。残念ですが、私は一度も見かけたことがありません。暑寒別川には何倍もの数が遡上しているのだと思います。 鮭は4年経つと故郷の川に戻って産卵すると学び、その時は感じませんでしたが、平均寿命は4年未満になるのだと思います。その年月を鮭なりに計画的に生きているのだろうと思います。 人間の寿命も、ある程度、決められていたら、私たちは今よりも計画的に生きていけるのだろ
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あの頃、そして、いま(2018年)

【全6話。これで完結です。ご愛読ありがとうございました】◆あの頃(1985年)◆ひとつ学年が下の彩(あや)と交際して3か月程になっていた。 僕が住む町の駅には改札を出ると電話ボックスがあった。家の固定電話を使うと親がうるさいので彩との電話はここを使うことが多かった。 電話ボックスには冬季間を除き必ずと言っても良いほど蜘蛛の巣が張ってあり、ときには大きな蜘蛛がいることもあった。蜘蛛が嫌いな僕は、駅の脇に立てかけられているホーキを持ってきて蜘蛛の巣を取除き蜘蛛がいないかを確認するようにしていた。 公衆電話のプッシュ番号を押すと大抵は彩が出るのだが、時には母親が怪訝そうに出ることもあった。僕は彩の親御さんに受け入れられているわけではないと理解していた。いつも電話をする時間が夜11時を過ぎているのだから呆れられても仕方ないと自覚していた。 部活動を終えて部員の家にたむろしてから終電に乗り込むのが10時。1時間程、電車に揺られ終点で目を覚ますという毎日だった。 彩との会話で記憶していることは少ないが、あのときの出来事は今でも鮮明に覚えている。 電話ボックスに入り、いつものように彩と話していたときに背中側のガラス製の壁で音が弾けた。振り返ると壁を赤い液体が覆っていた。驚いて電話ボックスの外に出ると地元の後輩たちが笑いながら言った。「先輩、遅くまでご苦労様です」 後輩が、先輩に対してこういう行為をするということは、彼らには僕に対するリスペクトがなかったのだと思う。仲が良くて僕に構って欲しいとしても、先輩に対する振舞いとして許すことはできない。そんなことを一瞬のうちに考える余裕はなかった。僕の
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高齢夫婦って、こんなものなのかな

父が入院して7か月が経とうとしています。母は認知症を患っており一人暮らしをさせるには余りにも心配だったので、施設で預かっていただいてから半年程になります。父が入院した当初、母はお見舞いに行くと言って駄々をこね、ときには、内緒で勝手にタクシーに乗って出かけようとしました。私が「コロナ感染が心配なので、病院では面会させてもらえない」ことを説明すると一時は納得するのですが、10分もすると忘れてしまい同じ話が繰り返される。そんなことが1日に10回もあるので、こちらも根負けしそうになりました。それが、2か月程経過すると「一度も見舞いに行っていないけど、行っても会えないからダメだね」と少し発言内容が変わってきて、最近は「父さんの具合はどうなんだい。良くなっているのかい」と興味無さそうに尋ねてくるようになりました。10分もすると同じ話をする点は変わりません。父への執着心が薄れた様子です。 一方の父は、入院時に「母さんに来られると疲れるから、面会は止めてくれ」と拒んでいました。しかし、これだけ長い期間、会っていないのですから、いくらなんでも会いたいのではないかと思い、時折、父に尋ねるのですが首を縦に振ることは一度もありません。なのに「孫に会いたいか」と尋ねると顔がほころびます。 各ご家庭で事情は違うとは思いますが、私の父は、認知症の母との暮らしに疲れていたのだろうと感じています。その苦労から解放されて爽快感を持っているようにも見受けられます。寂しいようですが、これが現実です。支え合うなんて綺麗ごとにしか思えません。そもそも夫婦は血のつながりがありませんから、心の結びつきで暮らしを成立させていら
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あの頃(2015年③)いま(2018年)

【6回シリーズの第5話です】バーで後輩と会った2日後に彩から電話をもらった。会いたいという彩のストレートな言葉を聞き僕の気持ちは飛び跳ねるようだったが、それを彩に悟られないよう努めた。 週末に、知人が経営しているイタリヤ料理の店で待ち合わせることにした。僕は居酒屋とか焼鳥屋が好きなのだが、このときはお洒落な店を選んだ。こんなふうに恰好をつけて、ときには粋がって、それなのに仲間の中では一番気が弱い。僕は、そんな自分の性格が大嫌いだ。 僕は約束の10分前に店に入った。彩はその2分程後に現れた。 あらためて互いの近況を話した。どちらも独身というかフリーになっていて、まるでお見合いパーティの出会いのようだと彩は笑っていたが、僕には笑えなかった。天真爛漫な彩と違い、僕は臆病で不器用で人を好きになりやすく冷めにくいタイプだ。動き出すまでは臆病なのに、一度動き出したら止まらない。だからこそ一歩踏み出すことに躊躇してしまう。 彩には子どもが3人いて、1人は社会にでているが2人はまだ学生だという。生活が大変なのではないかと尋ねたが、生命保険と遺族年金があり生活には不自由していないようだった。強がりのようにも感じたが深く追求しても仕方ないと思った。 彩の雰囲気は昔と変わらなかったが、年齢は誤魔化しようもなくシワやシミも気になったのは確かだ。おそらく髪は染めていたのだろう。焦げ茶色の長い髪が彩に似合っていた。今は実家に戻りスーパーでパートをしながら両親の面倒をみているという。彩も僕も一人っ子なので、両親のことに関する悩みは共通していた。 2人は店を出て、先日、再会したときのバーに入ることにした。マス
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あの頃(2015年②)いま(2018年)

【6回シリーズの第4話です】僕は一人暮らしをしている。妻に男ができて僕たちは25年の共同生活にピリオドを打っていた。娘は就職して札幌で独り暮らしを始めていた。心配はしていたが、子どもを独り立ちさせることも親の務めだと考え独り暮らしを認めることにした。娘にメールを送信しても返事が来るのが数日後になる。そのことには少し困っていた。返事がないのは元気な証拠と言うが、親馬鹿な私は心配になってしまう。それが原因で酒の量が増えていたように思う。 夜は馴染みの居酒屋やバーで飲んで過ごすことが多かった。あるときマスターが僕にメモを渡してきた。そこには電話番号が書いてあった。先日、ここで会った後輩の番号らしい。彼が店に来て僕に渡して欲しいと置いて行ったそうで、他に客もいなかったので僕は電話をかけてみることにした。すぐに電話に出た彼は、これから店に来て良いかと尋ねてきた。断る理由はないが、一体、何が起こるのだろうと不安に感じた。 まもなく彼が店に入ってきて隣に座り、何故、彩と連絡をとらないのかと尋ねてきた。別に理由などなかった。そもそも電話番号が分からないことを伝え、もしも東京に行ったときには洋菓子屋を訪ねてみようかと思っていると説明した。 彼が話すには、東京の店は同僚に売却し彩は地元に戻っているらしかった。彩からは東京で洋菓子屋を経営していると聞いていたが、地元に戻っているとは聞いていないと思った。酒が入った席での会話だから確かなものではないのだが…。 彼の説明によると、昨年ご主人が他界され、両親の体調が思わしくないこともあり今は実家に帰ってきてスーパーで働いているそうだ。そんな話は聞いていない
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ついに遺書を書きました

