【全6話。これで完結です。ご愛読ありがとうございました】
◆あの頃(1985年)◆
ひとつ学年が下の彩(あや)と交際して3か月程になっていた。
僕が住む町の駅には改札を出ると電話ボックスがあった。家の固定電話を使うと親がうるさいので彩との電話はここを使うことが多かった。
電話ボックスには冬季間を除き必ずと言っても良いほど蜘蛛の巣が張ってあり、ときには大きな蜘蛛がいることもあった。蜘蛛が嫌いな僕は、駅の脇に立てかけられているホーキを持ってきて蜘蛛の巣を取除き蜘蛛がいないかを確認するようにしていた。
公衆電話のプッシュ番号を押すと大抵は彩が出るのだが、時には母親が怪訝そうに出ることもあった。僕は彩の親御さんに受け入れられているわけではないと理解していた。いつも電話をする時間が夜11時を過ぎているのだから呆れられても仕方ないと自覚していた。
部活動を終えて部員の家にたむろしてから終電に乗り込むのが10時。1時間程、電車に揺られ終点で目を覚ますという毎日だった。
彩との会話で記憶していることは少ないが、あのときの出来事は今でも鮮明に覚えている。
電話ボックスに入り、いつものように彩と話していたときに背中側のガラス製の壁で音が弾けた。振り返ると壁を赤い液体が覆っていた。驚いて電話ボックスの外に出ると地元の後輩たちが笑いながら言った。「先輩、遅くまでご苦労様です」
後輩が、先輩に対してこういう行為をするということは、彼らには僕に対するリスペクトがなかったのだと思う。仲が良くて僕に構って欲しいとしても、先輩に対する振舞いとして許すことはできない。そんなことを一瞬のうちに考える余裕はなかった。僕の体は条件反射のように踊っていた。
数人の後輩を相手に立ち向かっていき、手にしていたホーキで足を払い、胸ぐらに掴みかかり、大将格の後輩を横倒しにして馬乗りになり殴っていた。他の後輩たちが僕の後ろから止めに入っていたのだと思うが何も耳に入らない。頭に血が上ってしまった僕は自制することができなかった。
この暴力時間が引き金となり、彩の親御さんが娘との交際を止めるよう僕の親の元に怒鳴り込んできた。それ以降、彩の声を聞くことができなくなった。
僕らが若い頃、携帯電話やポケベルはなかった。それを恨んでも仕方がないことだ。
鉄道は廃線となり電話ボックスは町から消えた。それでも彩への思いは心から離れていなかった。
◆あの頃(2005年)◆
彩が結婚したことは噂で聞いていた。
僕も結婚し子どもを授かり何不自由なく暮らしている。彩の実家の前を車で通過するときには、もしかして彩が玄関口にいないかと確認してしまう自分がいた。何かを期待しているわけでもないが、元気な姿を見たいという気持ちが心の中に隠れていたように思う。
待ち合わせに使った街角のアーケードは取り壊されていた。一緒に聞いていた曲は懐メロのように扱われ名前も知らない男性ユニットがカバーしていた。時間が流れ、僕は年をとり、白髪を染めて派手なシャツを着る、そんな若作りに余念のない中年のオジサンになっていた。
中学生になった娘は、僕と一緒に過ごす時間が少なくなっていた。娘には、学生のうちにたくさんの友達と遊んで思い出を作って欲しい。小さなことでも構わないから目標に向けて取り組んで欲しい。勉強も大切だけど、何よりも納得いくまでエンジョイして欲しい。そんなことを熱く語る僕は、娘から軽くあしらわれていた。どちらが子どもか分からないというような関係だったのかもしれない。
娘が夕陽を見たいと言ってきたことがあった。土曜日に塾が終わるのを待って二人で海に向かった。娘はウォークマンを耳にしていたので車中では余り話せなかった。1時間程で海岸線に着き、どこに車を止めようか迷ったが、浜辺まで続くと思われる細い道を見つけ車を進めた。
