自我ってないの?
どうやらこの世界に「自我」はない、という話がまことしやかに広がっている。この自分だと思っているもの。理論上1秒後には姿形を変えているのだそうだ。細胞は生まれ変わっているからなのだという。それを正確に捉えようとすると、果たしてこの自分がなんなのかわからなくなる。という意味でいうと、確かに自我はないのかも、と思います。昔、お釈迦さまの説法を楽しみに、多くの大衆が今回も固唾をのんで待っていました。しかしそのお釈迦さまはというと、説法するため須弥壇に登ったはいいが、次にそこでは何も言わずに降りてきてしまった。もちろんそれに納得できた大衆は一人もいなかった。お釈迦さまは話をすることなく、ただ登って降りてくるだけ。そこで何か話せば、ふむふむ、おやおやと納得するものもいたはずです。そういったことを大衆たちは期待していたわけです。しかしそうはしなかった。ただご自身が登って、降りていく様を見せただけ。言ってしまえば人の移動を「見せた」だけ。しかし実はこれこそまさに本当の「説法」だったのです。真実には個人の納得がありません。痛いから痛い。うまいからうまい。暑いから暑いわけです。つまり真実には自我がないのです。我々はそうした世界を見ようとせず、自分で作った概念縛りの世界に、気づかずに身を置いてしまいます。そのような世界に知らず知らずのうちに足を踏み入れてしまうのです。そして勝手にそこで苦しんでいる。世界を見渡せば、鳥が泣き、車の走る音が聞こえ、時に地震が起きています。そこにはなぜ?が通用しません。人の概念が通じません。真実はいつもそのような大層なあり方を我々に示しているのです。お釈迦さまは今回の、こ
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