先日、とある検査を受診しなければならなくなりました。一般的な検査ではありますが、何万件かに1回、意識が戻らなかったケースがあるようで、検査を受ける上で同意書の提出が求められました。そんな説明を聞いてから帰宅し、私の意識が戻らなくなったときのことを考えていました。 家のこと、事業のこと、年老いた両親のこと、子どものこと。大切なことは他にもあります。それをいかにすれば良いのか。私自身では、どうにもならないのですから、誰かに託さなければなりません。 私には妻も兄弟もいません。両親は、正常な判断や処理をできる状況ではありません。一人娘は、まだ世間知らずなので、彼女に大役を任せるのは可哀そうだと思います。叔父や叔母も高齢で頼みずらいし、従兄弟は親と故郷を捨て都会に出ていっちまった自分勝手な連中ばかりです。結果として仲間に託すことになるだろうなと思い、勝手に手紙を書いて机の中にしたためることにしました。遺書というほどのものではありません。引継書のようなものです。 仲間のうちの誰かが気づいてくれることでしょう。財産の処分、生命保険、葬儀などについて考え方を整理して引出しにしまいました。処理していただく方にも幾ばくかの気持ちを包みました。 さぁ、この引出しを誰が最初に気づいてくれるだろうか。そして、見つけてくれる時期を考えると、また不安になりました。 見つけてくれるのには、私が亡くなってから日数がたっているかもしれないし、私は自分の葬儀のことも書き示したのですが、それを見つけていただいたときには私は既に焼かれているようにも思います。 そんなことでは、見つけ出してくれた人にガッカリさせてしまいま
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あの頃(2015年①)いま(2018年)

【6回シリーズの第3話です】彩と別れてから30年が経っていた。 彩が家庭を持ったことは耳にしていたし、幸せなのだろうと思っていた。 彩の実家は小さな菓子店を営み老舗として地域の方に親しまれていたが、残念なことに閉店となっていた。彩は結婚してから店を手伝っていたように人づてに聞いていたが、店をたたんでから、どうしているのかは知らずにいた。 僕は馴染みのバーで酒を飲むことが多い生活を送っていた。カウンターに座り一人で飲むことが好きだった。マスターとの僅かな会話が心地よかった。 その日は、店に数人の後輩が入ってきた。その中には、あのとき僕が殴りつけてしまった彼もいた。彼らはバツが悪そうだったが僕に会釈をしてからボックス席に入り、少ししてから彼が僕のそばに来て話を始めた。お互い年をとり、元気に酒を飲めるだけでも幸せという点で共感した。僕は彼に隣の席に座るよう促した。彼は彩と同級生だったそうで、彩から僕とのことを聞いていたので、軽く冷やかすつもりでトマトをぶつけて脅かしただけで悪気はなかったと弁解した。ペンキだと思ったのはトマトだったことを初めて知った。先輩に対して冷やかすような態度をするべきではないだろう。話を聞いているうちに再びカチンときて、彼を外へ連れ出そうかとも思ったが、今回は年を経たお陰で自制することができた。そして、僕は彼に対し暴力を振るったことを詫びることにした。 彼は教師をしているらしい。最近の学校では先輩後輩の上下関係が薄れ、僕のような性格だと毎日怒りを覚えることばかりが起こり、学生生活を健全に過ごすことは大変な時代になっている教えてくれた。僕もそのとおりだと感じた。
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あの頃(2005年)いま(2018年)

【6回シリーズの第2話です】彩が結婚したことは噂で聞いていた。 僕も結婚し子どもを授かり何不自由なく暮らしている。彩の実家の前を車で通過するときには、もしかして彩が玄関口にいないかと確認してしまう自分がいた。何かを期待しているわけでもないが、元気な姿を見たいという気持ちが心の中に隠れていたように思う。 待ち合わせに使った街角のアーケードは取り壊されていた。一緒に聞いていた曲は懐メロのように扱われ名前も知らない男性ユニットがカバーしていた。時間が流れ、僕は年をとり、白髪を染めて派手なシャツを着る、そんな若作りに余念のない中年のオジサンになっていた。 中学生になった娘は、僕と一緒に過ごす時間が少なくなっていた。娘には、学生のうちにたくさんの友達と遊んで思い出を作って欲しい。小さなことでも構わないから目標に向けて取り組んで欲しい。勉強も大切だけど、何よりも納得いくまでエンジョイして欲しい。そんなことを熱く語る僕は、娘から軽くあしらわれていた。どちらが子どもか分からないというような関係だったのかもしれない。娘が夕陽を見たいと言ってきたことがあった。土曜日に塾が終わるのを待って二人で海に向かった。娘はウォークマンを耳にしていたので車中では余り話せなかった。1時間程で海岸線に着き、どこに車を止めようか迷ったが、浜辺まで続くと思われる細い道を見つけ車を進めた。 誰も入って来ない浜辺を歩き、枯れ木や布などを集めて火をつけた。やがて日が暮れはじめ水平線に夕陽が沈みだした。娘は何も言わずに夕陽が水平線に落ちるまで海を見つめていた。 僕は後部座席に隠していた花火に火をつけた。娘は僕のほうを見て驚いた
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あの頃(1985年)いま(2018年)

【6回シリーズのスタートです】ひとつ学年が下の彩(あや)と交際して3か月程になっていた。僕が住む町の駅には改札を出ると電話ボックスがあった。家の固定電話を使うと親がうるさいので彩との電話はここを使うことが多かった。電話ボックスには冬季間を除き必ずと言っても良いほど蜘蛛の巣が張ってあり、ときには大きな蜘蛛がいることもあった。蜘蛛が嫌いな僕は、駅の脇に立てかけられているホーキを持ってきて蜘蛛の巣を取除き蜘蛛がいないかを確認するようにしていた。 公衆電話のプッシュ番号を押すと大抵は彩が出るのだが、時には母親が怪訝そうに出ることもあった。僕は彩の親御さんに受け入れられているわけではないと理解していた。いつも電話をする時間が夜11時を過ぎているのだから呆れられても仕方ないと自覚していた。 部活動を終えて部員の家にたむろしてから終電に乗り込むのが10時。1時間程、電車に揺られ終点で目を覚ますという毎日だった。 彩との会話で記憶していることは少ないが、あのときの出来事は今でも鮮明に覚えている。 電話ボックスに入り、いつものように彩と話していたときに背中側のガラス製の壁で音が弾けた。振り返ると壁を赤い液体が覆っていた。驚いて電話ボックスの外に出ると地元の後輩たちが笑いながら言った。「先輩、遅くまでご苦労様です」 後輩が、先輩に対してこういう行為をするということは、彼らには僕に対するリスペクトがなかったのだと思う。仲が良くて僕に構って欲しいとしても、先輩に対する振舞いとして許すことはできない。そんなことを一瞬のうちに考える余裕はなかった。僕の体は条件反射のように踊っていた。 数人の後輩を相手に立
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猫派にはなれない