誰も入って来ない浜辺を歩き、枯れ木や布などを集めて火をつけた。やがて日が暮れはじめ水平線に夕陽が沈みだした。娘は何も言わずに夕陽が水平線に落ちるまで海を見つめていた。
僕は後部座席に隠していた花火に火をつけた。娘は僕のほうを見て驚いた様子だった。頬には涙が流れていたのかもしれない。「私もやるぅ。」と走り寄ってきて花火を楽しみだした。最後に残った線香花火を娘と1本ずつ持って、どちらが長く火を残せるか競争した。
帰り道、娘が「お父さんありがとう。」とつぶやいた。僕は「また行こうね。」と言ってから何も言えなくなり、アクセルを少し緩めて心の汗を悟られないよう前方に集中するよう努めた。
僕は娘と一緒に過ごす時間を幸せだと感じていた。でも幸せな時間は線香花火と同じように長く続くものではない。
家に着くころになったころ、彩が言っていた「いつか一緒に海へ行って花火しようね。」というセリフを思い出した。
家に入っていく娘を見ながら、この子もいつの日か、一緒に海に行きたいと願った相手のことを思い出すこともあるのだろうなと感じた。成長する娘の後ろ姿に愛しい気持ちと心の汗が同時に込み上げてきた。
◆あの頃(2015年)◆
彩と別れてから30年が経っていた。
彩が家庭を持ったことは耳にしていたし、幸せなのだろうと思っていた。
彩の実家は小さな菓子店を営み老舗として地域の方に親しまれていたが、残念なことに閉店となっていた。彩は結婚してから店を手伝っていたように人づてに聞いていたが、店をたたんでから、どうしているのかは知らずにいた。
僕は馴染みのバーで酒を飲むことが多い生活を送っていた。カウンターに座り一人で飲むことが好きだった。マスターとの僅かな会話が心地よかった。
その日は、店に数人の後輩が入ってきた。その中には、あのとき僕が殴りつけてしまった彼もいた。彼らはバツが悪そうだったが僕に会釈をしてからボックス席に入り、少ししてから彼が僕のそばに来て話を始めた。お互い年をとり、元気に酒を飲めるだけでも幸せという点で共感した。僕は彼に隣の席に座るよう促した。彼は彩と同級生だったそうで、彩から僕とのことを聞いていたので、軽く冷やかすつもりでトマトをぶつけて脅かしただけで悪気はなかったと弁解した。ペンキだと思ったのはトマトだったことを初めて知った。先輩に対して冷やかすような態度をするべきではないだろう。話を聞いているうちに再びカチンときて、彼を外へ連れ出そうかとも思ったが、今回は年を経たお陰で自制することができた。そして、僕は彼に対し暴力を振るったことを詫びることにした。
彼は教師をしているらしい。最近の学校では先輩後輩の上下関係が薄れ、僕のような性格だと毎日怒りを覚えることばかりが起こり、学生生活を健全に過ごすことは大変な時代になっている教えてくれた。僕もそのとおりだと感じた。
そのとき店に一人の女性が入ってきた。それは紛れもなく「彩」だった。
彼は、あの事件以降、僕と彩が両親によって引き離されたことをずっと申し訳なく思っていたらしく、僕たちに頭を下げた。彼らは同窓会の帰りで、他のクラスメートと2次会へ行った彩を彼がこの店に呼んだのだろう。
彼は彩に席を譲り仲間と一緒に店を出ていった。粋な計らいをしたつもりなのだろうが、残された僕たちは何を話せば良いのかも分からない。再会するまでに相当の歳月が過ぎていた。
互いの近況や子どものことを話した。彩はご主人と東京で洋菓子屋を始めたという。長男は既に成人し自衛隊で勤めており、まだ学生の子どもが二人いるらしかった。