9月20日のブログで私は犬派であることを書きました。 今日は猫に対する思いを書こうと思います。 子どもの頃の読み聞かせで、十二支に猫がいない理由を教えられた記憶があります。 神様が動物たちに競走を案内します。その競走でネズミは牛の頭に乗り、ゴール手前で牛から降りて1位になった。そして牛が2位。猫はネズミから競走の日を1日後と教えられスタートが遅れてしまい十二支にいない。それで猫はネズミを怒っていて今でもイジメる。そんな話だったと記憶しています。 私の家では50年程前に鶏を飼っていました。当時、鶏を飼っている家は周りでも見かけました。鶏のお陰もあり私は毎日、生卵を食べることができました。 あるとき鶏の檻の前で猫が網をガサガサと擦っていることがありました。その光景を窓から見た私は外へ出ていき棒を持って猫を追い払いました。 ある日、保育所から帰宅した私に祖母が言いました。鶏が猫に殺られた。私は発狂に近い程の怒りを感じ、猫を探しに外に出ましたが猫は利口でなかなか顔を出しません。それから猫が憎らしい存在となり、見かけると石を投げたり水をかけたりイジメるようになりました。成人なってから、仲良くなった女の子の家に遊びにいったときに猫を飼っていたことがありました。彼女の手前、猫じゃらしなどを使って遊んであげるよう気を配りました。あるとき部屋に異臭がしました。猫がオナラをしたのです。部屋の雰囲気はオナラの原因は私という感じでした。私じゃないと言っているのに彼女は怪訝な顔をしています。やってられません。というか、やってません。 彼女とは、それきりになりました。猫に二人の仲を裂かれた格好です。こうし
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外車って言葉は使って良いのでしょうか

【この文章には不適切な表現が含まれていますので、気分を害されそうな方は、ご覧にならぬよう、お願いいたします】 私の乗っている車は国産のSUVです。SUVとは、スポーツ・ユーティリティー・ビークル(Sport Utility Vehicle)の略で、スポーツやレジャーに適した装備を持ち、ふだん使いからレジャーまで幅広く使える多目的スポーツ車の総称とのことです。私は、こういう車種を数年前までジープ型と呼んでいました。 先日、後輩から「外車に乗りたくないのか」と聞かれました。自動車免許を取得してからの38年間、一度も外車に乗ったことはありませんし、今後も予定はありません。似通った車種で比較すると外車のほうが高価ですし、いざ故障した際の対応が田舎では時間を要してしまうことも想定できます。 ところで、この文章で使用している「外車」という言葉を使って構わないのか疑問に感じました。なぜなら、これまでの仕事において「外人」を「外国人」と表すように改めていたからです。「外人」を使わなくなった理由を理解できていません。それでモヤモヤっとした気持ちになりました。 調べたところ「外人」は差別用語に位置付けられているのですね。正しくは「イギリス人」「中国人」など国名を付けるべきと示されている説明もありました。 差別用語を調べると、私が日ごろ使っているものが羅列されていて驚きました。チビ、坊主、高卒、中卒、土方(どかた)、成金、部落、アル中、非国民、びっこ・・・。まだまだ、あります。差別用語の中に、外人はありましたが、外国人はありませんでした。 説明書きを見ていくと、外国の人の大半は「外人」と呼ばれること
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若手の育成は無理じゃないでしょうか

【これはフィクションであり、私が勤めていた職場とは関係がありませんので、あしからず】新しいサービスを開始するためには新たな負担が発生します。このためスタッフを増やす、他の業務を減らす、外部へ業務を依頼するほか、スタッフの能力向上や効率的な業務の実践も求められます。人員増と外部発注は経費増、業務量軽減は収入減に繋がりますので、経営の観点で難しい判断が必要になり、中間管理職の私は「部下の育成」「能率アップ」が目標と定められます。 私自身も先輩から「今の若い者は」と言われていたでしょうが、最近の若手スタッフに対し「今の若い者は」と感じる場面が増えています。手を動かす前に口が動く。周囲に対する協力姿勢に欠ける。時間外勤務の命令を拒む。これらのことは、私が若いころには極めて少ない事象でした。 自分の意見を言えずに上司や先輩の指示どおり動き、周囲の仕事を手伝い、自らの判断で時間外勤務を行う。今の若手の中にも少数ではありますが、そういう「変わり種」がいます。「変わり種」ではないスタッフを「普通の若手」と呼ぶとすれば、「普通の若手」は「変わり種」に損な役割を押し付け、見て見ぬ振りをしているように感じます。 総務担当部長は人員確保に苦労しているようです。しかし頭数だけ揃えられても「普通の若手」を配置されると全体の士気に悪い影響が出ます。この点は総務部局と議論になるところです。同業者の集まりでも同じような話題になることが多く、悩みの種となっているところは私たちだけではないようです。 人材紹介が業務として成り立っています。自分が勤める職場を他人に探してもらうことが一般的となり、並べられた職場の中から
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高所恐怖症でも夜景は楽しみたい

北海道は雪が積もると屋根に上って雪投げを行わなわなければなりません。でも先日アパートに転居したので、今年から作業をする必要がなくなりました。私は高いところが苦手なので、この作業をやらなくて良いのが嬉しいのです。屋根に上るための梯子も嫌です。部屋の照明の電球を交換するため脚立に上るときには、気持ちを強く持つように自分に言い聞かせて作業をしています。 高いところに行ったときに下に落ちるかもしれないという「不安」がつきまといます。 高いところに恐怖を感じることは人として正常らしいですが、私ほど「不安」な気持ちになる高さが低いのは高所恐怖症のようです。ガラス張の床でできている高いタワーなどに登っても中心近くから離れられません。高速道路や峠を運転しているときに高い位置にある橋を渡らなければならなくなることがありますよね。同乗者が「すごい景色だね」と喜んでいるときに、私はハンドルを持つ手に力が入り減速傾向になります。ジェットコースターも嫌いです。 子どものときには、どれだけ高い位置から飛び降りることができるかを競ったものでした。そのときは恐怖心が無かったのに、いつからか怖く感じるようになりました。 こんな私ではありますが高い山から町の夜景を見るのは好きです。函館山の山頂までマイカーで行くことに「不安」はありません。でもロープウェイには「不安」を感じます。函館山の山頂までの道路は残り1か月程で通行止めになるようです。週末に出かけてみようかと思っています。
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仲間が必要なことを学びましたよね

学校や職場で生活する中で仲間ができるものですよね。さて、仲間とは。辞書では「何かを一緒に行う者」と示されています。 私は、それって仲間なのかと疑問に感じました。 例えば同じ部活動の部員は仲間とは違うと思います。部員に過ぎません。部活動の中で、この人とは同じ目標をもち、同じように練習に取組み、その結果によって一緒に喜び悲しむ。そして次のステップへと向かう。それが仲間であり、先生からの指導どおり部活動を過ごしている部員のことは仲間とは思えません。 それは、仕事においても同様です。同僚の中で、私が苦しんでいたら何も言わずに手を差し伸べてくれて、彼が苦労していれば私も一緒に汗を流す。やがてライバルとなり、意見が食い違っても、ポストを争うようになっても、彼とは仲間という意識が継続しています。退職した今でも彼は私にとってかけがえのない仲間です。しかし給料のためだけに働いているような同僚は仲間とは感じたことがありません。 これは私の偏見なのかとも思います。 香川さんの出演に賛否両論の意見が出た六本木クラス。主人公「宮部新くん」には数人の仲間ができました。「新くん」を応援するだけではなく、「新くん」も彼らを大切に思って行動していました。一方で「長屋茂さん」の仲間は、他界された「相川さん」だけだったのかもしれません。仲間を作ることができない。それは力不足であり努力不足とも思います。 私が長年勤めていた職場では「長屋茂さん」がトップになってしまい、「宮部新くん」が現れるのを待ちわびているような状態でした。仲間を持たない若者が多く見受けられ、第2、第3の「長屋茂さん」が誕生する日が近づいているように
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物忘れだと良いのですが

母が昨年、認知症と診断されました。なかなか病院に行きたがらず手をやきました。母の症状は10年以上前から兆候がありました。同じことを何度も繰り返して話すようになったのが最初の異変でした。娘に同じ模様のTシャツを買ってきてしまい、娘が母のことを心配すると、そんなことはない、馬鹿にするなと言い張ったこともありました。5年程前からは風呂に入らなくなり、髪も切らなくなりました。不審な業者に騙されて高額な商品を購入してしまったこともあったので来訪者の対応は父が行うこととし、冷蔵庫を開けると明太子が3パックとか、同じドレッシングが5本もあったりするので買い物には父が付き添うようにしました。部屋を掃除するのも洗濯するのも父の役割になり、父は負担が増え趣味だった魚釣りにも行けなくなりました。日が経つにつれ母の症状は悪化し、ご飯の水分調節ができなくなり、料理を作りたくないと言うようになりました。両親の食事は刺身やスーパーのお惣菜で済ますようになり、父は味気ないと不満な様子でした。娘は母の作るハンバーグやカレーライスが好物でしたので、孫になら作るかと思い母にお願いしても腕を振るってはくれませんでした。私は診察を受けさせなければと思っていたのですが、嫌がる母を病院へ連れていくことに父が同意してくれず、認知症の診断を受けるまでに時間を要してしまいました。力不足を痛感しています。現在、母はサービス付き高齢者住宅に入居しています。この住宅の入居者の中では最年少です。10分前に話したことも忘れるようになっていたので不安でしたが、管理人から問題はないと判断いただき何とか入居できたのですが、先日、散歩に出かけたと
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衣替え

寒くなってきました。衣替えされましたか。衣替えとは、タンスに収納している服を季節に合わせて入れ替えることですよね。私は、タンスの衣服をもう何十年も入れ替えたことはありません。 以前は、その季節に着る服はタンスに入れ、着ないものは収納箱に入れて押入れに保管していました。でも現在は、ダウンコートなども1年中クローゼットにかけて保管しています。収納の事情が変わったことや、洗濯技術が向上したことにより肌着など衣服の数が減っていることも関係しているのだと思います。ですから、1年中、同じ場所に衣服を収納しており衣替えはしていません。 昨日、昼ご飯に入った食堂で「衣替えした」「私もそろそろ衣替えしなきゃ」とOLが話していました。彼女たちは、どれだけの服を持っているのだろうか。タンスが狭いのだろうか。着ない服はどこで保管しているだろうか。 ちょっと気になりましたので調べてみたところ、季節に合わせて着る服を選ぶことも衣替えと呼ぶことが分かりました。タンスの服を押入れの収納箱のものと入れ替えなくても衣替えと呼ぶのですね。知りませんでした。彼女たちだって、和ダンスの引出しを上下に入れ替えることや、引出しの中の服を前後入れ替える程度の作業は行うのかもしれません。そう言えば、私が勤めていた職場では女子の制服に夏物と冬物がありました。その制服も、きっと1年中、同じクローゼットに入れてあると思います。 ところで、季節に合わせて服の収納を入れ替える衣替えは日本独特の習慣だそうです。それを知り、私は、私たちの時代で多くの日本の風習が失われているようで少し寂しい気持ちになりました。心に秋の風が吹いています。
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カメラのシャッターは男気を持って切るものだと思う

優里さんのシャッターという曲があります。我が家では、特に午前中に流れています。歌詞を聞き取ると、青年が好きだった女の子に振られてしまい、どうしようもなく落ち込んでいる様子です。 サビの辺りが心地よく、歌詞も自分の中に食い込んできます。いわゆる軟派な話なのに、浪花節を地でいく私がどうしてしまったのかと、自分の精神状態が不安になります。 男女平等とか、そういう話は、ここでは勘弁してください。男子たるもの、女子に嫌われても、振られても、そんなことを口に出すのは、恰好悪いでしょ。この歌詞は大丈夫なのか。そう感じながらも口ずさんでいる自分がいます。こんな調子で弱音を吐くことは、私たちが若いころには男子に許されていなかったというか、むしろ女子に嫌われていたように感じます。 「君に振られたけどね、俺はもう前を向いているよ。君が幸せになったのなら、俺は何も望まないよ。おめでとう。俺のことなんか心配する必要ないよ」それが私たちの時代の男前な姿ですが、この曲の中では、そんな様子や男気は、どこからも感じ取れません。 カメラのシャッターに例えていますが、カメラを仕事で使っていた私は、シャッターを切るときのことを男らしい瞬間だと感じていました。ロックでハードでパワフルな、それでいて繊細な感覚をもってシャッターを切っておりました。「全ての時間を君だけに使えば良かった」そんなこと、ありませんよ。君は、君の人生を歩むべきで、そんな素敵な君のことを理解できない彼女のほうが、きっと、どうかしているのです。おいおい、なんでオジサンが君を慰めなきゃならないの。 この曲は今の時代には受け入れられているようです。 私だっ
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シルバーウィークが終わります