日付が変わる頃、店を出て彩をタクシーに乗せた。この先の人生の中で、再び会うことがあるのだろうか。これが最後になるのかもしれないな。そんなことを考えながら、連絡先を交換しないまま別れた。家路への夜道を歩きながら、僕は彩の幸せを心から祈っていた。
◆あの頃(2015年-その2)◆
僕は一人暮らしをしている。妻に男ができて僕たちは25年の共同生活にピリオドを打っていた。娘は就職して札幌で独り暮らしを始めていた。心配はしていたが、子どもを独り立ちさせることも親の務めだと考え独り暮らしを認めることにした。
娘にメールを送信しても返事が来るのが数日後になる。そのことには少し困っていた。返事がないのは元気な証拠と言うが、親馬鹿な私は心配になってしまう。それが原因で酒の量が増えていたように思う。
夜は馴染みの居酒屋やバーで飲んで過ごすことが多かった。あるときマスターが僕にメモを渡してきた。そこには電話番号が書いてあった。先日、ここで会った後輩の番号らしい。彼が店に来て僕に渡して欲しいと置いて行ったそうで、他に客もいなかったので僕は電話をかけてみることにした。すぐに電話に出た彼は、これから店に来て良いかと尋ねてきた。断る理由はないが、一体、何が起こるのだろうと不安に感じた。
まもなく彼が店に入ってきて隣に座り、何故、彩と連絡をとらないのかと尋ねてきた。別に理由などなかった。そもそも電話番号が分からないことを伝え、もしも東京に行ったときには洋菓子屋を訪ねてみようかと思っていると説明した。
彼が話すには、東京の店は同僚に売却し彩は地元に戻っているらしかった。彩からは東京で洋菓子屋を経営していると聞いていたが、地元に戻っているとは聞いていないと思った。酒が入った席での会話だから確かなものではないのだが…。
彼の説明によると、昨年ご主人が他界され、両親の体調が思わしくないこともあり今は実家に帰ってきてスーパーで働いているそうだ。そんな話は聞いていない。彩にだって僕に話たくないことがあるのだろうと彼を諭した。
彼は、彩が僕に会いたがっていると言うが、彼の話は大袈裟というか、どこか信用がおけないと感じた。しかし拒むものではないので、僕の電話番号を伝えるように話して店を出ることにした。
本心では嬉しい気持ちが湧いていた。それを彼に見抜かれるのが嫌だった。僕は彼の先輩であり、浮かれている様子を悟られたくなかった。僕は単細胞で見栄っ張りなのだ。
本当のことを言えば彩ともっと沢山の話をしたかった。しかし連絡先も分からないし、彼女には東京に素敵な家庭があるのだろうと諦めていた。
いつ連絡が来るだろうか。『期待に胸を膨らます』というのは、この時の僕のことを表す言葉だろう。
彩から電話が来たときには恰好をつけるよう心の準備をしておくことにした。
僕は50歳を手前にして、自分の中の揺れる鼓動を抑えることが難しいと感じていた。
◆あの頃(2015年-その3)◆
バーで後輩と会った2日後に彩から電話をもらった。会いたいという彩のストレートな言葉を聞き僕の気持ちは飛び跳ねるようだったが、それを彩に悟られないよう努めた。
週末に、知人が経営しているイタリヤ料理の店で待ち合わせることにした。僕は居酒屋とか焼鳥屋が好きなのだが、このときはお洒落な店を選んだ。こんなふうに恰好をつけて、ときには粋がって、それなのに仲間の中では一番気が弱い。僕は、そんな自分の性格が大嫌いだ。
僕は約束の10分前に店に入った。彩はその2分程後に現れた。
あらためて互いの近況を話した。どちらも独身というかフリーになっていて、まるでお見合いパーティの出会いのようだと彩は笑っていたが、僕には笑えなかった。天真爛漫な彩と違い、僕は臆病で不器用で人を好きになりやすく冷めにくいタイプだ。動き出すまでは臆病なのに、一度動き出したら止まらない。だからこそ一歩踏み出すことに躊躇してしまう。