日曜日が休日になったのは、いつからなのかな。と、気になって調べてみたところ1876年のようです。私が働き始めた1984年も多くの職場が日曜日は休日で、土曜日は平日扱いのところが多かったのですが、私たちの職場は午後がお休みでしたので、その点で恵まれていたと思います。 その後、私たちの職場は土曜日が隔週で全休となり、数年後には全ての土曜日が休日となり今に至っています。 ところで、今日も感じていたのですが、近年、連休の価値と言いますか有難さが薄れていないでしょうか。 かつては連休に向けて1か月程前から計画を立てたものでした。三連休になることは年末年始とゴールデンウィークしかありませんでしたので、そこまでの数週間はウキウキした気持ちが大きかったものです。 今日では1年に何回も三連休となることがあります。このため日常生活に不便さを感じているのは私だけでしょうか。用事ができても、連休明けまで対応いただけないことが多くあります。何事もやり過ぎは良くないと思います。周りには連休にできない中小企業が多く見受けられる状況にあります。一流企業や官庁の職員は連休を与えられ、ニュースでは楽しそうな様子が映し出されます。一方で、職員に連休を与えることが困難な中小企業が存在し、そこで働く親を持った子どももいます。その子は、楽しそうなニュースを見て悲しい気持ちになっていないでしょうか。また、休みを返上して発熱患者等を受け入れている病院があることも忘れてはならないと思います。この三年間に負わせた負担は、きっと後々大きな問題になるのではないかと老婆心ながら危惧しております。
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新米美味い(しんまいうまい) ️

先日、知り合いの農家から新米をいただきました。今朝、炊いてみたのですが情けないことに水が多すぎたみたいで、柔らかくなってしまいました。 塩にぎりにして食べようと思っていましたが、握り飯にするには柔らかすぎたので、お茶碗によそって食べました。味は美味しかったです。でも、失敗したのが悔しかったです。くやし~ぃ。 午後から、残ったご飯を食べようとしたところ、不思議なことに柔らかかったお米が、丁度良い固さになっていました。 そんなわけで、さっそく塩にぎりを作りました。 うまーい。これは美味しい。こんなに美味しいお米を食べるのは久しぶりです。 失敗が、どこで成功に変わるかって分からないものですね。 明日は残ったご飯でお茶漬けの予定です。
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今の私に最も必要な情報は新聞のお悔やみ欄かもしれません

新聞を購読しない若者が増えていると思います。後輩は、今はネットで情報を集められるので新聞は要らないと言っています。私にとっての新聞は、地域の情報を知るために必要なものでした。ですから最初は必ず地方欄をめくりました。次にスポーツ、三面記事、最後にお悔やみ欄の順となり、時折、経済欄を開くこともありました。 数年前に新聞の購読を止めてみたところ、私の場合は生活に支障が出るとことが分かりました。地方の情報は私の生活に欠かせないものとなっており、新聞を読まないと自分の地域で何が起きているのかも分からず、上司などとの会話についていけないことが発生しておりました。 退職した今となっては、新聞の無い生活が一般的なのかとも感じるようになってきました。自分の家庭に大きく関わる社会問題は、そうそう発生しませんし、国内的な情報はテレビから入手できます。地域のことを確認したいときにはインターネットで検索できます。これじゃ後輩が話していたとおりですよね。 ただ、困っていることもあります。それは、お悔やみ欄を確認できないことです。お世話になった方や、交流のあった方に失礼してしまい、葬儀へ出席できていない件が発生しています。お悔やみの情報は、インターネットでも確認できるのですが、中には、新聞では扱われているのにサイトには掲載されていないものもあるようです。 新聞が、いかに貴重な情報を掲載しているものなのか、お悔やみ欄から感じさせられており、再び新聞を購読するか悩んでおります。
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お風呂は気持ち良いですか

子どもの頃、お風呂に入るのが嫌でした。これには、理由が何点かあります。まず面倒くさい。次にシャンプーが目に入って痛い。それから虫が嫌。この点は説明が必要ですね。当時の我が家はコンクリートブロック造平屋建の社宅で、お風呂はコンクリートで囲まれ、排水から虫が入り込んでくることがありました。コンクリートの床にスノコを置いてあったのですが、そのスノコの隙間にも虫がいたりしたのです。ワラジ虫、便所コオロギ、ゲジゲジなどが現れました。ネズミも走りました。そして浴槽の蓋を開けたら蛇がいたこともありました。 引越先の環境も似たようなものでした。シャワーもありませんでした。それでも中学や高校に通うようになると、身だしなみに気を付けるようになるじゃないですか。運動系の部活に所属し汗をかいた生活をしていましたので、仕方なく歯を食いしばって、毎日、お風呂に入っていました。 20歳の頃から暮らした住宅は、足を伸ばすことのできる浴槽と、虫が現れることのない洗い場だったので、今度こそ気持ちよく入浴を楽しめる。そう思っていたのですが、今度は湯垢が気になるようになりました。私にとって、湯垢が気になるくらい綺麗なお風呂は初めての経験だったのです。結局のところ、その頃もシャワーしか使っていませんでした。 その後、いろんなアパートで生活するようになり大抵はユニットバスでした。シャワーだけの生活は、すっかり習慣になっていました。 浴槽に入るようになったのは娘が生まれたときです。娘と一緒に入ったお風呂は楽しい思い出ですが、楽しい時間はそう長くは続かず、小学生のころには娘から拒絶されるようになっていたと思います。寂しいもの
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今年は紅葉狩りに行こうかな

紅葉を辞書で紐解くと、葉を落とす前の広葉樹の葉の色が変わることや、その葉のことと示されています。詳しくは、赤く変わるのが紅葉で、黄色に変わるのは黄葉、褐色に代わるのを褐葉と呼ぶこともあるらしく、それらの総称として紅葉が使用されているそうです。 樹木は、針葉樹と広葉樹とに大きく分かれ、針葉樹のほうの割合が少しだけ高いようです。紅葉になるのは広葉樹です。また、森林には人工林と自然林とがあって、人工林の9割が針葉樹であるのに対し、自然林の8割は広葉樹とのことです。北海道では圧倒的に針葉樹が多くみられます。それで、針葉樹に囲まれた中の広葉樹の紅葉が映えるのではないかと思います。 ところで、あなたは紅葉を「もみじ」「こうよう」どちらで呼びますか。これは、どちらでも構わないそうです。でも、紅葉狩りと書くと「もみじがり」となって「こうようがり」とはならないですよね。 私は、紅葉まつりというイベントに関わったことがあります。テレビやラジオで紹介されることもありましたが、紅葉まつりのことを「こうようまつり」と話すアナウンサーが複数いるのです。どうも腑に落ちません。こういう細かなことを気になってしまう年齢になりました。 単独で山の中へ入るのは危険も伴います。紅葉まつりは、紅葉狩りを楽しんでいただけるように開催するイベントです。ですから「もみじまつり」が適当だと思いますし、私たちも、そう読んでいました。 きのこ狩りやタケノコ狩りは、きのこやタケノコを採取することを言いますが、紅葉狩りは紅葉を採取するのではなく、景色を楽しむ行為らしいです。色鮮やかな景色を眺めて記憶にとどめることを、きのこなどの採取に
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今日は給料日

これまで勤めていた職場では、毎月21日が給与支給日でした。かつては現金で支給されました。部署ごとに若手スタッフが会議室に集められ、それぞれの職員に対する支給額に数え間違えがないかを確認させられていました。たいへんな金額が一つの部屋に集まりますから、いつも事故が起こらないかとハラハラしていました。 いつの間にか銀行振り込みになり、そういう緊張感から解放されました。 給料が現金で支給されていたころ、給料日には、旦那さんが無事に帰宅するのを奥様は待ちわびていた。そんな家庭が多かったのではないでしょうか。同僚とどこかへ遊びに行って飲んだ勢いで使いこんでいないだろうか。ギャンブルなんかに注ぎ込んでいないだろうか。そんなことを心配しながら、いつもよりも食卓を豪勢にして、奥様はご主人の帰りを待っている。これが昭和の日本と言えば、それまでの話ではありますが、この生活って、男女平等ではないということで許されないのかなぁ。 女性は女性らしく男子に尽くす。男子は、女性が女性らしく生活できるように一生懸命に外で頑張る。それってお互いに思いやりがあり、人間らしい感性の上になりたっている状態と言えないでしょうか。性別によっての役割分担というか、子どもを産む側の女性に対する男子の愛情だと私は感じます。 言い忘れましたが、私の家庭は共稼ぎだったので、こんな経験はありません。むしろ、持ち帰った給料が少ないということで女房から嫌味を言われ、いつも肩身が狭い思いをしておりました。情けない話です。 さて、思い起こすと、若手スタッフが事務所に戻ったとき、先輩たちからジュースやお菓子が用意されていました。それは、先輩後輩
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カップ麺が食べたい

私には、今では誰もが一度は食べたことがあると思われる「カップ麺」をなかなか食べられない時代がありました。 カップ麺との出会いは、日清カップヌードルの自動販売機が地元スーパーの入り口に置かれていたときだと記憶しています。コマーシャルで見ていたので、すっごく食べてみたいと思ったけど、結局、何年たっても食べることはできませんでした。 食堂で食べるラーメン。この経験は早かったはずです。それでも小学生時代の通算数は片手程度だったと思います。 貧しかったのかもしれませんが、周りの家庭も同じような感じだったと思います。外食なんて恐れ多い感覚がありました。あれれ、もしかして私の家庭だけなのかなぁ。 カップ麺を初めて食べたのは高校生になってからです。アルバイトをしていたので割と小遣いがあり、この頃には仲間とラーメン屋にも通うことができるようになりました。 その後、カップ麺は開発が進んだことも理由なのでしょうが、当時の三倍程の価格の商品が目につくようになっています。食堂のラーメンも三倍くらいの値段になっていますよね。 これだけラーメン代があがっているのに、年金の支給額は、30年前の半額以下になっているようですね。なんすかこれって感じで、ため息が出ちゃいます。 これでは、カップ麺を食べられない時代に逆戻りしそうですね。
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私は犬派です

犬と猫とを比べると、私は犬が好きですが、周りには猫派の人が多い。ところが、インターネットで統計を確認すると犬派が圧倒的に多いそうです。年代別の数値を見ると20歳台では、猫派の割合が犬派を抑えています。テレビや雑誌は、空前の猫ブームと伝えています。流行に敏感な若年層では、猫に軍配が上がったようです。 犬の中では、最近、トイプードルやチワワなど小型犬に人気が集まっているようです。私の周りには「血統証付き」という言葉を使う方がいます。20年前までの「血統証付き」は秋田犬や柴犬、ドーベルマン、名犬ラッシーでお馴染みのラフコリーや、小型犬のダックスフンドくらいしか見かけることがありませんでした。当時、多くの犬は屋外で飼育されていました。その大半は、いわゆる雑種でした。「血統証付き」の犬を飼うことは、当時、ステータスだったと思います。「血統証付き」の犬が玄関先にいる家庭は金持ちというイメージがありました。それが北海道の犬事情でした。 犬は鳴き、吠えます。鳴き声は、時代の流れの中で近所迷惑という問題を引き起こすようになりました。また、北海道は1年の半分近くを雪の中で過ごすことになりますから、愛犬を屋外におくことに抵抗を感じる人が増えたと思います。そうして、犬は屋外から室内へと生活環境を変え、その影響で大型犬は敬遠されるようになり、現在の小型犬や猫が飼われるようになったのかもしれません。 室内でペットと一緒に過ごしたいという飼い手側の欲求が、現在の小型犬や猫の需要につながっている。そうして考えてみると、可哀想な話ですが、相当数の雑種の犬が処分されているようにも感じます。 だからなんだと言われそ
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何歳まで働けば、私たちを許してくれるのでしょうか

老後のために2000万円は貯金が必要。少し前に、そんなことが話題になりましたよね。そもそも、そういう考え方になるなら、年金とは、老後の生活を貯金で賄えない分の補填制度ということなのでしょうか。 私たち国民に対し、貯金をすることは国民の義務であり、その義務を果たしていない国民には人並みの老後の暮らしは約束できません。国は、そういうことを言っているのですか。日本って、そんな国なのですか。私は、どうしても納得できません。 高級品を購入する、海外旅行へ行くなど、贅沢をしたいと言っているのではありません。最低限の生活を送るために必要な分だけは、年金が負担すべきものだと考えます。 私の場合、住宅の家賃、電気・ガスなど住宅の維持費、飲食費のほか、公共交通機関が不便な地域に住んでいるため車両費が必要になります。今使っている車が今後一切壊れないとしても車検や自動車重量税などの車両の維持費は必要になります。また、これからは、きっと医療費も必要になるでしょう。現在の年金制度で支給される金額では、そうした支出を賄えない。これは明白です。 仕方ないですから貯金を取り崩すか、働かなければなりません。しかし、年金を受給しているのに働かなければならないという世の中は、いかがなものでしょう。定年年齢が定められていることにも疑問を感じます。定年年齢というのは、どういう基準で定められているのでしょうか。 定年後も時間に余裕があり、体力もあり、家族の理解もあり、生きがいにもなるので働きたい。そういう考え方は理解できます。しかし、誰しも体力には限界があると思います。それぞれの家庭に事情があると思います。働くことにより、
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福岡県はすごいと思う

台風14号が日本上陸。つい先日も、台風により沖縄県などで大きな被害が発生したと聞いています。被害を受けられた方に心からお見舞い申し上げます。 北海道に台風が上陸することは稀ではありますが、線状降水帯の影響なのでしょうか、ゲリラ豪雨により被害が発生することがあります。このような被害を想定し、地域には避難所が指定されています。避難所には発電機や防災資機材などが常備され、非常食や水も確保されているようです。費用もかかっているでしょうし、いざという時の人員確保も大変だろうと思います。 さて、昨日、福岡県では矢沢永吉さん、小田和正さん、高橋真梨子さんのコンサートのほか、いくつかの野外ライブが予定されていたようです。矢沢さんは50周年記念ツアー、高橋さんは全国ラストツアーとのこと。このうち、矢沢さんは予定どおり開催されましたが、ほかは中止となっています。矢沢さんの公演については賛否両論が出そうですね。 それにしても、私が驚いたのは、これほどまでのライブを同時に開催できるという、福岡県が持つ、音楽に対する地域力です。福岡県は音楽に熱く多くのミュージシャンを輩出しています。北海道からも多くのミュージシャンを輩出していますが、福岡県には勝てそうもありません。 機材やスタッフを確保するだけでも、とてもたいへんなことと思います。それに宿泊施設やタクシーは飽和状態にならないのでしょうか。昨日は中止となりましたが、全てを開催していた場合、飲食店は対応できたのだろうかとも感じます。イベンターだけではなく地域の多くの方が、これらのライブを支えている。さすが福岡県。恐るべしです。 ばってん、ヒット曲は北からと
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絵本作家