彩には子どもが3人いて、1人は社会にでているが2人はまだ学生だという。生活が大変なのではないかと尋ねたが、生命保険と遺族年金があり生活には不自由していないようだった。強がりのようにも感じたが深く追求しても仕方ないと思った。
彩の雰囲気は昔と変わらなかったが、年齢は誤魔化しようもなくシワやシミも気になったのは確かだ。おそらく髪は染めていたのだろう。焦げ茶色の長い髪が彩に似合っていた。今は実家に戻りスーパーでパートをしながら両親の面倒をみているという。彩も僕も一人っ子なので、両親のことに関する悩みは共通していた。
2人は店を出て、先日、再会したときのバーに入ることにした。マスターは静かに向かい入れてくれた。彩は、それなりに飲めるようだった。僕はソルティドック、彩はマティーニを注文したので、マスターが心配そうな顔をした。僕は、マスターの表情の理由がつかみとれた。マティーニはカクテルの中でも度数が高く、あまり女性が飲んでいるところをみかけたことがない。
彩は「今日は特別でしょ。酔ったら介抱してくれる人がいるから安心なの。だから今日くらい飲ませてよ。」と相変わらずの破天荒な振舞いで昔を思い出させた。結局2人とも、その1杯だけを飲み店を後にした。
タクシーに乗るとき、彩が僕の耳元で「今度はシェリー酒を頼むわよ。覚悟してね。」と囁いた。お互い年を重ね、彩にも酒の知識があるようだ。シェリー酒には『今夜は私をあなたに捧げます』という酒言葉がある。それくらいは僕でも知っていた。
彩が乗ったタクシーが交差点を左折して見えなくなった。
数か月後には、彩に会うことができなくなるとは、この時は思いもしていなかった。
◆いま(2018年)◆
いつものように仕事を終え、食べたい酒の肴に合わせて居酒屋を選び、腹が満たされた後は例のバーで飲む。そんな生活が何年も続いている。
あの日の数日後、彩の母親が亡くなられた。そして奥さんの後を追うように親爺さんも他界された。僕は彩の傍らで力になろうと努めたつもりだ。でも、彩が千歳空港から旅立つときには見送りに行かなかった。彩は、末っ子の娘が道外の進学校へ通うことになり、娘と一緒に遠くの町へ行ってしまった。その時から早いもので2年が経とうとしている。
二人のことは周囲にも知られるようになっていたので、彩がここを離れるときに仲間から疑問視する声が聞こえることもあったが、これが僕たちの選択なのだから外野にとやかく言われる筋合いはないと今でも思っている。
彩とは以来会っていないが、送られてくるラインで元気そうなのが分かる。それだけで十分に幸せを感じることができる。
僕の娘は結婚し、もうじき孫が生まれる。彩は僕の孫を見たいので、生まれたら帰省すると言っている。彩の行動力には驚かされることがある。実家の用事もあるのだろうし、きっと本当に帰って来ると思う。
人生が100年としても、もう半分を過ぎてしまった。ずいぶん遠回りをした気もするが、全てが今に繋がっているように感じる。
先のことは分かるはずもないが、きっと近い将来、僕は彩と一緒に孫と遊んでいるように思っている。
「何をニヤニヤしているんだい。」マスターが僕に言った。ふと我に返り僕はマスターに言葉を返した。「今夜も酒が美味いと感じていただけですよ。」
スマートフォンの待受画面が孫の笑顔になる日が待ち遠しい。
◆執筆後記◆
最後まで、ご覧いただきありがとうございます。
この物語はフィクションですが、一部、実話も交えています。
「いま」の設定を既に過去の2018年としています。
僕と彩との本当の「いま」を想像いただけると嬉しいです。