私には若い頃に絵本作家になりたいという夢がありました。自分自身でも忘れておりました。 私は田舎育ちです。少しずつ市内中心部へと転居を繰り返しましたが、いつの日か人里離れた田舎へ戻り、絵本作家として生活できないものかと考えていたことを思い出したのです。机の奧には、新聞を切り抜いた作品募集の広告が、そのまま残っていました。 その程度の夢と言われれば、そのとおりなのですが、夢を忘れてしまったのは、いつなのかと考えてみました。20歳台から40歳台にかけて、ほぼ毎日の激務、そして波乱万丈の生活に追われていました。毎日を乗り切るよう力を注いでいるうちに、私は夢を忘れてしまっていたのでしょう。 昨日、磨り減っていた夢を思い出し作品募集に手をあげてみました。 どうか当選いたしますように。57歳の挑戦を応援いただけると嬉しいです。
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惜しまれる引退

プロ野球では、今年も多くの選手がユニフォームを脱ぎます。阪神タイガースの糸井選手。中日ドラゴンズの福留選手。オリックスバッファローズの能見投手。西武ライオンズの内海投手。まだ、はっきりしませんが、広島カープの長野選手やヤクルトスワローズの内川選手、ドラゴンズの平田選手、ソフトバンクホークスの松田選手にも、引退の噂がささやかれているようです。昨日、東京ドームで行われたジャイアンツ対阪神の試合は、今年、阪神が東京ドームでジャイアンツと戦う最後の試合でした。試合後、阪神ナインが、東京ドームへ応援に駆けつけてくれた阪神ファンに対しお礼の挨拶を行いました。その後、糸井選手が一人でナインの前に出て球場全体に手を振りました。ジャイアンツファンからも糸井コールが巻き起こりました。糸井選手は、たぐいまれない筋力を誇り「超人」と呼ばれ、プロ野球ファンに愛されている証だと感じました。 さて、私はジャイアンツが好きなので、ジャイアンツで衝撃的だった引退劇を振り返ってみます。 まず、江川投手。引退時も成績は悪くなかったと思いますが、シーズン終盤でヤクルトの小早川選手にホームランを打たれ、限界を感じたとの記者会見がありました。中畑選手はレギュラーを他の選手に奪われていましたが、晩年も代打でホームランを打つなど、まだ力はあったと感じました。桑田投手は、突然、アメリカに行っていまいました。あの時は球団との確執が噂されたと記憶しています。彼がジャイアンツのピッチングコーチを引き受けたのも不思議な感覚になりました。不思議といえば、斉藤投手の引退のときも不思議な感覚を覚えました。彼は並外れた体力の持ち主で、おそらく
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昔パンダで今キツネ

パンダが日本にやってきたとき、私は、きっと一生見ることはできないだろうと、割と将来を悲観していた子どもだったように思います。 家の周りでは、キツネが鳴き、リスが走り、鹿も現れることがありました。さすがに熊に出くわした経験はありません。 数年経って、富良野を舞台にした国民的テレビ番組が放送され、キツネの人気が高まりました。毎晩のように鳴き声を聞いたり、時には悪さもされていましたから、キツネが人気者になるなんて考えられませんでした。 今年は、プロ野球日本ハムのファイターズガールによるキツネダンスが一世を風靡しています。私のようなオジサンでも踊りたくなることがあります。忘年会で踊ることを考えられている方もいらっしゃると思います。 そういえば明日、札幌ドームに、あの曲を歌っている本物のアーティストがノルウェーからお越しになり、ファイターズガールとコラボするそうです。凄いことだと思います。先日、55号のホームランを打った村上選手がセ・リーグのMVPは間違いないでしょうけど、パ・リーグはビッグバスを含めた日本ハム球団に何か賞を与えていただけないでしょうか。 見ることができないと思っていたパンダですが、4年前に和歌山へ行ったときに間近で見てきました。悲観していても、人生楽しくないですよね。
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寒いです

タオルケット1枚で寝ていましたが、寒かったので、とうとう掛布団を出しました。冬が近いことを感じています。 休日でも、4時には目覚めて活動を始めるのですが、今日は、2度寝、3度寝を繰り返し、起きたのは9時。特に疲れているわけでもないし、昨夜、飲みすぎたということでもありません。寒さの中で、布団の中に居座ることが心地よかっただけです。 20歳のころには昼過ぎまで寝ていることもありました。体力があったのだと思います。それに比べて今では、寝ている途中でトイレに行くようになり、熟睡を感じることが少なくなっています。 言い忘れましたが、夜8時には眠たくなります。ですから4時まで8時間弱は眠れています。昼寝をすることは、ほとんどありません。 健康維持には何よりも眠ることが大切だ。勤めていた病院の医者から説明を受けたことがありました。食べることだったかな。運動だったかな。あれあれ、記憶が・・・。 起きようとしても起きられなくなる日が、冬のように近づいてきていると感じております。
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シルバーウィーク

シルバーウィークを迎えました。皆様におかれましては、コロナ感染に気を付けられ、エンジョイいただければと思います。 さて、私事ですが、国の窓口に相談事ができたので、先日、電話で予約を申し込んだところ「来週は営業日が3日しかないので混んでいます」とのこと。 厚生労働省では、従業員に年間5日以上の有給休暇を取得させるよう、事業者に対して指導していると聞いています。国の窓口では「シルバーウィークには、平日も休んで4連休にしませんか。何なら3日とも休んで9連休。この機会にリフレッシュしましょう」などと管理職から従事者に声掛けされているかもしれませんね。 実は、私の在籍していた職場では、上司から私に対して同様の通知がありました。働き方改革。素晴らしい時代ですね。 私が相談を申し込んだ事務所には窓口が7つあります。来週の数少ない営業日に使われない窓口があったりするのかな。顧客の利便性を損なわせてまで、働き方改革を進める。国民のために働かなければならない国家公務員ですから、そんな訳はないと信じたい。きっと代役を確保するなど万全な体制でいるはずです。私は、相談を断られましたが、火曜日に確認しに行きたいと思っております。私は、2年前まで有給休暇を1日も取得しなかった、けっこう、やっかいな労働者です。
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退職後の仲間

仕事を退職した後は家族と悠々自適に過ごす。家族で旅行へ出かける。孫に囲まれ団らんする。理想的な老後ですね。 映画やテレビドラマでは、同僚と飲食する場面は見かけますが、退職された方と交遊を続けて居酒屋で酒を酌み交わしているシーンを見かけることは記憶にありません。退職された方が出てくる場合の多くは、事件物で、退職した刑事に当時の捜査情報を確認するときぐらいのもの。 私は、退職後も後輩から声をかけていただき、仕事抜きで楽しませていただいています。これまでの後輩への付き合い方が、間違っていなかったなぁと胸を撫でおろしています。 また、行きつけの飲食店での仲間というのも数人いて、これまで、旅行やボーリング、麻雀などを共にしており、これからも彼等との時間を楽しみたいと思っています。 しかし、困ったことに、私には収入がありませんので、交際費を確保することは非常に難しいのが実態です。このままでは、生活が行き詰まります。喜んでばかりもいられません。 そうやって考えると、映画やテレビドラマの世界は、案外、私たちの暮らしの実情に合っていることに気づかされます。 むしろ、私の生活は、非現実的なのかもしれませんが、何とか、この楽しい時間を少しでも継続したいと願っております。
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標準語

私は北海道に住んでおり、ほぼ標準語で生活しています。ただ、周りの人か、時折、なまってるとも言われることがあります。 テレビなどで関西弁が流れるときに、たまにですけど、腹が立つというか、イラつくというか、何か違和感のような感覚になることがあります。そもそも、公共放送で関西弁が流れることは、以前はお笑いなど芸能人によるもの程度だったように思います。 今では、標準語ではなく、あちらこちらの地域の言葉が自由気ままに混在して使われるようになったのは、テレビが影響していると思います。 ズームイン朝という番組がありました。そのような番組で、日本全国津々浦々の地域の話題を現地からの生放送により届けるようになりました。そして私たち一般人が沢山テレビ出演するようになりました。子どもの頃を振り返ると、一般人がテレビに出るのは、のど自慢とか、オーディション番組だったと思います。住んでいるところにテレビカメラが来るとワクワクしたものです。 関西弁の話に戻りまが、私の周りの道産子の中でも、時折、関西弁を使う人がいます。なんやねん、おもろい、しんどい・・・。私は、これらの言葉が耳障りに感じることがあります。関西弁が嫌なのではなく、多分、私にとって、関西人に対するイメージが悪いのだと感じています。そのため、周りで関西弁を使われると「なぁに調子こいて、くっちゃべってんのよ。すったらこと、しゃべってたら、ぶっただくぞ。いいふりこきのガンベたかりが」と怒鳴ってしまうことがあります。だって私は道産子ですから。
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高校の先生

私の通った高校には、若い先生はいなかった・・・と思う。 私の通った高校、素敵な女性の先生はいなかった・・・と思う。 私の通った高校には、面白い先生はいなかった・・・と思う。 私の感覚は、あの頃と、40年の時を越えた現在とでは大きく違っています。30歳の男性教師に対しオジサンと感じていたのだろうけど、今じゃ30歳って若いし羨ましいです。魅力的な女性の基準も変化し、清潔感にあふれた人よりも、化粧映えする方に魅力を感じるときもあります。 SEKAI NO OWARIのHabitのプロモーションビデオを最近よく見かけます。先生役に扮して生徒たちと踊る映像で軽快な音楽が流れていきます。とても楽しい気持ちになります。 残念なことに歌詞を聞き取ることが難しいのですが、何度か聞いているうちに気になり始めました。Bad Habit。悪い風習という意味なのかと思います。おそらく若者に「悪い風習や慣習にとらわれず、自分自身の感性を大切にして、諦めることなく取り組もう。その結果、成功をおさめなくても、そこに答えが見つかるぞ。全て自分自身の気持ち次第だ」と語りかけているように私は感じ取りました。 私の通った高校には、若い先生、素敵な先生、面白い先生はいなかったと思います。それでも先生方は私たちを応援してくれていたと思いたいです。今の人生がつまらないとしても、私たちは、そろそろ答えを見出すときを迎えています。受け入れなければなりません。 私の人生は、決して、つまらないものではなかったと思っています。先生に押し付けられることなく、自分で見つけた人生です。それなりにですが、いろいろ楽しい思い出に包まれています
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ヒーローインタビュー

居酒屋では、野球、政治、宗教の話はご法度とされています。今朝は、あえて、野球のことを話題にしてみます。 プロ野球をテレビ観戦していても、応援しているジャイアンツの最近の不甲斐ない戦い振りに嫌気がさしチャンネルを変えることが多くなっています。そんな中、先日は試合終了後のヒーローインタビューまで、しっかりと見ました。 ヤクルトの村上選手が55号ホームランを打ちました。おめでとうございます。あの王貞治さんに並ぶ大記録です。 試合はジャイアンツが勝利。ヒーローは力投で試合を作った菅野投手でしたが、どうも様子がおかしいと感じました。インタビューでは菅野投手のピッチングやジャイアンツの勝利に関する質問に終始し、村上選手のホームランには一切触れませんでした。菅野投手は、この試合で村上選手から54号を打たれました。村上選手は、最終回に菅野投手を救援した大勢投手から55号を打ったのです。 菅野投手は、これまでに村上選手にホームランを打たれたことがなく、この試合が初めてだったと思います。菅野投手も大勢投手も、MVPが確実と言われている村上選手に対し、逃げることなく真っ向勝負。見ごたえがありました。 菅野投手は、大勢投手、村上選手を呼び寄せて、大記録に賛辞を送りたかったのではないでしょうか。「日本記録の61号を目指せよ。俺たちは、もう打たれないから覚悟しろよ」。それが出来ないのは、大先輩の王貞治さんへの配慮か、大勢投手への思いやりのためなのか。 プロ野球はエンターテインメントとして、素晴らしいプレイやビッグボスのパフォーマンスだけではなく、もっと見る人を興奮させてくれても良いと思います。プロ野球界に
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秋の味覚

先日、テレビ番組の中で「秋の味覚と言えば?」という質問に町の人が答えていました。自分にとって秋の味覚は何だろうかと考えました。 すぐに頭に浮かんだものは栗とイモ、南瓜。少ししてからサンマ、牡蠣も食べたいなぁと思いました。 その後、子どもの頃って何を食べていただろうかと振り返ると、懐かしく思い出した食べ物がありました。それは熊です。この季節になると、熊肉の鍋をご馳走になることがありました。味噌味の鍋で、肉は固く、それほど美味しいものではありませんでしたが、子どもですから肉は大好き。部落の誰かが熊を捕獲し、近所の人が集まって鍋を囲むのです。お誘いを受けると、喜んで食べに行ったものです。キノコ採りに行く部落の人が、冬眠に入る前の熊に出くわして捕獲していたのかと思うのですが、何故、秋になると熊の鍋が振舞われていたのか、正確な理由は分かっていません。 ところで、その番組では、マツタケと答えていた方の割合が5番目に多かったのですが、私は、未だに食べたことがありません。貧しすぎるのでしょうか。食べてみたいのですが、確かに手が出ませんね。
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